日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

モックス燃料

2013年06月30日 | Weblog
モックス燃料

がフランスから届いた。
この原子力燃料のサイクルを利用しないとプールが満杯になって原子力発電が止まってしまうそうである。

六ヶ所村の再処理工場が本格稼働すれば、処理しきれないプルトニウムがさらに増える。それなのに原発を利用しつづけるために政府はすべての使用済み燃料を再処理すると言う非現実的な政策を維持しようとしている。

エネルギー政策の中で、原発、プルサーマル、再処理の位置づけを抜本的に見直さないで動かそうとしている。これは問題が先送りされ、矛盾は大きくなるばかりだ!

原子力は絶対安心ということではなくて、最高に安全を確保するようにすれば動かして良いという考え方がある、ところが原発は絶対安心というものではない。つまりいまだに人間のコントロールの及ばないもののである。だから何か1つ間違って原子力が制御不能に陥るとわが国のような狭い国土は全滅してしまう可能性が考えられる。

どんな事情があるにせよ国を滅ぼして経済が使えるか。
経済界特に原子力関係の人々に尋ねてみたい。
当面の電力供給を責任をもつと言う表看板で原子力を利用して発電し金を儲けようとするこの根性の浅ましさ。今日の株主総会では脱原発はことごとく否決されてしまった。

これで安心して次の世代に日本の国家を渡していくことができるのであろうか。
決して針小棒大に物事を考えているわけではない。第二の福島事故が起これば文字通り日本が壊滅する。そんな危険を犯して果たして良いのだろうか。

儲けようとするこの根性の浅ましさ。今日の株主総会では脱原発はことごとく否決されてしまった。

これで安心して次の世代に日本の国家を渡していくことができるのであろうか。
決して針小棒大に物事を考えているわけではない。第二の福島事故が起これば文字通り日本が壊滅する。そんな危険を犯して果たして良いのだろうか。



作曲(音楽)と神様

2013年06月29日 | Weblog
作曲(音楽)と神様


山田耕筰先生 作るのではなくて生むというのが僕の作曲法である

小林亜星さん  音楽は神さんだ

遠藤実先生   白髪の老人に出逢った。彼は音楽の神様だった。
こういうことも影響したのだろう、奈良薬師寺に「般若
        心経」を作曲されて奉納されている。高田好胤師と昵懇と言う事もあるけれど。

服部良一先生  音楽と神様は切り離せない。神様はまず僕に作曲させ
        それに関わる人を集めさらに開催するお金までくださる

伊勢正一さん  「22才の別れ」という作品は天から降ってきた。

私      日本史の授業で江戸時代の説明をしているときに、頭に鳴ってきてそれを五線紙に 写したらそこには
      「里山権現」という曲が完成していた。神様から頂いた作品


空から降ってくる音楽

2013年06月28日 | Weblog
空から降ってくる音楽

メロディーを主体に書くソングライターでも、
メロディーにアレンジをして曲を完成させるコンポーザーにせよ、その音の由来を尋ねれば「天空から降ってくるもの」「頭の中でメロディーがなり出す」と言うところにあり、その奥を追求すれば超人間的なものsomething greatに行きつくところで違いが交わるというところにあると思います。
クラシック音楽の大御所・團伊久磨先生も書いておられるように、
私もまた人相、骨相、手相、姓名判断などの結果によって「音楽才能あり作曲家になるように」というご判断を山田先生からいただきました。

こういう体験を経て自分の音楽祭才能を自覚をする時、
音楽芸術をさらに追求すると、宗教の域にまで達するように思います。
僕自身このことを実感できるから、先生がおっしゃるように「魂の法悦境まで音楽は高められなくてはならない」という芸術観を身をもって体感しました。
音楽の法悦境は宗教の領域にまで高められなくてはならない。すばらしい芸術観です。この主張に沿って山田先生は「薔薇の花に心を込めて」という名作を遺されました。この曲は先生の晩年の作品ですが先生もご自身の中で最高傑作と言われております。ピアノでは味が出ないが、ストリングスと対旋律の調和の美しさは比類がない作品だと思います。
暇なときに一度聞いてみてください。このレコードは非売品だが先生ご自身が指揮をされていると聴きました。唄は奥様真梨子夫人です。ゆったりとした気分の時に聞くと極楽、魂の法悦境に誘われます。。

