日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

ふるさと賛歌6-39

2014年04月30日 | Weblog
ふるさと賛歌

梅田恵以子さん

何故か病んで床に付したときに、読みたくなる、エッセイ、詞、曲、写真からなるあなたの(ふるさと参加)は素晴らしい本です。

きっと病む身を、そして心を癒す力をこの書物は持ってるくのでしょう。
コスモスがラグーサさんによって日本で持ち込まれてから100年が過ぎたらしいが
、妙に頭に残りました。
あなたのふるさと紀州の風の音や波の音が耳を通り過ぎていきます。また野山の香り、人々の生活がないまぜになって香ります。本書を読むと音が聞こえ、目に見え、肌で感じる故郷があります。
大阪から白浜に行くために列車から眺めた風光明媚なきらきら輝く海や漁村がまぶたによみがえってきます。いや本書の中に吸い込まれます。こんな繊細なタッチから見て、さぞや乙女チックロマンチックな風貌で、多分柳腰のスリムなこ女性を想像します。ところが新聞社支局に鯛めしを差し入れ、忙しい忙しいを連発して記者を驚かせ、えらいおばさんがいるものだとびっくりさせる行動力と体力の持ち主だそうで、一体どんな姉御かと想像を巡らせます。

お下げ髪が似合う著者はもう齢80の坂を越えてご健在か?
50歳代に本書をものにされたあなたは人生の一山を超えられましたね。良い仕事を残されました。長い間読む人に故郷の良さや懐かしさを教え、ふるさとこそそこへ人が帰っていくところだとつくづく思いました。これからも何回も読ませていただきます。素晴らしいエッセーありがとうございました。



連休だと言うのに、

2014年04月29日 | Weblog
連休だと言うのに、

雨が降る。気分は晴れない。雨に濡れた新緑若葉は目に眩しいほどだけど傘までさして見に行こうとは思わない。人生は晴れの多い方が気持ちが良い。

曇りや雨しかないと言うような画一的な天気には風情がない。曇り雨晴れという変化があるから生活のリズムが出てこようと言うもの。そう考えて、この後季節に雨を避けて家にとどまるのも一計である。自然が織り成す野山や草木の衣替えを見て人間の心も衣替えするみたいだ。
日本には四季があって、季節ごとに独特の風情がある。1000年の昔から日本人はコノ風情を歌に詠み、自然を楽しんだ。それは文人墨客だけではない。名もない庶民もそれなりに日本の季節を楽しんだ。金があろうがなかろうが、地位があろうがなかろうが、万人の上に自然はあざやかに季節を巡らせる。平等この上ないことである。それを味わうか味わわないか、それは個人次第である。

連休6-40

2014年04月27日 | Weblog
連休

4月26日から今年のゴールデンウイークは始まった。寒かった冬も四月に入れば急速に交代し春から初夏にかけてのゴールデンタイムがやってきた。
青葉の山道を歩くもよし、川辺で水遊びをするもよし、海外旅行で日本を離れるのもよし。
気候と人の心があいまって、家族が全員集合できる好機である。
生活をするために労働することは不可欠だが、働くだけが人間のあり方じゃあるまい。このゴールデンタイムをうまくすごくことによって、家族の喜びを知り、これが日々の労働のストレスを解消する一助にもなる。
晩春から初夏にかけての10日間ほど、日本では季節を狙った長期休暇ははい。
山の日ができたら今度は海の日が制定されようとしている。それを如何にこなすかは個人の自由だが、公に休めるところに勤労者の喜びの一日になることは、間違いない。
西欧にはバカンスという長期休暇があって2,3週間の長期休暇が取れるそうだ。後追うになるが日本もこの4,5月の連休は日本流のバカンスでこれをうまく活用することによってさらに労働意欲が高まるならば、産業的見地からだけでなく、国家的な見地から見ても望ましいものである。
4月26日から今年のゴールデンウイークは始まった。寒かった冬も四月に入れば急速に交代し春から初夏にかけてのゴールデンタイムがやってきた。
青葉の山道を歩くもよし、川辺で水遊びをするもよし、海外旅行で日本を離れるのもよし。
気候と人の心があいまって、家族が全員集合できる好機である。
生活をするために労働することは不可欠だが、働くだけが人間のあり方じゃあるまい。このゴールデンタイムをうまくすごくことによって、家族の喜びを知り、これが日々の労働のストレスを解消する一助にもなる。
晩春から初夏にかけての10日間ほど、日本では季節を狙った長期休暇ははい。
山の日ができたら今度は海の日が制定されようとしている。それを如何にこなすかは個人の自由だが、公に休めるところに勤労者の喜びの一日になることは、間違いない。
西欧にはバカンスという長期休暇があって2,3週間の長期休暇が取れるそうだ。後追うになるが日本もこの4,5月の連休は日本流のバカンスでこれをうまく活用することによってさらに労働意欲が高まるならば、産業的見地からだけでなく、国家的な見地から見ても望ましいものである。

