日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

どんな世界に住んでいても

2019年03月31日 | Weblog
どんな世界に住んでいても そこには,そこの楽しみがある.

楽しみを作り出すというのが,人間の世界だという.

苦しい世界で,のたうちまわるだけでなく,その苦しい世界に,一筋の光明を見出して

それを楽しみに転換していく能力がある.それが人間だ。


人間はやはり素晴らしい.人間には輝かしい未来がある.夢がある.私はそれを信じる.

  エラワンの神様0

2019年03月30日 | Weblog
          エラワンの神様


 人はこの世にいる限り、さまざまな願いを持っている。そしてその願いごとがかなうように、神々に願をかけて祈る。それは洋の東西、時空を超えて、地球上みな同じである。ところが願かけしてもよく願をかなえてくれるところと、そうでないところがあるみたいだ。
心願成就をさせてくれる神様は、当然のことながら、お参リのご利益が多い分、お礼まいりの人も多くなる。それは日本でも、タイでも同じこと。
人気のある評判の良い神様は、ますます多くの人の信仰を得て、人々の心願成就のために多くの汗を流しなさることだろう。
 それを知ってか、知らでか、人間の方も心願成就の暁には、咸?の意味を込めて、神様のすきそうなものを奉納する。賽銭はもちろんのことだが、生け花や香華・神楽舞ダンスなどを奉納してお礼の気持ちを表す。そしてそういう人間心理は世界共通のものだろう。これは心願成就のお礼ばかりではない。御利益の程を見越して、先に神楽ダンスなどを奉納して神様の気を引く、ちゃっかり者もいる。

 さて、これはタイ、正確にはバンコクでの話である。
バンコクで御利益隋ーとされる神様は、エラワンの神様だそうである。その名前の由来は、おそらくエラワンホテル、あるいは町名にあり、それはエラワンホテルのすぐ隣にあるからそういう呼び名がついたのだろう。
 精霊・ピーの名前はなんというか知らないが、エラワンの神様で十分わかる。バンコクでは各家庭でも、殆んど祀られている。その神は日本流に言えば、神棚に祀ってあるとはいうもの、丁度鳥の止木の餌場のように、地中から高さ1mほどの柱を立てて、一枚の正方形に近い板の中心部を支えるように作られていて、その板の上に社殿、両側には電気で灯した、赤い色の灯明がある。その社殿の中に瀬戸ものに色づけした神像や金ピカの神像が鎮座まします。

 ところが、さすが大勢の人々がお参りし、一日中香華が絶えず、タイの巫女として、正装した女性が舞う神楽ダンスは休む間もない盛況である。工ラワンの交差点の南東角にまつられている神様は、特別別格のようで、毎日お詣りの人波が絶えない。

 ひやかしの気持ちがないといえばうそになるが、ぼくは手を合わせる気持ちはもちろんある。どんな流儀であろうと、神様には敬意を表したくなるのが僕の性分だ。どんなやり方でお願いしたり、お祈りしたらよいのか、全く分からないから、一礼・二拍手・一礼と日本流に拍手を打って頭を下げた。

 タイのあの大きな寺院の何分の一かのミニチュア版のような神殿の中には、四つの方向に一つずつ顔を持つ金色に輝く神様の像があった。体の部分は一つで、顔だけが四つあリ、東西南北を向いていた。顔は金銅製で、ほそ面でなかなかの美しい感じがした。この神像を見る限り男女の区別はつかない。オトコガミとい思えばそう見えるし、オンナガミかと思えばそう見える。神様なんて男女どちらでもよいのだが、お供えものを見ても、その区別はつかなかった。お供えものは、まず黄色の花だ。この黄色の花は、ここではたぶん菊ではないのだろうか。
その花の首だけを摘んだものもあり、花首を寄せ集めて、首飾り風にしたものもあり、しかも御神殿の囲いは、この花で埋め尽くされている。中には白い花もあった。これは黄色の花の1/3ぐらいの大きさで、主に首飾りになっていた。中にはつぼみのままの蓮の花もあったが、これだけはどれも開花はしていなかった。
 お供え物としては、果物などはあったが、さい銭箱は見当たらなかった。その代わりに工ラワンの神様奉讃会に寄付をする、金属製の箱は正面入口の所に置いてあった。

 
 お参りグッズ必須の、線香、ろうそくは白ではなく、すべて黄色、線香は日本のものと違い、線香花火みたいに、途中までは燃えるが灰にさす分は竹ヒゴでできていた。

 無料でタイダンスが見られる所として、ガイドブックには、この工ラワンの神様に、人々が心願成就のお礼のために奉納をする、奉納舞踊(日本ではさしずめ神楽)のことが紹介されている。実物は初めて見るのだが、楽士は3人でタイコ(鼓)と木琴が二人の合計5人。
踊子は奉納者の納めるお金の額によって、多くなったり、少なくなったりするらしい。
 フルキャストで8人、720バーツであると書いてあるが、中には、額が少ないのだろう、8人のうち何人かはぬけて後方で休んでいた。
踊り子たちは足のくるぶしには装飾のついた足輪・きんきらきんの衣装、それに烏帽子ならぬ金銅性の冠を付けて、歌いながら踊る。特に注目をひくのは指先の曲げ工合である。
きっとこの動作で何かを表しているのだろうが、指が折れはしないかと思うほど曲げていたのが印象的だった。

顔はもちろん化粧をしているが、休憩している時は、女の子らしく紅をひいていた。
さていよいよご利益の方である。ご利益は直接得たわけではないが、日本人体験者から聞いた話はすごかった。

彼と僕は空港からホアランポ-ン駅へ行くバスの待合所で知り合った。
バックバッカーとおぼしいぼくに、彼が直接「日本のかたですか」と声をかけた。行く方向が同じなので、バスの中でどうして僕が日本人だとわかったのかと聞くと、鍵の名前が日本人の名前になっていたからということだったが、僕は
「いや、実はこれは鍵の番号を忘れたときのために、僕が考え出した暗号ですよ」と説明を加えた。それから話がはずんで行きつくところ、エラワンの神様に落ち着いた。