過去の歴史を鑑みて

2013年06月27日 | Weblog
過去の歴史を鑑みて

外交上常に中国も韓国も使う言葉である。
過去の歴史に鑑みて という前提が就くと、話が折れ合うことはない。
というのは過去の歴史は中韓共に、日本から侵略を受けたという現実があるからである。過去を振り返る、過去の歴史を鑑みると言う事は決定的な違いが在る。加害国と被害国とおきかえるならば,この時点を引きずる限り、一致することはない。それにもかかわらず、次に出てくるフレーズは未来志向である。過去に一致点を見いだせない者がどうして未来志向が出来ようか。過去の歴史から解放されないと話は未来志向につながらない。
だから過去の歴史を鑑みてと言うのは、加害者たる日本がその点を踏まえて、ものを考えよと言われたって、過ぎ去ったことにこだわることもできない。とすれば過去は棚上げしない限り、現実の未来志向は生まれてこない。
過去の歴史をかんがみてというセリフ無限責任を追及しているようなものである。戦後日本は中韓に気を遣い、応分の償いはしてきたはずである。
その償いを出発点としてというのは無限責任追及に等しい。ここに出発点を見いだすというなら、未来志向は不可能である。過去は争点にせず
今日を出発点にしないと未来志向はない。加害責任を追及されたところで、
今更どうしようもない。そこには開き直りしかない。中韓は日本の開き直りを受けて現実的には未来志向なんてありえないだろう 。外交だから駆け引きを使うのはよく分かるが、無用の駆け引きはあくまで無用である。

小林亜星さんに同感 2

2013年06月25日 | Weblog
小林亜星さんに同感 2

1,
「今売れればいい。という刹那的音楽は残るはずがない。 今の若い人たちが年を取った時に自分の青春時代の思い出の思い出の曲は無いのではないか
また若い人と中年以上の人との間に音楽的断絶ができている。」

鼻紙のような唄が量産され、良い唄をじっくり歌うという時代ではなくなった。青春時代に歌った歌は生涯歌える歌であってほしい。
今はやりの唄は果たして中高年になったときに歌えるだろうか。
無理である。近頃のテンポの早い唄は高齢化するとついて行けない。したがって歌えない。加えて詞がお粗末だから心にしみることはない。
もう20年もたてば歌う歌がない世代が沢山出てくる。つまり唄失った連中・世代である。

2,
「ある程度大衆的な歌であっても、そこには人生の哀愁とか、含蓄音楽的なものを含めて、わりに高等な人間感情のトロがあったが、今は余りにもなくなった」

どうして人間の高等な心情の吐露がなくなってしまったのであろうか。
人間は高等な心情をもっていない訳はない 。それを引っ張り出す音楽の分かるプロヂュサーがほとんどいなくなったのだ。というかそれが金儲けにつながらないからという理由で放置しているのである。

小林亜星さんに同感 1

2013年06月24日 | Weblog
小林亜星さんに同感 1

今に始まったことではない。もう何十年も前から曲を通して、書物を通して、僕は彼に関心を持っている。彼は魅力的な人だ。
彼が想うことは自分が想う事とも符合するし、符合しないところでは彼の言葉から何かを学ばせて貰っている。彼の主張に関して自分の想いを書いてみよう
1,
「生活者になって生きていくのは、ほとんどの人の宿命で、それが立派な生き方なのかもしれないけれど、それをなんとなく避けて生きていこうとする姿勢を持つ。それは、ある部分どこかおかしいといえばおかしいけれど、そうしないと、作り続けることができない。」


9時~5時の生活は平凡で安定している。
平凡の中に埋没して 非凡な作品を作ろうとおもへば、どうしても平凡な作品になってしまう。平凡な生活をしていても、その生活から離れた別天地の中で作品を作らないと注目されるような作品はできっこない。非日常性の部分が創作の部分だ。

2,
「人間はどこでによって記憶するかと考えるとそれはメロディーである。一人で繰り返しおぼえた歌を楽しむ。それはすべてメロディーです」。

ということは覚えやすいメロデイを作ることが大切だ。アクロバットの踊りやら、華やかな照明や振り付けはなくても良い。近頃は唄が貧しい分大仰な仕掛けで唄をアピールしようとしているがそれは本来間違いである。

3,
日本の芸ことは教えることから成り立ち、先生を拡大再生産するだけだった。
実にそのとおり。
音大や芸術大学をでた人はその勉強を生かして作曲家になる人が圧倒的に少ない。そして巷で歌われる歌の大半は素人上がりの人達だ。たまたま発表してみたら、それが巷で受けたということで作曲家になる。昭和の作曲家はみな心に唄を持っていた。平成の若い作曲家にはそれがない。あるのはリズムとサウンドそれにおかしな振り付けとダンス、異体の服装、照明
。これは一種のごまかしである 。
唄というならメロデイで勝負をしなくては。メロデイは感情である、感性である。それを磨き抜いて良いメロデイが出来てくる。
そういう能力のない音大生は教えること以外に何も出来ないから先生の拡大再生産になる。

