日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

お産は一貫から百貫まで8-2

2009年12月30日 | Weblog
お産は一貫から百貫まで、

畑仕事の間に、子どもが生まれ、胎盤処置など、自分が、ひとりで行い、母子共に元気というようなお産がある。

また、高校生が、トイレで子供を産み落とすケースもある。

医者の診断と処置に従って、医師や助産婦の力を借りて、普通の病院で産む。ケース。これが大半で、母子ともに、最も安全なお産である。


急に病院内が騒がしくなり、せき込んだ館内放送が繰り返された。何か緊急事態の発生である。いったい何だろうと胸騒ぎがした。

そのお母さんとは、今の今まで話をしていた。双子をみごもってお腹はハチキレていた。お腹を抱えながら点滴を連れ持って歩いていた。

「奥さんたいへんでしょうが頑張って下さいよ。きっと丈夫な赤ちゃんですよ。」
「この子らのためにがんばります。」
「奥さん今から楽しみですね。」
「双子だから、忙しくなります。では産みに行ってきます。」
この会話のスグ後
彼女は双子の子供を残して、この世を去った。先ほど緊急事態を知らせる放送は彼女のためのものであった。

訃報を聞いた瞬間、言葉が出なかった。それもそのはず、わずか10分前の出来事で、それまでは私たちは、普通の会話を交わしていたから。

奥さんは双子を出産したが、出血が止まらず、そのまま子どもの顔を見ることもなく、不帰の人となった。
この現実がトラウマになって、以来「お産は怖い」ということが頭の芯に、固定観念としてこびりついた。

たぶん、私にとって最後であろう、男の孫が昨夜、生まれた。母子、ともども健康である。控え室で待っていた私は、五体満足でさえあればそれで、十分。そして、この孫の生涯が、波乱に満ちたものではなくて、できる限り平穏無事な生涯であるように、祈らずにはいられなかった。勿論徹夜をした。

人間にはいろいろのタイプがある。

2009年12月29日 | Weblog
人間にはいろいろのタイプがある。
1.権力の座につこうともがく権力志向型
2.芸術作品の追及、制作に心血を注ぐタイプ
3.人を宗教的に教化しようと黙々と活動をするタイプ
金以外には目もくれず金もうけのに生きがいを感じるタイプ。

金はなくても、地位や名誉がなくても、私には詞曲の世界がある。詞曲の世界に生きられるのはなんと恵まれたことであろう。神(弁財天)は私に音楽を与えたもうた。そのおかげで私は豊かな感性と知性によって美しい詞曲を作ることができる。それのみか、詞曲の世界に生きることによって、人生を広げ、豊かなものにできるし、生きる喜びをさらに増やすことも可能だ。恵まれた人生を。
神に感謝しなくちゃ。

マナー

2009年12月28日 | Weblog
マナー

マナーがよいのは気持ちのよいものそれはその人の文明の高さを表し、人間のレベルや人柄などを表す。

人種とか先進国、後進国などとは余り関係がないようだ。人々の圧倒的な多数が守るからトラブルは少ない。

私自身もマナーはこれを守らないと恥ずかしくて他人とのつきあいができない。このことは外国へ行くと痛感する

ベンジャミンフランクリンの肖像画

2009年12月27日 | Weblog
人類に普遍的に通用し、あらゆる人々を差別しないで、幸福をもたらす真理を、この世で今実現しようとしている崇高な精神の持ち主が、たとえ凶弾に倒れようともそれは仕方のないことである。

歴史は人類のために何か新しいことを企て、実行することは常に犠牲を伴うということを証明している。
ベンジャミンフランクリンの肖像画を見てそう思った。

そしてこのことは洋の東西を問わず、時を越えて通用する一つの真理なのだろう。

専門家は

2009年12月26日 | Weblog
専門家は

自分の専門についてはプロであろう。ところが全分野にわたってプロであるというわけではない。

生きていく上で人間そのものと関わりを持ってきているいわゆる世間人の方が全般にわたってバランスのとれた判断を下す。

それが証拠に、経営学者に実業をやらせてみろ。まもなくたぶん会社は倒産するだろう。学者とか評論家といえばその分野においてのみプロなのであって
その分野の専門意見を聞くのはよいとしても総合的判断を求めるのは適切ではない。

