日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

日本人の宗教観

2008年05月30日 | Weblog

日本人の宗教観 宗教意識調査より

 読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。

 ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。

 多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。

 調査は「宗教観」をテーマに面接方式で実施した。

 死んだ人の魂については、「生まれ変わる」が30%で最も多く、「別の世界に行く」24%、「消滅する」18%--がこれに続いた。

最終更新:5月29日23時41分 読売新聞から引用

以上のような調査結果が出たらしいが、質問形式が判らないので詳細は分からない。しかし現代の世相を見ると、この調査結果はなんとなく頷ける。

宗教というと、その対象は神仏である。神仏習合だから、厳密に分けるのは非現実的かも知れないが、一般論としては先祖は亡くなって仏になると思われているし、超人間的なもの超自然的なものは神として崇められている。
「先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、、」
というのは先祖崇拝そのもので、それは先祖の霊の存在を信じて、崇拝していることで、そう言う意識の根底には仏教流の考え方がある。

先祖は紛れもなく、この世に存在した人達である。肉体はこの世から消え去ったが、その魂はこの世に霊として存在するのか、それともこの世とは別の世界と、考えられる霊界にとどまっているのか知らないが、霊の収まり所として、仏教徒には、墓があり、その霊を供養するために寺や僧侶があり、年忌や法事がある。

もし肉体の消滅と共に霊魂が消滅するというならば、消滅としての区切りをつけるために葬式があるのだろうが、それで全てがおわるというほどの割り切りがあるとは思えない。

仏教の場合はその家に伝わる宗派の本願仏を信じて、霊が極楽往生するように、お経をもって霊を救済するとされる本願仏、例えば阿弥陀如来や、釈迦如来、や大日如来などに供養礼拝する、習わしがある。

もし仮に肉体の消滅が魂の消滅も含むというのなら、墓もいらなきゃ、仏壇もいらない。ましてや年忌や法事の類は不要である。

死を区切りとして全てが無になると考えるならば、葬式も意味がないし、いわゆる現在の仏教も不必要である。
少なくとも現代の死者のためにあるような葬式仏教のあり方を考えるならば、 仏教?宗教離れするのは当然の現象である。葬式や法事は仏教の役割の取るに足りない小さな役割で、本来仏教の教えとは生きている人間に向かって最高の生き方を説いたものである。

生きている人間、現世で悩み苦しむ人々を救済し安心を与え、よりよい生き方を教えるのが本来の仏教のあり方であるから、仏教集団であるところの寺や僧侶は、その大役を実践しなくてはならないのである。そう言う使命に対して今の仏教集団は応えているかと問うと、民衆の願いに応えていないというのが、現状である。そしてそれは私の率直な想いである。
もっと露骨かつ現実的に言えば、現状のままでは、仏教集団は衰退の一途をたどることになろう 。それは当然の帰結である。
信じてないから、心を拠り所として、寺や僧を求めない。何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上るという調査結果から、こういう流れは肯定される。

読売の調査から私が読み取ることは次のようなことである。

1,日本人は心の拠り所として、宗教を持っていない。日本人は仏教徒が多数だが、現状の 仏教をのあり方からは遠ざかっている。つまり仏教離れが起き、それが宗教離れと言う現象を引き起こしている。信仰心の多寡は日本民族に由来することかも知れないが、要は宗教が(日本の場合は仏教が)人々の心に満足を与えていない、人々の願いに応えていないと言うことである。もし仮に仏教が現代人の要求に応えているならば、宗教心はもっと高まるはずである。

2,「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。 という点について。
これは仏と言うよりは神の領域に属すことではないだろうか。超人間的なもの、普通それを神と呼ぶ。神 仏どちらでも良いが、超人間的なものを感じる、あるいはそう言う力の存在を思うと言うこと自体が、僕は信仰だと思う。
3,死んだ人の魂については、「生まれ変わる」が30%で最も多く、「別の世界に行く」24%、とあるが、これは半数の日本人が、輪廻転生を信じている証拠ではあるまいか。
もし肉体の消滅が人間存在の全てを無にすると言うのなら、50%を越える人が輪廻転生をすると、考えることはないだろう。輪廻転生が起こるかどうかは、証明不可能なことで、その存在は信じるか、信じないかによって決められる事ではある。

宗教感覚が薄いと言うことは言えるが、それをもって宗教心がないと断じるのは問題があると思う。要するに、人間そのものに備わった神仏への畏敬の念の自覚の問題ではないだろうか。国家の意思も、習俗も宗教的束縛も希薄な日本では妥当な調査結果だと思う。

ただひとつ、問題にしたいことがある。この状態で道徳心が養われるであろうか。道徳心が芽生えるであろうか。道徳心というものは宗教によって掘り起こされて、心の中に定着するものだと思うが。いかがだろう。人間がつくった押しつけ道徳は道徳とは言い切れない代物だと思うからである。

フアジャンシル

2008年05月30日 | Weblog

フアジャンシル

もう、かれこれ30分も動かない。たとえ走ったとしても、せいぜい100mぐらい。いったい前方に何か起こったのか。事故か、工事中か。自然渋滞か。

私の乗ったバスの四,五台まえの乗用車から、幼稚園くらいの子供を連れた若い女が、降りて、高速道路の土手の方へ走っていった。土手と言っても、高い斜面ではないから、彼女の肩から上はバスの窓から見えた。

女の子は、道路の端にしゃがみこむなり、パンツをおろして、おしっこをし始めた。奥さんはさすがに人目をはばかるのか、子供のようなまねはしなかったが、しゃがみ込んでいる。あのスタイルからすると、用をたそうとしているふうだった。
車の人々の目をはばかりながら、用をたそうとするところをみると、よほど辛抱ができない状態だったんだろう。バスの乗客は、とみると、クスクス笑いながら奥さんの方を見ている。そして隣同士で何か話し合っていた。

突然、車の列が動き出し、前方100mぐらいのところまで走った。奥さんの乗っていた車も、クラクションを鳴らしながら走りだした。奥さんより先に車に戻った子供は大声で、母親を読んでいる。たぶん「お母さん早く早く。車が動き出したから帰ってきてくれなくちゃ」と、こんな内容だったに違いない。それでも、奥さんは斜面に、しゃがみ込んで用足しのスタイルをとってたから、ほんのわずかな時間、おそらく何十秒間の出来事なので、奥さんが快くまで用を足したとは思えない。たぶん中途半端だったはずである。あるいは、今から、というとき、だったはずである。たまったものをすべて放出した後のあのさわやかな開放感など味わえる時間がなかったことには間違いない。


ソウルを出てから2時間半も経つと言うのに、まだ50キロも走っていない、本来ならどこかのサービスエリアについていなければならない時間であるが、奥さんも運が悪い。

そうかと言って、車の中で用足しもできないから、土手の斜面まで、走ったのであろうが、よほどツラかったに違いない。さもないと、衆人注目の前で、用足しなどできるものではないから。
奥さんは若い。まだまだ羞恥心がある年頃である。それが証拠に、しゃがみ込んだ時彼女があたりをキョロキョロする仕草をしていた。バスの乗客たちはそれを見てニヤニヤしている。
ずらりだんご状に連なった車の人の目を半ば、はばかりながら、半ば公然と、用足しに、走ったということは、よほど辛抱ができなかったことを物語る。
羞恥心対生理現象という構図だろうが、用を足すのは、羞恥心を打ち破る勇気ではなくて、辛抱できなかったという、生理現象のしからしむるところだろう。

諸君。私が目にした光景を想像したまえ。そして奥さんの心中を察したまえ。決して笑い事では済まないできごとである。



ピリピリとしめこんできた。下腹がごろごろ鳴っている。トイレを探さなくちゃ。やばい。
私は、足早に歩き出した。歩くと、体を揺するせいか、しめこみはぐんぐんと強くなってくる。ものの、300mも歩き出した頃には、空襲警報のサイレンがなったような心境になった。
言葉も話せないし、字も読めない。たとえ近くに公衆便所があったとしても、それを捜しあてるのは、あてにならない勘を働かせる以外にはない。到底無理なことである。

危機に立たされた私は思わず、交番へ飛び込んだ。そして、トイレを貸してほしい。と、身ぶりで、おまわりさんに頼んだ。3人いたうちでいちばん年若い、警官が、トイレとおぼしき場所を指さした。僕は救われた。気分になって、「さあ来い下痢め」、と心の中で叫んだ。引き戸を開けてみると、男性用の小はあるが大は無い。