音羽の滝

2013年06月23日 | Weblog
 音羽の滝

「京都に滝があるのを知ってるか」と友人は私に尋ねた。
京都はどの方向を見渡しても、断崖絶壁から、とうとうと、水が流れ落ちる滝などあろうはずがないので、私は「無い」と答えた。
「いや。ある。」彼は今、その滝で行をしているいるのだという。
突っ込んできくと、「音羽の滝」だという。

 清水寺の裏手の石段を、南に向かって降りると、お不動様が祀ってあって、その前に三筋の水が筧より流れ落ちている。
 彼の言う滝はこのたった三筋の水が流れ落るのを指している。

 滝に打たれて、行すると聞いたときには、何となく、ロマンチックな気分がしたが、それは滝というには、ほど遠い三筋の水の流れおちるものだったのだ。

 昼間は観光客でにぎわう、この清水寺あたりも、夜9時ごろになると、全く人通りは途絶えて、静まりかえる。
東山の峰みねは昼間の喧噪から解放されて、千年の昔をとりもどしているみたいである。暗闇の谷の下の方から、犬の遠吠えのような鳴き声が聞こえた。珍しいことに、狸が鳴いているそうな。
暗闇の清水寺からは、木々の間から、ちらちらする街の灯が、えも言えぬ美しい世界を見せてくれる。

 到着すると、音羽の不動明王に行場を使わせてもらう、あいさつをする。つまり、今からこの行場を借りて行う水行についての作法を行うのである。
私は何が何だか、さっぱりわからないから、水につかる前の準備は、一切友人にやってもらった。

 まず、行衣・白衣に着替えて、不動明王とその左手に鎮座まします「役の行者」。それに「清水寺の千手観音」に、行場を借りるあいさつをしてから、行場を塩で清め、九字を切って、いよいよ、親指ぐらいの太さで流れ落ちる水を、頭のてっぺんから受けるのである。

 私は水を頭のてっぺんから、もろに受けると寒くてしょうがないから、こちらで手加減して、首や首筋から背中にかけて、あてるようにする。

それでも、寒いこと、寒いこと。真夏でも身震いする。滝の水を背中に受けると、足元で、石ががたがたと震えて音を立てる。何のことは無い。体の震えが足に伝わり、足の震えが、乗っている石に伝わって音を立てているのだ。

 寒さを忘れようと、必死になって大きな声を出して、不動明王のご真言を唱えた。また般若心経を力いっぱい唱えたりするのであるが、寒さには変わりは無い。真夏の夜だというのに。

 寒いといっても、春から夏にかけては、大部ましである。
辛いのは、一月から三月にかけてである。そこ冷えのする京都は冬の夜になると氷点下十度くらいになるときもある。
衣服を脱いで、行衣に着替えて、行場へ行くまでの、ほんの10mを素足で歩くのだが、つま先が寒いというよりは痛い。つるつるに凍っている石の上を裸足で歩くんだから、無理もない。

 滝の水をかぶり出すと、冷たさがさほどではないのは、水が地下水で年中八度前後というせいもあろう。

ところが滝から上がった瞬間、濡れた白衣が体にぴったりくっつくと、それも風が吹いたときの寒さったらありゃしない。
思わずひやっと声を出してしまう。
 
 寒いといっても、春から夏にかけては、だいぶましなほうで、自分で決めたことでありながら、何の因果で夜遅く、京都までやってきて、水浴びをしなくては、ならないのかと何度も思った。

 友人は心願が成就したので、そのお礼・感謝の気持ちを表すために、夫婦で年がら年中、月三回は八のつくお不動さんの日を決めて、必ず水行をするという。

彼のつかりっぷりを見ていたら堂々たるものである。慣れのせいか。腹がすわっているのか。
とにかく頭のてっぺんに、堂々とお滝の水を受けている。
足の下の石も、カタカタ音をたてたのを、ついぞ聞いたことがない。
彼はここで水行している最中には、不動明王のお出ましを実感することができるそうな。声が聞こえたり、フラッシュのように瞬間の場面が見えるそうな。
無我の境地に入っていくと、不動明王の声が聞こえ、未来や過去の、出来事が画像となって鮮明に目に映るとか。彼はこれを眼通と呼んでいた。

 無我の境地から、十億万度以上離れている私は今まで一度も、不動明王の声を聞いたことがない。夢のなかですら、聞こえてこない。
たったの一度で良いから声を聞いてみたいものだ。彼のように未来の画像が、目に映るものならば、ほんの一瞬でも、未来のわが道の、一光景をみてみたいものである。
彼と私とでは、同じことをしても、精神の集中度合いが違うのがはっきりわかる。しかし私は自分も彼のように聞こえたり、見えたりしたらよいのにと願う。これは無理な夢というものだ。