だが、テレビではそんな連中が専門以外の分野にまで口を出し、聴衆もそれを無批判に受け入れている。これは一種のごまかしである。

三途川物語り

2009年12月24日 | Weblog
三途川物語り

三途川
後から思えばアレは三途の川のことである
この川は、小川でもなければ大川でもない 。堤防から河川敷かあって中程には水が流れている。
河川敷はススキなどの雑草が生い茂ったているが、人が通るところには自然と道がついていて、それを歩いていくと、川面に出た。川幅から見ると中央部は深いかもしれないが渡って歩けそうでもある。

僕が川岸について時は 向こう側へ渡るために多くの人が待っていた。
人をかき分けて船に近づいてみると、そこではに要領の悪そうな、小役人が人の群れをさばいていた。人々は彼の指示に従って、舟に乗り込んでいく。
その様子を見ていてこの小役人の 人さばきがいかにも要領が悪いので、僕はイライラして早くしろとどなった。
彼はきっとなってこちらを振り向きながら
「自分の一存では渡すことはできないのだ。すべては閻魔さまの、指示に従って
一人ひとり送り込んでいるまでだ。」と冷静にいった。

僕は閻魔という言葉を聞いてギクっとした。川を渡るのに何が閻魔か。 閻魔は人の生前の言動を調べ上げて、現世から死の世界に行くときに、どの道を通るか指示をするという。つまり6道の行き先を決めて命令すると聞いている。

実際に閻魔の調べた通りかどうか、これは本人が弁明できるシステムになっている。ところが閻魔の調査能力は抜群で人の生前の行いや言動は本人が知らないくらい、正確を極めるという。
閻魔かどのように判定するかは別にして、どの道を通っても、天国か、地獄かいずれかにいかなくてはならないが、その采配に従っていった先が天国と地獄では大違いである。

僕は、閻魔に、尋問される前に自ら十善戒を素早くチェックしてみた。チエック項目は他にもたくさんあると思うが、何せとっさのことでもありすぐには思いつかず、真言宗の日常勤行に使っている十善戒をさっとチエックしてみたのである。
1,不殺生
2,不ちゅうと
3,不邪淫
4,不妄語
5,不綺語
6,不悪口
7,不両舌
8,不瞼貪
9,不しんに
10不邪見

まず不殺生であるが、基本的に人間の命が、動植物を食べることによって支えられている。 これはすべて人間以外の動植物の、命の犠牲の上に成り立っていることである。
殺生するなという戒めがあってもそれを守っていたら自分の、生存はおぼつかない。だから不殺生が 文字どおり自分の命以外の、命の殺生は許さないと、いうことではないだろう。
自分の命を守るためにばんやむをえない時には、他の動植物の命を犠牲にすることによって成り立っている事を考えれば不殺生は無理な戒めだ。この戒めは僕の様なストレートな解釈ではなくてもっと別な解釈の仕方が有るはずだ。

2,不ちゅうと
人の物を盗んではいけないという戒めだと解釈しているが常識的にいってもこのルールは当たり前のことである。生まれてこのかた盗みをしなかったかとうか。多少は、覚えがあるので我が身は潔白ではない。少々の罰は覚悟している

3,不邪淫 奧の深いこの問題ではどの程度までのことを邪淫というのか、分からないが
僕の意識の中では不邪淫によって子供の命作ったり、奪ったことは1度もない。これは天地神明に誓って断言できる。僕と関係を持った妻に出来た3人の子供の命は大切に育ててきたつもりである。わかりやすく言えば妻が1人、子供3人の生存に責任を持って来たと言うことである。それ以上のことは差し障りが出ると困るので、ここでは伏せておく。

4,不妄語
妄言、迷い事は言わないように、心がけてきた。ただ、自分が確信の持てることであったとしても よくよく考えてみればそれは迷いが言葉であるというケースもある

