日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

いじめ対策委員会

2015年01月25日 | Weblog
いじめ対策委員会

いくつかの段階に分けて考えてみよう。いじめが発生した場合は
1,まず最初は担任が対応する。しかし担任に力がなかったり、面倒くささが加わったにする場合手にをえなくなるまで放置する傾向がある。
2,学年団。
担任にアドバイスするだけで行動をして取り組まない。関わりを持ちたくない心理が働く。
3,生活指導会議
ここではできるだけ穏やかにことを収めようとする。今生じている切実な問題について行動を起こすことについては感度が欠けている
4,職員会議
議論が百出してまとまらないから何の力にもならない。
5,校長
いじめに対してどういう感度を持っているかだが、担任や生活指導にアドバイスをするだけで先頭に立って行動起こさない。
6,教育委員会
アドバイスをしたり指導したりしてことが大きくならないように収める力が働く。また教育委員会の中には意見が割れて立ち往生になり行動力にならない。

このような組織になっているのにどうしていじめ阻止の行動が積極的に行われるだろうか。

結論を急げばいじめは教員集団には手に負えない。だからまたしても自殺者が出るのだ。この問題は人権侵害と言う犯罪として扱うすなわち刑事事件として、国家権力を使って解決するのが最も現実的である。いじめについて被害加害議論は現実的解決する点では無力に等しいから警察力をもって解決するのが現実的で即効性がある。


370万人の大行進

2015年01月23日 | Weblog

370万人の大行進

連続テロ事件に抗議するフランス人が世界と結束をした。その一方で疎外感も考えているムスリムたちもいる。ムスリムの若者たちはテロには反対しながら風刺画や社会への反感を心の中にくすぶらせる

シャルリーエムドは全イスラム教徒を侮辱していた報復に値するとも思った。絶対に公言しないがこう考えるイスラム教徒は少なくない

西洋側、イスラム側のどちらにも言い分はあるが、キリストもムハンマドも風刺したり、侮辱したりすることは絶対に避けるべきことである。それは民族対立を煽るだけである。そして宗教戦争にもつれ込む。小規模ではあるがテロがその典型的な例である。


教育、宗教人の参加

2015年01月22日 | Weblog
教育、宗教人の参加

人格教育は心の有り様を対象にするから、心を扱う人が教育の審議会のメンバーに加わってもおかしくは無い。具体的には宗教人だろう。政教分離といっても心の教育には心と言う宗教で扱う分野が入ってくるのは避けて通れない。宗教指導者が委員として加わるのは当然のことであるが、現実には教育者や教育学者その他識者と言われる人が主な構成員である。教育を知育だとするならば別だが徳育もあわせてと言うなら宗教人の参加は不可決である。



教育には真の意味での愛の鞭が必要

2015年01月20日 | Weblog
教育には真の意味での愛の鞭が必要

幼児の頃から、親から叱られて叩かれないで育った子供なんているのだろうか。しつけにはある程度の体罰が必要である。ただし体罰は理性的なものでなくてはならある。例えば学校で体罰を行うならば、校長の前で担任や制止部長が体罰を加える事は必要である。どんな場合でも教師が1人で体罰を加えてはならない。体罰の厳禁等と言う事は非現実的だ。僕は体罰は条件付き容認派だ。

高齢者問題

2015年01月19日 | Weblog
高齢者問題

昔は生きながらにして山の中に棄てられるか、大所帯の家族の中で介護おけるか。どちらかであった。

現代では老人ホームに入居して介護うけるのが一般的である。
いずれにせよ身繕いができなくなると、他人の手を借りる、すなわち介護が必要になる。
肉親から切り離されて、山の中に棄てられるか、他人の介護の中に放り込まれるか、そのいずれかである。
考えてみると人生は高齢化すると、多くの場合他人の手助けが必要となる。他人に迷惑をかけたくないと思えば、延命工作をしないで意を決して死に向かうべきだ。それも悪くない。

この校長の無責任ぶりは徹底している

2015年01月17日 | Weblog
この校長の無責任ぶりは徹底している

生徒の母親から連絡を受けた学校側は加害生徒を指導するなどし、同年7月に学校で母親に経緯を説明。当初は担任と学年主任が応対し、校長は母親の求めに応じて途中から同席した。

 加害生徒の指導などに校長が関わっていなかったため、母親が「指導に入らないのか」と尋ねると、校長は自身が関与するのは「人が死んだり、大きなけがをしたりしたとき」などと回答。母親は「うちの子が死んだら入るということか」と抗議したという。

