日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

10-71クリスマスケーキと掛けて

2011年11月30日 | Weblog
クリスマスケーキと掛けて

クリスマスケーキと掛けて、結婚適齢期の女性とく。

22日 22歳 ぼつぼつ予約が入り出す

23日 23歳  どんど予約が入り出す

24日 24歳  絶好調

25日 25歳 盛りは過ぎたがまだまだ売れる

26日  26歳半額に下げても売れ行きは悪い

うまいことを言う知恵者がいるものだ。と感心する一方現代の結婚事情にあっていないじゃないか。男が肉食系から 草食系に代わり、年齢関係なく買おうとしないのが世の風潮である。これじゃ女性の結婚適齢期をケーキに例えるのには無理がある。

しかし何と、世の中はかわったもんだ。

恋愛は男がこいこいといって呼ぶから、女があいあいといって付いてくるのが恋愛で、まあ常識だ。こいこいともいわないから、あいあいあともこたえようがない。何と情けない日本男子だ。しっかりせい。
なに?こいこいといってもあいあいと言わなかったらどうしよう 。
バカ!!そんな心配は行動を起こして、初めて言う台詞だ。男の純情をかけて、猪突猛進。それだけでいいのだ。 失敗したら失敗したときのこと。

ひよっとしたら、風穴が

2011年11月30日 | Weblog
ひよっとしたら、風穴が

既成政党がよってたかって、大阪府知事・大阪市長を生んだ大阪維新の会に挑んだが、民意は圧倒的に大阪維新の会を支持した。

今日の大阪の閉塞状況から見ると、当然のことである。この民意は大阪に限らず、日本国中に閉塞感が漂っている。それに恐れをなしたのか既成政党は色目を使い出した。
こういう民意を読まないで、支持団体がどうの、支持母体がどうのと言うのは、間抜けもいいところ、そんな連中に日本が動かされてたまるものか。

今回の民意はおそらく全国共通だろうから、これが中央中心の考えに風穴を開け新しい政治のあり方に貢献する所は大きいだろう。

どうして今までこういうことを察知できず、政治を行ってきたのだろうか。自民党の今後の方針を聞きたい。自民党では本部と大阪府連の考えは全く違っていた。お膝元の自民党府連は本部からも見放されるのでは無いか。現地にいながら民意の風がまるで読めていないのだから、話にならない。東京の本部の方が風の匂いをかぎつけている。

小沢は次回の選挙で維新の会から候補者を立てたら、近畿の民主党は全員落選するだろうと発言した。僕もその通りだと思う。
ひょっとすると、これが誘い水になって他の都市でも中央から地方に権限の委譲を奪い取るか、早めるか、そんな動きが出てきそうな気がする。問答無用で今の日本の閉塞感を打破する風は今後も吹き荒れるのでは無かろうか。その先鞭を付けたのが今回の都構想だと確信したい ものだ。

日本の政治家には想像力はもともと皆無

2011年11月28日 | Weblog

日本の政治家には想像力はもともと皆無

日本の政治家には想像力はもともと皆無だった。ライシャワー博士

全く同感である。
国民が既成政党にどのような思いでいるか、実態がつかめていない。50年間も自民党に都合の良い風が吹いていた。大失態を演じたので、風向きは民主党に吹いた。それだけで政権与党になっただけの話じゃ無いか。彼らには想像力もないし、勿論国を変えたわけでも無い。政治は沈滞しきったっままである。

大阪の維新の会の躍進は、市府民が既成政党を如何に見くびっているかを如実に示してくれた。自ら想像力を働かせて国家に尽くすことよりも、維新の会の巻き起こした旋風に如何に便乗するかと言うことが見え見えの政党もある。
既成政党は出来るだけ速くガラガラポンして再編し、従来の政党から脱皮する必要がある。



大阪市長・府知事ダブル選挙

2011年11月27日 | Weblog
大阪市長・府知事ダブル選挙

  日々旅にして 旅を住処とする。
片雲の風に誘われて、漂泊の想いやまず。

江戸時代の俳人芭蕉の自伝を読んで、上のフレーズに出逢った。
僕はこのとき三昧(仏教用語で)物事に熱中して他のことに気が奪われないこと。あるいは主客混淆同一化すること。我を忘れてそこに溶け込むこと。等いろいろな解釈をした。
そこから自我を超越した、宇宙の真理みたいなものを歌い上げることが出来るのだとも思った。
作曲家小林亜星氏のいう、淫するということも同義では無いか。
それぞれの分野、その道の達人は言うことが、一つの哲学に収れんしていくものだと感心した。