 寒いには違いないが、水行を終えて、不動明王と清水寺の観音さんにお礼を言って、別れを告げる時の、気分の爽快なこと。なんと表現したらよいのか。わからない。まさに筆舌に尽くしがたいとはこのことだ。
ついさっきまで、もうこりごりだと思っていたのに、そんな気持ちはすっ飛んで、さわやかそのものだ。体がほかほかして、心のすがすがしさが身にしみる。

 水行をしなくなって一年が過ぎた。最後の行の時に、私は流れ落ちる滝の水を全身にうけながら、不動明王にある御願いをした。

そのお願いは見事に実現した。心願は成就したのである。しかしまだお礼参りをしていない。願のかけっぱなしになっているので、神願成就のお礼のために
今年の暮れにでも、水行をさせていただこうと思っている。

ここからは実際に我が身に起った不思議体験である。

 真っ暗闇の中で、彼は急に「先祖さんがでてはる」といった。おそらく彼にはその姿が心眼に映ったのだろうが、私には分るはずもない。
行が終わってから彼は説明してくれた。
「髪の毛がふさふさとした、背の高い恰幅の良い男性が、直ぐ横で
一心不乱に神仏に向かい、手を合わせお経を唱えている姿がはっきり見えた。今後よい事が起るのか、悪いことが起るのか、それは分らないが、きっと何かが起るだろう。」と解説してくれた。
生まれて初めてのこの種の予言を、場所が場所だけに、軽く受け流すことは出来なかった。この予言があってから約一月、心の中には重苦しいものを感じていた。

 果たして予言は的中した。母が脳梗塞で体の不自由を失って、これ以後この世を去るまで、17年間、寝たきりの生活になってしまったのだ。
やっと六人の子供も一人前に仕上げて巣立ち、人生これから余生を楽しめる段階になって、体の自由を奪われてしまったのだ。
これからあきらめの境地になるまでの間、五年ほどは母は毎日悔し涙にくれて、身の不運を嘆いた。また不幸をかこった。しかし誰も何も出来なかった。母の生涯で最大のピンチが襲ってきたのだ。それにたいして何も出来ないもどかしさ。子供である私も手出しの出来ない歯がゆさに唇をかんだ。

 心筋梗塞も併発しているので、医師はいつ亡くなってもおかしくないと診断を下した。「たとえれば、ひびだらけの茶碗だから、いつ何時ぽろっと壊れても不思議ではない」と説明された。私はこのことを水行をした彼に電話した。
「予言通り不幸がおこった。もし先祖が行をしていたというのなら、どうして助かることが出来なかったんだろうか。どうも納得がいかない」
と私は愚痴をこぼした。
彼が言うには、「それは逆の受け止め方をしている。あのときの先祖さん。多分それは母が一歳になるかならないかの若さで、この世を去った母の父(私のおじいさん)の行があったからこそ、今日まで生きながらえることができたのだ。多分先祖の功徳だ」。と彼なりの解説をしてくれたが、持って行きようのない、くしゃくしゃした気持ちはほぐれようもなかった。

母も10年前になくなって、こういう事も、昔話になってきたが、今思い返してみると、やはり暗闇の水行の中に、先祖さん(おじいさん)が出てきて、我が娘のために一心不乱に行場を借りて行をしているという事が事実ならば、親の子供に対する思いほど、強い思いはないと思う。
死してなお、我が子を守らんとする姿は神々しいものがある。子を思う親の気持ちほど純粋で尊いものはない。
私はコノできごとを通して、わが子を思う想念は、死してなお生きているものであると理解した。

 肉体的な死が果たして人間のすべての死を意味するものであろうか。世間の常識では死はすべての終わりを意味している。年忌や法要はあるが、生きているもの達の思いがどれほど死者の魂に届いているのだろうか。真実は何も分らないが、事実から類推すると、人間の存在というものは霊身ともに有り、死によってその行き場所が違うに過ぎないのではないかと、思うこの頃である。

沖縄平和祈念像讃歌

2013年06月22日 | Weblog
沖縄平和祈念像讃歌


沖縄平和祈念像讃歌

   諸人の願い 天地もなびく

   今 みなが郷に 諍いを捨てん

   見よ、白雲の果て 聖なる空に

   沖縄の風 さやかに歌う

                  渡久地 政信
    
摩文仁の丘に開堂された沖縄平和祈念堂に流れる「沖縄平和祈念像讃歌」である。    
「お富さん」「踊子」「上海帰りのリル」など、昭和20年後半から30年代にかけて、一世を風靡した名曲の数々を作られた、高名な作曲家渡久地政信氏によって作詞されたものである。