うらやましい生き方

2014年04月26日 | Weblog
うらやましい生き方

もうこの世は十分生きた。だから思い残すことは無い。あの世のことはなるに任せて.

黒田官兵衛

秀吉から次の最高支配者は黒田官兵衛だといわれながらも、何の未練も無く、福岡に引退する官兵衛の行き方には、共感以上に尊敬する。

高齢者の目

2014年04月26日 | Weblog
高齢者の目

自分を中心にして、全て読みとるので、世の中が変わったように見える
晴れ晴れとして輝いていた街の賑わいは変わらないが、それがくすんだものにしか見えない
。活力を失った高齢者の目から見る世界である。

ものを見る中心の自分が、年齢というフィルターをかけて物を見るので、くすんで見えるのは当然である。
壮年時代こそ物の真の姿が見えていたのかもしれない。いや壮年そのものがバイアスがかかっていたのかもしれない。こう考えると何がいつか真実味見えたのか甚だ疑問である。

究極において人間は真実を見ているのであろうか。自己というレンズを通してみるので、無理なのかもしれない。

オールド・ブラック・ジョー1-

2014年04月25日 | Weblog
     オールド・ブラック・ジョー


若き日早や夢と過ぎ 我が友 みな世をさりて

あの世に楽しく眠る かすかに我を呼ぶ

 オールド・ブラック・ジョー

我も行かん 早や老いたれば かすかに我を呼ぶ 

 オールド・ブラック・ジョー

これは黒人の魂の歌で、我々になじみのある歌である。この歌の中には、奴隷として虐げられた、黒人の切ない魂のあこがれが、うたい込まれている。奴隷生活の現実は、言葉で表せない厳しいものであり、その現実から逃れようとする魂の叫びが、歌になったのである。
全世界の人々の人権を守ると、自負しているアメリカにおいてさえ、過去にはこのような厳しい現実が存在した。
人間を人間として扱わない、白人の黒人に対する言いようのない差別、主にアメリカ南部を覆った、差別の歴史をこの国は持っている。この苦しい現実を乗り越えて、黒人は人権獲得に多くの血を流した。現実にはまだまだ差別は存在するだろうが、キング牧師らの努力の甲斐もあって、法律的な差別は過去のものとなって、今は建前は差別の壁が無くなっている。
 いきとしいけるものが皆、平等の基盤に立って、生活できることは良いことだ。生きていくだけでも、大変なことだのに、いわれの無い差別によって、さらに大きな荷物を背負わされるなんて、とんでもない話だ。そうでなくても、人生には多くの苦がつきまとうのだから。
生きる事に失望し落胆した人々は、この世を早く去ってあの世に、楽しく眠る人々に対し、憧れを抱くようになる。いやこれは奴隷になった黒人ばかりではない。白黒人種に関係無く,生きることの苦しみから解放されたい、逃れたいと願うようになる。

 彼女もそんな心境で、日々の生活を送っていたのだろうか。
彼女は小柄で、ぽっちゃりした体型をしていた。顔はお多福の面を想像させた。いつも物静かで、余りしゃべらなかった。口数は少なく、おとなしい感じの娘だった。
彼女は私が受け持ったクラスの生徒だった。本人から直接聞いたわけではなかったが、友人の話によると,実母は早く死んで、後妻つまり義理の母と一緒に暮していたが、この人が、何かと難しい人で、押し入れに入って何度泣いたかしれないということだった。
 親しい友人には、そんな苦しい胸のうちをもらしていたらしい。僕の耳にもそれとなく伝わってきた。可愛そうに、何時もそうは思ったが、だからといって特別なことは何もしてあげられなかった。彼女は不幸を背負いつつも、何の問題も起こさない、極く普通の生徒だった。

