日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

令和が始まるが,,,

2019年04月30日 | Weblog

令和が始まるが,,,

平成は最後の日。平成31年4月30日。明日から令和になる。

元号で数えるとぐちゃぐちゃになって、頭はこんがらかり、訳がわからなくなってくる。

やはり西暦一本でいくほうがわかりやすい。

今日は西暦で言うと 2019年。元号で読むと平成31年

明日は2019年であり令和元年である。

令和11年は2030年?ややこしいなー。

今から5年前ということを平成で言うと26年、西暦では2019-5=2014年 

こうなると平成で数えることは殆ど無く西暦一本になる。

こういう考えが強いのだろう、平成は使うことがなくなるので遠ざかる。

ところで平成時代には戦争が一回もなかった。是は明治以降、大正、昭和 に

比べて特筆すべき事である。

令和もその次の時代も、戦争のない時代であって欲しい。


平成の紅白

2019年04月29日 | Weblog
久しぶりにNHKの歌番組を見た。

ウタを楽しみたいのに、いつも歌番組でもスウッチをきる。ウタがなく雑音ばかりでうるさい。
今夜は腰を落ち着けて番組を見た。なぜ拒否感が出てきたのか、考えて見ると

やはり歌詞や曲や振り付けなどに抵抗感がある。

歌の効果を一層深めようとして、音を奪ってしまう様な激しい動作や、

ひやひやするアクロバット、派手な演出が目に飛び込んできて、歌を聴いてる

集中力がそがれて、歌に没頭出来ない。それがいやなのだ。

歌は歌詞に盛られた諸々の思いを、思い浮かべながら、メロデイで一層深い味わい

により、歌の世界に引き込まれていく。そのプロセスが自分にとって、いわゆる歌の世界に

没入する心地よい部分なのである。

とはいえ単なる歌詞、曲、歌、演奏だけに絞っているわけではなく、少しくらいは

落ち着いて歌を聴くのに差し支えない程度の演出や、振り付けは、気分を盛り上げること

に寄与している。

当番組の中では「世界にたった1つの花」の演出も振り付けもこの類いである。良かった。

歌が聴けた。

ハナミズキは伴奏はピアノだけだった。秋川さんの「千の風に乗って」は演出らしいもの

は殆ど無く、歌そのものに没頭出来た。


5年刻みの平成紅白歌合戦だが、5年間のうちには記憶に残る歌があった。

歌がない無いと言われてから久しいが、よい歌も生まれている。こう言う名曲を集めて

自分なりの歌本を作ってみるのも面白いかも。


寝る前に

2019年04月28日 | Weblog

寝る前に

もう20年ほど前から寝つきが悪い.

それこそ几帳面に睡眠導入剤を飲んで床につく.そして30分ほど音楽を聴くことにしている。
昼間の雑念から、心を鎮めて穏やかにして、神経を休めたら寝入りも早くなろうという算段である。

まず始めには「初恋」を聞くこれは啄木の初恋の切ない思いを、美しい歌に乗せて、

ほろ苦い、わが青春・初恋につれ戻してくれる、上浪先生の抜群の歌唱力の歌である。

ついつい歌に引き込まれる。これが5分ぐらいで終わると、次は普久原さん作曲の「芭蕉布」である。

歌手は誰か知らないが、歌を聴いていると、沖縄の七色の海が目に浮かぶ。

たった2回しか行ったことがないが、 沖縄には思い出すことがたくさんある。

あとは自分が作曲した作品の中から、気持ちを鎮めて安らぐ曲を、10曲ほどピックアップ

してそのうちの5・6曲で、オートスイッチがはいって電源はオフになる。

その頃には睡眠薬も効いてくるという仕掛けである。大概は仕掛け通りに夢路につけるはずになっている。

が、何か気になることがある、すんなりとはいかない。その時は寝いるのが一番苦労する。

2時間前後かかるが、後は夢路に入っているので、それはそれで良い。

近頃は薬の効果で、眠りについて薬が切れると、眠りが浅くなり、鬱々とした状態で起き

ているのか、寝ているのかあまり 変わらない状態の時がある。

そういう時の目覚めは機嫌が悪い。熟睡感がなく睡眠不足を気にするから、

目が覚めてからも、すっきりした感じがなく、何もやる気がしないのである

桜花と女性

2019年04月27日 | Weblog
桜前線は東北から北海道に北上した。春とはいえ天候は不順で雪の中で花見という寒い日もある。

関西では、緑の葉桜になっている。白く淡いピンクから緑が混ざってきたのが、4月20日過ぎ。
これが自然といっても、やはり薄ピンクのしろい花が満開というのが花見の最高のものだろう。
女性に例えれば17,8歳から25,6歳ごろの美しさに例えられるだろう。

この時期に美しさは、満開。

25を境にして過ぎると肌の艶色が衰えを見せ始め、40代になると艶や輝きが減って

白、ピンク、緑の3色桜に似てくる。このころになると、表面的な美しさよりも内面的な

美しさが輝きを増す。

おおむねそれ以後は年齢を重ねるごとに、肉体は衰えを見せ、姥桜となって散っていく。

その間桜は1週間、女性は20年を少し足りないくらいで肉体美は散ってしまう。

桜でも女性でも、見ごろには派手にその美しさを表現し楽しんだらよい。

桜はだれに誇ろうとして、咲き誇るのか。それは自分と自分以外すべてのものに対して

美しさをdemonstrationしているのではないか。

女性もこれと同じく肉体的な美しさを、大いにdemonstrationしたらよい。

誰に遠慮がいるものか。女性自らを桜花にみたてて花見の宴をするものよいことだ。

東洋のモナリザ

2019年04月25日 | Weblog

       東洋のモナリザ


  ガイドブックに紹介された東洋のモナリザといわれる、デバターはシエムリアプの市街地から北東の方に向かって、40キロくらいの所にある、バンデアイ・スレイ寺院にあるという。