私は初めてこの詞に触れたとき、心が震える思いがして、胸が熱くなった。
 なんとすばらしい詞なのだろう。どこまでも透き通る深さがあって汚れなき魂の人の、心の内からなる叫びとでもいうたらよいのだろうか。
この詞を歌う心境はとても世俗に、慣れ染まった通常の人間のそれではない。
 宗教哲学の雰囲気が漂っている。欲も得もない唯ひたすら、心の中にある一つの想念を、思い続けたときに、瞬間的によぎるひらめき。
その珠玉の言葉が光を放って詞になり、言葉は芳香をはなって詞を構成している。

この地上にある人類は、争いをしつつも、一方では、心から平和を望んでいる。人々の純なる願い、平和を求める気持ちの集合体。その声には、天地もなびくであろうし、鬼神も耳を傾けざるをえないだろう。

 そして今、沖縄・日本は言うまでもなく、60年昔に血みどろの地獄絵図を繰り広げ、死闘を繰り返した、アメリカの里に置いてすらも、諍いを捨てて平和な日々を過ごしたいと、心より願っている気持ち。それが日米一般大衆の素朴な感情である。

そして、詞は続く。

聖なる空に日米両軍の激戦の中に、死んでいった、その修羅場。この沖縄の地には、沖縄の風が、さわやかに、歌っていると。

この世界は、まさに、御仏の世界である。修羅世界から、涅槃の世界に入ったときに、経験するであろう世界である。

 私は従軍の経験もなければ、内地の空襲の修羅場をくぐり抜けた経験もないで、体験的にはよく分からないが、「殺すか、殺されるか」のギリギリの人間の極限状態の中に置かれた人間が、どれほど、どう猛化しているが、想像するに難くない。

 先日、私の街で行われた戦争展でみた沖縄戦の実写フィルムや写真のパネルは、実戦さながらの迫力を持って私に迫ってきた。なんという暴力だ。戦争の犯罪性、非人間性、残虐性は、百万言を持ってしても語り尽くせない。人間悪の極限である。

 六十年昔のこの小さな実写フィルムが、その事実を雄弁に物語っている。お互いの憎悪が火を噴いて悪逆の限りを尽くす。その様子をまざまざと見せてくれる。
家は焼けて、田畑は戦場と化し、逃げ惑う非戦闘員の老人、女、子供。累々と重なる死体。これが、地獄絵図以外の何物であろうか。

日本本土が、戦場になる前に、沖縄はその前哨戦で、まず最初に悲劇の舞台となった。非戦闘員とくに年頃の女性は生きて恥ずかし目を受けるよりは、死を選んだほうがよいと、断崖から飛び降りて、生命を断ったという。

 筆舌に尽くせない生き地獄に放り込まれてどっぷり身をつけたままで、この世を去った人たちの心の思いは、いったいどのようなものであったろうか。

 悪逆非道の業火にやきつくされて、苦しみの中にどっぷりつかったまま死に追いやられていった人たちが、この世に残していった恨みは、誰がどのようにして、はらせばよいのだろうか。深い深い悲しみと怒りを果たして癒す方法があるのだろうか。
 全世界に向かって再びこの過ちを繰り返さないと誓うことだけによって、果たして怨念を解き放つことができるのだろうか。

 降り積もった膨大な怨念を解き、鎮魂させるためには血を吐くような思いを込めて、平和を守る誓いと、真心からなる鎮魂の情の発露ではあるまいか。
今はすでに魂の世界へ還っていった人々の霊を慰め、癒すために、生きている者の、心からなる鎮魂の真心に源を発する言葉によって、それらの次元をさらに高め、高める真心から作られた音楽によって、生きている者の思いや願いが今は、神仏の世界に住まわせる人々のこよなき慰めとなって、天高く伝わっていく。そんな風景にぴったりするのが、沖縄平和祈念像讃歌である。

渡久地政信先生。よくぞをお作りくださった。あなたの平和を愛する気持ちから、生まれたこの作品は、千代に平和の灯となって、日本はもちろんのこと、世界を照らすことでしょう。それは、生者はへの平和の働きかけと同時に、犠牲者の魂のこよない慰めとなりましょう。


ミッテランの言葉

2013年06月21日 | Weblog

ミッテランの言葉

{卓越した学者や知識人は科学を通じて信仰をもった。それ以外の人達は逆に、科学が信仰を遠ざけた。} ミッテラン

 人生の目標は人さまざまですが、私はかけがえのない、たった一度の人生で、どの程度の事が分かればよいのか、達すればよいのか、また味わえればよいのか、自分が決めることではありますが、いろいろ思い悩んで来ました。
 
そして、この世には人知を越えた何物かがある、すなわち私たちが身をおいている人間のこの現実世界が,霊界と現実界とによって構成されていて、それがお互いに影響を及ぼしあっていると言うのが、正しい見方ではないかと思うようになりました。
 
しかもこんな見方をする背後には、己の限界を思い知らされるというぎりぎりの所まで,何かをした、あるいは追い詰められたという経験や,実感があって初めて出来るものではないでしょうか。つまりある程度のレベル迄達していないと解らない世界だと思っています。
 