 たった今彼女の死を、友人からきかされたが、僕の感覚では十七八の若い身そらで死ぬなんて、不自然きわまりないもので、実感がわかず、ぴんとこなかった。
しかし級友は黒のワンピースを着ているし、今から彼女の告別式に行くという。僕はあわてて家にとって帰し、式服に黒のネクタイを締め、彼女の家へと急いだ。
もちろん告別式には間に合わなかった。

 彼女はすでにお骨になって、白木の位牌とともに、自宅に戻っていた。彼女の自宅は線路沿いの安アパート、いわゆる文化住宅である。細い道を尋ね尋ねて、自宅へたどり着いたが、そのときはもう皆帰った後で、寂しさが部屋一杯に漂っていた。
玄関の戸をノックすると、酒で顔を真っ赤にした年輩の男性が面倒くさいそうな表情をして出てきた。僕は自分がクラスの担任であること、彼女の急な死をしって、とりあえず駆けつけてきたこと、
出来ればお線香をあげさせてもらいたいと言った。
初めて会うのだが、この男は彼女の父親であった。めんどくさそうな顔をしながら
「それじゃあがれ」と言う。
 詳しいことは知らないが、この人は運転手をしていて、先妻つまり彼女の母親とは死別した後に後妻をもらって、生活していたということだった。彼女はこのなさぬ仲の中で、気を使いながら今まで生きてきて、持病の喘息であっけなく、この世を去ったのだ。

小さなちゃぶ台に白い布がかけられて、その上に高さ十センチくらいの、小さな箱に彼女は納まっていた。
 僕はお経を唱えながら、同時進行で彼女に会話を試みた。
「君は今この世の苦しみを抜け出して、平安の世界へと移っていった。もう普通の人間が持つ肉体は失っている。ひょっとしたら、君を生んだ母さんが、早くこちらの世界においでと招いたのかもしれないね。それとも、もう君はこの世がいやになったのか。苦しみの多いこの世で、生きる気力を失って、心の底では死を待っていたのか。君のような若さでこの世を去るというのは、僕には不自然きわまりない事だ。寿命まで生きて、死んだのとは訳が違う。君は今から人生の花が開く、夢多い青春のまっただ中にいたではないか。
それがどうして、こういうことになったのか。何か答えてくれ。
僕は悲しいよ。教室や授業では、個人的には話したことはなかったね。君のことは君の友人から、少しはきいていたけれど、深くは知らなかった。だって君、喘息で学校を休んだことがあったかなぁ。僕の記憶では、君にそんな持病があるなんて、全く知らなかったよ。もし命に関わる重大な病気を持っているということならば、それは必ず、保健か養護の先生から連絡があり、申し送り事項として、
生徒記録のどこかに記載されているはずだ。そういう記憶が、僕にはない所を見ると、学校を卒業してから、この喘息の発作が出たと言うことなんだろうか。
あっ。そうだ。もう君はこの世にいないんだ。寂しいな。君は誰にも打ち明けられない苦しみを一人で背負っていたんだね。せめて僕にでも少し位、話したら荷は軽かったかもしれないのだが。もうこの世とでは、連絡はとれないから、会話は無理かもしれないが。
なんとか気持ちだけでも伝えたいものだね。僕は若い人相手の商売だが、今まで17や18歳の人が死ぬなんて、想像だにしなかった。いや出来なかった。真実僕は驚いているんだよ。だがこうして、君の死という厳守な事実にぶち当たると、腹の底までこたえるよ。
十八歳で死んだ君と、オールド・ブラック・ジョウとは同列に扱えないにも関わらず、僕にはオールド・ブラック・ジョウの歌声が聞こえてくる。オールドブラックジョーは君の母さんだったんだ。
君よ、母さんとあの世で楽しく眠り給え。」
ほらほらまた聞こえてくる。
「かすかに我を呼ぶ、オールド・ブラック・ジョウ」のあの歌が。



























