アウランガバードにて
私が思うに人間というものは何か意図があってこの世に出てきているということだ。また使命があってこうして巡礼しているようにも思う。もちろん自分自身の意志でしていることには違いないが、それでも一方では何かの大きな力に導かれてここまでやってきていると言うのが自分の素直な実感である。
アウランガバードはボンベイの北東約350キロくらいの所にある。大阪から静岡あたりまで行く距離である。エローラやアジャンタなどの遺跡を巡る基地のようになっている町である。ボンベイから夜行バスで発った。夜9時過ぎに出発したが着いたのは翌朝の十時過ぎであった。アウランガバードではツーリストホームに宿をとった。ここで私は一人の日本人女性に会った。彼女はもうかれこれ6ヶ月も一人でインドの佛跡を巡っているという。何が目的で?こんなにきつい旅を強いられるインドくんだりまで来て。
冷やかしではなくて、私は強い好奇心を彼女に向けた。この人は心の中に何か持っているに違いない。その何かは決してミーハー的なものではなく、多分私の心にずっしりと響く何かを持ってここまでやってきたに違いない。私は失礼にならない程度に踏み込んで彼女のことを聞いてみた。
彼女は要旨次のようなことを話してくれた。そして僕は深く胸を打たれた。
「日本に帰ったら福祉の仕事をしたい。こうして巡礼の旅を続ける間にずっと思い続けていることは福祉とは何か、と言うことです。この問題に関して私は自分自身の回答を得たいと願っています。確かにその道の学校に行けば福祉と言うものに関して教えてはくれるだろう。が私は自分の心の中に、本当の意味での福祉というものつかみたい。そう思うからインドへ来る前に、四国八十八カ所の遍路、千四百キロを一人で歩いて回りました。しかしまだまだつかめていないと言う感じがしたので、お釈迦様のふるさとをあるいてその御足をたどり、出来る限り仏教精神の真髄みたいなものを心に詰めて帰りたいのです。人が人のお世話をするというのはどういうことなのでしょう。やり方はいろいろあると思うけれど、私はまだ自分が納得できるような方法で理解が出来ていません。カルカッタのマザーテレサのホームにも立ち寄りました。確かに神は困った人を助けるのが人のつとめと説いています。お大師様はどのようにおっしゃってるのでしょうか。ご存じ有りませんか。」
「いやはや、貴方の方が僕よりもずっと勉強していらっしゃいますよ。話を伺っていて感じることですが、貴方は近頃の若い人になく深く物事を考えていらっしゃいますね。貴方のような人には滅多にお目にかかれませんよ。こんな格好をしているけれども実は僕も同じようなことを考えて求めています。
詳しくは知らないのですが人の喜びが我が喜びに成るというのは観音様ですよね。理想ではあるが我々はなかなかそこまで到達できません。いや、話がちょっと脇道にそれました。先ほどのおたずねですが、私の読んだ本(十住心論)によると第六住心は自分以外の人(もの)に対して慈悲の心を起こすと言うことですか、このあたりのことが貴方が求めておられることではないでしょうか。
人々が心の奥底に持つ菩提と言うものを、言い換えれば心の有り様を十種類に分けてそれを段階的発展的にとらえて説明しているのです。本能の赴くままに生きている動物的な人間の心、これが第一段階です。
第十段階(第十心論)ではまず自分が飛び込んでいく、、体を動かして飛び込んでゆくそうすることによって現実世界がそのまま理想世界となって現れる。自分の心を徹底的に極めていくと自分自身の中に悟りがあると言うことに気づく。つまり菩提心の自覚ですね。
体を動かしてそこへ入っていくと言うことなんです。難しいことで僕もよくわかりませんが、知識としては持ち合わせています。ほら、利他行とか菩薩行とかいうじゃありませんか。人間が求める崇高な理想です。」
「話や知識としてはわかったような気になりますが、真実心の底から理解しているかどうかと言うことを自問自答するときやはり自信がもてません。もう少し歩きましょう。インドのこの暑さを身に受け、歩き回っていると少しはわかるでしょう。」
「自分を鍛えると言うことは大変なことですが、それは実に尊いことだと思います。だがお釈迦様が難行苦行のおかげによって悟ったかというと、どうもそういうものではなさそうです。そこで言いたいのですが、苦行も程々に願いたい。もし貴方が文字通りこの暑さの中を歩くとすれば、いつか病に倒れはしないかと危惧します。人間はどんなに良いことを考えていても健康損ねたら何もできません。だからご存じとは思うが体だけはいたわってください。
もし差し支えなければ貴方の住所とお名前を教えていただけませんか。申し遅れましたが私は仏教歌曲を作る作曲家です。立場は違うけれども仏教精神を追い求めることは同じです。これからもお互いに自分の歩んだ道を話し合い、教えあいながら少しでも高い境地にたどり着きたいものですね。
僕は日本に帰ると今度こそ四国八十八カ所遍路をやります。インドとはまた違った何らかの啓示があるように思います。そのときには是非貴方に連絡を取りたいと思います。
あっ いけない。もう二時ですね。早く寝ないと明日は五時起きですよね。今日は長い時間、ありがとうございました。多分明朝はおあいできませんが、どうか気をつけて楽しい旅を続けてください。ご無事をお祈りします。ではお休みなさい」。
話はここまでで終わった。この人以外にもアジアを旅をしていると日本人に出会うがかってこんな会話を交わした経験はない。大抵は旅の情報で,安全に関するもの、食事の話,ホテルの快適さ、利用する交通手段の話、旅中でであった珍しい話や、面白い話など当たり障りの無い日常会話で終わってしまうのが普通だ。
僕は自分の部屋に戻りベッドに潜り込んだが先ほどの話が頭の中で渦巻いてとうとう一睡もしないままに朝を迎えた。
日本の国内で遍路や巡礼をしているならまだしも、インドまできてこんな話が出来るとは想像だにしなかったことだった。しかしインドでこの話が出来たのは何か不思議な気がした。
担いで言うなら、これはきっとお釈迦様が同じような問題意識を持つ二人を出会わせお互いの胸の内を語らせ、それによって仏教をより深く考えるチャンスを与えたもうたのだということだ。もちろんこの程度までの深みのある話を旅行者としたというのは生まれて初めてのことである。