5,不綺語 わからない。


6,不悪口
学者だか作家だか忘れたが、どじょう鍋と人の悪口ほど美味しいものはない、といったという。
実にこの通りで、多少の色合いは違っても人の悪口を言わない人には出会ったことがない
悪意に満ちたものから、ほんの軽い愚痴まで、ストレスの発散やコンプレックスの埋め合わせなどの為に人は恒常的に悪口を言う。
ぼくも、普通の人間で、どじょう鍋ほどではないが 無意識のうちに口に出して悪口を言うことに気がついて、はっとすることがある。

7,不両舌 何でも正直に言えばそれで事足りるほど、人間社会は単純には出来ていない。毎回ではないにしても、自分の都合がよいように、2枚舌は使うものだ。

8,不けんとん いちいちコメントするのが 面倒くさくなってきた 。で、以下略

9,不瞋恚

10,不邪見 真実を真実としてみる。理解する。根性のひん曲がった見方はしない。

船に乗って川を渡るときに、付き添い人として小役人は同道して、向こう岸にわたると
私を寺のような建物の前に連れていった 。その縁側みたいなところに座る人に対して私は縁側の下に正座した。それはちょうと時代劇に出てくるお白州場で裁きを受ける罪人みたいな光景である。僕は、裁きの場に引き出された、罪人のをような気分になっていた。
しばらくすると、奥の方から何かいかめしい格好をした人間の姿が現れた。
はは~ん。之が噂の閻魔さんか。彼がどの程度のことを正確に知っているのか知らないが、ひとつ試してやろうじゃないかという気は全く起こらなかった。というのは人間の姿をしていると言えども、閻魔さんは神さんか仏さんの一種だろう。そんな得体の知れない者に初めからテストを試みるほどの度胸はもちあわせてはいない。
第一声はなんなのか。僕は耳を皿にした。いきなり怒鳴られてどやしつけられるのか。それとも猫なで声で優しくささやかれるのか。緊張の一瞬である。
じっとこちらをにらみつけていた閻魔様は急に元来た方にスーッと引っ込んでしまった。
あれよ?と思ったら目が覚めた。
なんだ夢だったのか。かなりリアルだったが、三途の川を渡るには未だ早いのだろう。
じゃついでに、この世にいる内にもうすこし楽しい思いをしておこうか。
僕はそう思った。三途の川を渡るまでには時間があるにしても、渡る日が来ることは間違いないから。






それにしても殺生や

2009年12月23日 | Weblog
それにしても殺生や

神様ちょっと酷じゃあないですか。

1. 闇雲にこの世に送り出しておき生きることのルールも教えない。

2. 目隠しされた状態に、泳ぎ方も知らされずにプールに放り込まれ、勝手に泳げ、勝手に生きろ、

それじゃ間違いをする人がいくらでもでてきますぜ。

水を恐れながら、手足をばたつかせ向こう岸までたどり着ける人もいれば、途中でおぼれる人もいる。

人生とは結局、神の命ずる修行なんですかね。

それにしても殺生や

地獄・極楽はどこに

2009年12月22日 | Weblog

地獄・極楽はどこに

極楽、それは、地獄の中に生まれる。河のようなものであり、生まれたかと思うとたちまちにして消えてしまう。地獄に吹く1陣の快適な風とも言えるだろう。

この世は地獄であると思う人は多いのではなかろうか。

この世に生まれて、人生の荒波を乗り越えて、無事に彼岸に渡りきることが、どれほど大変なことか。ある年齢まで生きてきた人間には、骨身にしみる辛苦があるから、多分そう思うことだろう。

地獄極楽の話が常識的には、閻魔さんが言って、人々の生前の行いからは感じて、地獄行き極楽行きが決められると、子供の時から聞かされてきた。

が、地獄へ行って帰ってきたものも、極楽、極楽にあるという蓮の花の上に座ってきたものもいない。

それは地獄極楽が、死後の世界に、あるものだという先入観によるものだが、現在住んでいるこの世にあることは実感できる。果たしてそれが正確に、地獄極楽と言えるのかどうかは別にして、この身に直接響いてくるだけに、この世の地獄極楽は分かりやすい。