 蛇と縄1- 

2014年04月24日 | Weblog
        蛇と縄 


南九州は暖かい。冬は2月までで終わり、3月になると、ぐっと暖かくなる。
ぽかぽか陽気に誘われて、春先になると冬眠していた蛇が、太陽に照らされて暖かくなった、人の通り道に寝そべっていることがよくある。
 たぶん中学生ぐらいの時のことだったと思うが、鼻歌を歌いながら歩いていたら グニャと異様な感覚が足の裏から伝わってきた。私は咄嗟に蛇をふんだんに違いないと思って大急ぎでその場を飛び跳ねて逃げた。
恐る恐る本の場所に戻ってみると蛇は動かないで、そのままじっとしている 。近づいてよく見ると、それは大きさも色も蛇によく似た縄切れだった。蛇と縄切れはとてもよく似ていた。
「なんだ。縄か」。一安心したが、ふんづけだときは実にびっくりした。足の裏には、まだあのぐにゃっとした感覚は残っている。
 縄切れなのに、どうして蛇とに間違ったのか。僕はこのことを今でも考え続けている。目には縄として映っていたはずである。 だが僕はそれを蛇と認識してしまった。
明らかに事実と、認識したものとでは、違いが生じている。目に映った物体の事実が、認識される過程において類似のものに変更されてしまったのである。
だとすれば認識の主体は何だろうか、たぶんそれは脳だろうか、それ以外のどこかにある種の意志が働いて縄が蛇になってしまったのだろう 。これは縄と蛇に限らず、枯れ尾花を幽霊に見間違うことと、同じ理屈に違いない。

じゃ脳に働く意思とはなんだろう 。目に映った像に対して脳のどこかに命令判断する部分があるのではないか。たいていは見たものをそのままに認識するようになっているが、時として映った像を別のものとして、認識することが起こる。
目に映った像は紛れもなく縄であるが、脳が認識する過程で、ある種の力が働いて 縄を蛇と認識してしまうのだ。
ある種の力とは、その時の置かれている状況によって心の奥底に潜む心理的な力が、意思として働き、誤った認識を生じさせるのではないかと思う。
ただしこの場合、自分の意志を自覚できないままに、人は自分が見たものは真実だと思う。
縄(真実)を蛇(判断が加味された真実)と認識するから次の行動として、びっくりとびっくり声が出るのだ。つまり人は真実を真実として認識するとは限らない。言い換えれば人の認識には真実の認識と錯覚による認識がある。
人の見た事実は、それが真実である場合もある、錯覚によって作られた事実の場合もある。ところが人は自分の見たものは、真実であると信じて疑わない。

世間虚仮 唯仏是真 これは聖徳太子の言葉である。
人間の世界は真実で満たされているのではなく、人間そのものが不確かで、時として錯覚の上に世界を構成展開する。これは不確かな世界であてにはできない。にもかかわらず人は自分の認識の正しいことに拘泥される。だから人間世界は矛盾に満ちているのである。
つまり我々が住むこの世には、もちろん真実はあるが、それを認識する主体、言い換えれば
人間は不確かなものであるということに気づくべきだと思う。
今まで私は自分の五感に触れるものは、それがそのまま真実と思ってきたが、こういうことを考えると、果たして自分の認識に、それを真実として、100%の信頼を置いて良いものかどうか。自信が無くなってきた。もし自分の五感があてにならないということになれば、いったい何を信じたらよいのか。
 あいまいな自分の認識や、それに基づく判断から身を守るためには、物事に頑迷にこだわる態度を改めるべきだ。ということは頭のどこか片隅に疑念を抱く部分を残しておくということだ。今後起こりうる自分のこと、他人のことを判断する際には、すでにこの部分(事実)から光を当ててみる習慣が必要だ。そしてそれはすべてに対して猜疑心を持ち続けるということではない。
そういう次元ではなくて、人間は不完全なものだということを常に念頭に持っておくということが大切だと思った。
聖徳太子の言葉 「 世間虚仮 唯仏是真 」
、こういうことを考えてみると、改めて聖徳太子の偉大さが身にひしひしとしみこんでくる。
