「旅に病んで夢は枯れ野を駆け巡る」と、詠んだ芭蕉の終焉の地が、大阪の最も有名な通り。御堂筋の辺りらしい。御堂筋の通りの中に、彼の終焉の地と記した、石碑がある。

昨日まではうるさかった選挙カーのガナリも今日は無く、静かな町に戻った。今日は大阪市長と府知事のダブル選挙投票日である。投票率は前回を上回っているそうだ。

開票速報は8時45分頃から始まる。既成政党、自民、民主、共産党までが応援した候補が勝つのかそれとも、地域政党維新の会が底力を見せて維新の会の代表・橋本氏を選ぶのか。

今日は夕飯を速く済ませて、テレビにかじりつく予定だ。
この地方選はおそらく、凋落した自民党も、いまいちで、国民の期待に応えていない民主党も、将来の政党のあり方として、学ぶところが多いにあると考えているから、全国注目の選挙になりそうだ。

年金制度について思うこと。

2011年11月26日 | Weblog

年金制度について思うこと。


今日本は不景気が20年以上も続いている。世界経済にリンクした日本経済はリーマンショック、や欧州の経済不安などで、また東日本大震災の影響で、経済指標がどれも良くない。

国内を見れば、若者の就職率がふるわず、年収200万円の層が1000万人に上るという。こういう状況の中で、年金支給開始が段階的に引き上げられようとしている。

だが考えて見ると若者は、新しい知識を身につけたり、好奇心が旺盛であるが経験不足のために、知識の組み合わせや、活用の仕方が判らない。
それに比べて実壮年は新しい知識を中々吸収できないし、なじむことも難しい。一方経験が豊富で知識の活用の仕方を知っている。知識と経験をうまく組み合わせれば、より大きな成果を生み出す事は可能だと思う。

60歳定年が実施されている。政府は60から年金支給開始の5年間の雇用を義務化して65歳定年制を義務付けているが、実態は60歳定年制をとる会社が多い。
そこで考えるのだが、定年から年金を貰える年齢までを再雇用する方法をもっと真剣に考えてみる必要がある。

その賃金は実質生活費から割り出したもので、最低生活費を月20万円ときめてそれを確保するために週2,3日はたらく事を義務化する再雇用なら、若者に支払う賃金で退職者という熟練工の経験を生かすことが出来るし,若者の雇用拡大に繋げることが出来る。こういうことでも制度として、至急に実施しないと若年者も退職者も困ることになり、ひいては年金制度も実施が出来なくなる

企業に願うことは元の役職が何であれ、賃金は2,30万円で雇用の仕方を工夫して、最低生活保障が出来る様にしてほしい。

何かを大きく変えないと、今の日本経済は停滞が続くように思われる。

感謝

2011年11月25日 | Weblog
感謝


歩き遍路であれ、車遍路であれ,遍路をされた人々の体験談を読んでみると、必ずと言って良い程,御礼とか感謝とかいう言葉が出てくる.

普通の観光旅とは違ってこれは物見遊山気分では、できない旅である。
ある人は1200kmを歩き通し,またある人は例えマイカーで巡拝すれにしても、山門や本堂の軒下で野宿をするようなきつい旅行をしている人たちが多い.

その人たちが御礼とか感謝とかいう言葉を口にするのだから我々が日常会話で使っている言葉の意味とは少し違うように思う..

普通の観光旅行と違ってかなり厳しい条件の旅をしつつも、どうして御礼とか感謝という言葉が出るのであろうか.普通の常識からいうと、そこに何か違和感がある.
しかし私が違和感を抱こうと、そういう遍路をされている人は心の底から気持ちを込めてそれらの言葉を口にされるから、それは真実の言葉なのである.