僕はバイタクの後ろにまたがって悪路をひた走りに走った。
 普通なら時間と時速を掛け合わせて、大体の距離を出すのだが、なにせこの道は、土の上ににぎりこぶしの5倍はあろうかと思われる石を、敷き詰めてというより、土の上に幾重にも転がして、今からブルドウザーで平らな道にしようという工事を始めたばかりの道である。

たいていのことは我慢するが、がたがたと揺れる後ろの座席に2時間もすわってると、もういい加減にしてくれと悲鳴を上げたくなった。それは僕だけではない。ここ2,3日バンデアイ・スレイの遺跡を訪れる人はみな同じ思いをするはずだ。バイクだけにとどまらず車とて、条件は同じである。時速10キロで走れないから、途中でオーバーヒートして、立ち往生している車を何台も追い越した。

ブルドーザーで整地されて、まともな道路として使えるのは1ヶ月先のことだろう。
 此の悪路に耐えかねて、バンデアイ・スレイってそんなに値打ちのあるところかと、何回も疑問に思った。これ以上此の石道を走れというなら、見ないで引き返してもよいとさえ思った。
 
そのころになってようやく、つまり走るのも限界に来て、やっとバンデアイ・スレイ遺跡は姿を現した。
ちょっと見は赤色砂岩で作られた、こじんまりしたチンケイな寺院である。それは今まで見た、どの遺跡よりも貧弱に見えた。確かに規模は小さいが、保存はましな方である。
 東塔門を一歩入ると屋根近く、ひさしの辺りに彫られた浮き彫り彫刻が目に飛び込んでくるが、確かに見事なものばかりである。

完全にヒンズー教寺院である。こういうタイプの寺院はインドではよく見かけた。紅砂岩で作られているので、建物も彫刻も皆赤灰色である。楼門をくぐると、主祠堂の両側に経蔵があり、中央にはシバ神殿、左側にはブラウマン神殿、右側にはビシュヌ神殿があり、どの建物にも浮き彫り彫刻があった。

その一つひとつに意味があるのだろうが、僕の頭の中は 東洋のモナリザ でいっぱいだったから何を考える余裕もなかった。

ただ全体的に見ると、これがシバ寺院であることはすぐ判った。というのはバンコクのメインストリート・シーロム通りにも同じ形式の寺院がある。僕はその寺院の前を毎日のように通っているからだ。バンコクにあるワット・00は大抵は仏教寺院でこのような赤れんが色ではなくて、白壁と金ピカ仏である。そのバンコックに在ってこのシーロム通りのシバ寺院は孤立して何か異様な雰囲気を辺りに醸し出している。

バンコクのヤワラ通りの中華街を通りすぎると、次はインド人街があるからヒンズー教寺院が在ってもおかしくはない。
正面向かって右側の神殿、即ちビシュヌ神殿の正面から見て左側に 東洋のモナリザは在った。

フランスの有名な作家・アンドレ・マルローがそのあまりの美しい魅力にとりつかれて、これを国外(多分フランスだろう)に持ち出そうとして逮捕され、それが「王道」という小説に書かれたと言う。そのことが頭に在って、そんなデバターって一体どんなものだろうという思いが強いために、胃腸がでんぐり変える思いをこらえて、ここまでやって来たのだ。そのモナリザと今出会ったのである。

 彼女は背丈が1メーターに満たないデバターで、顔はふっくらと丸みをおび、謎の微笑を秘めている。胸は豊満で全体的にふわっとした感じで、つられて心がふわっとなった。緊張がほぐれる一瞬だ。1人の彫刻家の魂にふれて、僕の心は緊張感から解放された。

僕はいろいろ角度を変えて、出来るだけ多くの方向から眺めるように努めた。彼女は正面を向いているのではなく、首を少しだけ右に振って、物静かに何かを考え事でもしているかのようであった。聡明そうな上品な顔立ちと、高貴な姿態が僕を魅了した。このとき僕はこの世から離れた別の世界の住人だった。忘我、そう、忘我の世界にいたのだ。
よかった。あの悪路を乗り越えて、ここまでやって来た甲斐があるというものだ。僕はつくづくそう思った。

この芸術作品にはきっと1人の彫刻家の思いが込められているのだろう。どう考えても、共同作業とは思えない。もし何人かの彫刻家が集まって、共同作業の結果、此の神像を作ったとすれば、どこかに作家の顔の端くれが見えるはずである。
 
我々の知るモナリザは絵画であるのに対し、東洋のモナリザは浮き彫りの彫刻である。立体感がある分素人に対しては迫力が在る。彼女は1000年の間微笑み続けた。これからもこの遺跡がこの地上から消えてなくならない限り、ここにこうして鎮座して、訪問する人に微笑みかけることだろう。

こんなすばらしい作品が、ポルポト一派の破壊の手を免れて、ようこそ昔のままの姿で、ここにこうして在ったものだと安堵の息がもれた。
審美に関しては東洋、西洋の別なく、人間であれば美しいものはあくまで美しいのであって理屈はいらない。

ところで此のモデルは一体誰だったんだろう。きっとなにがしかのモデルがあったはずである。これだけの顔つきからすると、そこらそんじょの女性ではあるまい。王妃か、王女か、位の高い女官か、いや作者の永遠の恋人か、作者が祈る女神像だったのか、僕には全くの架空の人物とはおもえない。

西洋人のマルローも東洋人の僕も共にこの像が放つ魅惑の虜になっている。この虜の思いが強すぎて、マルローは国外持ち出しを決意した。それに対して僕は此の神像だけを切り離すよりは、此の壁全体を構成する1つの部分として保存した方がより高い価値を生み出すように思える。

余計な事ながら、顔に注目した人は顔だけを切り離して、持っていこうとするのだろうか。顔の部分だけが無くなっているデバター像はたくさんある。もし今完全な形で保存されていたら、ひょっとしたら僕の目の前に在る此の像よりも、もっと優れた芸術作品が在ったかも知れない。