(深い川より) チャムンダー1-

2014年04月23日 | Weblog
(深い川より) チャムンダー

インドから帰国して、僕はインドに関する本を何冊か読んだ。
本の中に描写されているインドの風景だの、インド人の人情や物の考え方なりを、自分がインドで経験したものと比較検証したかたったのである。
中でも狐狸庵先生の、『深い川』にはホテル・ド・パリの描写が僕が見たとおり、実に正確に描かれており、これには驚いたというより懐かしかった。
ふんふん、そうだそうだ、僕は本の中に引き込まれて行った。中でもこの中に描かれているチャームンダという名の女神には深く心奪われた。
日本では女神と言うものはどんな神でも、美人で柔和に描かれいて、その表情には苦悩の跡がない。すくなくとも僕が知っている女神はそうである。
ところがチャームンダは違う。全身創痍の苦しみを背負い、その苦しみに耐えてはいるが表情に苦悩がまざまざと表れている。胸近くにはさそりが噛み付き、両足は腐りかけて赤く腫れ上がっていると描写されている。
自らをそこまで痛めつけながら、その苦しみの中にあってなお、現世で苦しみもがく人達をすくわんとする貴い姿こそ、この像の真の姿であることを知ったとき、僕は深い感動を覚え、思わず写真の中の像に手を合わせた。
これこそ本当の神である。我々とともに生き、苦しみ、ともにもがき、ともに悲しむ姿こそ百万言よりも説得力がある。
現世、この娑婆の世界で、もがき苦しむ人々と同じ次元の世界に住み、同じ次元に立ち、同じ苦しみを味わい、苦しみに顔を引きつらせ、それどころか民衆の何倍もの苦しみを背負い、しかもそのうえに、苦しむ人々を救おうとする強力な意志をもち、敢然と苦しみに立ち向かう貴さを、何故僕は見落としたのか、何故その表情から苦悩を読み取らなかったのか、僕は非常に残念に思った。
単に像を目で見るだけなら小学生だって出来ることだし、することである。その像に託された作者の意図、願い、希望など、要するに作者の目的を何故探ろうとはしなかったのか、作者はこの像を作り何を言いたかったのか。こういうことに思いをいたして初めてこの像と対面した値打ちがあるというものだ。
実物はデリーの博物館にあるそうだが、見ないままに帰国してしまった。次回インド訪問の時は必ず見たいものである。

大分長い間大阪市内の映画館では、『深い川』が上映されていた。それは新聞の広告で知っていたが、そのうちに、そのうちにが重なって、ついつい見逃してしまった。
僕はどうしても見たかったので、ある日、わざわざ電車にのって遠い貝塚まで見に行った。興業はよい『映画を勧める会』みたいなところが主催して観客の層は五十歳代以上の年齢層の人達に限定されていた。
彼らは映画が終わると、考えられさせられた、と一様に口々に言いながら帰って行った。 人々から漏れ聞くまでもなく、感動もので、いい映画であった。
僕はと言えば、実際に訪れて、感激を受けたバラナシの沐浴風景や、町の様子や、ホテル・ド・パリを知っているだけに、その場面が映るにつけて懐かしさが込み上げて来て、遠くでおぼろ気にかすみかけていた記憶は鮮明に蘇って来た。
特に印象深かったのは、やはりチャムンダーという女神である。
映画で映ったあの場所に安置されていたのかどうかはしらないが、満身創痍の苦しみを体全体で表しながら、なお現世に苦しむ人々を救おうとふんばる姿は、映画であるとはいうものの、思わず合掌したくなった。
インドは現在の日本に比べて確かに貧しい。カルカッタでも、バラナシでもよい、町を歩けばその貧しさは一目瞭然だ。貧しさのなかで苦しむ人は多いが、特に女性はいまなお根強くのこる、カースト制度という社会構造からくる重圧に抑圧されながら、この女神の苦しみのように現実生活の貧困の中で苦しんでいる人が多いことだろうと思わずにはいられなかった。
ところで我々日本人は女神というと、端正で美しい女人像を思い起こす。すくなくともチャムンダーのように苦しみもがく女神など、お目にかかったことはない。どの女神も美人で、いかにも福ふくしく柔和である。弁天さんにしても、観音さんにしても、吉祥天女にしても、みな見とれるほど美しい女神像ばかりである。拷問を受けている真っ最中のような苦しみの表情をしている女神などお目にかかった事はない。そういう意味からすると、日本の女神さんは神の世界の住人であり娑婆の住人とは違っている。ところがインドでは、この女神は娑婆の住人もいいところで、人間世界、特にインド社会の日常生活のなかで、のたうちまわっているインド女性の苦しみを一身にうけて、現実そのものを表しているようだ。
インド女性が天上世界の女神よりも、ともに苦しみもだえる地上に、このチャムンダー という女神の出現を願望して、この女神を迎え、作り出し、親しみを覚え礼拝供養して、救いを求めるのは人情の自然にかなっていると僕は思った。
僕はこのチャムンダーこそが真の意味で救済の女神だと思う。神が姿形をとって人間を救済している瞬間を目撃したことなどないが、チャムンダーこそは神が人間を救済する姿かもしれない。
『深い川』はクリスチャン、狐狸庵先生の作品だ。先生はさすがに目の付け所がちがう。 僕はかぶとを脱いだ。