ガイドブックに簡単に説明されているから、いわゆるその程度のことは知ってはいたが、直接大きなご利益をもらったという体験談などを聞いた事がなかった。
ところが彼は友人4人で出かけた時に、生じたある事件を取り上げて
「詳しく話をするから、このバスを降り、私の自宅で話をしよう」と誘った。彼はもちろん日本人だが、タイ雑貨の商売をしていて、このためバンコクに駐在しているのである。バスはパャタイ通りとペップリ通りの交差点近くで止まったので、そこで降りて彼の家に向かった

彼は単身赴任だし、タイの語学学校に通っているので、日本人の友人、知人も多い。携帯で連絡取ったので、先ほど書いた友人4人も集まった。
 そして話は始まった概略はこうである。
冷やかしの気分もあって、4人でー度ご利益があるというエラワンの神様に見学かたがた、お参りにこうということになって出かけた。
ちょうど昼時だったので、レストランに入り食事をしていたら、隣にいた男がかばんをひったくって逃げた。四人は席を立って追いかけたがサイアム通の人込みの中へ消え、見失ってしまったので、仕方なくあきらめ、その食堂で食事をとってから、工ラワンの神様にお参りに行った。
珍しさも手伝って誰も早く帰ろうとは切り出さず、お参りの人々がしているようにお祈りして帰途についた。ただ彼ら四人は笑い話みたいにして、さきほどの盗まれたバックが手元に戻りますようにと異口同音に祈った、というのである。今までバンコクは東京よりは安全なところだとしか思っていなかったので、きょうの出来事は4人にとっては、相当な衝撃を与えたことだろう。

そうこうするうちに、バスが来たので乗ったら、さっきひったくられて、盗まれたバッグを持った男が乗っているではないか。四人は身柄はともかくバッグを取り戻した。男は混雑した車内をうしろから前に逃げて、バスが止まるやいなや、走って人込みの中に姿を消した。四人にとってみれば、犯人を捕まえるよりは、バックが元通り手元に戻る方が先決で、犯人を捕まえてこらしめてやろうなんて気持ちは、あまり起こらなかったそうである。結果的にはバッグは元の持ち主に戻った。
めでたし、めでたしである。

 偶然とはいえ、ひったくりにあったバッグが、無事戻ってきたのだ。バスに、もう1台早かったり、もう一台遅かったりしたら、犯人に出会うことはなかったし、満員のバスの中でも、前から乗ったのではなく、うしろから乗ったので、犯人と偶然はちあわせになり、バッグを取り戻せたのである。
偶然といえば、あまりにも偶然。
 

こんな偶然が重なって、ハッピーエンドになると、だれが予想できただろうか。4人とも不思議に思ったそうだ。そして今日の出来事はすべて
工ラワンの神様の思し召しに違いないし、ハッピーエンドに終わったのは、ひとえエラワンの神様の御利益に他ならないという結論に達したそうである。ただし四人共、どちらかといえば、宗教には関心などなく、工ラワンの神さん参リも、いわゆる信心気なんて毛ほども持ち合せていない。

だが、そんな4人の共通した一致点はこの世に神様がいて、信じる者にはご利益をもらえるということだそうだ。そして彼ら四人は今でもエラワンの神様は、人々に多大なご利益を与え続けていて、人々の尊崇を集めているという結論である。

なるほど。そんな話しもあるのだな。特別願掛けする必要はないが、次回に来たときにでも、ひとつお参りでもしてみるか、ぼくはそんな気持ちになった。今回幸いにも時間があったので、お参りと言うよりは見物に出かけた。
 このエラワンの神様を信仰したり、願掛けをして、無心に祈る人々の姿を見て、たとえそれが欲の先走るご利益信仰であったとしても、祈りの姿というのは本当に、美しいものだとつくづく思った。



機上で乾杯0

2019年03月29日 | Weblog
           機上で乾杯
 

 インドでは何が起こるか判らない。僕は前回インドを旅してつくづくそう思った。万事インド的なのである。日本のようにきちっとしたタイムスケジュールを作った所で、そのスケジュール通りに
事が運ばない事が多い。しかし日本人の僕はあくまで、日本的スケジュールでもって動こうとする。そしてうまく行かないと挫折感みたいなものを強く感じ、その不満の為にインドをどうしょうもない国、お粗末な発展途上国と、ちょっと後ろ指を指した、さげすみの目で見てしまう。
 
 インドには昔から、この大地に合うような生活のリズムがあり、人々はそれをそのままに継続しているだけのことである。そして
このリズムの違い、テンポの早さの違いが、まさしく文化の差なのであり、その差がカルチュアーショックなのである。
郷にいれば郷に従え、なのであるが、急に自分のリズムやテンポを変えることは出来ないのも、また事実である。
 ところが今回のこの出来事はこういう種類のものではなくて、丸でばかばかしい話である。
 東京から5人の看護学校の生徒が、カルカッタにある、
マザーテレサのハウスに研修をかねて、インド旅行をした事から、話は始まる。
 
 僕はその時、カルカッタのダムダム空港にいた。急にあたりが騒がしくなって、日本人の女子学生と思われるヤンギャルが、何かあわてた風で、あちこち走り回っていた。顔の表情は皆真剣で、血走った目をしている子もいる。一体何があったんだ、何が起こったんだ、僕はとわづかたらずに、じっと見つめていた。
 やがて事情は飲み込めた。このグループの中の誰かが、
エアーチケットを持っていないことで、皆が騒いでいるのである。それも、もうすぐ搭乗が始まると言う段になってのことである。
この期に及んで一体どう言うことなんだ、チケットがないと乗れないし、次の乗り継ぎ便だって、乗れる保証はない。僕は他人事ながら気になりだした。
 じっと耳をすましていると、どうも一人がホテルを出てくるときにチケットを誤って捨てたらしい。電話の内容はそんなことだった。ひょっとしたら、ごみ箱の中に捨てたかもしれないので、そのごみ箱をしっかり探して欲しいと言っている。しばらくして掛けた電話では、チケットは見つかったらしい。やっぱりあったんっだな、僕は一瞬ほっとした。しかしよく考えてみると、それを今から空港まで持ってきてもらうにしても1時間はかかる。後30分で飛行機は離陸しようとしているのに、1時間掛けてここまで持って来たところで、どうなるものでもない。所詮は乗り遅れだ。もう一度バンコックまでのチケットを手に入れないと帰れない。さてどうするのだろうか。
 僕は気が気でないので、よけいな事ながら、彼女たちに今までの経緯を聞かせて欲しい、そして僕に出来ることがあったら、何か役に立ちたいと申し出た。そうしたら先ほどから一番落ち着いて、
ばたばたしなかった子が、よろしくお願いしますと言った。どの人がなくした人なのか、と聞いたら、自分です、という。それでは先ほどから走り回っていた学生たちは、チケットをなくしたこの子のために、ばたばたしていたわけだ。僕は驚いて彼女の顔を見た。
ひとこと小言を言いたかったけれど、ここで何を言うよりも、まず真っ先にしなくてはならないことがあると思いなをして、言葉を飲み込んだ。
即ち今日、明日中に乗れるチケットを手に入れることだ。僕はそのことを彼女に言った。そしてすぐ手配するようにアドバイスしたが、なにせ、初めての海外旅行での出来事で、知恵が回らないだけでなく、どうしたらよいかさっぱり判らない風情である。当然だろう。これが僕だったら、やはり同じように、たちすくんだだろう。