四国88カ所遍路して巡る旅は、ひとつには自然とのふれあいがあり、また四国の人々の暖かい人情に触れることでもある。それによって、普段は心のそこに閉じこめられてしまって、心のそこで眠ってしまっている感謝という言葉や気持ちを思いだしたりして、人間本来の素直な気持ちになることから、こういう言葉が出てくるのであろう。

いずれの年からか私もまた、菅笠や2白装束の遍路姿にあこがれを抱き、バイク遍路を始めるようになった確かに肉体的には楽な旅ではないが、精神的には今まで経験したことがないような、すがすがしいさを感じる。もちろんお大師さまには心を寄せて同行二人という安心はあるものの、初めての遍路の旅ということもあって心細い感じもした

私が四国遍路を思いたった理由のひとつに先祖供養ということがある。
今は亡き父母や父方や母方の祖父母の菩提を弔うために写経をして、それを本堂と大師堂に納経するために遍路したのである。

簡単なことではあるが、写経100枚はそれなりに我慢のいることであった。100枚目が終わったときに、私はまずありがとうという言葉が口から出た、さあ出来た。やれやれ。これでいけるという前に、ありがとうが出たのだ。何故だかわからないが、ごく自然に腹の底から出た言葉であった。

ひょっとしたら お遍路さんは今の私のような状態でごく自然に、御礼の言葉が出たり感謝の言葉が出たりするのではなかろうか。
意図していう言葉ではない。自然に口をついて出る言葉である。
もちろん遍路には、人それぞれの目標がある。それが成就されたときには、感謝の気持ちが湧いてきて当然だ。

そして目的成就を考えてみると、そこには同行二人つまりいつもお大師さまが側にいて、付き添ってくださり、そのおかげで満願成就したという実感もある。

理由はなんであれ、物欲に振り回され、いつも飢餓状態に置かれている現代人が幸せのもとである感謝の気持ちを取り戻した、あるいは自覚したというのなら現代人にとって、遍路することこそ、幸せへの近道ではないか、そんなことも考える。

さて私は8月末の天候にはいらいらしていた。あんなに暑かった日照りの続いた今年の夏は早衰えて秋雨前線が2、3日おきに雨を降らせている。バイクで走るには雨の日は都合が悪い。雨で写経がぬれて、字がにじんでしまうことも考えられるし、なによりも道が滑って危ない。そこで私は天気の日を選んで巡ろうと思った。
それにしても、長いあいだ忘れかけていた感謝の心を教えて、とりもどさせてくれた四国遍路には、感謝したい気持ちでいっぱいである。
お大師様ありがとう。四国遍路ありがとう。
やっぱりそんな気になる。








美しいメロデイ

2011年11月24日 | Weblog
美しいメロデイ

クラシック系の勉強をした人は、概ねメロデイがうつくしい。それは西洋の大作曲家の作品を勉強するから 、どうしても心の底にはそれが流れる。
それはいわゆる歌曲だけでは無くて、演歌においても替わらない。
僕なんか歌を聞く時は、どんな種類の歌でも無意識のうちにメロデイの美しいフレーズをピックアップする。メロデイの美しい曲に心惹かれるしそのフレーズを体内に温存しようとさえ思う。
勿論これには個人差があり,価値観や美的感覚やおかれている心情などが大きく作用する

金色堂追想

2011年11月24日 | Weblog

金色堂追想

須弥壇の下に、藤原3代のミイラがあるのを頭に思い浮かべながら、
彼の人々へのコンタクトを求めた。
その時不思議にも、人の流れが途切れて私独りだけになった。
髪の毛が逆立ち、身体の表面がじんじんした。
ぞくぞくして、胸騒ぎがする。  なんの感応現象ぞ。
芸術のふるさと、魂と魂の感応現象か。
生命や,芸術の神髄が見えたような気がした。