アレ-?、僕は慌てた。さあ来いと思った強気はどこかへ飛んだ。戸をしめながら、私は警官に、尻をたたいて、大の方だという仕草をした。彼らはゲラゲラ笑いながら、それはない。と手を振った。私は困った顔をして立ち止まってしまった。その様子を見て気の毒に思ったのだろうか、先ほどの警官は、交番の前にある商店街を指さした。

商店街は良いのだけれど、トイレをなんと言えばよいのか分からないから切羽詰まった。
今の状況はとても抑えることができない。私は困った顔をした。親切な警官はしきりに前を指さした。ともかくも、私は頭を下げて交番を出て指示された商店街に飛び込んだ。

表は、日本の問屋のような作りだが、中に入ってみると、そこはデパートだった。私は助かった気がした。デパートなら、各階のどこか隅には、必ず化粧室があるはずだ。どんな表示を探せばよいのか、そんなことを考えながら、私はキリキリ痛みさし込んでくる腹を手で押さえながら、足を引きずるようにして階段を登った。

女の店員は、コーナーには立ってはいるが、トイレはどこですか。と聞くのに、どういったらよいのか分からない。が、とにかくトイレ、トイレと話しかけた。返事は意味不明の不機嫌な顔だった。身ぶりで前をさしたり、後をさせば通じると思うが、なんせ相手は女性ばかりで、身ぶりで示すこともはかられた。私はせめ寄せてくる腹痛に、額にあぶら汗をにじませながら、自分でさがすより、ほかはなかった。

1階2階とうろついたが、ーこれは実は必死で探したのだがー、結果はうろついたことになった。そのあげく3階まで足を引きずりながら言って、ヤケ気味で、レストルームと、英語で話しかけた。ネクタイ売り場の女店員は、「?」変な顔をしたが、陳列棚からネクタイを取り出そうとした。私は慌てて、ノーノーを連発して手を振った。私はイライラして、
ばかたれ。、レストルームだよ。トイレ。トイレだよ。と心の中で、声を荒げた。私と女店員の様子を見ていた年配の店員が、私のほうへ歩みよってきて、何か話しかけてきた。私はもう辛抱できないところまで切羽詰まっていたので、恥も外聞もなく、尻を指さし、トイレトイレ。レストルーム。レストルームを連発した。

彼女は、フアジャンシルといった。私にはそう聞こえた。私は何でも良かった。やけくそで、フアジャンシルと、オウム返しに行った。彼女は人差し指で上を指さした。
何?この時に及んで、便所は上の階だというのか、私は腹が立った。しかし、4階でトイレを探しに行くほかは無い。

キリキリと攻めてきて、もう飛び出しそうな下痢をぐっとこらえながら、足を引きずって4階まで上がった。
「ああ、神様。トイレまでもちますように、神様。」誰でも良い。とにかく聞かなくては。歩き回って捜す余裕は無い。私は又、女店員に英語で聞いた。彼女は英語で、この突き当たりを右へ曲ると、ありますと、答えてくれ、その方向を指さした。お礼もそこそこにトイレに向かって急いだ。彼女の教えてくれたとおりにトイレは見つかった。

戸を開けるなりベルトを緩めるのももどかしく、しゃがみ込んで漏れそうになったものを力いっぱい放出した。
「神様。神様はやっぱりおられた。私を救って下された。神様ありがとうございます。」
私は、子供じみたこんなセリフを実感を込めて呟いた。

便器につかまりながら、私は今までのことを走馬燈でも見るように思い返した。交番のおまわりさんは親切だった。用は果たせなかったが、危機を乗り越えた今は、やはり有り難かった。いま、私がいるところを教えてくれたのは紛れもなく、あのおまわりさんだったからである。あの親切がなかったら、時を追って攻めてくる渋り腹を、私はどうしたであろうか。そんなことを思い返しているとき、私は、はっと思いついた。

昨日、ソウルからプサンへ向かう途中で見た、あの奥さんの土手の出来事である。つい、先ほどまで、私が味わったのと同じ思いだったに違いない。恥も外聞もないというけれど、普通ならやっぱり気になって、体裁をかまうものである。ところが、待ったなしの生理現象は、羞恥心や体裁や外聞を吹き飛ばしてしまう。

私は今回つくづくあの土手で、座りションしてバスの乗客から、笑いものにされたあの奥さんの心の中が手に取るようにわかった。そしてバスの乗客ともども、奥さんに同情する前に、笑ったことを恥じた。後悔した。

日本国内ならともかくも、韓国に来てまで、私は自分の体験を通して、貴重な教訓を味わうとは夢にも思ってなかった。
「わが身をつねって、他人の痛さをしれ、」その通りだ。

ふらっと日本を離れてみるのもいい。どんなことを発見するかもしれないから。
それが、私が自分に下した結論である。

キリングイールドからの生還を読んで

2008年05月27日 | Weblog
  「キリングイールドからの生還を読んで

この本を読む前に、私はすでにカンボジアを、2回訪問していた。
1回目は1996年でその時は、プノンペンだけに滞在した。2回目は今年10月シエイムリアプ。
僕はポチェントン空港に着くやいなや、バイクタクシーのドライバーからキリングフイールドとツールスレンの話を聞いた。

ポル・ポト時代に彼が行ったものすごい残虐な行為については日本には伝わってこなかった。学校で歴史を教えている私にとって恥ずかしいことだが、カンボジアの、位置すら、定かでなかった。カンボジアは日本にとって、なじみが薄く遥かかなたの国というぐらいの関心しかなかった。

てもこの2つの処刑場の話を聞いて僕はあした必ず、現場を訪れるから、君に案内してほしいと、バイクタクシーの、運ちゃんに言った。
彼はポル・ポト時代に、300万人の人たちが、虐殺されたといった。ナチスのユダヤ人虐殺が500万人と聞いていたのでだいぶ誇張があるとすぐには信じられなかった。

だが、プノンペン郊外にあるキリングフイールドに足を1歩、入れたとき、僕の心は氷のように凍ってしまった。丸でなにかの呪文にかけられたような気がした。
よくもこんなことをしたものだ。納骨堂からこちらを見ているドクロの数にめまいを覚えそうな気分になって、立っていることができなかった。なにかをしてあげなきゃ、いま自分は何ができるのか。そればかりを自問した。このように自問したときに僕はいわれのない罪を着せられて、虐殺された人々の魂がこの場で、慟哭しているような気がした。取り合えずその場にしゃがみこんで、僕はこの人たちのために極楽往生をお願いしようと観音菩薩にお経を唱えるだけだった。犠牲者の魂の安寧を祈るばかりだった。

僕が見たのはすべて、済んでしまった過去のことである。だが、この著者はその当時の実体験をインテリの目でもって、あるところは冷静に、またあるところは、感情的に体験談を語っている。これは本物である。僕は現在進行中の中にいたわけではないから想像の域をでない部分も多いのだが、この著者が述べていることを、涙なくして読み続けることはできなかった。あまりにも不条理すぎる。こんなばかげたことで命が失われてなるものか。これらの所業は天人共に許されないことである。

今僕は思う。この著者のような人がカンボジア国家復興のためには不可欠ではないのか。もし僕に許されることならば、フン・セン首相の手足となって、国家の再建のために力を貸してほしいと彼に言いたい。そしてその人生も新生カンボジャのために尽くしてほしい。君が失った最愛のフオイさんも、お母さんもカンボジャの復興を一番願っていることではなかろうか。
余計なことながら慎みを失って申せばカンボジア人があのシアヌーク国王を、敬愛する気持ちが僕にはわからない。テレビで何回か、彼の談話を聞いたがこの人に、カンボジアは任せられないというのが率直な僕の感想である。考えていることが幼稚すぎる。僕は今日本人と、変わらない心情をもっているカンボジア国民の安寧と安らかな日々の多い事を心から願っている。何故なら皆同胞だからである。命はつながっているのだ。涙なくしてフオイさんの写真プロマイドを見ることが出来ようか。

カンボジアといえばアンコールワット、があまりにも有名で、そのほかのことについては、知らない人が多いのが日本の実状である 。個人的なことを言えばもっともっと大勢の日本人が押し掛けてもいい国である。つまり、国際交流があってもいいと思う相手国である。
無力な僕は今さし当たって、何かのお役に立つわけではないが心の底では常に、カンボジアのことをわすれてはいないし、あの人懐っこい、穏やかなカンボジア人および国家に励ましのエールを送りたい。次回訪れるときは僕は日本から線香を持っていってお経と共に手向けたいと思っている。場所が判ればフオイさんとこの世の光を見ずして黄泉の国に行ってしまった愛児とのお墓にもお経をお供えさせてもらえればと思う。