 ところが人にはツキと言うものがある。ちょうどこのとき領事館関係者が空港に来ていた。初めての面識で直接は知らないのに、
この人が親切にも、彼女の相談に乗ってくれた。 
彼は彼女が乗るはずだった飛行機に、マラリヤ患者を乗せるべく、その仕事で空港に来ていたのだ。
 その患者と言えば、僕は今朝がたサダルで同席した人だった。灰色の顔をした女が、ひょっこり僕の前に現れた。僕は席を詰めて、狭いけれども良かったら、座りませんか、と彼女に声を掛けたのだった。彼女は何を思ったのか急に、私マラリヤにやられたの、と言いながら僕の横に腰を掛けた。マラリヤがどんな病気か詳しく知らないが、伝染病の1つだと思い、僕は警戒して、入れ替わるようにして席を立ったのだ。
 その女を所定の飛行機に乗せてから、彼は仕事から解放され、真剣にこちらの相談にも乗ってくれるようになった。ところで彼の話では、カルカッタは初めての赴任で、地理はもちろんの事、街の様子がまだよくわからないという。それでも分からないなりに、彼が協力姿勢を示してくれたことは、心の中では大きな支えになった。何をどうして良いか判らない彼女にかわって、とにかく明日の飛行機に乗れるように、チケットをとって欲しいと彼に頼んだが、
チケットは空港ではなくて、街に行かないと手に入れられないのではないかと言う。今日今から街へ直行しても4時になるのに明日8時のチエックインのチケットが手に入るとも思えない。僕は無駄かもしれないが、航空会社のカウンターで、何とか手にはいるよう頼んでみては、もしそれが駄目なら街の旅行代理店に行くが、せめて明日の便の予約だけでもしておかないと、乗れなくなるおそれがある、と彼に言った。彼も同感で、すぐ何らかの手配をしてみると言うことだった。
 さて僕はと言えば、余程自分が動き回った方が納得できたし、安心もできた。しかし全く善意で困っている彼女を助けようと懸命になっている彼を差し置いて、手だしすることは、はばかられた。

 彼女はついている。ラッキーガールだ。確かに日本人が困っているのを座して見るに忍びない。だが、そうかといって、彼女と縁もゆかりもない人が、彼女のために何かをしなくてはならないと言う理由もない。冷たいようだが、僕はそうも思った。今のところ自分のことは何も心配ないような状態でいるからこそ、彼女のことも心配してあげられる。つまり余裕があるのだ。それにしても海外の空港で、もし今回と同じようなケースが起こったら果たして、領事館に派遣されている彼のような人に巡り会うことが出来るだろうか。いやこんな事は滅多にないことだ。何処から考えても、やっぱり彼女はラッキーなんだ。きっとご先祖さんが善行を積んでその報いがいまこんな形で子孫に返ってきているのだろう。僕はこんな事まで考えた。
 彼女はとみれば、あいかわらずのほほーんと構えている。僕はあきれる前にこんな性格に生まれついた彼女が羨ましかった。恐らく枕が変わって寝付かれないと言うことはないだろう。僕なんかこのインドの旅では常に緊張しているので、神経がたって寝付きの悪いことが多く、毎晩睡眠導入剤を用いているというのに。
人さまざまだ。

 僕が空港のオフイスでチケットを手配するように言った事が効を奏して、新米派遣君は、上手く買えた、とにこにこしながら連絡してくれた。僕は彼女を促して、すぐ代金を払い、チケットを手にするようにいった。オフイスにいった彼とにこやかな顔をしながらロビーに戻ってきた彼女に、これで帰れるのだから、明日は時間に遅れないようにと注意して、この幸運を喜んだ。チケットを見るとそれは僕と同じ飛行機じゃないか、よかった。
 これで間違いなく日本にも帰れる。僕はほっとした。なんと運のいい子だ。仲間は先に帰り、たった一人で見知らぬ外国で、1日遅れて帰ることに、内心は不安いっぱいだろうと僕は推測したが、彼女は表面は相変わらず,心配はどこ吹く風で、のほほーんとしていた。
 考えてみればチケットを手配してとってくれた人がいた。明日乗る飛行機には、エスコートしてくれるおじさんもいる。これだ万全の筈だ。もし乗れないと言う事態になったら、この子の面倒はもう誰も見きれない。とにかくついている子だ。僕はそのラッキーさに感心した。

 ともかくもハッピーなかたちで事態は進んでいるが、考えてみれば、ここダムダム空港では、前回僕はひどい目に遭っていたので
ある。両替では金をだまし取られ、タクシーでは約束と違った所でつれていかれ、わずか30分ほどの間に、2回も胃が真っ赤になるような苦汁を飲まされた所なのだ。僕の感覚からすれば、今回のように助っ人が居ないで、彼女一人で、あの態度で事を進めていたら、たちまちにして、ここにいる悪党の餌食にされてしまう。男の僕でさえ、かなり恐ろしい思いをしたのだから、旅慣れない女一人ではどんな罠が仕掛けられるか、しれたものではない。僕にいわせれば虎の檻にほりこまれた子羊みたいなものである。危険きわまりない。しかし彼女にはそのことが判っていない。僕があなたはラッキーだと言っても、ラッキーの表面的な意味しか判らない。恐らく僕が経験したような深刻な事態は、想像だにしないだろうから、きっと理解出来ないに違いない。あつものに懲りてなますを吹く、きらいがないでもないが、僕はそう思った。

