日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

ジェネレーション7-6

2012年05月17日 | Weblog
ジェネレーション

まだ現役で、教壇に立っていたときのことである。目の前のお客は18歳のぴちぴちである。 教えると言うよりはしゃべる方が面白い。
まずはじめに、気合いを入れるために「オッス」と大きな声で叫ぶ。最初は彼らはきょとんとしている。頃合いを見て、もう一度「オッス」を繰り返す。女生徒は柄の悪い先生と思うらしい。こちらは計算済みである。お構いなしに話をどんどん進める。
話題は今週の主なニュースである。
それを事実として伝えたあとで、僕なりの感想を加えて解説する。そこで話が弾むように、わざと逆のことを言って、反論が出るように仕向ける。
怪訝な顔をしているが、しばらくすると、それが芝居であると気がつく。
そうなると彼らも調子に乗ってくる。つまり調子に乗せるのがこちらのペースに引き込むためのイントロである。彼らはこれを教師の雑談だという。
もちろん教科書も指導書もこちらは勉強してある。そしておおうよそのペースをつかんでおいて一年分の教案は作ってあるから、脱線しながら授業は進める。

話は大きく飛んで、と言うより小学生誘拐事件の時は外国の占い師が来てこの事件について占うという新聞記事を紹介したら、生徒は話にのってきて、その霊能者に会いたいという強者まで出てきた。それは僕だって同じことで、話は大いに盛り上がった。結局は占い師に合わずじまいだった。
五,六人の生徒を引き連れて現場に立ち会いたいと言ったところで、相手にしてもらえなかっただろうし、邪魔者扱いにされたことだろう。
霊能者は被害者は大阪南部にいると言ったが、彼女が帰国してのちに、その小学生は能勢の山中で白骨死体で発見された。ついでに言えば犯人は女性ばかり四人殺害していた。少女誘拐事件として世間で騒がれたものだから、あの時の生徒はまだ覚えている者もいるはずだ。
その当日の僕の教案にはカントについての説明をする予定が書き込まれていた。それを説明する時間はなかった。しかし彼らと過ごしたこの時間は未だに鮮明に覚えている。

教壇に立つと話に乗ってくる者、内職をする者、うつぶせにねていびきをかく者、僕の話に耳を傾けてノートをとる者、ほんとに多彩である。倫理 という教科は大学受験の科目の中には入ってこない(倫理社会で受験する子供は滅多にいない)から生徒も教師も気が楽である。

また話は飛んでお客が社会人だったらどうか。というと社会教育の講師として話をする場合は昼寝もしないし、私語もない。与えられた時間を退屈させないように適当に話題を転がして今日の本題だけを伝えれば良いので楽である。
そして18歳と社会人と比べると、目の輝きが違う。たいした話もしないのに、食い入るように瞳がきらきらする。大人相手の講演は何十回もやったが、若さの雰囲気というものはどうしようもない。
人間はジェネレーションでくくらないと、人間でひとくくりしてはだめであるという貴重な教訓を学ばせてもらった。

どういう感覚なんだろうか

2012年05月17日 | Weblog
どういう感覚なんだろうか

沖縄の基地のうち普天間は最も危険な基地だと言われている。街の真ん中に在り周辺は人家があふれている。是を何とかしなくてはと言う思いは誰しも思うことである。
自民党時代橋本総理はこの移設で日米合意をした。だからいずれはどこかに移設する事に成り、稲嶺知事が辺野古移設を提案した。勿論自民党は後押しした。
この問題は辺野古で落ち着きそうな気配だった。知事の苦悩の決断がにじみ出ている。
ところが政権が民主党に代わり、鳩山首相はこの移設先は県外にと発言して落ち着きかけていた辺野古移設の反対論に火を付けた。
首相が発言するのだからちゃんと目算があるのだろうと、誰もが思う。
ところがふたを開けてみると、現実には中味は何も無かった。あったのは彼の希望的観測だけだった。現実には何もないのに彼はアメリカ大統領との会談で大丈夫だろうなと念を押されると、トラスト・ミーと答えた。全く当てのない基地移設を、僕を信用して任せてくれと言ったわけだ。どういう感覚なのか?
一国の総理大臣がアメリカ大統領にはったりをかましたわけだ。最もアメリカ側は彼にはできないと言う事を知っていて、念押し(ひやかしと言っても良い)を言ったのだろう。まさか彼の言動からして本気で受け止めたとは思えない。