そういう経験や実感がない人には,こういう世界観は理解出来ないと同時に存在さえしない世界だ思います。人知を越えた世界は見えない、それゆえ存在しないという物の見方しか出来ないということです。
この見方が間違っているのかどうか,私には分かりませんが、真面目に人生を考え、味わいながら,生きて来た人ならば、恐らく避けて通れなく、どこかで、またいつか突き当たった問題であると思います。 それを自分では如何に考えたか、如何に自分なりに解決したか,どうかと言うことになろうかと思います

幸い私には人生の良き師匠といだく人との出会い、巡り合いがあり、師匠の姿、生きざまを冷静に見つめて来たのが、こういうことを考える上で非常に役に立ちました。
 
 人生上の多くの示唆を得たのです。それが他律的に私をこのような人生について考えるチャンスを与えてくれたことにもなりましたし、一方その影響で自ら進んで、つまり自立的に人生について考えるようになったのかも知れません。
若いときからそうでしたが、ずっとそれを引きずって今日に至っております。
 
 解けない永遠の謎を、息が途絶えるまで説き明かそうと、もがき続けることになりましょうや。そしてそれはそれでよいと思うと同時に、こういう考え方や問題意識を持てることに喜びを感じております。
 
とにかく人は己(己の限界)というもの、を知るべきです。それがすべてのはじまり出発点です。先述のミッテランの言葉にしても、己を知らない人にはミッテランが何を言わんとしているか、決して満足な理解は出来ないでしょう。
恐らくすこしも理解出来ないだろうと思います。
 
 私はミッテランは左翼思想の持ち主だとばかり思っていたから、このフレーズを知ったとき意外な感じがしていました。しかし考えてみると、左翼だとか、右翼だとかで、理解出来る事柄ではありません。

 己の限界を越えようとして自分なりの究極迄行った人にしか、解らない世界だから、思想には直接的には関係がありません。何かを通して、例へば芸術や学問や政治や会社経営、あるいは大勢を率いる集団のリーダーなど、何でもよいのですが、その道を極めた人にしか、かいま見ることの出来ない世界なのです。そして私の実感ではそれはいつもはっきりと見えている世界ではなく、見えたり、見えなかったりする世界だとも思います。

 仏の教えにある八正道の一つ、正見とはこういうことをさして言っているのではないでしょうか。
  自分がこの世に存在する謎を説き明かす事なく、無明の闇をさまよう身であればなおのこと、見えにくい世界ではあると考えています。
 
 どうも駄弁を弄するようになってしまったきらいがありますが、絶えて久しくこういう話が出来る人が少なく、腹を割って話をすることはありませんでした。
 そこで今日ばかりは思いの丈を、率直にぶっつけて見ました。いかがでしょうが。私個人のドグマでしょうか。一つ率直なご意見を伺いたいものです。

これが自民党政調会長の言う台詞か

2013年06月20日 | Weblog
これが自民党政調会長の言う台詞か

高市発言に想う
彼女は原発に関して以前にも同じようなことを言った、
何が言いたいのか。ただ一つ。
原発を早く再稼働したいという思いだけだ。

現場で独りの事故死者が出ていないことは、報道を見る限りその通りである。だが、事故による待避行動の中では、治療は受けつつも弱っていた人はなくなっていった。もし原発事故がなければ治療を受けながら生きながらえた人達だ。事故を苦にして自殺した人もいた。原発事故はこれらの人を間接的に殺したといえよう。つまり原発事故による死者が一人も出ていないとはどんな現実を見て発言しているのか。

女性任用の風潮で政調会長という重職に就いただけで中味はお粗末そのものだ
「高市氏は同じような発言を繰り返し言っている。確信的な無反省と言わざるを得ない。撤回と謝罪を求める。」と共産党は言ったが、確信的な無反省ではなくて、要するに無能なのだ 。個人としてならまだしも、与党の政調会長の発言としては、,無能さの恥さらしものである。そのことに彼女は気がついていないのである。 あわてて謝罪撤回するのではないか。
この発言についてはきっと物言いがつくだろう。

 要は、原発事故はたいしたことではないから再稼働しよう、と言いたいのだろうが、人類と原発が共存できないという現実を目の当たりにしていながら、よくこういうことが言えるな、と僕はあきれる。彼女に政調会長という重責を担わせるとは自民党も随分人材不足なのだな。