 僕はチケットが手に入った段階で、今晩はここで一緒に泊まろうと誘いたかった。僕だって明日の便には絶対に乗らないとチケットが無駄になるので、20時間も前にここで待機しているのである。その理由はインドでは何が起こるかしれたものではない、また何が起こっても不思議ではないという、インド観であった。早目はやめに手を打っておかないと、こちらの計画通りには事が運ばないと
思っていた。しかし僕はそういう自分の心つもりを詳しく話さなかった。というのは一口で20時間と言うが、それはそれは気の遠くなるような退屈な時間である。よしんば彼女とここで夜明かしをするにしても話すことはない。2、3時間も話せば話はつきるし、
その後は黙るしかない。退屈が待っている。
 僕は旅慣れているからいいとしても、恐らく彼女は耐えられないだろうと思ったからである。でも一応泊まるかどうか声は掛けてみた。彼女は派遣館員の車で、街迄行き一晩泊まって明日になったらここへ来るという。僕は5時起きして、すぐタクシーに乗ってここに来るように、決して寝過ごしてはいけない、と何回も釘をさして車に乗せた。僕は夜明かし覚悟だが、そのことが気になって、1時間おきに目が覚めた。遅れませんように、それは祈りにも似た気持ちだった。
 翌朝7時過ぎに、彼女は若い男の子をつれて空港にやってきた。やれやれこれで二人とも帰れる、顔を見て安心、ほっとした。
 送ってきた大学生によれば、今日は早朝からタクシーがストをやっているとのことだ。それならどうしてここまで来れたのかと聞いたら、スト破りのタクシを雇って、ここまで来たという話、ストをしていると本来はここまで来れないはず、だのに彼女はいま僕の目の前にいる。僕はつくづく感心した。途中で何もなかったのかと付き添い学生に聞いたら、やばいことがあったという。僕は一瞬青ざめた。もしあの学生が付き添ってくれていなかったら、初めての海外経験で、果たしてスト破りを決行出来たかどうか。
ほほー、感心する前に、驚きの感嘆詞がでた。またもや彼女は守られている。これは単なる偶然や、ラッキーが重なったとは思えない。思い返せば派遣官員との出会いがあり、僕との出会いでエスコートを手に入れ、さらに付き添いの大学生を見つけて、彼に付き添ってここまで送ってもらい、極めつけはスト破りタクシーを雇ってチエックインタイムにちゃんと間にあっているではないか。
チケットだって、ないと断られても不思議ではないし、旅慣れた僕が居ることによって、ややこしいインドの出国手続きや、タイでの入国手続きがどれほどスムーズになるか、更に早朝大学生に付き添ってもらい、ストやぶりタクシーで、タクシーのストライキを突破しているのである。。恐らく神の助けが働いて、すべてが上手く事が進んだのだろう。僕はこの世に神様は居ると思った。
 
 飛行機は定刻通りに離陸した。インドはぐんぐん遠くなっていく。1時間ほどしたら軽食が出た。僕たちは顔を見合わせてコーラで乾杯をした。それは何よりも、昨日から今日へ掛けての、彼女のラッキーにたいしてだった。僕は心からこのことを祝福した。しかし
それだけではない。今回僕も無傷だった。前回のような目には一度も会わなかった。前回よりも一週間も長い日にちであったが、いたって健康で、風邪はもちろんの事、下痢の一つもしなかった。
勿論恐怖を感じたことは一度もない。途中気をつけていなければ
やられたであろう事は、何回かあったが、それもうまくすりぬけたし、だまされはしなかった。確かに神経はぴりぴりさせていて、
つかれたが、それが原因でどうかなった訳でもない。これも乾杯ものである。
 最後に今日は僕の満00歳の誕生日だったのである。僕の乾杯にはこんな意味が込められていた。我々は顔を見合わせて、にっこりほほえんだが、それは心の底からくる安堵と、祝福のほほ笑みだった。いまになって考えてみると、彼女の身に起こったことは、僕に人生の何かを見せてくれてるようだった。早い話が彼女との出会いがなかったら、僕がこんな文章を書くこともなかったろうに。
 こんな人生芝居を見せてくれるのは、一体誰だろうか、僕はこの宇宙の中に壮大な演出者がいて、我々は自立的に動いているようだが、その実この演出家の指図に従っているのかもしれない。そんなことを感じたインドの旅ではあった。


宮崎

2019年03月29日 | Weblog

宮崎市人口27万。 気候温暖で人情は豊かで、優しい上に素朴。

一番美しい景色は日南海岸北の端に、青島があり、堀切峠を越えて七浦曲がりを通って、
鵜戸神宮へ。

シャンシャン馬の花嫁道中が目に浮かぶ。

この美しい風景を心の土産として大阪へ持って帰る。

太平洋の波、ぬたりぬたり。花嫁さんゆらりゆらり。

鵜戸神宮は海岸の崖にある、洞窟の中。

本殿正面の目の前の海岸にある、大きな岩の真ん中に、穴が掘ってある。

その穴に左手で、素焼きのボールを投げ入れると願いが叶うという。

鵜戸神宮の神さんは僕に女の子を3人くれた 。

新婚さんで宮崎が賑わったのは昭和30年代の話。

平成は海外で過ごす新婚さんが圧倒的に多い

 小指をたてた0

2019年03月28日 | Weblog
    c 小指をたてた

 
朝七時にシエムリアプを出たエクスプレスボートは、僕の計算より30分も早くプノンペンに着いた。

行くときにバイタクの運ちゃんはこの船なら、3時間程でシエイムリアプに着くと教えてくれたが、プノンペンからシエムリアプ迄は六時間かかり、今日はシエムリアプからプノンペン迄は五時間半だった。流れを上るのか、それとも下るのか、それによって多少はぶれるのだろう。

 幅30センチぐらいの板を2枚渡しただけの桟橋を、やっとの思いで渡り終えると、バイタクの運ちゃんがウンカのように押し寄せてきた。その中の1人 が半端な日本語で乗れと半ば強制的、威圧的に言う。むっと来た。
「うるさい。」かなり怒気を含んでいた。