その彼が祖国復帰40年の式典に沖縄に行って自分の不明を謝罪した。是で沖縄の人々が彼を許したと思うか。?
冷やかしやがってと怒りが再燃したのでは無いか。
そこで思う。彼は大人としての感覚が欠落している。宇宙人とあだ名されるのも尤もだ。小沢氏は言った「馬鹿な奴を担ぐ方がらくでいい」と。是はずっと昔の話だが、実にその通りだろう。鳩山は言う。小沢さんに総理大臣にして貰って。、、、とてもつきあいきれない政治家だ。不適格人間が国を引っ張る悲劇がここにある。彼はあだ名の通り中味は宇宙人で現実から遊離して空想を語る男だと理解しないと、大人の感覚でまともには相手にできない男だ。選挙民よ。よく考えて選び給え。

グローバルと言う言葉

2012年05月16日 | Weblog
グローバルと言う言葉 8,014位 / 1,717,561

今ではグローバル(化)という言葉は子供でも知っている。是は学者が日本語で言わずに、英語で言ったものだから、この言葉が意味する中味は人によって 違う。あの人の言うグローバルと私が使うグローバルでは、さしている意味が、途中まで似ているが、究極の所では違う事がある。
どうしてこんなややこしい言葉を使うのか。ちゃんと定義づけてくれるか、
日本語で言ってくれれば分かりやすいのに。各自思いおもい使うから、ややこしくなるのだ。
英語が世界共通語にはなりつつあるが、日本語で分かるものは、日本語を使えばいいのであって、このような重要な単語は軽々しく使う言葉ではないと思う。
グローバリズム 、グローバリゼーション。それが個人にとってあるいは日本人にとってどういうことなのか、はっきりしないから、ふわーっとながされて
判ったような気でいる。ドッグと言えば犬である。キャットと言えば猫である。じゃグローバリゼーション とは何か。中味が余りにも豊富で訳が分からない。

神様がおりてきた。7-7

2012年05月15日 | Weblog
神様がおりてきた。 8,014位 / 1,717,561ブログ中

先週の土曜日、朝日新聞夕刊に出た記事である。
要するに、切羽詰まったところまで、追い詰められた作曲家が、瞬間的にひらめいて、ミリオンセラーの名曲が、できたという話である。
作曲家伊勢さんはその時「神様がおりてきた」と言ったとか。
具体的に言うと、伊勢正一の「22才の別れ」が、それらしい。ひとり伊勢さんに限らず、作曲家では、小椋さんも、歌が上から降ってくるという。彼の場合は上から降ってこなくなると、もう作曲はできないという。

遠藤実さんは、音楽の神様、(白髪の老人) に出会い、のちには、等身大以上のお地蔵さんを地元に建立し供養した。

また服部良一さんは、曲はもちろんのこと、それを発表するまでに、必要なお金や歌手、バンドなどのスタッフ等すべて神様が、完璧にそろえてくださるという。

小林亜星さんも似たようなことをいう。彼は、神から頂いた曲をこの世に広めないのは、犯罪だ。とまで言い切っている。

僕も、自分が良い曲だと思う曲は必ず不思議が付いて回る。だから作曲家の世界には、きっと神様がいる、と確信するようになった。

肉食系女性

2012年05月14日 | Weblog
肉食系女性 8,567位 / 1,717,139ブログ中

言葉だけを聞くと、ぞっとするが、現代の世相を考える時、さもあらんと納得できる。
よく考えてみると、今までそれは男の領域のことであった。その領域に女性が進出しただけのことである。驚くことはない。そこまで女性が言うか、そこまで女がやるかと言うだけで、どういうことはないのだから、それは奇妙キテレツな事ではない。
どちらかと言えば、そのような積極的な女性の事を今風に言えば肉食系女子と呼ぶらしい。それはフアイトとバイタリティーを表面に出す女性のことらしい。
男から見ると女性としては、たしなみがないと思わないでもないが、男女いずれにせよ、たぶん男女の境目を乗り越えて、力いっぱい生きている人は頼もしい限りでである。
肉食系女性よ。大いに頑張って世の中で活躍して欲しい 。

音楽会会場

2012年05月13日 | Weblog
音楽会会場

1,広いグランドのようなところで、何千何万かの人を集めてコンサートをするときに、歌手が直立不動で歌を歌っても、様にならないし迫力がない。
派手なパフーマンスが必要だ。一人で歌う場合は大編成のオーケストラがバックにいることで会場の雰囲気を作る必要がある。

2,オペラは紳士淑女が正装して楽しむ音楽だ。ジャズやロックのように聴衆が手拍子をとり、手振りをするような仕草を、オペラの観衆がしたら一体どうなるか。不釣り合いな事おびただしい。