おみくじ 大凶3-1

2014年04月22日 | Weblog
おみくじ 大凶

古い話である。もう名前はお忘れた。なんでも、かなり山深いところにある神社の話だっ
たが、北陸か、信州か、そのら辺りの神社だった.と思う。

この神社にはかなり以前から、子牛ほどもある白キツネが住んでいるといううわさが
絶えなかった。村人の何人かはそれを見たというが、通常の常識をはるかに超えていたので信じる人は少なかった。狐と言えば、人は常識として、犬ほどの大きさだと思うし、白色ではなくてキツネ色を想像する。

ある日この神社の本殿の裏で、首を食いちぎられた、女の死体と、その横に口を人間の血で真っ赤に染めた、子牛ほどもある大きな白キツネが息も絶えだえに横たわっているのが見つかった。
自殺したのは50過ぎた女だった。大量の睡眠薬を飲んで死んだ。致死量の何倍もの睡眠薬の空瓶が3つも脇に転がっていた。が、死因に付いては疑問があった。彼女が意識不明の時に、狐が首を食いちぎったのか、それとも完全に死体になってから、きつねが食いちぎったのか、いずれにせよ、狐にもまた毒が回ったのである。そして狐も間もなく息絶えた。

彼女の手にはこの神社の大凶のおみくじが握られていた。
もしこのおみくじが大吉ならひょっとしたら、彼女は生きる勇気を得ていたかもしれない。そうだとすれば神社も罪なことをしたものだ。神社が人の死を後押しした形になった。神社が人の死を後押ししてどうなるのか。生死の瀬戸際に立った人の背中を大凶のおみくじという風が1押ししてしまったのである。神の言葉というおみくじは暗示を受けやすい人にとっては、何らかの判断を強いられる人が迷い回っているという状況の中では、時として決定的な役割を果たす。そしてこの件で、村ではしばらく論争が続いた。

さてこの事件が起きてから、このことについては、いろいろ報道されたが、彼女の事についてはプライバシもあって、明らかにされなかったのでこれから先は私のフイクションである。

 彼女は生まれて間もなく両親に死別した。施設で大きくなった彼女は年ごろになって、
恋愛をして人並みに結婚したが、子供が生まれなかったということで離婚されてしまっ
た。その後いろいろな職業を転々として最後には飲み屋を経営したが、悪い奴にだまさ
れてすべてを失い、大きな借金だけが残った。
サラ金の取り立ての厳しさは日を追ってまし、また背負い切れないほどの気苦労で、神経は極度に疲労した。食欲不振と睡眠不足が続いて正常な感覚で生活する感覚を失っていた。 彼女は崖縁に立たされた。運が悪いというのか、彼女自身の生きる力が弱かったのか、その間、幾人もの人に出会い、救いを求めるサインを送ったが、だれもそれに気付かず救いの手を差し伸べてはくれなかった。