もしそうだとすれば、盗難や破壊から此の遺産を守るために、遺跡保存係の警官を配置する必要がある。此の像や装飾品の価値が判らず削ったり、切り取ったりして持ち帰ろうとする連中や、価値が判りすぎて、我がものにしたいというつよい欲望を持つ両極端の人間の思いから、此の人類共通の芸術作品遺産を守らなくてはならないと思った。 

 恥も外聞も気にしないで、僕はこの東洋のモナリザの横に顔をよせて記念撮影した。僕と同じような思いの人だろうか、僕と同じような事をする外人がいた。写真のシャッターを押してあげると、メルシボクーという謝辞が返ってきた。

そう言えば、ここはフランスが植民地にしていたところだ。この寺院を丸ごと本国に持って帰ったところで、大した金はかからなかった筈である。でもフランスは大して保存もしなかった代わりに、持ち出しもしなかった。文化遺産というものは、そこの場所にあって初めて真の値打ちをだすものだと考えたのであろうか。その辺がイギリスのやり方と違う。ロゼッタストーンだってイギリスはエジプトからちゃんと持ち返っている。

それは外国の宝物をうばって持ち帰るという考えのほかに、世界人類の遺産として王者イギリスが完璧な保存をして、人類遺産を守るという決意としての行動だったのだろうか。

確かにアンコールワットという壮大な建造物には、発見以後手を加えているが、このような小さなデバターに目をくれたという話は聞かない。マルローがいうまで、気が付かなかったのか、それとも価値を見いだせなかったのか、はたまたこの程度のものは無視したのか。
 
誰か物の値打ちの判る有名人がそれについて何かをかいてくれれば、それが人目を引くことになり、より多くの人が関心を持つようになる。現に僕だってマルロー逮捕という話は決して見逃すわけには行かない。逮捕という犯罪を犯してまで、この著名な作家が手に入れたかった神像彫刻作品とはどんなものかと関心が集まるのは当然である。見方を変えれば偉大なる宣伝だ。

もし彼のこの事件がなかって、ここに黙ってそのまま鎮座していたら、このように有名にはならなかった筈だ。なぜならアンコールワットを初め、カンボジャの遺跡群には数え切れないほどのデバターが在るからである。一つひとつ丁寧に踏査する専門家がいてもいいくらいだ。

しかし今のカンボジャは往年の王国とは比べものにならないほど落ちぶれて国力はなく、往時との国力の差があり過ぎる。現在のカンボジャの国力では、現状保存さえままならない。精々破壊や汚損を防いだり、自然崩壊を防ぐ手当が出来るくらいのことである。この地方に在る膨大な石像遺跡群を守ることは負担が大きすぎるだろう。世界遺産だというなら、世界がまもる手立てを講じる必要があると思った。

カンボジャはさしたる工業がなく、特産もなく、今まで通り当面は農業を続けるしかあるまい。それはそうとして、偉大な先祖がのこしてくれた、これらの遺跡を観光資源として活用して観光立国を目指したらどうか。僕はこんな余計なことまで考えた。

ところで、もし僕に東洋のモナリザを選べと、お声がかかったら僕は自分の美的感覚で、今目の前にある物とは違ったデバターを選んだだろう。僕には心に決めた楚々とした僕好みの美人デバターがある。

それはちゃんとカメラに収めて自宅で焼き増しが出来るようにしてある。今後はアンコール遺跡群を自分なりの東洋のモナリザ探しに歩いてみるのも面白いと思った。



清水観音とバイヨン8-58

2019年04月25日 | Weblog
         清水観音とバイヨン


 2000年10月15日。三十三年に一度の、清水寺観音のご開帳に合わせて、京都・清水寺の、国宝のヒノキ舞台で、自作の4曲を奉納演奏した。
そういえば、今回だけでなく、以前にも観音様には自作の曲を、よくお供えして、聴いてもらっている。

壷阪観音、中宮寺の国宝、半加思惟像の観音様、泉光寺の慈母観音、
東大寺二月堂の十一面観音、京都三十三間堂の千一体の観音様などに曲を聞いて頂いた。そしてその折々に、観音様のご利益をちょうだいした。ところが今回は又観音様から、特別のご利益をいただいた。それは大きな大きなご褒美だった。
 
 演奏舞台が第一級の人しか使えない、国宝の舞台であると言うこと、
関係ない人にとっては、何の意味もないが、作曲家としてあの場所で演奏できたことは、作曲家としての自信をつけるには十分であった。
 
何故ならば、いくら巷の高名な作曲家といえども、そう簡単に使える舞台ではないからである。僕の知る限りでは、日本の音楽界の大家、山田耕作も服部良一も、吉田正も、中田喜直も、武満徹も生涯、あの舞台を使って自作曲を演奏することはなかったのではないか。 第一級の国宝の大舞台では、第一級の作品が要求される。果たして、自分の曲がそれにふさわしいかどうか、考えないわけではなかったが、もしふさわしくないとすれば、
観音様が当然、ここでの演奏を許されなかったことだろう。

つまり清水のヒノキ舞台て、演奏が許されたということは、この舞台にふさわしい、作品であったということを物語る。ぼくはそう思った。
それにしても、大きなことを、やらせてもらった。あの有名な、山田耕作先生においてさえ、できなかったことを、僕がしたのだ。人の世で認められないとしても、神や仏に、受け入れられたとするならば、それこそ最高の音楽家だと、ぼくは自分の事を思う。

15日のあの演奏が終わって、大役を果たし、肩の荷を降ろした気分になったぼくは、3日後の18日、骨休めのつもりで、カンボジアの、アンコール・ワットを訪れた。
訪れるまでは、アンコールワットしか、眼中になかった。というよりアンコールワット以外の事は知らなかった。ところが、訪れてみて、僕は特にバイヨンには、心ひかれた 。
 

バイヨン。

それはアンコールトムの中にある、大きな石造寺院である。
アンコールワットの西正門から車で走って、5,6分のところにある、古ぼけた石造寺院である。今は崩れかけて、くすんだ石積み寺院だが、創建当時には金泥で表面は装飾され、どれほど立派な物だったことか。
 