以上が読後感である。なお前回に僕がしたためた文を2通同封しておきます。                合掌

判断8-15

2008年05月27日 | Weblog
判断

白 黒灰色
四国88カ所遍路の38番は足摺岬の突端にある。三十七番の岩本寺から約百キロ離れている。三十八番の。金剛福寺 に、納経を済ませたて坂道を上り頂上に達したところは、見晴らしが、素晴らしい。海の方から、山の方へ。きりが。吹き上げてくる。
うっすらと、きりがかかると、海と、空の境目が分からなくなる。このときに僕は気がついた。。
世の中のことすべて、白黒だけでは判断ができない。白の世界と、黒の世界以外に灰色の世界がある。二者択一ではなくて、三者択一である。こういう事実が、このようには、厳然として存在する。
たから白、黒という二つの次元を用いた判断は、過ち犯す  

私の尺度

私の個人的尺度や規範で、人事、物事万般一刀両断的に、黒白をつけて、善悪、是非をはっきりさせることには問題がある。
というのは、私の尺度、基準、規範そのものが、不完全であるからだ。
不完全な尺度で図ったものには、間違いが生じる。
じゃあどうすればよいのか。私の尺度に、哲人の尺度、神仏の哲理、を加味することでやる。確実に言えることは、物事全てを白黒だけで、判断するわけにはいかない。


平家物語り序章

2008年05月26日 | Weblog
平家物語り序章



新聞やテレビの報道通り、ポートピア会場は、超満員である。
人気館に入ろうと思えば、2、3時間は、待たなければならない。 3歳の末娘をつれているので、とても、人気館には、よりつけない。

 どこかすいている会場は、ないものか、と探したら、たまたま、兵庫県の展示会
場が比較的すいていた。特別関心があったわけではないのだが、ひょいと入ったら、平家物語りの展示が目に、飛び込んできた。

平家物語り。
これほど鮮やかに、人生の無常や、哀感を浮かび上がらせた文学作品は、日本文学史上ないのではなかろうか。底に流れる仏教哲理の冷徹さが非情なまでに、人の一生の、有為転変、栄枯盛衰の、理を物語る。
50センチ四方の、ヒノキの板に描かれた平家物語り。


[祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。たけき者もついには滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ。以下略]

この高札の前に立って、平家物語りの世界に酔いしれて、私は自分というものの存在を失った。

きらびやかな、平家の武者が、京の街を闊歩する。平忠度が辞世の句を携えて、歌の師匠である、藤原俊成に、最後の別れを告げに行く。 佐藤義清が泣き叫び縁側まで追ってくる妻子を振りきって出家し、西行となり人生の無常と限りない哀愁を漂わせた名歌を遺す。
清盛を中心に、我が世の春を、謳歌した平家一門は、やがて一の谷から屋島へ、さらに壇ノ浦へ落ちのびて、瀬戸の早瀬の藻くずと消える。

 もう完全に、吉川英治の新平家物語の世界の中に、私はとけ込んでいる。小泉八雲の名作・怪談に出てくる、「耳なし芳一」の物語に武満徹が付けた、あのものすごいメロデイが私の体を、身震いさせながら通り過ぎていく。
 
 気がつくと私の心の中にもかすかに、尺八と琴が鳴っている。哀愁に満ちた、曲の感じからすると、平家の都落ちから壇ノ浦の藻くずと消え去るまでの様子、その過程の中で、繰り広げられる人の世の悲哀、特に悲しい別れの悲痛な叫びが、心の琴線に触れて、私の心がないているのである。
しかも、一方では人生は無常であると仏教の哲理が、非情なささやきをする。
 
「お父さん。いつまでそんなところで突っ立っているの。ちっとも面白くないのに。早く、面白いものを見に行こうよ。」
中学生の長女の声ではっとわれにかえった。気がついたら、五線紙に、メロディーラインが、曲線を描いていた。

「こんな曲ができました。1度聴いてみてください。」
私は谷村新司の曲に、ぞっこんほれ込んでいるSさんに言った。Sさんは50歳を少し過ぎた女性だが、心のある歌を愛でる、音楽好きで、耳は確かなものがあると私は常々思っていた。

 作曲はしても、めったに、口ずさむことはない私だが、このときばかりは、カラオケに合わせて歌った。歌ったというよりは、詩吟をやる調子でうなった。
 
--奢れるものも、久しからず、ただ、春の夜の夢のごとし。--

このフレーズは、音域が私の声域と、合っているので、心は共振したように思う。
歌い終わってから彼女を見たら、目をつぶったまま、じっとしている。一瞬、眠っているのかと疑った。
 しばらくして、静かに目を開けた彼女は、開口1番
「すべてが消えた。私さえも、そこにいなかった。ただ、空漠とした空間があるだけだった。」 といった。四周がビルで囲まれて、谷間になっている小さなビルの一室での出来事である。
 
 丹前を着て、あぐらをかき、囲炉裏端で、ゆっくりと、杯を傾け、たった1人で---、このときばかりは、女気抜きで、---かの有名な冒頭の名文

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり--」

を思い浮かべながら、この曲に聞き入るとき、この曲は必ずや、あなたに何ものかを与えてくれるだろう。それはあなたの過ぎ去った時の流れを、琥珀色に染め、人生の無常の何たるかをきっと、示唆してくれるに違いないと私は思う。



マンダラ湯

2008年05月26日 | Weblog
駅を出て、通りを300mも行くと、川につき当る。架かった橋を渡らずに、手前を左におれて、川の両岸にある川端柳をめでながら、上流へさかのぼっていくと、橋があり、それを渡ると、そこが一の湯だ。

一の湯を通りこして、街中を4・5OOmも行くと道は月見橋のたもとで、ほゞ直角に近い角度で、右折する。そこからもと来た道を4・50m、引きかえすと、巾は広いが、露路のような感じのする道がある。その奥の突き当りがマンダラ湯である。
玄関前に立っている由緒書を読むと、その昔、ありがたい聖の力で適温の湯が湧き出したとか。

 城崎温泉は外湯がうれしい。それも外湯が七湯もあり、宿泊客は竹で編んだ手さげの竹カゴに、タオルや石けんを入れて、カラコロ、カラコロ下駄の音をひびかせながら、外湯めぐりをして、温泉情緒を楽しんでいる。
それもボンボリに灯が入って、人の顔もさだかでない、かはたれ時には温泉情緒は一気に盛りあがる。立ちのぼる湯煙に、温泉街特有のあの艶めかしさが漂う。七湯のほとんどが道にそって点在するのだが、マンダラ湯は道からほんのわずかではあるが、奥まったところにある。それだけに、静かであり、人のざわつきも少く、ここだけは孤立しているというのか、孤高を保つというのか、そんな雰囲気がある。
 マンダラ湯の中の造りは、そこらそんじょの銭湯と同じようなもので、あまり変わり映えはしない。湯舟の広さも、洗い場も殆ど変わらない。これでも温泉か。私は少々がっかりした。知ってか、しらでか、お客は少なく、私を入れて五人だけだった。
 
 にわかに戸があいて、一団になった男がどやどやと入って来た。一見してどういう集団かすぐ分かった。入れ墨、目付き、言葉などからすると、ヤの字の衆である。
 彼らが入って来たために、のんびり入浴を楽しんでいた雰囲気は一変した。一人減り、二人減りして、ヤの字の衆と私だけになってしまうと、彼らは遠慮なくしゃべり出した。

「なんや、これは。町の銭湯と、えろ変らへんやんか。これでも温泉け。」
「温泉ちゅうたら、広々してのんびり出来る所と違うんか。」
言葉の訛りからすると、シマは関西らしい。
「こんなとこ、あかん。温泉に入った気分になれへん。はよ、上がって温泉へいこ。」

遠慮、気兼ねのない自由奔放な会話に、私も同感で、心のそこでうなずいた。ヤの字がいうように、銭湯くらいの大きさしかないうえに、温泉情緒を醸し出す大道具も、小道具も、何一つとしてない。これは温泉ではない、という云い方は粗雑ではあるが、その通りである。
温泉と云えば、湯の花の香りがしたり、それらしい雰囲気があったりするものであるが、この湯は聖人、それも仏弟子が開いたとされるだけに、質素に出来ているのだろう。長居は無用と、私も先客の後を追った。