子は授かりもの

2013年06月19日 | Weblog

子は授かりもの

夜逃げをしているから、親父は隠れ家から、女房のところへ通ってくる以外、通常の夫婦生活はなかった。

女房は、新宿駅の近くで飲み屋をやっていて酒に酔って、アパートへ戻ってくると、夏の早い太陽は、東の空を、白々と明け初めていた。毎日がそんな生活の連続だった。
そんなある日、女房はいつものように、フカのようになって、熟睡していた。朝、目が覚めると、パンツのあたりがどうもおかしいとは思ったが、大して気にもとめなかった。それから暫くしたら、おめでたの兆候が現れた。
 借金に追いまくられ、夜逃げしている身なのに、よりによってと、
女房は身の不運を嘆いた。
 思い当たるのは、ぐてん、ぐてんに酔って帰ったあの日のことである。それとて、親父が忍んできたという、はっきりした意識は無い。ただ、パンツのあたりが、いつもとちょっと違っている程度であった。
親父が、夜這いに来たのだろうか?。女房はあの夜のことを思い直してみた。心当たりがあるとすれば、それだけである。

 産もうか、産むまいかと迷ったら、答えはいつも決まって、堕ろすこと。ただ一つだった。しかしそのための金もなかったし、忙しさに、かまけて、もたもたしているうちに、堕ろすにも堕ろせないような状態にまで腹の子は成長した。

 臨月になって、女の子が生まれた。女房はこの子を里子に出そうと決めていた。なぜなら、女房の生活状態からすると、親父は夜逃げしていて、あの時だけ通ってくる一家離散に近い状態だったし、経済的にも精神的にも、この子を育てる余裕も状況もなかったからである。
 ところが、あれやこれや思い患っているうちに、子供はかわいい盛りに成長した。

 今度は女房は、何があっても、この子を手放せないような気に、心変わりした。
やがてその子は100人に一人の倍率という難関をパスして、スチュワーデスに合格したのみならず、親思いで、いちばん親孝行ものだった。

 女房はつくづく「こどもは授かりもの」であると思った。親父も女房も自らの意志で、この子を作ったわけでは、決してない。あの夜の親父の気まぐれから生まれた子が、他の兄弟姉妹から群を抜いて、夫婦にとっていちばんの親孝行者で、宝物になるなんて。いったい誰が想像し得たであろうか。

 神様は時としていたずらをされることがあると、夫婦は真剣に考えた。また実感していた。
子供は夫婦よって作る。というものではなく、神様が夫婦に授けなさる、、、というのが人間の本当の姿かもしれない。
「子は授かりものである」。なるほど。昔の人はよく言ったものだ。夫婦は今もそう確信している。

神経性下痢

2013年06月18日 | Weblog
神経性下痢

神経過敏症の私は、仕事の上で溜まったストレスが原因で、神経性下痢をたびたび起こした。
どういうものか、それも習慣性を帯びていて、お腹がちくちく痛み出し、グットと腸内を抑え込むような痛さが走るのは、決まって満員電車の中である。ところが乗ったが最後、身動きできないのが、朝夕ラッシュの通勤通学電車のお客である。
 列車のトイレが目の前にあろうが、なかろうが、手は大阪、足は東京の状況ではどうにもならない。

 ぐるぐると、腸内が鳴り出すと待ったなしである。ビビッと下へ下へと攻めは広がり、かつ深刻になる。
電車が駅に着いて、トイレに飛び込むまでの間で勝負が始まる。この時ばかりは私も、にわか信心を起こし、「神様。なんとかトイレまで持たしてください。たのみます」と必死に祈る。
寄せては返す波のように時間が経つにつれて、痛みは波状的に増すばかり。
じっと唇を噛んで、こらえはするが、額は冷汗が一筋二筋と流れてくる。
死ぬような思いをすると言えば、オーバーな表現になるであろうか。

電車が、到着して、漏らさないように、そろりそろり歩いてトイレに行くと、順番待ちが3人ぐらい並んでいるのを見た時の恨めしいこと。
他所を探すが、ここで順番待ちをするか。あの時のいらいら。

 下腹からの圧力に打ち勝って、トイレに飛び込んだ時の嬉しい事。
一気にグッと力を入れると、ぱっと水花が白い陶器1杯に咲く。
あの時の気持ちよさ。
シクシク下腹が痛むが、助け船(トイレ)があるので、悠々たるものである。
ある日、私は、この経験を友人に話した.。

彼はまだあるという。
[満員電車の中]以外に
[運転している車が、渋滞に巻き込まれた時]
[授業中の生徒.]
「講義している最中」
「入学試験を受ける受験生たち」
「見合いの席での重要な場面」
わかったよ。もういい加減にしてくれ。私は話を途中で遮った。

そして私はこういう類のことで、神様に真剣に祈ったことは、何回もある。いつも神は私の苦境を全て救われたから、ただの1回も粗相したことはない。神はいる。確かにこの世に神はいる。私は確信を強めた。