3,ギター2丁ベース1丁ドラムス1台、歌手一人という構成だったら、観衆はパフーマンス抜きでおとなしく聞いている。是こそ歌を楽しんでいる、あるいは楽しんでいると言うにふさわしい。なお伴奏楽器はギターやベースだけで無く、ピアノやキボード1丁でも十分だ。

子供は賞めて育てよ

2012年05月12日 | Weblog
子供は賞めて育てよ

賞めると言う事を言葉だけで考えてはいけない。言葉は魂の域まで届くことであるから。
子供が言った「おかあちゃん今日僕は60点とれてん」
母「あれだけ勉強しているのに、60点しか取れないの。もっと頑張りなさい」
子供「おかあちゃん。頑張ったから80点取れたよ。」
母「なーんや。100点には20点も足りないじゃないの」
子供「よーし。次はもっと頑張るわ。次の試験は頑張るから楽しみで」
子供は真剣に勉強をする。
子供「頑張ったから90点取れた。僕、えらいやろ。」
母「まだ100点取れないの。10点も足りないじゃないの。もっと頑張らないと成績は伸びないよ。がんばりが足りないのと違うか。」
子供「今までとったことが無いような成績だのに。おかあちゃんの馬鹿」
笑い話のような、現実の話である。
親も教師も「何故お前。できないのか?」とけなすことが多い。
是では頑張った子供の側から見ると、立つ瀬がない。子供をけなしてどうして成績が良くなるだろうか。先生も馬鹿。おかあちゃんも馬鹿。と子供が思うのも的を得ている。

人生の味

2012年05月11日 | Weblog
人生の味


人の一生は浮いたり沈んだり。快苦交互の連続である。
それはサインカーブやコサインカーブに似ている。 苦と楽が交互に現れるのが人生である。
苦しみや悲しみの壁を乗り越えて前に進むと、楽や喜びの平地がある。
問題は苦しみや悩みや悲しみの中にいるときだ。
このときに手を取って引っ張り上げ、また後押しをしてくれるパートナーがいるとき、どれほど心強いか。
常日頃一人でいるときはそうは思わないが、何かあると、信頼で結びつけられた人間関係のありがたさが判るのだ。
悲しみを耐えて支え合い、時を重ねた勇気と知恵からは、きっと希望が生まれてくるだろう。ここに人生の味がある。

どうも腑に落ちない

2012年05月10日 | Weblog
どうも腑に落ちない

1,政府が電力対策から、大飯原発を再稼働させるという。再稼働の条件は東北大震災クラスのことが起こっても、まず安全という対策が講じられた上での再開でなくてはならない。安全を第一にすると言いながら、政府は電力事情から再開の手続きを踏んだだけで、安全宣言をし、地元に再開を促す。
これは最大の安全確認をした上での再開ではない。安全の問題と電力供給の問題をすり替えている。

2,小沢氏は限りなく疑惑がのこるが、無罪であるという判決がでた。是は言い換えれば、限りなく黒だけど、法律上は白だ。ということだ。
現実に限りなく黒い白というのはあり得るのか。疑わしきは被告に有利な方にという法解釈はわからいわけではないが、釈然としない。
この問題は2審に進むが、また「限りなく黒に近い白」が出没するのだろうか?

3,経済界から電力不足は経済活動に差し支えが出るから、原発稼働の要請が政府に要望された。経済界の要望をそのままのめば、万一の時誰が責任をとるのか。取れるのか。答えは明々白々であるが、そんなことはお構いなしで電力不足対策として再稼働を要求する。原発を動かすこと無く、今後の電力事情についてどんな円を描くの。、その辺の事が何故論議されないのであろうか。
一体、国民の安全と経済活動や利益のどちらが日本国にとって重要なのか?

広告は不要

2012年05月09日 | Weblog
広告は不要

少子高齢化時代に突入すると、産婦人科病院は減り、葬式屋が増えるのは時代の趨勢というものだ。
それは一般論としてよく分かるが、近頃は葬式屋のチラシがポストに入るようになった。 こんな物を入れられると、はなはだ気分が悪い。
加えて地下鉄では「XX葬儀は次の駅で下車すると便利です」とアナウンスがある。
いかに時勢だとしても、これだけはいただけない。葬式という言葉を聞いて喜ぶ人はいないだろう。だれもが、あの悲しさあふれる陰気くさい場面を思い起こすのではないだろうか。
これって、いやな気分を人々に与えるアナウンスではないか。それも地下鉄だから窓の外を眺めて、気を紛らわすことが出来ない空間で。一方的に聞かされるのだから始末が悪い。