感動を与える芸術作品

2011年11月23日 | Weblog
感動を与える芸術作品

飢えの苦しみや 病気との戦いや、身に降りかかる不幸などが、偉大な芸術家を生む。

苦難に立ち向かい跳ね返す力が弱くて、苦難との戦いに敗れるような精神力では、芸術作品を生み出せない。この戦いに勝って残ったものが作品でなのだから。

エトランゼ

2011年11月22日 | Weblog
エトランゼ

人間は法の下で平等であると言うことは判るが、皆同じだと、いう言い方には抵抗がある。
体型は人間だけど、その中味がそれぞれ違う。

同じ事を言っても中味が違い、価値観が違うので、人間の意思の疎通には、断絶が起こるのだ。

相手の主張をよく理解することはもちろんだが、全てが理解でき、共感できるわけでもない。即ち、人間の姿形をしていても、自分にとっては、全くエトランゼとなる人が大勢いることに、近頃やっと、気がついた。





菅元総理への応援歌

2011年11月21日 | Weblog
菅元総理への応援歌

エイズ
ことの起こりはこうである。
1. 1975年世界保健機構は採血による感染の危険を重くみて、国内も献血でまかなうよう勧告した。ところが厚生省はこれを無視した。
2. 2,000人の血友病患者を感染させ400人以上の人の命を奪った提訴から7年、薬害エイズ訴訟は和解したがこれで救われるものは被害のごく1部でしかない。厚生大臣と製薬会社は医薬品による悲惨な被害を再び発生させないように最善の努力を重ねる。これが和解の勧告書。
サリドマイドで腕のない赤ちゃんが生まれ機能ホルモンで10,000人以上の人がスモン病にかかったそして今度はエイズ

厚生省や製薬会社、学者はこれらの火消しに躍起でこれからから何も学んでいない
理由
1. 経済的利益を今優先。死者の命は二の次
2. 情報を素早く集めて、手を打つ姿勢や仕組みについてかけており被害を大きくした
3. 患者や国民に知らせようという考え方にかけている
4. 薬の回収に手間取って犠牲者を増やした
5. 裁判中を理由に感染者への医療、生活の支援をしない

厚生省は専門家の判断を隠れみのに被害対策を怠る。
製薬会社は厚生省が販売停止などの措置を取らないのを口実に汚染製剤を売り続ける。
医師は感染の事実を患者に告げずに打ち続ける。
これらは皆もたれあいだ。もう構造的な問題である。一時的にしろ、薬事行政を厚生省からはずしたらどうか。
改正
1. 厚生省から製薬会社に天下りの禁止
2. 政策判断の番人病気や障害の当事者を加える
3. 現場に院方もどうコンセントを定着させ薬の情報を開示する
4. 厚生省のすべての審議会を公開して討議やデータの判断を広く専門家や国民の目にさらす。薬害が生じた場合、法的責任や原因究明とは別に即座に被害者の救済が開かれる体制をつくる

こんな状況の中で薬害エイズについて厚生省に風穴を開けたのは、当時の菅厚生大臣  だった。業界,厚生省の背後にいる政治家。どいつもこいつも正義感の欠如が甚だしく人の命を何と考えているのかと、僕は激怒した。だから菅大臣の働きはすごいと思った。自民党の歴代の担当大臣は誰も手を付けることが出来なかったからである。しかし彼はやった。
そして今回彼は福島事故に先頭に立って、活躍した。特に浜岡原発を止めたのは彼の功績である。そして今回の事故を鑑みて、脱原発を唱えた。
こういう言う彼の活躍について、評価をすっ飛ばして、思いつきだとかやり方が悪いだの
菅総理降ろしの嵐が吹いた。そこで僕は言う。
彼を批評罵倒した連中が現実の政治でどういう実績を上げたのか。まず己の実績を示せ。自分の実績と比べて批評するがいい。何も出来ない口先三寸の輩がよってたかってて足を引っ張る。こういうのを最低の政治屋と軽蔑する。悔しかったら国民の前に実績を示せ。そして反論したらよい。
序でに言うと、今回はマスコミも異論ばかり書いた。いっとくけど、マスコミはかいてなんぼ。報道してなんぼの世界だ。実行してその結果が問われる政治家とは質の高低が違う。菅総理批判は功罪をよく見てバランスの取れた報道すべきだ。管降ろしの世論誘導なんて、思い上がりも甚だしい。
     


何事もバランス

2011年11月20日 | Weblog
何事もバランス

お釈迦様は、物事の真理は、中道にあって、両極端には、ないと、説かれた。
中道というと、加えて2で割る式のことをすぐ考えるが、要はバランスがとれているかどうかということだと思う。知情意のバランス、心と体のバランス、知識と知恵のバランスなど。