日仏共同声明について想うこと

2013年06月17日 | Weblog
日仏共同声明について想うこと

フランスは世界屈指の原子力依存国家である。日本は日仏共同声明 つまり原発推進政策を発表した。

安倍政権は原発依存を減らす方向とは逆向きに突っ走っている
。福島第一原発の事故から2年余り。その収束も除染や被災者の帰還も実現していない。

多くの国民は原発に依存する社会からの脱却を望んでいる。にもかかわらず、国民には綿密な説明をつくさないまま、対外協力を利用して、なし崩しに原発推進の政策の舵を切るのは政治と言う他は無い。

確かに後進国では今後のエネルギーの源として原子力を望んでいる。原発先進国の日本が今後発展するだろう地域の国々に関連技術移転して
成長柱の一本にしたいようだが、そういう考えは根底において、国民の真の願いとはかけ離れている。

産業が国家にとってどれほど重要かは十分理解した上で、
狭い国土の我が国においては、運が悪いと原子力事故で国家を滅ぼす危険がある事を考えれば、安倍政権の原子力政策には乗れないだけでなく反対したい。
産業と国家のどちらが大事かというと答えは100%の人が国家と答えるに違いない。福島事故が大きな意味を持つものだと受け止めて貰わないと、完全な安全神話はないことを前提に原発を考えないと、国家を滅ぼす事にもなりかねない危険な物を抱えながら、国民は生活をしなくてはならない中で生きていくことになる。

あらまほしきこと

2013年06月17日 | Weblog
あらまほしきこと


1.臨終のハンセン氏病の子供の患者を思わず腕に抱きかかえ、人間の体温の暖かさの中から、黄泉の国へ旅だったせたかかった 
 壺阪寺常盤勝憲和上

2.ガン研の病院に入ってくる人は気も動転せんばかりに、死の恐怖におびえている人たちばかりである。
  そんな心理状態にある人に、冷たい手で触った患者はどう思うか。。僕は温かい手で患者に触れるようにいつも心がけてカイロで手を暖めておくのです  
 黒川ガン研付属病院長

3.僕が発明するのではない。神が作って多ものを一番最初に僕が発見するのです  
東北大学総長 西沢潤一博士    



グローバルスタンダード

2013年06月16日 | Weblog
グローバルスタンダード

グローバルスタンダード。これを言い出したのは欧米先進諸国だ。そして今や先進国になった、日本ではすでにその世界標準に合わせるために日常的にこの言葉を耳にする。
 確かに情報化が進んで地球は狭くなって、世界は一つという感じがあるが、これほど通信手段が発達し、情報化が全世界的な規模で行われれば、全世界が共通の情報を共有することによって、均一化や同質化されることは時の流れとして当然である。
そしてそのリーダーをつとめるのが欧米社会、いわゆる先進国であってみれば、この言葉に重みも先見性もあることは否定できない。

 パリで出来たてほやほやのファッションは、ほぼ時を同じくして東京で、
ニューヨークで、上海で、明洞で、立ち入りあがるのは不思議ではない。

そこで考えるのだが、世界の富や、社会構造や、自然環境や、個々人の歴史に、共通的で類似点が多ければ、共通の物差しは使いやすいが、地球は一つといえども、実態は天と地、水と油ほども違う差があり、その國や地方などの発展の過程や、環境のなかで今までそれなりに共存してきたのである。

経済的発展の度合い一つをとってみても、先進国、中進国、後進国の別があり、その格差は歴然たるものである。その格差を埋めて、出来る限り平準化された状態で、グローバルスタンダードを使うならば、まだしも、どうも情報化社会という世界環境の中では、ことが性急に運ばれているような気がする。そしてそこに無理が生じしているように思われる。

 各國や地方が抱える諸般の事情に十分考慮を払いながら、機が熟すのと歩調を合わせるようにして、スタンダード化されるべきである。さもなければ有利、不利の差が顕著になって、なかなかグローバルスタンダードが一般化し定着しないように思える。
グローバルスタンダードを言い出した先進諸国は、グローバルスタンダードを押しつけるのではなく、各国・各地方の事情に十分注意を払わなければならない。そしてまた格差を際立たせてはならない。

 電子機器の発達はめざましいものがあるが、それはたかが50年の歴史しかない。それも日進月歩の最中である。そしてその技術が経済的にも、知識的にも、
機能的にも、技術的にも、今日ではまだ活用できる段階にはない国の方がはるかに多い。だから先進国はそのリーダーとしての牽引力と役割を担うのだろうが、状況を見ながら、国情に合わせて、ことを進めていかなければならない。と同時に先進諸国は後進国や発展途上国のレベルを物心両面にわたって引き上げ、または後押しする必要がある。そこで初めてグローバルスタンダードが適用される素地ができあがる訳である。
急いではいかん。過去の歴史が教えるところである。