アナウンスは聞き流し、チラシは見つけ次第丸めてゴミ箱にポイすればいいのだが。
人間いつかは野末の石の下になる運命であることは間違い事だが、死は前もって何かを用意しなくても良いのではないか。

葬式が必要ならば、まず檀那寺に通知をして、必要ならばそこから紹介してもらえば済むことである。
人の死=葬式は残された遺族の哀しみあふれる様子が、目に浮かんで気分が晴れない。そうなった時は、そうなった時に考えればそれで十分だ。
広告はいらん。

久米の仙人7-11

2012年05月08日 | Weblog
色気の度合い

ナンバで乗り換えると車内が空いた。対面の横1列の座席を見るともなく見ると、うら若い女性の白いスネが目に飛び込んできた。
黒のワンピースだが、今はやりの短いすそは、露出度90%で、きわどいところで止まっている。
あんなところまで肌を出して、恥ずかしくないのか、いや、あれがいちばん人目を引くおしゃれなのかもしれない。
僕は色は白く、細面のその美女の白い脚と、顔を交互に見た。

なるほど。久米の仙人もこれじゃあ神通力を失って、地上まで落下するのはよく分かる。
美女を見て、仙人は、神通力を失った。
ところで、俺はどうなんだ。?絶対にまじわることのない人間模様だと、自分に言い聞かせると、彼女は単なる異邦人の一人にすぎない。路傍の石となった。

確かに、色白美人だが、車内で股近くまで白い足や股を、しかも大股開きをして、何と嗜みのない女だと、けなすことによってボルテージを下げた。酸っぱいブドウである。

ところで、仙人と、僕とでは、どちらがスケベー度が高いか。仙人は神通力を失った。僕は彼女によって上がったボルテージを自分で下げたから、なにも失ってはいない。やはり、仙人の方が上だろう。こういう結論になった。負けて悔しい花一モンメでは無かった。

どうして色気度にこうも、差が出るのか。おそらく、仙人は多分30代が40代だろう。僕はその倍の人生を生きているから、年齢からくる達観度が違う。
その上、近頃は、高齢者となって、体力や精神力いわゆるマンパワーが落ちている。
人間、歳はとりたくないものだ。
総合的なパワーこそが、燃える生命力を支える源だ。
仙人よ。神通力を失って、落ちるほど美女に見とれるとは、うらやましい。
僕には、今、そんな元気は無い。

NHK大河ドラマ清盛 9,582位 / 1,714,488ブログ中

2012年05月07日 | Weblog
NHK大河ドラマ清盛

兵庫県知事が、画面が暗いと、物言いをつけた。僕も暗いと思っていたから同感だった。
いかに時代考証だと言っても、画面が暗いものは暗いのだ。
慣れてきたら視聴率も上がるだろう。長い目で見て欲しいとNHKは弁明したが、製作者がどんな弁明をしても初めに受けた印象は、期待外れという強い思いと重なって、これは、今でも訂正はできていない。だから僕は見ないことにしている。

視聴率を調べてみると、最低ランクをうろちょろしている。これは、NHKの思いが、視聴者に届いていないのか、それとも、拒否されているのか。?
今になって思い返してみると、NHKのあの制作態度が大きく尾をひいていると僕は思う。
人間って、ファーストインプレッションで、それ以後のことが決まるのではないだろうか。
最初の印象って、とても大切なことだ。

傲慢とも受け取れる言い訳が印象をさらに悪くした。おまけに登場人物だって、もっと分かりやすいものにしないと、素人には何がどうなっているのかさっぱりわからない。

NHKは最初につっぱったために、自ら墓穴を掘ったことになる。最初に指摘されたことに、謙虚に耳を傾けるべきだった。制作プロデューサーの責任は大きい。
誰がどんな発言をしようと、それによって視聴率が大きく左右される物ではない。
視聴率は民意の総合である。大河ドラマは娯楽作品である。視聴者を楽しませてこそなんぼの話である。そこが抜け落ちているのか、軽く見なされているのか。それとも、、、。

平澤語録7-13

2012年05月06日 | Weblog
平澤語録

研究に研究を重ねて行くと、おそらくどの方面の学問にしろ,わからない領域に到達し、 そこに頭を下げざるを得ないものがあることを発見すると思うが、ここまでくると、科学者も又何か宗教的感覚に触れるのではないかと思われる。そこに科学と宗教のとけた世界がある。とにかく生きるということは平凡のようで奇跡中の奇跡である。だから、今日1日、この軌跡を生きる命を与えられたことに感謝しよう。この感謝が今日1日の生活に溶け込んだとき、それは喜びに変わり、やがてそれは自己を拝み他を拝み、さらには全宇宙を拝むことになるのである。、、、略。
生きよう今日も喜んで  平澤興語録 より。