 鴻の湯は、その昔、傷を負った鴻の鳥が、この湯に足をつけて、傷をいやしたところに因んで付けられた名前とか。
外湯七湯のうちで、駅から最も遠い所にあるが、と云っても歩いて、せいぜい15分か、20分ぐらいの所にあるのだが、ここはいつ来ても、賑わっている。恐らく露天風呂があるからだろう。
 この露天風呂はピリッとした熱さで、十分も湯舟に浸かっていると、額から大粒の汗がしたたり落ちるし、湯上がり後は、足の爪先あたりがジンジンしてくる。いかにも温泉に浸かったという実感があり、それにもまして、露天風呂の風情は、温泉情緒と旅情を感じさせてくれる。
岩と岩がつなぎ合わさって、湯舟ができていて、湯舟にしだれかかる真っ赤な紅葉に、夕陽が美しい。

フツフツと沸いてくる温泉に、体をどっぷりつけて、タオルを頭に乗せて目をつぶっていると、極楽の住人になる。これでこそ、はるばる城崎温泉にやってきた甲斐があるというものだ。身についた垢とともに、心にこびりついた、この世の垢も、この湯の中に洗い流してしまいたいと念じた。たった六畳二間くらいの広さのこの温泉が、娑婆世界の住人を極楽世界まで連れて行ってくれる。この実感は、城崎温泉の御利益と云っても過言ではない。一人旅の温泉旅行は何の気遣いも、気配りも必要ないので、一番くつろげる旅である。
黄昏の空を渡り鳥が、くの字を描いて北を指して飛んでいった。
              
 私の後を追いかけるようにして、先程の一団が入って来た。
一団は完全に私を無視して話し出した。

「やっぱり露天風呂はえーなー。」
「雪がちらちら舞う時に、この湯に浸かり徳利を盆に載せて、くっと一杯やったら極楽や」
「そこの岩みてみい。真っ赤な紅葉が夕日に映えとるやろ。体をどっぷりつけて、 一 節うなったら最高や。胸のむしゃくしゃはいっぺんに取れてしまうで。」
「お前、日頃に似合わず、えー事をいうなー」
「いや、ほんまですねん。」

 会話を聞いているぶんには、まともである。こんな心をもっているのに、何故ヤの字なのか。正業についたら、もっと心安らかに入浴出来るのに。
マンダラ湯では、一方的に恐れてはいたが、慣れて来たというのか、私は会話の続きが聞きたかった。度胸がついて来たのだろうか、私は積極的に耳を傾けた。ヤの字の衆といっても、所詮は人間。渡世の仕方がちがうだけとは思いつつも、渡世の仕方の違いが、私からすると、天国と地獄ほどの違いなのである。

世渡りは、いわゆるカタギの世界からはみ出した、あるいはドロップアウトした世界の住人だけに、感情的には敏感に研ぎ澄まされたところがあるのかもしれない。心の中では、自分が住んでいたカタギの世界への未練を残しながら、この娑婆の世界で集団をなして、暮らしていることを自覚しているが故に、日ごろの渡世の緊張感から解き放たれて、こうして温泉で束の間の安らぎを得ているのだろう。

 その昔、奥の細道の道中で、芭蕉と同宿した遊女は、私は人間の端にもおいて貰えない人間だが、、、とへりくだって声をかけた、という「奥の細道」の一節が頭をかすめた。さしずめ私が芭蕉で、ヤの字の衆が遊女か。

ハッハッハッー。私は翔んでいる自分に気が付いて苦笑した。
 それにしても、なんとまんが悪いのだろう。ゆっくり、のんびり、リラックスするために、リフレッシュするために、はるばるここまで来たというのに、余計な緊張を強いられるとは。!こわい物みたさで、私はヤの字の衆の言動に神経を集中させた。
 お陰ですっかりくたびれた。

それにしても人の世の縁の不思議なことよ。そこで一句。

ヤーさんと背中合わせの曼陀羅湯



沖縄平和祈念像讃歌

2008年05月26日 | Weblog
沖縄平和祈念像讃歌


   諸人の願い 天地もなびく

   今 みなが郷に 諍いを捨てん

   見よ、白雲の果て 聖なる空に

   沖縄の風 さやかに歌う

                  渡久地 政信 作詞
    
摩文仁の丘に開堂された沖縄平和祈念堂に流れる「沖縄平和祈念像讃歌」である。    
「お富さん」「踊子」「上海帰りのリル」など、昭和20年後半から30年代にかけて、一世を風靡した名曲の数々を作られた、高名な作曲家渡久地政信氏によって作詞されたものである。

私は初めてこの詞に触れたとき、心が震える思いがして、胸が熱くなった。
 なんとすばらしい詞なのだろう。どこまでも透き通る深さがあって汚れなき魂の人の、心の内からなる叫びとでもいうたらよいのだろうか。
この詞を歌う心境はとても世俗に、慣れ染まった通常の人間のそれではない。
 宗教哲学の雰囲気が漂っている。欲も得もない唯ひたすら、心の中にある一つの想念を、思い続けたときに、瞬間的によぎるひらめき。
その珠玉の言葉が光を放って詞になり、言葉は芳香をはなって詞を構成している。

この地上にある人類は、争いをしつつも、一方では、心から平和を望んでいる。人々の純なる願い、平和を求める気持ちの集合体。その声には、天地もなびくであろうし、鬼神も耳を傾けざるをえないだろう。

 そして今、沖縄・日本は言うまでもなく、60年昔に血みどろの地獄絵図を繰り広げ、死闘を繰り返した、アメリカの里に置いてすらも、諍いを捨てて平和な日々を過ごしたいと、心より願っている気持ち。それが日米一般大衆の素朴な感情である。

そして、詞は続く。

聖なる空に日米両軍の激戦の中に、死んでいった、その修羅場。この沖縄の地には、沖縄の風が、さわやかに、歌っていると。

この世界は、まさに、御仏の世界である。修羅世界から、涅槃の世界に入ったときに、経験するであろう世界である。

 私は従軍の経験もなければ、内地の空襲の修羅場をくぐり抜けた経験もないで、体験的にはよく分からないが、「殺すか、殺されるか」のギリギリの人間の極限状態の中に置かれた人間が、どれほど、どう猛化しているが、想像するに難くない。

 先日、私の街で行われた戦争展でみた沖縄戦の実写フィルムや写真のパネルは、実戦さながらの迫力を持って私に迫ってきた。なんという暴力だ。戦争の犯罪性、非人間性、残虐性は、百万言を持ってしても語り尽くせない。人間悪の極限である。

 六十年昔のこの小さな実写フィルムが、その事実を雄弁に物語っている。お互いの憎悪が火を噴いて悪逆の限りを尽くす。その様子をまざまざと見せてくれる。
家は焼けて、田畑は戦場と化し、逃げ惑う非戦闘員の老人、女、子供。累々と重なる死体。これが、地獄絵図以外の何物であろうか。

日本本土が、戦場になる前に、沖縄はその前哨戦で、まず最初に悲劇の舞台となった。非戦闘員とくに年頃の女性は生きて恥ずかし目を受けるよりは、死を選んだほうがよいと、断崖から飛び降りて、生命を断ったという。

 筆舌に尽くせない生き地獄に放り込まれてどっぷり身をつけたままで、この世を去った人たちの心の思いは、いったいどのようなものであったろうか。

 悪逆非道の業火にやきつくされて、苦しみの中にどっぷりつかったまま死に追いやられていった人たちが、この世に残していった恨みは、誰がどのようにして、はらせばよいのだろうか。深い深い悲しみと怒りを果たして癒す方法があるのだろうか。
 全世界に向かって再びこの過ちを繰り返さないと誓うことだけによって、果たして怨念を解き放つことができるのだろうか。

 降り積もった膨大な怨念を解き、鎮魂させるためには血を吐くような思いを込めて、平和を守る誓いと、真心からなる鎮魂の情の発露ではあるまいか。
今はすでに魂の世界へ還っていった人々の霊を慰め、癒すために、生きている者の、心からなる鎮魂の真心に源を発する言葉によって、それらの次元をさらに高め、高める真心から作られた音楽によって、生きている者の思いや願いが今は、神仏の世界に住まわせる人々のこよなき慰めとなって、天高く伝わっていく。そんな風景にぴったりするのが、沖縄平和祈念像讃歌である。