人類史上この2500年間に、釈迦のような聖人は出ていない。弘法大師没後約1200年になるが、同等または大師以上の人物はまだ出ていない。これはもう釈迦や弘法大師を歴史が必要としていないからであろうか。それとも運命的にもう人類史上に出現することはないのであろうか。

いずれにせよ、人類の未来に大きな指針なり、指標なりを与えてくれる、人物は見当たらない。もう人類はこのような聖人指導者を必要としないのであろうか。

先ほど知情意のバランスを言ったが、そのバランスの取り方に大きく作用するのが聖人の説いた人間のあり方に対する考えである。

釈迦や弘法大師の教えから遠ざかり、凡人が世相に流されて生きる底の浅い生き方が人生のあり方であっていいのだろうか。

聖人の教えを学ぶに付け、僕は自分が如何に卑小な人間か、思い知らされる。それは無知の知を通り越している。

2,さらばインド旅

2011年11月19日 | Weblog
2,さらばインド旅

中国文化圏になじむ我々東洋人と、中近東に起源をもつアーリヤ人とは、ものの考え方、顔つき、体格など、埋めることのできない相違点が多すぎる。何をどのように補えば、共通点が見いだせるのか、ただ通りすがりの旅人には難しい問題である。

日本人とタイ人とは人情や気質的に似ているものを感じるが.、インド人(といっても接するごく限られたわずかな人たちだが)には根底に違和感をもつ。それがよいが悪いかは別にして、決して好感は持てない。

時には親切に寝台車の番号のところまで案内してくれた、名も知らない紳士、ハウラーからボンベイまで同行、指定席手配の外人専用窓口まで同行してくれて何くれと世話を焼いてくれたMr.ソーハ。
(彼は船員で、よく日本にくる)。数えればいくつもあり、その行為、親切は今も決して忘れてはいけない。普通のインド人はみなこうなんだと思いたい。ところが我々が日々相手にするのは、インドでも下層の雲助だから、除外すべしと思わないこともないが、第一次的に接触するのは、この連中だから、どうも印象が悪くなる。

さて旅を締めくくり総括してみよう。
サイババのプラサードは、そのストーリーと共に一生涯忘れることはないだろう。 
エローラの石窟寺院には文句なしに感動した。この壮大で緻密な設定図は、一体誰が書いたのであろうか。またこの遺跡を作った目的は何だったのか。当時の人たちは誰一人として残っているものはなく想像の域を出ないが、これは世界遺産であり人類遺産だとつくづく思った。

マザーテレサの墓参ができたこと。僕は彼女の生前、この汚れたサンダルで僕の頭をふんでもらいたいと願っていた。釈迦やキリストと同じく、貴い聖人(神といってもいいだろう)に触れてみたかったのだ。それは今となっては不可能の夢になってしまった。
不思議な力に導かれるように、夕暮れに彼女の墓前で読経をあけ、言いしれぬ涙をハラハラとこぼしたことは、生涯僕の脳裡から消え去ることはないだろう。
前回のインド旅に懲りて今回はすべてにおいて、ナマスを吹いておいたから、前回のようなドジは踏まなかった。緊張して、注意し過ぎたおかげで、カルカッタ・ダムダム空港では23時間待った。どんなに文章を書くことがたくさんあり、また文章を書くことが好きだとしても、やはり23時間という時間は消化しきれない物があり、退屈だった。
それにしても国内空港で、ルールだから、リタイアリングルームを使用させないと一方がいい、相棒がよいゲストハウスを紹介するという猿芝居に、完全に抵抗して、23時間頑張った我をほめてやりたい。

いろいろあっだが、思い入れは家に帰ってコンピューターで整理しよう。心の中にあるものすべてを吐き出して文章にすると同時に人に言いしれぬ秘密は秘密として心の奥底に仕舞い込んでおこう。
さらばインドの旅
タイ・バンコク空港内にターミナルに腰をおろしながら書く