気がついたら、お兄ちゃんたちが回りを取り囲むように僕を取り巻いている。
対立関係が生まれ緊張が走った。 にらみ合いが続く。辺りは険しい雰囲気に包まれた。
これはまずい。ぼくはとっさに小指を立てた。
まわりの運ちゃんも一瞬のことでわからない奴もいたが、わかるやつはにやにやしている。彼は、とみると表情は、和らいでいる。
「おおう、レデイー。OK」 彼にも即座に通じたのだ。ニヤニヤしている。
ぼくもニヤニヤした。破顔一笑。意味は直通した。

場面は急転直下、転換。
そこで僕は再び人さし指と中指の間に、親指をはさんで 上下、させたら爆笑が起こった。そしてこれが極めつけだった。
ハッハッハー 。

お互いに握手。そこへ迎えのバスが来た。先日ゲストハウスから船着き場まで送ってもらった例の運転手が、やあやあといって手を振って握手を求めてきた。僕たちは友達のように親しそうに会話した。ムチャクチャな英会話だ。文法も単語も、へったくれもあったもんじゃない。なにか言ってりゃ気持は通じた。

この場で割を食ったのはバイタクの運ちゃん。レデイーの紹介料もドライバー料も吹っ飛んだ。迎えが後5分遅かったら、僕は仕方なしにバイタク運ちゃんに レデイ料とドライバー料を支払うところだった。

 今朝はピックアップトラックが来るのが5時45分だから、すべて用意しておいてほしいと、ゲストハウスのボスが言った。
それが気になって、睡眠薬を飲んだにもかかわらず2時に目が覚めて、また4時に目が覚めてしまった。この間、うとうとだった 。
それ以後は、身支度をするために、起きてしまった。だから、寝たのは3時間ほどで頭がぼーっとしているというよりは痛い。
加えて、早朝だったから、食料品の調達もできなかった。文字通りのまず喰わずだった。体に疲労感が漂っている。

「何が、レデイか」そんなコンディションであった。
 それにしても面白い。小指一本を立てるか否かで、雰囲気がガラリと変わる。意が通じるのだ。ただそれだけで、男同士では意味するところがわかるので便利なものだ。
多分、男の世界では、世界共通だと思うが、小指と、親指の上下は完全に通じた。何とかは身を救うと言うが、なるほどと感心した。
言葉はいらない。というより、カンボジアでは、おはようも、サヨナラも、ありがとうも知らないし、知ろうともしない僕だったけれども何とか窮地を脱することが出来た。
 
ところで、僕の勤めていた学校では小指は教頭、親指は校長を指す隠語である。
管理職の悪口をいうときは、違和感を感じながらも小指と親指を使った。それはところ変われば品変わる、というのではない。学校が、一般社会に比べて特異な存在の社会であっただけの話である。

あらまほしきこと

2019年03月27日 | Weblog

あらまほしきこと

1,
臨終のハンセン氏病の子供の患者を,思わず腕に抱きかかえ,人間の体温の暖かさの中から

黄泉の国へ旅ださせたかった.     壺阪寺 常盤勝憲

2,
ガン研の病院に入ってくる人は、気も動転せんばかりの恐怖に怯えている人たちばかりで

ある。そんな心理状態になる人に、冷たい手で触ったら患者はどう思うか。

僕は暖かい手で患者に触れるように、いつも心がけて回路を手で温めておくのです。

黒川癌研附属病院長


3,
僕が発明するのではない。神が作った多くのものを一番最初に発見するのです。

東北大学総長西澤潤一


すばらしい人は、どこまで行ってもすばらしい。

東洋のモナリザ5-51

2019年03月26日 | Weblog
       東洋のモナリザ


  ガイドブックに紹介された東洋のモナリザといわれる、デバターはシエムリアプの市街地から北東の方に向かって、40キロくらいの所にある、バンデアイ・スレイ寺院にあるという。、僕はバイタクの後ろにまたがって悪路をひた走りに走った。
 
普通なら時間と時速を掛け合わせて、大体の距離を出すのだが、なにせこの道は、土の上ににぎりこぶしの5倍はあろうかと思われる石を、敷き詰めてというより、土の上に幾重にも転がして、今からブルドウザーで平らな道にしようという工事を始めたばかりの道である。たいていのことは我慢するが、がたがたと揺れる後ろの座席に2時間もすわってると、もういい加減にしてくれと悲鳴を上げたくなった。それは僕だけではない。ここ2,3日バンデアイ・スレイの遺跡を訪れる人はみな同じ思いをするはずだ。バイクだけにとどまらず車とて、条件は同じである。時速10キロで走れないから、途中でオーバーヒートして、立ち往生している車を何台も追い越した。
ブルドーザーで整地されて、まともな道路として使えるのは1ヶ月先のことだろう。
 
此の悪路に耐えかねて、バンデアイ・スレイってそんなに値打ちのあるところかと、何回も疑問に思った。これ以上此の石道を走れというなら、見ないで引き返してもよいとさえ思った。
 
そのころになってようやく、つまり走るのも限界に来て、やっとバンデアイ・スレイ遺跡は姿を現した。
ちょっと見は赤色砂岩で作られた、こじんまりしたチンケイな寺院である。それは今まで見た、どの遺跡よりも貧弱に見えた。確かに規模は小さいが、保存はましな方である。
 東塔門を一歩入ると屋根近く、ひさしの辺りに彫られた浮き彫り彫刻が目に飛び込んでくるが、確かに見事なものばかりである。
完全にヒンズー教寺院である。こういうタイプの寺院はインドではよく見かけた。紅砂岩で作られているので、建物も彫刻も皆赤灰色である。楼門をくぐると、主祠堂の両側に経蔵があり、中央にはシバ神殿、左側にはブラウマン神殿、右側にはビシュヌ神殿があり、どの建物にも浮き彫り彫刻があった。その一つひとつに意味があるのだろうが、