渡久地政信先生。よくぞをお作りくださった。あなたの平和を愛する気持ちから、生まれたこの作品は、千代に平和の灯となって、日本はもちろんのこと、世界を照らすことでしょう。それは、生者はへの平和の働きかけと同時に、犠牲者の魂のこよない慰めとなりましょう。




神と仏教8-16

2008年05月24日 | Weblog
神と仏教

ユダヤ教には神があり、その神の意志を言葉で伝える人を予言者という。
キリスト教にも神があり、その神意を伝えたとされるのが、キリストである。
イスラム教にも神があり、その神の意志を伝えたのが予言者、ムハンマドだと言われている。
そこで問題。
3者が戴いている神は同じで唯1つなのか、それとも3者3様なのか。
即ち、神は1つで、3つの宗教は同じ神を信じるもので、神の意志を伝えるとされる3者の呼び名が、予言者、キリスト、ムハンマドと言う風に別々なのか。そこから、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が生まれたのか。

それとも、ユダヤ教にはユダヤの神がいて、キリスト教にはイエス・キリストを遣わした神がいて、そしてまた、ムハンマドを遣わした神がいて、その各々は独立した神なのか。 何の脈絡もない個別の神なのか。

別な言い方をすれば一神か、多神か。どうなんだろう。この辺のところが判らない。

この謎を解く鍵はただ一つ。それは(つまり解答を与えることになるのだが) どちらの立場を信じるか。それによって、ある人は多神というだろうし、ある人は1つ神だというだろう。
そしてそれは、それらを信じる人々にとっては正解なのである。

客観的に1神、多神だと証明できるものが、あるのだろうか。
宗教にこのような方法でアプローチすること自体が誤りなのであろうか。

ところで日本はどうか。我が国は元々は神の国である。それも多神教で、神秘を含みそうなものは何にでも、神が宿るとされ、その数八百万の神々といわれている。剣、鏡、曲玉類などの人工的なものにはじまって、自然たとえば、山でも川でも大木でも太陽でも、神として崇められた。

そこへ外来宗教の仏教が持ち込まれた。伝来した。持ち込まれた当時には、崇仏、排仏に別れて戦争が起こった。物部氏に代表される排仏論と聖徳太子や蘇我氏の崇仏論が衝突したのである。その結果は崇仏派に軍配が上がり、以後仏教は聖徳太子らの努力もあって、この国に根付き、我が国は仏教国となった。
日本古来、自然発生的に生まれた神々は、その後どうなったのか。負けた崇神論はどうなったのか。というと日本の場合は神仏習合という形をとり、以後今日まで、うまく共存している。お伊勢さんも、春日大社も、平安神宮も、そして天照大神も、大国主命も健在だ。

ただ歴史的な流れで見ると、仏教はかなり国民の間に浸透し、九割以上が仏教信者であるから、普段目につくのは仏教寺院、即ちお寺である。こういう流れは流れとして、何ら不思議ではないのだが、私は疑問に思うことがある。

そもそも仏教は、インドの宗教・バラモン教や、ヒンズー教の中から、生まれてきたもので、ヒンズー教には、シバとかビシュニュとかいう神がいる。そしてまたお釈迦さんは宇宙の真理を悟ったもの、覚者と言われている。いわゆる発見者だ。

発見とは存在するものを、最初に見つける事だとすれば、宇宙の真理を作りだしたものがいる筈で、その宇宙の真理を作りだしたものが、神だと考えられはしないだろうか。
神とお釈迦さんの関係を、僕はそのように考えている。宇宙の真理の創造者が神、第一発見者がお釈迦様。そう考える事によって、ぼくは神仏の両方を認め、崇めている。その神が多神教なのか、一神教なのか、わからないから曖昧だが、そのどちらでもいいと思っている。
堅く信じてそれにこだわって、自分の考え以外のものを排斥する事は、神の意に背くことだと思うが、如何だろうか?



















いろんな反応

2008年05月24日 | Weblog
いろんな反応

総理大臣の犯罪控訴審判決について

1,政府の灰色高官いわく。
  判決に怒りを覚える。

2,総理大臣の支持者代表いわく。 
  これはアメリカのわな。 謀略。 最高裁では無罪を確信している。

3,都会のインテリいわく。    
  当然の判決か。


4,裁判長をいわく。
行政を利権化して、巨額のわいろをとることは、社会の法と正義を遵守するよりは、力と金で不正をしてよいという悪い風潮を生み出す。これは民主主義を破壊する。

5,中年の抗議男をいわく  
おい。何年かかって裁判にやっているのか。10年もかけやがって。一体どういう了見なんだ。いいかげんにせい。

6,私
  金権する体質が裁かれた?とんでもない。
  人間の欲と義理人情を絡めた構造が、裁かれたなんてとんでもない話だ。
建前で彼を裁かざるを得ないか、おそらく被告席に座るのは、彼一人ではないはず。
我々庶民も被告席に半分くらい腰掛ける必要があるのではないか。
主役が総理大臣で、我々が観客席で、事の成り行きを面白おかしく、高みの見物という訳にはいかない。

えっ? 君は金輪際、こんなことは、やっていないって?

いやいや、ご同輩。スケールは比較にならないほど小さいが、よくよく観察してみると思いあたることがあるじゃないの?
何?。俺は思いあたることがないって。
君。それ本心で言ってるの?それとも何かい。判決に関して、この場かぎりの判断なのか。

なべて人は皆、己の利益には弱いものだよ。あんまり綺麗事ばかり言うていると、あいつは子供か学生かと、陰口をたたかれるのが落ちだ。
いささか腹に据えかねる部分もあるが、人間社会とは、こんなものじゃないのかね。











作成日: 08/05/21

釜山のおじさん

2008年05月23日 | Weblog
釜山のおじさん

 おばはんは太っちょで体格は大柄。かつぎ屋であろうことは推測できた。
そのおばはんがおじさんとやって来て、私に話しかけて来た。

日本語ではないので、何をいったのか、分からなかったけれども、辺りの雰囲気から察すると、席が取ってあるから、このマスで寝なさい、ということらしい。毛布が2枚重ねてあって、そこだけが空席になっていた。
 まあ、親切な人もいるものだ、と思いながら、おばはんの親切な好意に甘えようとした。

しばらくしたら、おばはんはビールを買って来て、酒盛りを始めた。
そして私にも、のまないかと身振りで誘いをかけて来た。

元々不調法なので、ありがたく断った。ところが、しばらくすると、先程のおばはんは韓国人のおじさんを連れてやって来た。彼は日本語が話せるので通訳として連れて来たのである。
 
彼はこの船がプサンについたときに、酒2本位なら持ち込んでも、税関はフリーパスだから、私のこの分、2本をもって通関してほしいと、あの太ったおばはんがいっている、と流暢な日本語で言った。
 
生まれて初めて行く韓国。それも、言葉も状況も何も分からないことばかりで、不安1杯の私に頼むというのだ。私は悪いが、期待に添えない、と断った。

通訳氏はおばはんにそう通訳してから、私に向かって、彼女は商売人だ。あんなことを見も知らずの日本人に頼んでいやらしい。と理非の分別のついた話しをした。

 やっと分かってもらえたかと安心したのもつかの間、おばはんはまた、何か通訳しと話している。通訳氏は私の所へやって来て、もう1度頼むが、何とか電気釜か酒2本持って税関を通ってくれないかとあの人が言っている、と言った。
私は自分が公務員だからそれは出来ないと、再度きっぱり断った。
 
訳氏は前と同じように、それは正しいことだと言った。
「韓国人はこんなことをして品を落としている。
韓国人の中にもいろんな人がいるから、これも仕方がない。」と付け加えた。

この人はなかなかのインテリだと私は思った。話していることを聞いてると、バランス感覚があってまともである。そこで思い切ってこちらから話しかけてみた。

 彼は60歳。国民学校出身で最終は韓国の大学を卒業したとのこと。日朝関係史にも詳しい。話が合いそうだから、私は突っ込んで話がしたくなった。

通訳氏は先程のことがいまだに気になっているらしく、どこの国にも、またどんな時代にも悪い人はいるし、良い人も大勢いる。1部を見て判断すると過ちを犯すことになる。
と一気にしゃべった後で、我々韓国人も60歳以上の人は、国民学校や小学校で教育を受けているので、必ず日本語は話せる。