多分僕の想像を超えて、思わず地に伏して、ぬかずきたくなるような黄金寺院であったに違いない。12世紀後半、ジャヤバルマン7世が作ったもので、アンコール朝の勢力が最高潮に達した時の創建らしい。
 
周達観のチエンラ風土記にも、アンコール朝の豊かさが書かれている。
バイヨンの建築様式は、建っている石塔に、巨大な仏の顔が、東西南北4面に彫りつけているのが特徴だ。4面仏即ち観音菩薩の顔が彫られていて、静かに微笑む巨大な、仏の尊顔が、東西南北・四方八方を見つめているし、その慈愛の眼差しは、人々に暖かく注がれている。

構造は2重の回廊と、16の小堂からなり、中央祠堂の塔の高さは45m、第一、第二の二つの回廊を持っている。
第一回廊はたてよこ 160m x140m の大きさで、そこには人々の生活ぶりが生き生きと彫ってあり、又 第二回廊は70m x 80mの大きさで、壁には 宮廷内部の様子や、ヒンズ教ー神話などが彫られている。

初めてこのバイヨン寺院に来て、この回廊の中を歩き回った時に、あたりを見回すと、四面仏のあの優しいほほえみを含んだ顔があちらから、こちらから、慈眼の光を放っているのだった。そしてその顔の数があまりに多かったので、あたかも、僕は舞台中央で、スポットライトを浴びているような感じがした。それは観音様が放つ優しさに、全身が包まれているような感じであった。そう思うと胸の辺りが、もわーっと暖かくなってくる。

臓は早鐘のように打つ。いったいこれは何なのだ?

僕は不思議な体験をした。しかもいつもバイヨンを通るたびに、僕は不思議なパワーを感じていたのだ。しかしそれが何であるのか、気にも留めないで遺跡見学に、毎日この前を通った。
 
 アンコール遺跡群を見て回るには、このバイヨンのすぐ近くを通ることになる。
死者の門を通って、タ・プロムやバンデアイ・クデイへ行くときも、勝利の門をとおって、トマノンやタケオの遺跡を見学するときも、必ずバイヨンの前を通ることになる。
 
不思議なことであるが、アンコールワットの西正門前を通る時には、別段何も感じなのに、バイヨンを通る時には、何か不思議な物を感じた。上手く言い表せないが、背中に人の眼が注がれているような気がしてならないのである。異様な光?いやエネルギー?何かを揺り動かすような、心臓がドキドキするような得体の知れないパワー?そう言ったたぐいの物を感じた。不思議やな、不思議やな、そんな思いがずっと残った。

 四面仏

ところが、こういう形で清水観音と、結びつくとは夢にも思わなかった。
今僕はバイヨン寺院の第二回廊に立っている。辺りを見回すと観音様のあの優しい眼から放たれる温かい光が、まるで太陽の光のように自分に降り注がれている。

その光を意識すると体全体が、もわーっと暖かくなる。石に彫られた観音様の慈眼放光が、このようなパワーを持つ物だとは、今の今まで知らなかった。このとき初めて、実感したのである。
 
守られている。確かに守られている。そう思うだけで、胸が熱くなった。
ここでこのような四面仏、つまり観音様に巡りあうなんて、全く考えてもいなかったのに。

少なくとも、日本を出るときはそうだった。ただ頭の中には10月15日に
京都の名刹清水寺の観音様に、自作の曲を4曲も奉納演奏させていただいた時の興奮は、未だ残っていた。それとこのバイヨンの観音様との結びつきなんて、及びもしないことである。第一ガイドブックさえ、まともに読んでいなかったのだ。
 

行けば分かる、これが僕には海外に出かける際の決まり文句になっていて、帰国してから後で、旅の復習をするのが、ここ数年の習わしになっている。
そう言う意味で、ここは初めから見落としていた。無視したわけではないのだが、意識の上には載っていなかった。

カンボジャと言えば、アンコールワット以外には、何も知らなかった。今回初めて、バイヨンだの、バンデアイ・スレイだの、大小さまざまの遺跡が80ばかりあるというのを、ここに来て、ガイドの説明を聞いて、初めて知ったことなのだ。

 先ほどから僕の体は、辺りに偏在する観音様の顔から発せられる
慈眼放光を感じ取っている。そして頭では、この不思議な縁に、想いを巡らせている。
夕方と言うこともあって、人影がないばかりか、鳥の鳴き声さへもない。辺りはかげり始めた太陽の静けさに、あわせたように深閑としている。

大勢の前で読経すると、気が散って気持が集中できないが、1人になると集中して、お経をあげることも出来る。今は回りに誰もいないばかりか、物音Ⅰつしない。
この瞬間を捕らえて感謝の誠を捧げるべし。よし、お礼参りの読経だ。
考えてみればこれは当然の成り行きであった。

 誰がどのように、僕の音楽才能を見つけだし、高く評価してくれようとも、国宝である清水寺のあの舞台で、奉納演奏が出来るなんて、夢の様な話である。だが僕は間違いなく奉納演奏をした。

そして肩の荷を降ろしたところで、18日に出発して二日後ここに、即ちバイヨン寺院の第二回廊にやって来て、今こうやって立っているのである。今の自分は自分ではあるが、なんか自分ではないような気もする。そんな精神状況である。

観音様、観音様は清水寺の観音様とは同じお方ですか。補陀洛山におわす観音様は、日本にもカンボジャにも、いや世界中、いや宇宙に偏在しておられ、特定の場所や、寺院や、彫像にのみ存在すると考えるのは間違いでしょうか。
 
わざと関係付けたり、強引に結びつけたり、しようとは思わないのですが、
15日の興奮が冷めやらない僕には、20日はあまりにも近すぎます。
だから結びついたというようには、考えたくはないのですが、このバイヨンの前を通るたびに、何か異様な胸騒ぎがしてなりませんでした。