 僕の頭の中は 東洋のモナリザ でいっぱいだったから何を考える余裕もなかった。
ただ全体的に見ると、これがシバ寺院であることはすぐ判った。というのはバンコクのメインストリート・シーロム通りにも同じ形式の寺院がある。僕はその寺院の前を毎日のように通っているからだ。バンコクにあるワット・00は大抵は仏教寺院でこのような赤れんが色ではなくて、白壁と金ピカ仏である。そのバンコックに在ってこのシーロム通りのシバ寺院は孤立して何か異様な雰囲気を辺りに醸し出している。
バンコクのヤワラ通りの中華街を通りすぎると、次はインド人街があるからヒンズー教寺院が在ってもおかしくはない。

正面向かって右側の神殿、即ちビシュヌ神殿の正面から見て左側に 東洋のモナリザは在った。フランスの有名な作家・アンドレ・マルローがそのあまりの美しい魅力にとりつかれて、これを国外(多分フランスだろう)に持ち出そうとして逮捕され、それが「王道」という小説に書かれたと言う。そのことが頭に在って、そんなデバターって一体どんなものだろうという思いが強いために、胃腸がでんぐり変える思いをこらえて、ここまでやって来たのだ。そのモナリザと今出会ったのである。

 彼女は背丈が1メーターに満たないデバターで、顔はふっくらと丸みをおび、謎の微笑を秘めている。胸は豊満で全体的にふわっとした感じで、つられて心がふわっとなった。緊張がほぐれる一瞬だ。1人の彫刻家の魂にふれて、僕の心は緊張感から解放された。
僕はいろいろ角度を変えて、出来るだけ多くの方向から眺めるように努めた。彼女は正面を向いているのではなく、首を少しだけ右に振って、物静かに何かを考え事でもしているかのようであった。聡明そうな上品な顔立ちと、高貴な姿態が僕を魅了した。このとき僕はこの世から離れた別の世界の住人だった。忘我、そう、忘我の世界にいたのだ。

 よかった。あの悪路を乗り越えて、ここまでやって来た甲斐があるというものだ。僕はつくづくそう思った。
この芸術作品にはきっと1人の彫刻家の思いが込められているのだろう。どう考えても、共同作業とは思えない。もし何人かの彫刻家が集まって、共同作業の結果、此の神像を作ったとすれば、どこかに作家の顔の端くれが見えるはずである。
 我々の知るモナリザは絵画であるのに対し、東洋のモナリザは浮き彫りの彫刻である。立体感がある分素人に対しては迫力が在る。彼女は1000年の間微笑み続けた。これからもこの遺跡がこの地上から消えてなくならない限り、ここにこうして鎮座して、
訪問する人に微笑みかけることだろう。こんなすばらしい作品が、ポルポト一派の破壊の手を免れて、ようこそ昔のままの姿で、ここにこうして在ったものだと安堵の息がもれた。
審美に関しては東洋、西洋の別なく、人間であれば美しいものはあくまで美しいのであって理屈はいらない。

ところで此のモデルは一体誰だったんだろう。きっとなにがしかのモデルがあったはずである。これだけの顔つきからすると、そこらそんじょの女性ではあるまい。王妃か、王女か、位の高い女官か、いや作者の永遠の恋人か、作者が祈る女神像だったのか、僕には全くの架空の人物とはおもえない。 西洋人のマルローも東洋人の僕も共にこの像が放つ魅惑の虜になっている。この虜の思いが強すぎて、マルローは国外持ち出しを決意した。それに対して僕は此の神像だけを切り離すよりは、此の壁全体を構成する1つの部分として保存した方がより高い価値を生み出すように思える。

余計な事ながら、顔に注目した人は顔だけを切り離して、持っていこうとするのだろうか。顔の部分だけが無くなっているデバター像はたくさんある。もし今完全な形で保存されていたら、ひょっとしたら僕の目の前に在る此の像よりも、もっと優れた芸術作品が在ったかも知れない。もしそうだとすれば、盗難や破壊から此の遺産を守るために、遺跡保存係の警官を配置する必要がある。此の像や装飾品の価値が判らず削ったり、切り取ったりして持ち帰ろうとする連中や、価値が判りすぎて、我がものにしたいというつよい欲望を持つ両極端の人間の思いから、此の人類共通の芸術作品遺産を守らなくてはならないと思った。 

 恥も外聞も気にしないで、僕はこの東洋のモナリザの横に顔をよせて記念撮影した。僕と同じような思いの人だろうか、僕と同じような事をする外人がいた。写真のシャッターを押してあげると、メルシボクーという謝辞が返ってきた。
そう言えば、ここはフランスが植民地にしていたところだ。この寺院を丸ごと本国に持って帰ったところで、大した金はかからなかった筈である。でもフランスは大して保存もしなかった代わりに、持ち出しもしなかった。文化遺産というものは、そこの場所にあって初めて真の値打ちをだすものだと考えたのであろうか。その辺がイギリスのやり方と違う。ロゼッタストーンだってイギリスはエジプトからちゃんと持ち返っている。

それは外国の宝物をうばって持ち帰るという考えのほかに、世界人類の遺産として王者イギリスが完璧な保存をして、人類遺産を守るという決意としての行動だったのだろうか。
確かにアンコールワットという壮大な建造物には、発見以後手を加えているが、このような小さなデバターに目をくれたという話は聞かない。マルローがいうまで、気が付かなかったのか、それとも価値を見いだせなかったのか、はたまたこの程度のものは無視したのか。
 誰か物の値打ちの判る有名人がそれについて何かをかいてくれれば、それが人目を引くことになり、より多くの人が関心を持つようになる。現に僕だってマルロー逮捕という話は決して見逃すわけには行かない。逮捕という犯罪を犯してまで、この著名な作家が手に入れたかった神像彫刻作品とはどんなものかと関心が集まるのは当然である。見方を変えれば偉大なる宣伝だ。

もし彼のこの事件がなかって、ここに黙ってそのまま鎮座していたら、このように有名にはならなかった筈だ。なぜならアンコールワットを初め、カンボジャの遺跡群には数え切れないほどのデバターが在るからである。一つひとつ丁寧に踏査する専門家がいてもいいくらいだ。しかし今のカンボジャは往年の王国とは比べものにならないほど落ちぶれて国力はなく、往時との国力の差があり過ぎる。現在のカンボジャの国力では、現状保存さえままならない。精々破壊や汚損を防いだり、自然崩壊を防ぐ手当が出来るくらいのことである。この地方に在る膨大な石像遺跡群を守ることは負担が大きすぎるだろう。世界遺産だというなら、世界がまもる手立てを講じる必要があると思った。カンボジャはさしたる工業がなく、特産もなく、今まで通り当面は農業を続けるしかあるまい。それはそうとして、偉大な先祖がのこしてくれた、これらの遺跡を観光資源として活用して観光立国を目指したらどうか。僕はこんな余計なことまで考えた。