ただ、子供の頃学校で習ってから50年もたつし、韓国では使わないから、忘れている人も多いが、それでも日本語は分かる。と説明を加えた。 

続いて彼はまるで日本語がしゃべりたくてしようがないかのように仁伸乱-文禄、慶長の役-の事も、
1910年の朝鮮併合のことも、歴史的事実に自分流の解釈を添えて解説した。

私は恐る恐る日本の侵略問題について、彼がどういう意見ないし見解をもっているのか、つっこで聞いてみた。約1時間程彼はしゃべりまくったが、要旨をまとめると次のようになる。

1、あの当時の歴史的状況-世界が帝国主義時代に突入して、領土分割や植民地争奪が激しくなった状況-で併合はやむを得なかった。

弱小国家の我が国では、中国に飲み込まれるか、さもなければロシヤの支配下に入るか、いずれにせよ、

独立を許される状況ではないのが当時の世界情勢であった。

心の中では抵抗がない訳ではないが、仕方がない。

2、原爆を2発もくらって、焼け野が原になったのに、日本は敗戦を克服して、世界でも有数の経済大国になった。
東南アジアで西洋に対抗できるのは日本を除いて外にあるか。
やっぱり日本はアジアでは長男だよ。日本が世界一になったのは、東洋の誇りではないかね。

3、日本はたいしたものだ。日本人はここぞという所では必ず団結する。
これが恐ろしい。韓国は日本の半分位しかないくせに、どんな大切な時にもバラバラで団結ができない。1対1なら負けないのだがバラバラで団結しないもんだから、日本には歯が立たない。
ここが日本と韓国の違いである。そしてこの差が国力の差となって現れるのだろう。

4、今問題になっている従軍慰安婦の問題は、被害者には本当にお気の毒だが、仕方のないことだ。同国人として同情に堪えないが、運が悪いとしか言いようがない。
 
国家と国家が欲望を剥き出しにして、戦争が起こっているわけだから、悲劇が起きるのは当然のこと。
それが歴史の現実というものだ。時代とか、時勢とか言うのは、このことを指すのだ。

国どうしが殺し合いをしているのだから、もっと悲劇的なことがあちこちで起こっていた筈。
歴史をひもといて見るとこのことがよく分かる。時代のせいでどうしようもないことだ。

 下関から釜山へわたる連絡船の2等船室で、私は年配の見知らぬ韓国人の男性と、こんな会話を交わした。この人の歴史の正しい認識の仕方や解釈に、私は心から敬意を表したくなった。

時計の針は深夜2時を指している。
先程のかつぎやの太っちょおばはんは、昼間の疲れがでているのだろう、フカのようになって寝ている。
そろそろ寝ましょうかということになって、2人の会話はお開きになった。

残念なことに、私は彼の住所も名前も聞くのを忘れた。だから彼とは行きずりの人で、終わってしまった。
 
生まれて初めての海外旅行、韓国への旅はこの話だけでも、お釣りがくるくらい十分なお土産があった。


妙適これ菩薩の位なり

2008年05月21日 | Weblog
 妙適これ菩薩の位なり


 カトマンズ市内のニュロードを走る車の排気ガスはもの凄い。車の数は日本のそれに比べると、問題にならないほど少ないのだが、排ガス規制がないから、すすと爆音を撒き散らして車が走るので、カトマンズの大気汚染はすごいものがある。加えて、どうもカトマンズという街は、盆地の底にあたるようだ。地形が池の底みたいなもので、排気ガスが四方から集まってくるのだろう。
 すべての大気汚染がこの盆地に集まってきて、小さな町全体を包み込んでしまう。排気ガス規制とは無縁の車が、もうもうと排気ガスを出して走って回っている。商店街が立ち並ぶ通りは道幅が狭く車が通れるような状態ではないのだが、それでも排気ガスのせいで、のが痛くなるし、息が苦しくなる。僕はタオルを口に当てて、町の主だった通りを歩いた。カトマンズの大気汚染を思うと、これは正解だ。
 日本と違って、工業が発達していない農業中心の都市であるにもかかわらず、あのもの凄い排ガスとはどういうことか。それは工場の排気ガスではなくて、単に車の排気ガスだけなのだが、緑もあり、川もある、こんなちっぽけな街に排気ガスが充満して、息苦しいなんて信じられないことだ。
日本はあんなにたくさん、車が走っているにもかかわらず息苦しいとは思わない。

 そんなカトマンズを離れて、田園風景を楽しみながら、こ1時間もトロリーバスにゆられていると、終点バクタプルに着く。
バクタプルは15世紀から18世紀にかけて栄えた町で、奈良や京都と同じく古都である。そこではネワール文化が栄えた。この街は別名バドガオンともいうが、それはどういう事を意味するのだろうか。
 バクタプルは赤茶色のレンガで作られた街で、町全体が埃をかぶったようにくすんで古びている。古色蒼然とした雰囲気が街一面に漂っている。古色蒼然、そう、!。この言葉が良く似合っている。ぴったりだ。この街はレンガを作ったり、焼き物を作っているので、あちこちから煙が立ち昇り、
そのせいで余計に、くすんで見えるのかも知れない。いや4,500年も昔の古都だから古びているのは当たり前だ。街を一巡して僕はそう思った。

 日を改めて後日、僕はそんなバクタプルへ出かけた。トロリーバスを降り、街の中心部に入ろうとするとゲートがあり、ここで入場料を払うことになっている。この町の中心部はすべて文化財であるので、その保護基金として
外国人は入場料を払うわけである。
 ダルバール広場へ行くのには、歩いて15分ほどかかった。地図を持っていなかったので、どこをどう通ったのかわからないが、細い迷路のような
路地をさまよっているうちに広場に出た。そこには五重の塔があり、その向かいには木造の寺がある。

 その寺の木製のひさしには、いろいろ彫刻が施されていた。
ひさしの上の方には菩薩の姿が刻み込まれていて、その下にはさまざまなスタイルのミトーナ像が柱1本につき1体刻まれていた。
なに?ミトーナ像が、寺のひさしのに?
僕はびっくりして、この意味を誰かに尋ねようとしたが、人通りは少なく尋ねることもできず、そのままになってしまった。
 それにしてもこの木造の寺は日本の寺とは大違いである。日本の寺には少なくとも性に関することは、一切見受けられない。だいたいミトーナ像などというものは、おっぴらに人の目の前にさらしておくべきものじゃないと
いうのが僕のセンスだ。だのに、わざわざどうして寺のひさしにこんなものを彫刻したのか、僕にとっては不思議なことであった。
 性と宗教のかかわり合いなど日本では、おおよそ切り離されてタブー視されるものである。にもかかわらず、バクタプルのこの寺ではご丁寧にも、屋根の庇回りすべてに、ミトーナ像が彫り込まれている。
おまけに人間だけでなく動物、たとえば象などのミトーナ像もある。
 はじめ僕がミトーナ像を見たときには大いなる違和感を感じた。
違和感はやがて疑問に変わった。ひょっとすると僕の知らない世界がここにあるのではないか。そんな疑問の渦巻く気持ちにもなった。
 300年も昔の人は宗教においても、現代とはかけ離れた変な事を考えるものだなあ、と思いながら僕は日本に帰ってきた。
 