観音様、ひょっとして、ここまでお招き下さったのですか。もしそうだとしたら僕は、そのご好意に全く気が付いていなかったので、お詫びを申さねばなりません。これほどのご利益を頂きながら、その事実を知らない、気が付かない、従ってお礼の言葉も、感謝の気持ちも伝えることをしないなんて、最低です。

気が付いていて、これを忘れてり、無視したりだと言うのであれば、問答無用、処置なしのたわけです。僕はそんなこと考えたこともありません。自分にとってプラスの感情を使い、又現実にプラスのことが起こっている以上、僕は感謝の誠を捧げなくてはならないのです。

これが出来ないと、自分で自分のことを、まともな人間としては扱えません。というのは僕は常識のない、そしてルールをわきまえていないか、守らない、いわゆる欠陥人間になるからです。
 そんな人間が、これほどまでに、大きい慈愛あふれるご利益をいただける筈がないと思うのです。
話はちょっと脱線気味ですが、今回の件で観音様は宇宙に偏在しておられる事がよく分かりました。

そしてこの事は、前回印度へ行って、聖者・サイババに出会った時に、アシュラムで、
サイババは「このアシュラムにいるだけではなく、この宇宙に偏在しているのだ」と聞かされたが、それと符合します。

それをもって、確認したと言うわけではないのですが、自分なりに観音様の宇宙偏在を確信するようになりました。私はこれからどこででも、いつでも観音様の御名を唱えることでしょう。そしてこの事は観音経にはちゃんと書かれています。その中身を、体験的に知ったと言うことです。

観音様、ホントにありがたいことです。ここまで来て身にしみました。ありがとうございます。

 夕方に近いということもあり、またバイヨンはアンコールワットほど知名度もないからか、おとずれる人の数は比べようもなく少ない。外国からやってくる観光客は、ここが大乗仏教の一つの中心、となっていることなど、恐らく知るまい。我々の常識は、まずカンボジャは、小乗仏教だと思うところから始まる。アンコールワットがそうであったように。
 この寺もヒンドウ教の神を祀った寺、もしくは小乗仏教で、お釈迦様を祀った寺だと思うだろうが、菩薩がある以上、僕は大乗仏教だと思った。

とりわけ、ここの祭神や佛を調査したわけではないのだが、またそれを調べようというつもりで、ここまでやってきたわけではないのだが、ここが観音寺と、自分で命名してからというものは、何を見ても観音菩薩に結びつけてしまうので、カンボジャが小乗仏教の国だと言うことを、忘れかけている。

小乗仏教と大乗仏教とでは、同じく仏教と名前は付くが、中身はかなり違うようだ。
それは羅漢さんと、菩薩さんに象徴される。まず己の人格の完成を目指すのか、それとも己をむなしうして、他に尽くすのか、わかりやすく言えば、
こういうことになろうが、これによって心構えも、修行の方法も違ってくる。

いずれにせよ、ここカンボジャと日本とでは、小乗・大乗の違いが在る。
けれども僕の常識を破って、バイヨンは大乗仏教の寺である。僕は勿論のこと、日本でも
バイヨンが観音寺であることを知る人は少ないはずだ。

ヒンズー教、小乗仏教、大乗仏教、それらが混在しているのは分かるが、
僕はあえて堂守りに、この寺にはシバが祀られているかと尋ねた。

彼女は第二回廊の北側に案内して、回廊がへこんでいるところを指さした。
そこは畳10畳ほどの大きさで、下を覗くと壁面に像が彫られている。
そしてそれがシバ神だという。
 
これは見るところを間違えた。今僕はシバ神を見下ろす所にいる。
シバを拝むなら第一回廊に降りて、下から拝むべきだった。

こうしてシバ神像は、それが嘘物か、本物か確かめは出来なかったが、
シバと観音菩薩、釈迦の像を確認した。
 
歴史的経緯からすると、どうしても混在させない訳にはいかなかったんだろう。それでもここを見れば、誰でもここが観音寺だと思うに違いない。

釈迦像もシバ神も探さなければ、目に付かない存在であるのに対し、観音像は沢山あって誰でも目に付くからである。

 大体カンボジャと言う国は、まだ日本にとって遙か彼方の、見知らぬ国だ。知っているのはアンコールワットくらいのもの。それに悪名高いポルポト。精々その程度。

アンコールトムも、バイヨンも来てみて初めて、知るような知名度の低さだ。バイヨン・四面佛の寺だと分かっても、それが当時大乗佛教が存在した寺だとは、ほとんどの人は知らない。日本人が来ないのも、無理はない。が、その内にきっと知れ渡ることだろう。

そうなったら、またわんさと押し寄せるに違いない。ひょっとしたら、ここの人はもう、その足音をきいているのかも知れない。
なぜなら、今この町は西洋風の豪華ホテルの建設ラッシュだからだ。

徹底人

2019年04月24日 | Weblog
徹底人

世の中のはいろいろな人がいるが、自分の信念を徹底的に追求する人には頭が下がる。

僕が知っている徹底人の一人に常盤勝憲師がいる。

師から直接聞いたことと、僕が見た徹底ぶりについて紹介してみよう。

師は壺阪寺の住職である。ご存じのように壺阪寺は目の病気に御利益のある観音さんで

お里沢一の夫婦愛の物語で、つとに有名なお寺で、盲老人をケアーする慈母園を初め同様の

施設も国内にはいくつもある。

しかし特筆すべきは、インドにおけるハンセン氏病救済活動ではなかろうか。

師の計画はインドの患者1000万人を救済するという目標である。

金策から、治療、授産施設など。それがそれは多忙で身ひとつでは、とても回りかねる

仕事があり、そのため師から聞いた話では、睡眠は3時間しかとれないといわれた。

それが何十年もつづけるわけだから、疲労で困憊の日々であったと思われる。

ついに胃がんに冒されて58歳の身で天上界に還って行かれた。

師の訃報に接、壺阪寺に駆けつけたが、すでに亡骸は自坊に戻られていた。

対面は悲しかったけど、最後の別れをしたかったので、無理を言ってお別れさせてもらった。
普通のお顔をしておられたので、安らかな遷化をされたと涙を流しながら、お別れした。