 校長の発言を不適切と判断した市教委は昨年9月まで3回にわたり、校長に認識を改めるよう指導し厳重注意。市内全小中の校長に「いじめ問題では被害児童・生徒や保護者のケアを最優先にするように」と通達した。

 校長は産経新聞の取材に、「最初から陣頭指揮をとることはなく、自分が入るのは重大事案のときだと伝えたかったが、被害者側にショックを与えてしまい、軽率だった」と話している。

以上がインターネットに載った記事である。

この校長の無責任さにはあきれるばかりである。全校の生徒の安全と命を学校の責任者として預かっているという自覚に欠けている。
被害者側にショックを与えてしまい、軽率だった。という
校長よ君はもし今回ショックを与えなかったら、それでいじめの対策ができていると思うのか。君のような責任者がいるので社会から教育関係者ほど無責任なものはいないと非難囂々じゃないか。君の考えそのものが間違っているのだ。社会から非難のまとになっていることがまだわからないのか 。君は大津事件を一体どのように受け止めているのだ。こんな校長がいる限りいじめは学校に任さずに刑事事件として警察に任すべきだ・いじめが犯罪であるという啓発が足りない。痴漢は犯罪というくらいならいじめこそ犯罪だと周知徹底することの方がよほど大切だ。

10-39貧困婦女子

2015年01月11日 | Weblog
貧困婦女子

経済的な困難婦女子に対するGDPに対する支出は世界最下位と統計は語る。
シングルマザーは貧困のために生死スレスレの線で生きている。
政府は重い腰を上げて様々な支援策を実施するが、社会の隅々までには行き渡っていない。いろいろな政策そのものを知らない人も多いらしい。
最先端の窓口になるのは地方公共団体であるが、積極的に援助の手を差し伸べているとは思えない。
極端な例では食パンの切り端をもらってきてそれをいちにちの食事としていることもある。こんな現状を知ると、女性の社会進出だとか出生率の向上とは言う事は絵に描いた餅だとつくづく腹が立つ。
我が身1つを養いかねている上に、子供の養育負担を背負い込んだらどんな悲惨な状況が生じてくるか容易に想像がつく。
。山上憶良の貧窮問答歌の昔から、庶民は生かさぬように、殺さぬのように生活させられている。

日本が経済大国になったと言われてから久しい。ODAには派手にばらまくが社会格差を少なくすることが先決ではないか。
国の経済が破綻するといわれるギリシャよりも恵まれない婦女子が大勢いるというのはなんとしても政治のあり方が悪いとしか言いようがない。
年末の今日も貧困女子の悲鳴が聞こえてくる。なんとかしなくては…。個人的な慈善事業やボランティア活動だけではとても解決しきれない問題である。

非正規社員

2015年01月02日 | Weblog
非正規社員

非正規社員2000万人超える

総雇用者数雇用者5,294万人に占める非正規社員の割合は38パーセントに達した。働くものの事情もあるだろうが、これは異常な数字だと思う。非正規社員がふえて、ものつくりの技術が果たして受け継がれていくのだろうか。確かに経営者にとっては低賃金で雇用し、業績によっては非正規社員を減らすことができるというメリットがあるだろう。しかしそれは近視眼的な見方である。技術の継承や、企業の永続性を考えるなら、正社員の方が責任感が違うから企業にとっては正社員にしておく方がメリットは大きいのではないか。
正社員と非正社員の格差が大きいままだと人件費が安い、非正規社員を企業が増やす動きは止まらないから一人当たりの賃金は上がらない
特に女性は出産育児という大きな仕事があるので
非正規社員は女性に多く、全体の57パーセントを占めるのは仕方がないかもしれないが、子育てが終われば職場復帰がかなう正社員でにしておく方が、企業にとってはプラスにはならないか。人口減少で絶対的労働力不足時代が到来するすることが目に見えいているので、非正規社員のあり方はここらで再考する必要があるのではなかろうか。

謹賀新年

2015年01月01日 | Weblog
謹賀新年

明けましておめでとうございますという。
年がどんなに改まろうと、いつもの生活には変わりがない。おめでとうという言葉が心の中から去って実感がわかない。
まるでセンター試験を目の前にして正月どころではない受験生みたいな気持ちである。正月気分に乗れないのは同感だ。

何がおめでたいのか。暦の日付が変わるくらいで。

心に響く物が何もないから、正月だろうが誕生日だろうが平生とは何も変わりがない。特別喜ぶことは何もなく。
何でこのように心がしょぼくれたのだろうか?
そレは感激するようなことが何もないからである。

今年もこんな状態が続くのかと思うといやになる。だらだらと生きているのがいやなのだ。
なんか今年はよいことが起こりそうだと夢でも見させてくれればな、、、、元気も出ように。