の世で、極楽にいると思うとき、その瞬間、極楽を感じるのはほんの一瞬であり、泡のように生まれてはすぐ消える。

タイバンコクのゴールデンタイム
日中は37度あった。気温も日が落ちて、5時間もたてば、気温は10度近く下がる。日中が熱いだけに、25度から27度の気温は快適だ。この気温は深夜から朝に向けて、更に下がっていく。つまり、極楽を感じられる気温の時間というのは限られているのだ。スグ過ぎ去ってしまう。それは人生の地獄極楽に似ている。

働きバチ

2009年12月21日 | Weblog
働きバチ

自分の人生で夢中になれるものを見つけて、それに殉ずるのなら話は分かる。

ただただ働いて働きすぎて死んでいく人生なんてたまるもんか。

松下幸之助を目指せというバカ、彼のまねをすれば全員が彼のようになれるとでも思っているのか。

語録を唱えるやつもやつだがそれを聞く奴も奴だ

100m長さをどう評価するのか

2009年12月20日 | Weblog
100m長さをどう評価するのか。

1. 100万kmの尺度を用いれば100mは無視できるほど小さい。つまり、限りなくゼロに近い

2. 一mmを基準単位にして100mをはかれば無限大に近いほど大きなものになる。

3. ある一つのものをどういう単位ではかるかによって無限に変化する。

個人の判断もその人の使う物差しによってゼロ~無限大にまで広がるのは、人間がそれほど複雑にできているという証明に他ならない。


苦労したじゃないか

2009年12月19日 | Weblog
苦労したじゃないか、

苦しみの連続だったじゃないか、泣いたじゃないか、声を殺して呻吟したじゃないか、夢は実現していないじゃないか、恋が一つでも実ったか、いつも悲しい片思いに終わっただけじゃないか

、なのに悲しみをさけるのか、身に付いた悲しみを偽るのか、悲しみのない人生なんて考えられないし、あり得ないじゃないか、

なぜ哀調あふれる曲を書かないのか、なぜうんざりするのか、大人には皆こんな悲しい思いがあるのを知っているくせに、なぜそれをさけようとするのか

詩とは

2009年12月18日 | Weblog
詩とは

読む人に最小限の核になる言葉を提供して、核と核の空間は読み手の想像に任せ、読み手をどれだけ核で構成する世界へ引き込むか、その引き込む力の大きさが詩の力でもある。

従って詩は最大限に省略が必要である。なにもかもしゃべってしまうと、表現してしまうと、詩を読むということは作者の押しつけよう読者が忍耐することになり、読者は自分の世界を形成できない。

そうなると詩の魅力は消え失せてしまう。作詞する場合もっとも注意すべきことである。詩の生命とは省略に省略を重ねて行間でものをいうことである

ミクロとマクロ

2009年12月17日 | Weblog
ミクロとマクロ

盲人だ象をさわって、象とはこんなものだと自分の実感をいう。

そしてその人にとってはその判断は正しいが、全体像から見るとそれは一部を言い当てているだけで必ずしも正しいとはいえない。

全体像を言い当てて、かつ、部分的に正確なときに正しい判断となる。

部分と全体、常に両方にわたってものを見る習慣をつけておかないと、真実を見失う。つまり正しい見方ができないのだ。

哲学的なことを考える場合でも、常に現実論の立場に立つ、この二つの見方をして視点にすえることが肝要である。

独身

2009年12月16日 | Weblog
独身

独身は気楽だと君はいうが、同時に寂しさもつきまとう。

老人になって、ただでさえ寂しさが押し寄せてくる黄昏時に、君はなにを以て寂しさをいやすというのか。

子供は必ずしも自分の近くにいるわけではないか、それでも心の中ではそれが大きな支えとなる。子供がいるといないとでは大違い。

僕はそう思うから君の独身主義には懐疑的。まぁすきに生きるがいい。人生は全て自分しかわからないからね。

芸術家

2009年12月15日 | Weblog
芸術家


事実、現象、現実をそのまま模写するのではなくそれをいかに昇華して芸術作品にまで高めるか、それが芸術家の仕事である。従って、芸術家にはある種の強烈な価値観が必要である。それはヒューマニズムでもよい。真でも、美でも、善でもよい。