ところで、もし僕に東洋のモナリザを選べと、お声がかかったら僕は自分の美的感覚で、今目の前にある物とは違ったデバターを選んだだろう。僕には心に決めた楚々とした僕好みの美人デバターがある。それはちゃんとカメラに収めて自宅で焼き増しが出来るようにしてある。今後はアンコール遺跡群を自分なりの東洋のモナリザ探しに歩いてみるのも面白いと思った。



生きよう今日も喜んで

2019年03月25日 | Weblog
c・・(平澤 興恩師)

宮司の尊敬する平澤興恩師の語録『生きよう今日も喜んで』この本は、手放せない座右の書です。

腹中に書あり」・・・・のその一冊は『生きよう今日も喜んで』です。、

○朝には、希望と張り合いをもって仕事をはじめ、夕には、その日の仕事を終わり、感謝を

もって、緊張をときほぐし、静かに喜びながら、万物を拝む気持ちになることです。

○今が楽しい。今がありがたい。今が喜びである。それが習慣となり、

天性となるような生き方こそ最高です。

○仕事は祈りであるということは、自らの最善を尽くして、それ以上は神に祈るということである。

この気持に徹すれば、いつも楽しく仕事が出来、たとえ仕事の上に、一時的にいろいろの波

があっても、大局的には必ず仕事は順調に進み、しまいには楽しさのなかで、

仕事が仕事を導いてくれるようになる。

○欠点をなおせというよりも、長所をのばしなさい。長所といえども癖である。

この方の癖をのばせば、悪い癖もその大きさの中にかくれてしまう。

大木も小さい時は曲がっていても、大木になればまっすぐになるようなものである。

そしてかくれた癖は時に応じてその人の味わいとなり花となって、その人に芸術味を与えることになる。

○感謝するということは、人間が楽しく生きて、周囲を明るくし喜びを与える最高の姿である。
○感謝ということは、よく見てよく考えて、他の人が見落とすようなところでも、