さらに悪いことには、彼女自身が女盛りを過ぎて50の峠にさしかかり、更年期障害の状態のうえに、すり減った体と心を抱えていた。
人はだれでもこのような状態になると精神的に不安定になり、死を考えるようになる。現
世の苦しみを逃れて、死ねば極楽へ行けると希望をつなぐか、そうだと信じて、生と死の
境をさまようのが こういう状況に置かれた人間のふつうの心理であろう。
この点彼女も並だった。しかしもし彼女に身内がいたならどうなっていただろうか。
人間って苦しい状況は何も変わらなくても、自分の苦しい胸の内を相談に乗ってもらえる人がいたら、大分救われた気持になることだってある。また親身になって相談相手になってもらわなくても、最低話を聞いてもらえるだけでも、すっとすることだってある。
 自分の胸のつっかえを吐き出すだけでも、大分楽になることもある。運が悪いというのか、ついてないというのか、そういう運命だと言うことなのか、天涯孤独の彼女にはそこのところがなかった。恐らく最後は神さん頼みでおみくじを引いたのだろうが、最悪の神示が出たのだ。おみくじは大凶だった。
彼女は誰に相談することもなく、万策つきて死を選んだんだろうが、何とも悲しい話である。考えてみると条件が悪すぎる。勢いの盛んな年代から、下りに坂にさしかかって、身体が変調を来している所へ、それもだまされて背負わされた借金があり、加えて天涯孤独という境遇で身近に信頼して相談する人もなく、全てを己一人が背負い込んで、どうにもならない所へ自分を追い込んでしまったのである。
彼女は都会を逃れて、縁の薄い父母のふるさとである、この近くの村を訪ねて帰ってきた。
なにがしかの希望の糸をたぐってはみたものの、何の希望の光が差すわけでも無かった。彼女の回りは全てが暗闇だったのだ。
死を覚悟して、彼女は大量の睡眠薬を飲んだ。そして意識がもうろうとして息も絶え絶えになった頃に先ほどの大きな白キツネに出会ったのだ。
彼女が大量の睡眠薬で死にかけているときに、白キツネは動かなくなった人間を食いちぎった。 彼女が用いた睡眠薬はあまりにも大量だったので、首を食いちぎって血をすすっただけで狐にも致死量の睡眠薬が回り始めたのだった。

口を人間の血で真っ赤に染めた白キツネが村人に発見されたときには、狐はまだ生きていたそうな。しかし誰も解毒剤をあたえなかったので、噂の化け物狐も程なくして死んだそうな。 彼女がまだ意識のある内に、この白キツネにかみ殺されたのか、それとも彼女が完全に事切れてその後に、狐が食いちぎったのか、その辺はつまびらかではない。

此の神社の森には子牛ほどもある大きな白キツネが住んでいるという噂は単なる噂ではなく、真実であった。これを疑う村人は今では、もう誰もいない。

彼岸花6-42

2014年04月21日 | Weblog
           彼岸花
 
彼岸の頃になると天は高くなり 空気は澄む。稲の匂いがする。 秋のにおいだ。
 大川の土手や、田の畔には、今年もまた、曼珠沙華の花が真赤にもえた。
 大川にはひと一人が、やっと通れるぐらいの橋が架っていた。その橋を、ダラダラっとくだってくると、少さな御堂があり、その横には、お迎えの仏さんが二体 合掌して、前かがみの姿で立っていた。
 石造りの、そのお迎え仏は、恐らく観音さんだとは思うが、今はもう記憶がさだかでない。
 その観音さんの前を通りすぎると、奥は墓になっていた。
その墓は時代もので、石碑に彫られた戒名や
享年は、風雨にけずられて、字が読めないものが多く、やっと読める文字でも、天正だの、元和だの
享保だの、それはそれは、昔の古い墓が多かった。
そんな苔むす墓に根をおろしたかのように、
彼岸花は、あたりを血の海に真赤に染めて、まるで、狂ったように咲いていた。  
 ゴンシャン ゴンシャン  どこえ行く。赤いお墓の彼岸花、地には七本、血のように・・・.略