ところが後で聞いた話だが、ご自身の体のすべてを他人のためにおいていかれたそうだ。

目は両眼とも、体内にある役立つものすべてを自ら申し出て必要な病人の用立てに使って

欲しいということだった。

生きて困っている人を助け、死してなお人を助けたいと言うことを実行される人がこの世に

いると知ったとき、僕は深い感動を覚えた。先生は真からの仏弟子だ。徹底人。

仏弟子として果たせる事はすべて果たし、お釈迦様の元に還って行かれたと僕は確信した。

さらばインド旅

2019年04月22日 | Weblog
さらばインド旅


 1999年4月9日。いよいよ旅も終わりも近づいた。
 今日深夜・1時25分にバンコクを出発して、明日の朝8時にソウル、11時半には関西空港につく。

3月12日に大阪を出て、約一カ月間のインドの旅だった。
美しい景色を見て、おいしいものを食べて、涼しいところでいう、という
いわゆる観光旅行ではなくて、まったくこの逆の旅が、インドの旅だった。

暑い、汚い、強烈な売り込みをかけるリキシャマン、タクシー、代理店、ダメモト丸出しで押し寄せるてくる小商人、それにうるさく付きまとう乞食。
言葉が通じないだけでも、イライラが募るのに、こんな連中と付き合うのは、ほとほと疲れる。
 それに比べてバンコクにつくと、ホッとする。インドにいるのとはまるで違う。東京や大阪の感覚で暮らせるからだ。日本に着いたような気分になる。
もうインドにくることはあるまい。

心残りはクシナガラとルンビニを訪ねなかったこと。今の気持ちではもうインドは十分だ。インド旅はもういいというところだ。前回5年前もそうだった。
 この前もバンコク空港ロビーで、これに似たようなインド旅の感想を書いていた。
 
しかし時が移り、時間がたてば、また私も変わる。この嫌な思いが残るインドに、また引きつけられている。インドは僕の心の奥に、スポットライトを当てて、生きることの意味を照らしてくれるので、一方ではいやな思いを残しながらも、また出かけたくなる、じつに不思議な国である。
 
精神的なものを求めず、ただ物見遊山だけなら、インドへ来るべきではない。そう思った。おそらくある種の嫌悪感を抱いて、この国を離れることになるだろう。しかし人によっては、それも時間がたてば、思い出や笑い話になるかもしれない。
 
中国文化圏に進む我々東洋人と、中近東に起源をもつアーリヤ人とは、
ものの考え方、顔つき、体格などに、埋めることのできない相違点が多すぎる。何をどのように補えれば、共通点が見いだせるのか、ただ通りすがりの旅人には難しい問題である。
 日本人とタイ人とは人情や気質が似ているものを感じるが、インド人
(といっても接するごく限られたわずかな人たちだが)には根底に違和感をもつ。それがよいが悪いかは別にしても、僕にとっては、決して好感のもてるものではない。

そうとは想いながらも、時には親切に寝台車の番号のところまで案内してくれた、名も知らない紳士、ハウラーからボンベイまで同行、指定席手配の外人専用窓口まで同行してくれて、何くれと世話を焼いてくれたMr.ソーハ。
(彼は船員で、よく日本にくる)。数えればいくつもあり、その行為、親切は今も決して忘れてはいない。普通のインド人はみなこうなんだと思いたい。

ところが私が日々相手にしたのは、インドでも余りたちの良くない平均以下?の人たちだから、除外すべしと思わないこともないが、第一次的に接触するのは、だます、脅す、平気でうそをつく、しつこいなど、この連中だから、どうも印象が悪い。
 そのどれもが旅の神経を逆なでし、緊張を要するものばかりであり、それらが日常的に行われれば、悪い印象を持つのは当たり前だ。
 
「インド人の心は村にある」とガンジーはいう。僕はまだインドの村について何も知らない。村にはいっていく前の段階で、僕は毎日接触する連中に嫌気がさしている。そこを乗り越え飛び込んでいかないから、本当のインド人なんて知るよしもない。たぶんガンジーの言うように村にはいれば、魂のふれあいに伴う共感、共鳴に加えて感動もあるだろう。しかし僕はまだその世界を知らないから、自分がふれあっただけのわずかなインド人から受けた印象で、ものを言うことになる。だから僕のインド人観なんて全く表面的で的を得ていないと思う。ただ重ねていえることは、僕が接触した範囲のインド人について言うならば、印象は確かに悪い。
話を旅に戻そう。
 
インド旅の移動は列車・鉄道の旅であった。そこでインドの鉄道で思ったことを書いてみよう。
窓に鉄の柵が入っている。まるで列車に乗せられて囚人が、送られていく。そんな感じのするのがインドの列車である。中に入っている僕も、昔の日本のように、窓をあけて風に当たり、ゆっくりと景色を眺めるというようなことはできないで、鉄格子の入った牢獄といった感じを受けながら、長時間乗っている。それもこれしかないのだから仕方が無い。
 景色を楽しむというよりも、人や物を 「運ぶ」 のに重点が置かれている。そう思えるのが、インドの列車なのだ。日本の列車に慣らされた僕はそう思った。

日本では、窓をいかに大きくして、乗客に景色を楽しんでもらうか、そういうサービスが重視されているのに比べると、なんとに大きな差であろう。
なぜインドでは、鉄柵が窓にはめられているのか、おそらく薩摩の守を防ぐ為だと思われる。まさか鉄柵が無かったら、窓から飛び降り自殺する人も多くて、それを防ぐために、鉄格子を入れたとは思えない。列車は利用者に、不信感を突きつけて、乗り心地を悪くしている。