 ところがある日、宗教と性のかかわりあいを「仏典の言葉」の中に見つけだして2度びっくりした。
NHKの教育テレビで仏教と性のかかわり方を解説していたのである。それによると食欲、性欲という本能を積極的に肯定して、人生を有意義なものにしようと仏典は説いているのである。特に真言宗の根本経典である理趣経や東大寺の華厳経のなかに、それは説かれているという。
簡単にいえば男女交接の絶頂感が菩薩の位であると解説されている。
「妙適これ菩薩の位なり」とはそういう意味いらしい。
こんな結び付きがあったのか、僕は驚いた。
それならなぜ女人禁制のしきたりがあるのか。特に真言宗本山、高野山では1,000年の長きにわたって、女人禁制だったのではなかったか。
この疑問に正面からどう答えるのか。僕は誰に尋ねるともなく、こうつぶやいた。ひょっとしたら僕の知らないところでこのような世俗的なことが、どこかに隠されているのではないか、そんな疑問も頭を持たげてきた。
 NHK教育テレビのこの講座を聞いてから、僕の仏教観は変わった。
自然にあるものを自然に受け止める、そこに自分のもろもろの意味付けや、解釈や、感情や、目的を放りこまないで、ごく自然にすべてを自然体で受け入れるところに、仏教の真の教えがあるのではないか。そんな気がしてきたのである。
 こう解釈することによって、僕は宗教と性を自然な形で結び付けて
自然な形で受け止めるようにしようと思った。
 このような理解の下で、今一度思い直してみると、バクタプルのあの奇妙な、ミトーナ像も今となっては、嫌悪感どころか、そこには深い意味があり
なんとなく懐かしい思いがする。
 インドを旅した時も、ヒンズー教のご神体がリンガーだと知って、強烈な違和感を抱いたが、思い返してみると、僕の仏教に対する理解や常識やこだわりが、むしろ偏狭だったんだろう。
 仏教は人間の生死という両極面のあり様に、かかわりを持つものだとは思ったが、このように仏教の中に、あからさまに性の表現をされると驚きが先に立ってしまう。すんなりと受け入れるには、余りにも違和感がありすぎる。今まで持ちつづけた宗教,特に仏教のイメージと目の前にあるものとが距離がありすぎて、つながらないのである。ギャップが埋まらないのである。
人は自分が持つ好みの視点によって物をみて、自分なりに解釈するから、答えはバラエテイに富むとは思うが、カジャラホのミトーナ像を見たとき、
人はどんなことを思い、何を考えるのだろうか。ふとそんなことを思った。
 仏教って僕が今まで漠然と把握していたものよりは、はるかに大きな
スケールのものであることを今回の旅で知った。大体仏教というのは道徳の基本として、日常生活のマナーとして取りこまれて、行動の指針として何気なく生活に溶け込んでいるという程度にしか考えていなかったので、
違和感と同時に、1つの問題意識として頭の中にこびりついた。
 ところで、僕はこれから仏教について何を考え様としているのか、自分でもまだはっきり分からない。分ったことは、日本に定着している葬式仏教は死の世界のことを扱うものだが、いわゆる仏教というのは同時に生の世界をも含めて扱うものなのだという事だ。
よく考えていると分ることだが、葬式仏教が仏教そのもののように思うところに大きな誤解があり、お釈迦様も説かれたように、その教えは本来生きている人間が如何に上手に生きるかというハウツーものがお経であるはずだ。その中には命の源泉について説かれていてもなんの不思議もない。
 偏った葬式仏教が仏教だと思っていたこと自体が間違いの元だった。
  なるほど。なるほど。!!!
日本にいては、おそらくこのことに気がつかないままだったろう。
やはりインドやネパールを旅したからこそ、気がついた事なのだ。
「妙適これ菩薩の位なり」。なんと美しく、輝きのある響きを持つフレーズだ。
僕は心からそう思った。

プヨンソック

2008年05月21日 | Weblog
チェさん ハーさん

釜山駅からバスに乗って太宗台までは30分そこいらかかる。案内所ではそう説明してくれた。地下道をくぐって駅と反対側からバスに乗った。

太宗台はウイークディのためか、がら空きでバスを降りたのは私を含めてたった3人だった。1人で歩いてもよかったんだが旅は道連れのほうが楽しいので、思い切って2人の娘さんに声をかけた。

韓国語はまるで分からないから開き直って日本語で話かけたら日本語が帰って来た。僕は急に嬉しくなり、話しても聞いてもわからない中で言葉を通して心を通い合わせることができて胸のつかえが1ぺんにおりた感じがして生き返ったのだ。
彼女はイマ、ソウル近郊の日本企業で働いていて日本はしたしみを感じるらしい。仕事の話はさておいて話題は旅の話になって佳境に入った。

3、40分も歩いただろうか、パンフレットで宣伝されている人魚の像のある島の突端についた。そこはほんの小さなスペースで下は崖をなして海である。高台にあるから眺望はすばらしい。 よく晴れていたら対馬が見えるとか。それは実感としてわかる。
島を1周する形で道を進んで行くと、下に降りる道があり、遊覧船があった。
彼女たちは乗るつもりらしい。

2人で話す言葉は韓国語だからさっぱり分からないがチェさんは乗リませんかと声をかけてくれた。わたしは1瞬ためらった。と言うのは今回の旅行は誰にも言わないでおしのびできているからだ。

実は太宗台公園には伝説がありそれをしらべて作詞作曲をする取材が目的なのだ。日本の題名は夫恋石(韓国語でプヨンソック)これはここに伝わる伝説を土台にして何時の時代も変わらない美しいが悲しい夫婦愛の物語を歌に載せたかったのである。

もし海で舟でもひっくり返ったらどうなるか、いやな思いをするのはかなわない。こういう気持と乗りたい気持ちが交錯したのである。
彼女は既に切符を買ってくれた。 「カムサハムニダ」ありがとう僕。はお礼を言って乗船した。

心が通じ始めるとここが外国、韓国だと言うことを僕は忘れた。時間は短かったが時を忘れて3人は語り合った。仕事のこと、流行のこと、恋人のこと若い女性だから当然の話題である 。

あっという間に時間は過ぎて太陽は傾き始めていた。彼女たちは今からソウルへ帰る。僕は今夜の飛行機で日本に帰る。バスの道は同じ方向だった。僕は空港に向かうためナンポドンでおりた。彼女たちはわざわざバスを降りて空港行きのバス停まで送ってくれた。

バスは発車した。彼女たちの姿はどんどん小さくなる。一番後部の席に腰掛けて僕は手を振り続けた。周りの人たちは僕の奇妙な仕草に何事かと目を注いだが、僕は恥ずかしいという気持ちよりも彼女たちとの別れの寂寥感に包まれていたので、何も気にならなかった。

2、3,分のうちに姿は見えなくなった。僕は正面向いて座り直した。そしたら涙が1筋スーット頬を伝った。空港に着くまで僕は今日の出来事を何回も何回も繰り返しては何とも言えない気持ちになった。まるで愛しい人と別れたあとで味わうかのように、切なくて甘くちょっぴり寂しさの混じった 初恋の味とでも言うのか、満たされながらも寂寥感の漂う気分だった。

それはもう10年も前の旅の思い出だが、今も心の中で輝いている。まるで昨日のような鮮やかさで。

ある顕彰碑

2008年05月15日 | Weblog
    ある顕彰碑


久しぶりに新幹線に乗った。車内の静かさ、室内の快適な温度調節、さらに250kmから300kmのスピードの快適さ。

このシステムを作り上げた人たちや、蓄積された日本の鉄道技術のノウハウや、システムの素晴らしさを、思わずにはいられない。

無事故 安全 快適 正確 がセールスポイントに、なるのは当然だろうが、驚くことに、新幹線は1964年、開業以来、40年余りにわたり、無事故である。
日本の鉄道技術の素晴らしさは,世界に誇るべきものだとつくづく思う。

話は変わるが、思い出すことがある。

大阪の再開発で、大規模おそらく、最後になるだろうと思われるのが、大阪駅北側にある貨物列車操作場だ。再開発の波は避けようもないが、この顕彰碑の存在と、そこに記された話は、これからも多くの人の心に、刻まれることになってほしい。

もう20年以上も前の話だが、私はこのあたりをぶらぶら歩いていて偶然に、この顕彰碑と碑文を発見した。たまたま通り掛かりに、僕が偶然発見したもので、ここに顕彰碑があると知って訪ねたものではなかった。
ここにこのような顕彰碑があるということは、大きく報じられた記憶もないから、偶然見つけたとしか言いようがない。しかし、僕はその碑文を読んで、感動しないわけにはいかなかった。

俗に、北ヤードと言われるところに、再開発のスケールから考えて見ると、小さな顕彰碑は、邪魔になって、どこかの隅っこに追いやられていることだろう。、しかし、時代がどのように変わっても、この話は伝えておきたいという思いから、僕はこの文章を書く気になった。


大阪駅と、ヨドバシカメラの間の道を西へ行くと、貨物線が、道路を横切る所があり、その手前に、日本通運の社屋がある。
このあたりも、大きく変貌して高速道路などが出来ているので、どの辺にあったか。
目当ての石造の顕彰の碑はいくら捜しても、どこにあるのか、わからなくなってしまった。

おぼろげながらの記憶をたどって、顕彰碑の内容を思い出してみると、それは次のような話である。

大阪駅ができて、どのくらいの時が経った時に、発生した事故の話なのか忘れたが、ある日、子供が列車に轢かれそうになった。その時、子供を助けようとした踏切番が、身代わりになって殉職したという話である。