見落とさずに見る。そうすると、平凡なことも平凡でないことがわかる、

そこでありがたい、ありがたいことだなあと心から思うようになる。

○人間に生まれたことを本当に感謝し、その幸せを喜び、まあ、へまばかりやって来たが、

しかし私は私なりに一生懸命生きて来た、更に、自分もご苦労であったが、他人様のご苦労

もよくわかる、こういう風に思うようになると、この自分を拝み、他人様を拝むことが出来るようになる。

○顔は自分の顔であって、自分の顔ではない。人々から見る顔でもある。

全体としていつでも明るい顔は、心に明るさをもっているからである。

明るい顔は、明るい心。明るい心は、やすらぎの心、感謝の心である。

それは人を明るくし、自分の健康を保つためにも一番大事なことである。

習慣的に、明るさを身につけることである。常に明るくあるためには長い修練が必要である。

致知書房出版の本ですね。私も座右の書として暇を見ては味わいながら、

かみしめながら先生の教えを受けています。

僕は以前から高名な先生を知っていました。大学が違うから直接の教えを受けたわけではないのですが、

先生からは人間の基本的な部分でいろいろなことを、この本によって学びました。

活字の大きな短い文章の寄せ集め、平沢語録といった方が良いのかもしれません。

一度読んでみてください。きっと何かを示唆されていることに気がつくでしょう。

僕が出会ったとき、大腸がんで手術を受け便器を体にくくりつけて生活をしておられるときでした。
病苦のかけらも見えない笑顔をしておられました。

解剖学では世界的な権威だとも聞いていたが、気安く誰にでも話しかけ、

胸にじーんとくる言葉を何回か、いただきました。すばらしい出会いでした。



聴覚を失った中で曲を紡ぐ

2019年03月25日 | Weblog
聴覚を失った中で音を紡ぐ。

ベートーベンが晩年、聴力を失った事は、広く知られていることだ。

作曲は聴力と重大な関係があり、聴力を失う事は即作曲を不可能にすると常識では考えられている。

しかし僕は自分が作曲することについて考えてみると、元はイメージであり、音は関係ない。

言葉から来るイメージや、もっと広い範囲からやってきて、心をふるわせるものが音群となってメロディーを構成する。


僕が作曲する場合、極度に精神を集中させ、イメージに沿った音群を絞り出し、それを楽譜に書き留め、楽器を使って音を確かめ、

不自然だと思う所を、編集して曲を完成させる。

この延長線上で聴力を失った作曲家、を考えてみると、心の琴線によるオーケストラか、それとも実音を伴うオーケストラかの

違いはあっても曲は存在しうる。

そうはいっても、管弦楽法や和声学や対位法などなど諸々の技法が身に付いていないと交響曲は書けない。

聴力のレベル低下は編曲をする際には、大きな障害要因だ。天才はそれを乗り越えてオーケストラ曲を書いた。

「ベートーベンの生涯」を読むと、聴覚のレベル低下を乗り越えて、作曲をする姿が読み取れる。

そこにあるのは、才能とそれを駆使して継続的努力をする神々しいまでの精神力である。

働き蜂

2019年03月24日 | Weblog
自分の人生で,夢中になれるものを見つけて,それに殉ずるのなら話はわかる。

ただ、ただ働いて、働いて、働きすぎて死んでいく人生なんてたまるもんか 。

松下幸之助を目指せと言う人、彼の真似をすれば全員が彼のようになれるとでも

思っているのか。

語録を唱える人も人だ。それを真に受けている方も愚かしい。

自分に合うように取捨選択し、いいとこ取りをしなくては。どんなモデルも役に立たない。

黒田如水

2019年03月22日 | Weblog
黒田如水

黒田までは出た。次の名前が出てこない。だが如水は出てきた。何故官兵衛が出てこなかったのか。

彼の辞世の句が良い。

「思いおく 言の葉なくて ついに行く 道に迷わじ なるにまかせて」

天下人に列する能力の持ち主だから、当然の句だろうが、

人生の晩年にこのような句が詠める人はすばらしい。歴史上何人いただろうか。

道に迷わじ、なるに任せて。というのが特にいい。クリスチャンの彼は神を信仰したから

こう言う心境になったのであろうか。それとも日々の営みの中で思いが積み重なって

結果としてこう言う心境になり、それを言葉に出したのだろうか。感服のほかはない。

単身北条の小田原城に乗り込み、見事に北条を説得したのはただ者ではない。

秀吉も恐れたという。徳川家康もそうだ。40代の若さで九州に引き上げたのも

見事な事であるに違いないが、彼の生活信条は一瞬一瞬を大切に生き抜く事だったんだろう。

ただただ感服だけである。真似しようにも出来る真似ではない。あこがれるだけだ。

是川銀蔵氏の話5-55

2019年03月22日 | Weblog
是川銀蔵氏の話

直接聞いた話だから、嘘や作り話ではない。

株の神様といわれた是川銀蔵氏から壷阪寺に、当時の金で1億円を現金で渡し、

それを風呂敷包みに包んで壺阪寺に持って帰ったという話である。

僕はその現金を運んだ本人から直接聞いた。

是川銀三氏はこう言ったという。

僕は金儲けは出来る。だが儲けた金を生かして使う能力は無い。つまり金を生かしてよう使わない。

僕よりよりもっと金を上手に使う、お宅の先生にこの金を使って社会に役立ててもらいたい。

直訳すると、僕は株で金儲けは出来るが、使い道を知らないから、

社会のために金をうまく使う人に渡して、有効にに使って欲しいということだ。

1億円を託され常盤先生がどのように活用されたかわからないが、

多分インドハンセン氏病救済につかわれたと思う。当時常盤先生の目標は

インドのハンセン氏病患者1000万人を救うという目標を立てておられた。

是川銀蔵氏の常盤先生への信頼はその後も続いた。

両者とも、ずば抜けた実力を持ち、役割分担をされたことがすばらしい。

両氏の基本的な考え方は 、お金は個人のものではなくて社会のため、困った人のために

役立つように使うものだという信念である。


もう二人とも他界されたが、私には忘れられない人である。

常盤先生は日本の社会福祉の原点を作った人。

片や是川銀三氏は株の神様と言われた人。二人のお力でどれだけ多くの人が救われたか。

何の力も無い僕はただ両氏を崇めるのみである。

10-26 幸福度

2019年03月21日 | Weblog
先ほどNHKニュースでやってたけれど、幸福度は世界の中で54位らしい。韓国より下だ。

たしかにそういえば日々の生活の中で幸福感はあまりない。

経済大国としてある時期には世界第二位の地位をしめていたけど、それが国民の幸福度に

つながっていないということである。

そのくせ世界中に金をばらまいている事にいつも違和感を感じていた。

海外に目を向けるのもいいけれど、まず優先すべきは国内である

貧しい人が多く居るのに、海外に金を渡すとは何事か。無償援助の額を見るたびにそう思った 。

政治家はそれを誇りにして先進国と思っているが、足下を見ると、貧弱もいいところである。

決して先進国ではなく中進国だ。

もうすこし国内の充実を優先すべきである。

自民党の中でももっと国内に目を向けるべきだという意見が出ないのだろうか。

議論ばかりで実行力が無い野党などが取り上げるには格好の材料だと思うが、、、。

命の共生き

2019年03月20日 | Weblog
命の共生き

「自分が支えられる立場になって、

世の中には支える人と支えられる人の2種類の人間がいるんじゃなくて、

みんな支えてもらわなきゃいけないことがあるし、逆に誰かの役に立てる、お互いにそうなんだっていう。

だから困ったときには,助けてって言いやすくて、自分のできることで誰かを支えるという

ことを誰もが少し気軽にできると、みんなすごく楽になるんじゃないかなと思ってます」

(村木厚子さん)
以上はインターネットから引用

村木さん。事務次官まで登られたあなたが、無実の罪で拘置所に入れられるなんて不条理も甚だしい。

しかしその不条理をいかることだけではなくて、反転して命の共生きに気づかれ

若草ハウスを作って困難な事情を抱えた女性たちに宿を提供されたことは、とてもすばらしい。心が熱くなる。

村木さんのこの考え方を行政や国がバックアップする方法はないものだろうか。

個人の善意に頼るだけでは、限界がある。

村木精神は永遠に引きついて行けることを心から願うものである。

僕はこういうことを四天王寺の瀧藤管長猊下から教わった。猊下はすべての生物の命が共生だと言われた。

共生は普通は共に生きると考えるが、命はすべてつながっている。

それはすべての生き物に通じることだ、といわれた。

僕は共生はせいぜい人間の範囲でしか考える事が出来ない。すべての生物の命までは共生の

範囲を広げることは出来ない。ちっぽけな人間だ。自分のことをそう思う。

又いじめ自殺者が、、

2019年03月20日 | Weblog
自殺した少女の SOS を受け止めないで、逆に叱る教員もいたそうな 。

なべて教員 学校 教育委員などすべての段階に働くのは、責任からいかに口実をつけて

逃れるかという人間の本能である。

悪い結果を招いたとしても、責任から逃れたいというダイナミズムが働く限り

教育現場や教育委員会や文科省の役人など皆同じ穴の狢である。

究極は命を救うためにどう取り組んでいくかではない。口先だけで、そんな力は働かない。

ではどういう対策が必要か考えると、加害者を押さえつけるのが即効があると思うが、

いかがだろう。これも一つの方法だ。

やはり警察からの警告が効くのではないか。警察という強制力が働かない限り永遠に

この問題は解決しない。加賀者を罰することを徹底的にやったらよい。

いじめをすると、どういう結果を招くのか、加害者に思い知らせることである。

いじめは精神的暴力や肉体的暴力であり、立派な犯罪である。

子供だから言って容赦はしない。人をいじめたらどういう結果を招くか教えてやるがよい。

これは立派な教育だ。

第三者委員会の設置は屋上屋 となっている。 愚かな行為だ。

この国では誰も、大局的立場に立って命の尊さを考えようとはしない。

だから重大な結果が起こってから、調査調査と声を張り上げている。

すべては後の祭りである。この構図は滑稽ですらある。

この現状を虚しいと思わないか。解決とは程遠いとは思わないか。