国民も国民だ。文句を言わない。ということは、鉄柵がなかったら、ただ乗りという、もっと不都合なことが起きることを知っているので、これが当然の策だと、心得ているのだろう。だとすれば、国民は自分たちの首を自らの手で絞め、その人品は、こんな程度だと認めていることになる。
列車のみならずバスだって、窓に鉄柵が入っている。これだっておそらく列車と同じ理由から、こうなっているのだろう。
 
窓から顔を出して風にあたりながら、素晴らしい景色に向かって、ヤッホーと叫びたくなるようなことは、インドでは列車でもバスでも、とにかく味わえないことで、このために車窓から、外の景色を楽しむということは半減する。

インドでは、乗り物は、「人や物を運ぶためのもの」で、旅を楽しむためのものであるとは思えない。この面ではずいぶん遅れた国だなぁ。というのが実感である。
 さて体験したいくつかの感動的な場面を思い出しながら旅を締めくくり総括してみよう。

サイババの「プラサード」=(神様の食べ物)の話は、そのストーリーと共に一生涯忘れることはないだろう。旅をしてこういうチャンスに巡り会い、触れることは、まずないだろうから。 

エローラの石窟寺院には文句なしに感動した。この壮大で緻密な設定図は、一体誰が書いたのであろうか。またこの遺跡を作った目的は何だったのか。当時の人たちは誰一人として残っているものはなく、想像の域を出ないが、これこそ世界遺産であり、人類遺産だとつくづく思った。

カルカッタにあるマザーテレサの墓参ができたこと。僕は彼女の生前に、
彼女の汚れたサンダルで僕の頭をふんでもらいたいと願っていた。釈迦やキリストと同じく、貴い聖人(神といってもいいだろう)に触れてみたかったのだ。それは今となっては不可能な夢になってしまった。
夕暮れに、不思議な力に導かれるようにして、彼女の墓前で読経をあげ、言いしれぬ涙をハラハラとこぼしたことは、生涯僕の脳裡から消え去ることはないだろう。いやなことが多かったインド旅での強烈な思い出だ。

前回のインド旅に懲りて、今回はすべてにおいて、ナマスを吹いておいたから、前回のようなドジは踏まなかった。その代わり緊張が過ぎて、また注意し過ぎたおかげで、カルカッタ・ダムダム空港では23時間待った。

国内空港で、それがルールだから、リタイアリングルームを使用させないと片方がいい、相棒がよいゲストハウスを紹介するという猿芝居に、完全に抵抗して、23時間頑張った自分をほめてやりたい。それはそれは退屈で長い時間だった。文章に書くことが、どんなにたくさんあり、また文章を書くことが好きだとしても、限度というものがある。やはり23時間という時間は消化しきれないものであり、もてあました。その退屈は相当きついものであり、精神修養だった。時間による風化で、今も思い出として残っているが、苦みがつきまとう。
いろいろあっだが、思い出は家に帰ってコンピューターで整理しよう。
心の中にあるもの、すべてを吐き出して文章にすると同時に、人に言いしれぬ秘密は秘密として、心の奥底に仕舞い込んでおこう。

さらばインドの旅。そして不思議な大地インド。
あと一回はどうしても来るよ。クシナガラとルンビニを訪問するために。
(タイ・バンコク空港内のターミナルに腰をおろして書く。)

アジャンタ 

2019年04月22日 | Weblog

       アジャンタ   
 
 エローラを見学した翌日、バスを利用してアジャンタに行った。
アジャンタはデカン高原の北西、アウランガバードから北へ100キロほどのところにある、仏教の石窟寺院である。
 
馬蹄形をえがいて流れるワゴーラー川に沿って、600メートルにわたる岩の断崖をくりぬいて、塔院窟5つと25の僧院・ビハーラからなっている。サルナートの根本香積寺の壁画を描いた野生司香雪も、大正時代にここを見学したとか、日本とは、古くから付き合いの有る遺跡だなと感慨深かった。

バスの発着所前から少し階段を上って入り口に到着。入り口には、入場料のオフィスがあって、ビデオカメラの使用料は大した額ではないが、また別に徴収される。

 エローラに比べると、穏やかで静的である。最初から最後まで、すべて仏教に関するものであった。 
 作りは大きく分けて前期、紀元前1世紀から1世紀にかけて、と後期5世紀中頃から7世紀にかけての、2つに分かれる。おとなしい感じがしたが、その中に秘められた力強さは不気味なほどであった。
 
到着したのが11時過ぎで,ものすごく日差しが強く、暑い。ところが窟院の中に入ると極暑を忘れる。これは極楽と地獄じゃないか。
大袈裟だが、僕は本気でそう思った。ここにいて仏道に励んだ修行者達も、きっとそう思ったことだろう。たしかに酷暑を避ける人間の知恵には、
違いないが、これを作る段階では、どれほどの苦労があっただろうか。
その大変さが偲ばれた。
 
前期には仏陀の姿を表すものはなく、卒塔婆や舎利などが、仏陀のシンボルとされていた。
後期になると、仏像が刻まれて鎮座している。特に第1窟のライトに浮かび上がる壁画は、これが日本の法隆寺壁画の原画かと感動した。
この遺跡の壁画は日本に直結している。

第1号窟と第二号窟の壁画をみて、法隆寺の金堂に描かれた壁画そのものが、ここにあるとも思った。こちらのものは法隆寺のそれに比べると、
かなり大きい。しかし実に良く似ている。
それに何番か忘れたが、大きな釈迦の涅槃像がある。僕はこの前に立って、こっそり写真を写してもらった。そしてこれがアジャンタの唯一の記念になった。
この当時の仏教芸術は、ここからはるばる、日本までやってきて、日本で止まった。太平洋は渡らなかった。

ブッダン サラナン ガッチャミー   (仏に帰依したてまつる)
ダンマン サラナン ガッチャミー   (法に帰依したてまつる)
サンガン サラナン ガッチャミー   (僧に帰依したてまつる)