この文章を読んで自分の事を振り返ってみると、思い当たるところがある。例えば、何かを追求していくと、そこには必ず判らないことにぶっつかり、脇道にそれるようだが、何か大きな力を感じることがある。それは全知全能の神かも知れない。が、何か信じられないような、信じなくてはならないような、訳の判らない世界に迷い込む。芸術のみならず何かを作りだそうとするとき、人は何かを感じる。

生きていることが、医学研鑽を積まれた医学者(京都大学医学部名誉教授、学士院会員)にして奇跡だから生きている事に感謝しなくてはならないと言う、博士、感謝と言われるとピンと来ない。
しかし医学的に命の不思議を追い求められた先生が言われることは、信じなくてはと自分に言い聞かせる今日この頃である。

連休の人混み

2012年05月05日 | Weblog
連休の人混み  12/05/05

通り慣れた人は、要領が良い。 
高速道路では、左右2車線が、末端で、本線に合流していることを知らないから右側の長い列をそろりそろり、走った。
左車線では、車はどんどん走っているが、まさか、これが本線に、合流するとは、通り慣れていないに不慣れなものは、わからない。
本線の合流地点では、何のことは無い。左右の車線から、本線に、一台づつ、うまく入って流れていた。
30分待ちだの、1時間待ちだのと言う渋滞は、高速代を返せと言いたくなる。
1年中で最も季節の良い五月の連休は人出が当たり前で、そんな中に飛び込む方がおかしいとは思うものの、渋滞はいやなもんだ。

休みの日は混むので、ウイークデイに遊園地に行ったことがあったが、人の少ない遊園地なんて、気が抜けてしまって、わびしい思いをしながら帰ったことがある。
連休は人混みの中に飛び込んでこそ、連休を味わうことができるのだとおもい、あれ以来人混みを避けてなんて考えない。人混みの中に飛び込んでこそ、連休の良さを味わうことができるものだ。
例えば休園日のように誰もいないデズニーランドなどを想像して見るといい。がらんとしていて、魅力なんて何もない。

僕は文句を言いながら行楽地に、往きは急いでいたので、渋滞でむしゃくしゃしたが、返りはに急ぐ必要はないので、西名阪高速を利用した。高速で走りながら、たそがれの空を見ると、今夜は満月らしく月がぽっかり大和盆地の東側にある山の上に浮かんでいる。その月が1時間もすると、はっきり輪郭を表し光を放ってくる。
是を見ると奈良時代の人達も、この月を眺めたのであろうかと、なんとなく、ロマンチックな気分になった。ドライバーは僕じゃないから、scいくら高速で走っていても、こちらは満月を愛でる余裕がある。

7人も亡くなり多くの人が負傷したバス事故では、車という文明の利器は考えものだと感傷ににふけったが、現代では文明の利器を利用しなくては生きて行かれないからな、と現実に帰る。
いろんな思いが飛び交ったが、今日の記録としてブログにとどめておこう。


おばちゃんとおっちゃん7-17

2012年05月04日 | Weblog
おばちゃんとおっちゃん 7464 位 / 1713428ブログ

家にじっとしていると、足が萎えてくる。そのこともかねて1000歩ぐらいで行けるスーパーへ買い物に出かける。ここ一週間の日課である。いつまで続くのやら。

年の頃、さあ60代だろうか、交差点で信号を渡る時の話。
おばちゃんは元気がいい。ちょっともフラつないで、まっすぐに足早に歩いている。信号は赤になった。おばちゃんは旦那に半ば怒鳴り声で、速く渉らなきゃとせめたてる。歩道の信号は赤に変わっている。
トッチャンは信号を指さして今赤じゃないかという。赤信号を半ば無視したような形になった、おばちゃんは引き返してきて、トッチャンに「よたよたするな。ぼけ」と怒る。
トッチャンはそれに耐えて黙っている。そうこうするうちに、信号は青になった。おばちゃんは先頭を切って渉っていった。トッチャンは後ろから付いていく。

老人夫婦は似たものだなと感心していたら、追いついたとチャンが急に
おばちゃんの頭に一発食らわせた。おばちゃんは怒るだろうなと言う予測に反してゲラゲラ笑っている。ええ、??今喧嘩してたのと違うのか ???
夫婦は100景である。