1,さらば インドよ

2011年11月18日 | Weblog
1,さらば インドよ

いよいよ旅の終わりも近づいた。今日深夜1時25分にバンコクを出発して、明日の朝8時にソウル、11時半には関西空港につく。

3月12日に大阪を受けて約一カ月間の、インドの旅だった。
美しい景色を見て、おいしいものを食べて、涼しいところでいう、という旅ではなくて、まったくこの逆の旅がインドの旅だった。

暑い、汚い、強烈な売り込みをかけるリキシャマン、タクシー、代理店、ダメモト丸出しで駆けてくる小商人、それにうるさく付きまとう乞食。

言葉が通じないだけでもイライラが募るのに、こんな連中と付き合うのは、ほとほと疲れる。それに比べてバンコクにつくと、ホッとする。東京や大阪の感覚で暮らせるからだ。日本に着いたような気分になる。

もうインドにくることはあるまい。心残りはクシナガラとルンビニを訪ねなかったこと。今の気持ちではもういい。インドはもういいというところ。
前回5年前もそうだが。バンコク空港ロビーで、そんなインドの感想を書いていた。しかし時が移り、時間がたてば、また私も変わる。この嫌な思いが残る、インドになんとなく、また引きつけられる。インドは我が心の内実にスポットライトを照らしてくれるので、、一方ではいやな思いを残しながらも、また出かけたくなる、じつに不思議な国である。精神的なものを求めず、ただ物見遊山ならインドへ来るべきではない。そう思った。
おそらくある種の嫌悪感を抱いて、この国を離れることになろうが、それも時間がたてば、思い出深い笑い話になるかも。




いじめ

2011年11月17日 | Weblog
いじめ
 
男子同級生を全裸にさせ、携帯電話で写真を撮影したうえ暴行し、用意した排泄物を持たせて教諭の車にすりつけさせたとして、滋賀県警高島署は16日、強要と暴力行為処罰法違反の疑いで、同県高島市立中学校3年で14~15歳の男子生徒3人を逮捕した。同署によると、3人のうち2人は容疑を認めているが、1人は「強要はしたが、手は出していない」と一部容疑を否認している。
3人の逮捕容疑は今月11日の同校で、男子同級生(15)を全裸にさせ携帯電話で写真を撮影。足で蹴るなど暴行をしたうえ、用意していた排泄物を同級生に持たせ、校内に駐車中の男性教諭の軽乗用車にすりつけるよう強要したとしている。
市教委によると、事件翌日の12日、保護者が同署に被害届を提出し、学校にも連絡。学校側の聞き取りに3人は「からかい半分でやった」などと話したという。学校側は3人のうち2人が今年6~7月に数回同級生を叩くなどしたことを把握、2人を口頭注意していた。

以上の報告を読んで思うことは、校長の責任感の無さ、担任の無能力 の二点は確実に言える 。これに対して責任をどうとらせるのか。社会常識から判断すると、与えられた職務の責任を果たすことが出なかった不適格人間だから、当然懲戒免職に値する。
いじめが犯罪であるという自覚がまるで抜け落ちている。
これだけひどい暴力をふるって、もし学校の手に負えないなら、何故警察に指導を依頼しないのか。結果的には警察が逮捕しているではないか。その前に何故警察に相談しないのか。

校長や担任の言い訳は問答無用だ。それで免責されるとでも思ったら大間違い。責任はとことん追及する厳しさがなくては、管理責任の重大性を認識できないなんて、教員にあるまじき人物だ。

序でに書けば、虐待もそうだ。
児童虐待死が発生したら担当者、管理責任者は問答無用で懲戒免職。
これまでいろいろなケースを注視してきたが、言い訳ばかりで、子供が死んだのは配慮が足りなかった、とか、そこまで悪化していたとは知らなかったみたいな言い訳に終始して、本人の責任を問う前に、制度論や、言い訳論にすり替わってしまい、重大な人権侵害を見過ごしたという責任追求は軽すぎるおとがめくらいで、済ましているから、担当者の責任感が希薄になるのだ。
人はそれぞれ立場によっていい訳がある。それを許しては駄目だ。それは死もしくは死につながる危険性があるからだ。担当者や管理者を懲戒免職しても何ら不都合ではない。事は命の問題だから一歩たりとも引き下がれない。昔と違って今では警察力を借りることも出来るようになっているから、なおさらだ。教育委員会の指導強化を望む。