この殉職の話がどこからどう伝わったのかは知らないが、結果的には顕彰碑と、由来を記した碑文となって残った。

この碑を建てたのは、当時の国鉄総裁 十河信二さんと、大阪商工会議所会頭の杉道助さんだったと記憶している。インターネットで調べてみると十河さんと杉さんについては次のように書かれている。
十河さんについて調べると、
十河信二は第4代国鉄総裁として新幹線計画にGoを出した人物である。新幹線計画は国鉄内部にも反対論が根強かったが、当時の十河総裁の決断により進められることとなった。この人物がいなければ今日の新幹線の姿はなかったことになる。ただし、1964年10月の新幹線開業時、既に国鉄総裁の職を解かれていた十河信二は記念式典には呼ばれなかった。 そして開業の年の暮れに亡くなっている。

杉さんについての記述は
関経連の『外史』は、杉の会頭就任を満場一致で決め、本人の承諾を求めにお歴々が杉を訪ねたが、杉は散歩に出てどこにもいなかったと、飄々たる杉の態度を示す逸話を紹介している。維新の元勲、西郷隆盛の大きさを連想させる話である。

彼は昭和21年に大阪商工会議所の第16代会頭に就任、以後35年までの5期14年、戦後の関西経済復興をリード、「五代友厚の再来」(『大阪商工会議所百年史』)と称される偉大なリーダーだった。吉田松陰の甥であることを誇りにしていたというが、財界リーダーとしての足跡は、今も関西の至る所に見聞することが出来る。

 安岡正篤著『東洋人物学』に、幕末の志士、真木和泉の一文が引用されている。
「此にいふ才は斡旋の才といふて人事をなす才なり。いかばかり善き人にても、いか程の徳ありても、人として此斡旋の才なきものは世の用にたつことなく無用物なり。たとひ無学にても此斡旋の才あるものは何事にあたりても功をなし用立つなり」
これを引用し、安岡師は次のような解説を加える。
 「斡旋とはどこからくるかというと、これはやはり情からくる、仁からくる、慈悲、愛情からくるのです。人を愛するがゆえに、その人のためによかれしと、いろいろ世話をする、面倒をみる。事を愛するからして、その事のために何くれと取り計らう、それを斡旋という。人間が利己的であると、この斡旋ができない。少々頭が悪くても、少々不細工でも、知だの才だのがなくても、その志、誠、愛情、あるいは徳というものがあれば、斡旋はできる。これはなかなかの才能人、知恵、才覚の人よりずっと世の役に立つ。人の用をなす」
 もちろん杉翁に知も才もなかったわけではない。だだ杉翁ご自身の自己分析の言葉と、安岡師のこの一文が余りにも近くにあり驚かされる。かたや吉田松陰の甥、そして安岡師は松陰を最も尊敬する日本人の1人として研究された方。2人の間に赤き糸が結ばれていたのかも知れない。
 関西・大阪のリーダー達が学ぶべき歴史は、古き時代ではなくとも、つい目の前にあったのだ。
第二十九回 「人物論-2」より引用

話を元に戻すと、
こういうことは、末端の小さな殉職事故として、見逃されがちである。僕は、この話を知ったとき、二人のリーダーは、この事故を重く受け止めて、殉職者のプロ意識と責任感をほめたたえ、同時に、敬意を表して顕彰し、後世のために、顕彰碑を建てたものだと思った。

子供の命を救うために、我が命を捧げる。これこそ、プロ魂ではないか。しかるにこの犠牲的行為は、単なる不幸な事故として葬りさらわれても、何ら不思議ではない時代の出来事だ。

そして僕が思うに、これは踏切番氏の人間的な職業的な行為の中で、彼は何の計算もなく、犠牲になったはずだ。いや犠牲などという意識は毛頭無かったはずである。
危ない。助けなければ。救わなければ。ただ、その一念しかなかったことだろう。

今でも、JR関係者以外でこの顕彰碑のことを知る人は少ないのではないか。

鉄道には事故は付き物だ。いくら安全を旨としても、すべては人間のすること。最小限に、事故を抑えるようにしても、絶無ということは言えない。いや、ありえない。

とはいえ、冒頭で書いたように、新幹線の安全性快適性は昭和39年、開業以来、今日まで列車事故は、ただの1回もなく、これは驚異的なことだという思いが強くなる。

そしてそれを支えているのが、鉄道事業者のプロ意識、社会的使命感と責任感である。

新幹線を代表にして、日本の鉄道事業に、携わる、人々の思いを含めて、日本の鉄道の安全性と時刻の正確さや快適さはおそらく世界一だろう。これは日本人の技術力とその国民性を示すものとして誇りに思う。

殉職者の悲しくも、責任感あふれる崇高な行い。それを見逃さないで顕彰する二人のリーダーの目配りと思いやりの素晴らしさ。
今は薄れたけど、日本のリーダーの中には、日本人としてのプライドや心根の中にはかくも、暖かい血が流れている事を教えてくれるのだ。目配りが行き届いているのだ。

どのように、時代の波が押し寄せるようとも、顕彰碑とともに、日本人魂として、忘れてほしくない出来事である。

北ヤードの開発についても、開発の波の大きさに比べるとごく小さな顕彰碑ではあるが、ここに盛られた、精神だけは、決して忘れないでほしい。 僕は今そう願う。


















   

地に足をつけて考えよ

2008年05月12日 | Weblog
    地に足をつけて考えよ

だいぶ前の話。
 堀江や村上は最初に金が万能という印象を与えた。彼等は価値の創造なんていうが、日本国家の存立基盤は3次産業にはあり得ない。それは歴史が示すところであり、工業のものつくりこそが実業だ。日本ではこれ(加工工業)なくして存立も発展もあり得ない。

嘘だと思ったら日本人の頭脳と欧米人のそれと比べてみるがいい。グローバル化などと先進気分でいるが、これは完全に乗せられている姿。もしこれを開国になぞらえるなら、勝さんや西郷さんが出てこないと、今の日本では無理な話だ。今時日本にこんな人材が輩出しているか、答えは一目瞭然だ。

ウオールストリートで勝った日本人がいただろうか。長銀の例を見ればわかるように、ハゲタカと呼ばれる欧米の頭脳にはどうしても勝てないのが現状だ。こういう面では日本は発展途上国だ。

国富はものつくりで勝負。これは世界に冠たる日本の実情であり、誇りである。また国家存立の基盤でもある。こういう次元から眺めてみると、(話を戻すと)こういう日本の現状は欧米では笑いぐさにすぎない。上っ面なマスコミに振り回されることなく、日本本来のあり方を再検討して再認識してみたらどうだろう。ハゲタカに食い荒らされないようにするにはどうしたらよいか。

与党が会社法を延期したのは当然だし、こんなお粗末なリーダーがやっと気がついてあわてている姿は欧米人にはどう映っているか。フジテレビ堀江の勝負を日本人はこれをおもしろおかしい勝負と見て、おもしろがっているが、欧米人は果たして、これを勝負としてみているだろうか。彼らは日本人とその政治経済の強さ弱さを改めてチエックしたことだろう。

グローバルスタンダードといっても、まず国益最優先。歴史も発展過程も異なる先進国(というのも問題があるが)の仲間入りはまだ早い。そのための条件整備を始めることから始めないと、一足飛びにやるとけがをするのがオチだと思うが。


黒田官兵衛

2008年05月11日 | Weblog
黒田官兵衛



黒田官兵衛については、男のロマンとして、夢中で彼の生き方を学んだ。

戦国最強の武将でありながら、二番手で秀吉に天下を取らせてからは

さっと隠居する。時に44歳。それから福岡で人生を楽しんで59歳で

世を去る。

辞世の句「思い残す言の葉なくて、我が行く道は、なるに任せて」

果たして何人の人がこういう心境になって、この世を去ることがで

きるのか。

思い残す言葉がないというほど、自分の人生をひたむきに走った人が

いったい何人いるだろうか。

思い残す事がないほど、精一杯生きた人が何人いるだろうか。

この世で十分生きたから、次の世は、仏しだいだと彼は言う。

地獄・極楽は関係ないのだ。さすが如水だと思う。戦国の明日もしれない

時代に生きた人だから、かえって腹が据わっていたのかもしれない。

できればこういう生き方をしたい。自分の人生を振り返ってみると

後悔や愚痴の山である。おなじく人として、この世に送り出されて

いながら、天と地ほどの違いの人生だ。だからいつまでも、男のロマン

として、彼に憧れを持つのだ。

ご同輩諸君。如何?。おぬしの感想を聞きたい