 断崖にほられた洞窟の奥に、祭られた釈迦像の番をし、説明していた中年の女性は、この三宝に帰依し奉るという経文を、ソプラノの美しい声で唱えた。それは洞窟の中で反響し合い、神秘で荘厳さを増した。よく問題にする仏の世界の音楽とはこのことか。
それだけではない。疲れた僕の心に甘露の雨を降らせた。聞きほれるというわけでは無いのに、疲れた体はくぎ付けになった。 
 
外は猛烈に暑い。しかし今の僕には暑さも、小商人がまつわりつく、
あのうるささも何も無かった。
あるのは耳の奥でわーん、わーんと響くこの経文の響きだけだった。
 
僕は三帰三きょうを唱えてみた。
でし、むこうじんみらいさい 帰依仏 帰依法 帰依僧
でしむこう じんみらいさい 帰依ふっきょう 帰依ほうきょう 帰依そうきょう
意味は同じだが、響きの美しさには雲泥の差があった。
女性は続けて三回歌った。いや唱えた。

 お釈迦さんの説かれたお経には、なん曲か、メロデイをつけて合唱曲を作曲した経験のある僕だが、これほど単純な節が、これほどまでに心に染みるとは思ってもみなかった。きっと今後作曲する際に1つのクライテリオンになるだろう、そんな気がして、そこを立ち去るのは勿体無いような気がした。

もし僕が現地の言葉に堪能なら、心からお礼をいったことだろう。しかし僕はお礼の言葉もかけずに、そして僕の感動を伝えることも無く、またドネーションもせずに、そのままそこを立ち去った。沈黙を保ち、感動を逃がさないように、他の事に気を奪われないように、自分を覆い囲んだのだが、あの女性に感動を伝えなかったのは、返す返すも残念なことだった。

 アジャンターの見学は3時間ほとで終わった。
エローラのカイラーサナータ寺院が持つ、男性的で迫力のある作りには、否応無く圧倒されて感動した。それは心臓が波打ち、呼吸が荒くなるような激しいものだった。それに比べてアジャンタの石窟で受けた感動は、低周波の振動のように、大きなうねりであった。波長が長いために深い海の底から伝わってくる、あの大きなうねりで、感動が体全体を包んでしまうようなものであった。動的と静的、と対照的に表現しても、その感動の大きさは優劣の差がでるものではない。

ブッダン  サラナン  ガッチャミー  (仏に帰依したてまつる)

ダンマン  サラナン ガッチャミー   (法に帰依したてまつる)

サンガン  サラナン ガッチャミー   (僧に帰依したてまつる)

春霞

2019年04月21日 | Weblog
バーべーキューができる大きな公園が家の近くにある。直径30cmもあろうかと思われる

大きな木が倒れたままになっている。この前に吹いた台風の風でなぎたおされたものだ。。

シャキッ、シャキッ、シャキッと音のする落ち葉をふみわけながら、バーべーキューが

できる広場へ行った。枯葉の上にビニールシートを敷いてその上に寝っ転がって空を見上げ

ると、春霞のせいか、空は灰色を通して青空が見える。

風は枯葉を動かして、かさかさと音をたてながら通り過ぎていく。

木々の先端から見える黄緑色の若葉は空、風と一体になって春真っただ中に、春のすべての

雰囲気を醸し出し、風はほほを撫でながら通り過ぎていく。

のどかである。新芽を出す春の息吹がすべてを覆う。心はいやされ、平安である。

さあ何を求めよう、考えようとしたとき、現在の時間というのはまさに至福の時である

ということに気づいた。

足元から幸せ感が立ち上り空に放たれていく。生きている喜びが体いっぱいに広がる

麗しの春、黄緑の春、至福の春。こんな日に出会うとやっはり、

生きていてよかったと実感する。

9-29 作詞祖父・作曲孫

2019年04月20日 | Weblog
100年前に死んだ祖父が詠み、残した短歌に曲をつけた。

作詞祖父・作曲孫。珍しい組み合わせである。 親子2代にわたって同じ分野、

例えば作詞なら作詞家、作曲なら作曲家でというのは、よく聞くが、

作詞と作曲が、祖父と孫、別々になっているのは珍しい。

祖父の詠んだ詩

「朝日さし青葉の色や 生きにけり。恵みに生きよ 人も草木も。」

を作曲してみた。

仏教に帰依して、感謝とか、仏の教えを 杖にして人生を生きれば安心(あんじん)がある

自然の恵み、世の恵み。その恩恵に感謝する気持ち、

そして感謝して生きようという祖父の心情や主張は自分も全く同感である。

幾多の試練を真面目に生き、誠実を旨として生きたような堅物居士だから、

孫が歌舞音曲に親しむのを嫌がったかもしれない。

これは他にほこるべきことではないことを重々承知しながら。

それでも、僕はレアケースとして自分一人で自慢に思っている。


87歳の車が暴走

2019年04月20日 | Weblog
東京池袋で87歳の車が暴走し,母子が死亡、歩行者が6人が 怪我をした。

いくら元気だと言っても、認知機能が悪くなったり 身体機能の低下などを考えると、

80歳を過ぎれば免許は 返納すべきものだと考える。

自分は事故を起こさないという自信があっても、それは自分本意のもので、客観的には

諸々の機能が劣っていると自覚すべきである。

事故を起こしてから、考えてみたところで どうにもならない 。

本人の自覚が大切なことは言うまでもないが、、、、。

ただし 地方の交通不便なところで 80歳以上の運転というのも 納得できる。

が、交通の便が良い、都会のど真ん中で 87歳がどうして運転するのか?

本人はもちろん、周りの人も強く免許返納をアドバイスすべきだった。

もう事故は起こってしまっている。

これから辛い日々が続くだろうと考えると

免許返納をしておけば、よかったと悔やむんじゃないか。

お互い高齢になると、認知機能や、身体機能が衰えてくるという認識が必要だし、

免許制度としても、80歳を限度として返納制度を設けてもいいのじゃないかと思う。

今回の事故を見ても、いつかは起こる事が予見できたはず。

被害者は言うまでも無く、加害者も生涯晴れる日はないだろう。