忠さんは死んだ。まだ三十オにもなるか、ならんかだのに。
 忠さんは死んでしもうた。
 彼は生れつきのテン力ン持ちだった。大川で魚取りをしている時に、発作がおきて、おぼれてしまったのである。
 小雨のそぼ降る、秋の日に、彼の野辺送りは執り行はれた。
 どこでどうなったのかよくわからないが、私は彼の葬列に加わって、墓地までついて行った。
 墓地には、穴がほってあり、ドラがチンドンガラン、チンドンガランと激しく打ち鳴らされた後で、
彼は座棺に入って、この墓地に埋葬された。
  彼岸花は彼の生血を吸ったかの如く、以前にも増して鮮やかな赤にもえたった。

 色も形も大きさも、ヒゲまでも、そっくりである彼岸花の球根と、コイモとは正常な者でも、見分けるのがむつかしい。
 目のわるい祖母が両者を見分けることは、なをさらむつかしい。
 案の上、祖母はかやく飯を炊く時に、コイモと
彼岸花の球根をまちがえて、一緒に炊きこんだ。
 
 昼休みに、学校から帰ってきた私は、祖母の作ってくれた、彼岸花の球根入りの、かやく飯をたべて、学校へとってかえした。
 着くなり、胸がムカムカして、私はガっともどした。先生のはからいで、早退して家へ帰った私は、
そこで異様な光景をみた。
 昼御飯を食べた家族は、皆ゲー・ゲーやっている。母も祖母も幼稚園の妹も、皆ゲロゲロやっている。 乳を飲んでいる弟以外、あのかやく飯を食べた者は、一人の例外もなく、皆もどしたのだから、犯人はあの球根だということがすぐわかった。

 さて今度は誰が球根をまぜたのかと、いうことだが、その犯人は祖母だということは、一目瞭然だった。
 名ざしされるまでもなく、祖母は自分がまちがって混入したことを認めた。

 彼岸花はこわい。私はあの時から、彼岸花を見ると、忠さんの葬式と重ね合わさるので、彼岸花を見るのをさけてきた。
 加えて彼岸花は無気味である。
葉が一枚もない。土中からまっすぐに茎がスゥーっと伸びて、先に真赤な花が咲く。
 それも一本の茎にモジャモジャっとした花弁が何本か集って、一つの丸い輪の花を作っている。
 遠くから見れば一つの花のように見えるが、虫もよりつかないのではないか。
.暑さ寒さも彼岸まで。
 忠さんも祖母も、とうの昔に、土に還っている。ひょっとしたら、彼岸花の一部となって、毎年秋の彼岸には、この地上へ再びもどってきているのであろうか。
天高く空の澄む秋、彼岸花が咲いているのを見ると、私はいつも忠さんの葬式と、毒入りかやく飯と祖母を思い出すのである。

ゴンシャン.ゴンシャン ー略ー ひとつ摘んでも日は真昼 ひとつあとから
またひらく、、、









          

 
         



自由に生きる山頭火1-

2014年04月19日 | Weblog
            自由に生きる山頭火


 ゲタをはいて、着物を着た人が、大山澄太、その人だとは私は知らなかった。
 中々上品な風貌で、知性が漂っている。
とても八十歳を越えた人には見えない。
「お宅も作曲したりして、自由人ですな。」
「いやいや、これでなかなか苦しいんですよ。」
「延命十句観音経が合唱曲になるなんて、びっくりしましたよ。なかなかやるじゃないですか。」
「ありがとうございます。この娘たちは今日もコーラスで、延命十句観音経を歌いますが、いま手元にこの娘たちが吹き込んだテープがありますので、差し上げたいと思います。どうか貰っていただけませんか。」
「それはどうも、ありがとう。松山に帰ったら、
山頭火の本を送りますよ。お礼に。」
「それはそれは、ありがとうございます。
どうかよろしくお願い致します。」

 間もなく、松山の消印の押された小荷物が私の手元に届いた。
茶色の紙に、紐を掛けた包みをほどくと、本が2冊出てきた。その本のページには、便せんにひょうひょうとした文字で、本を贈る旨が書かれていた。
多少とも仏教と芸術に関心を寄せている私ではあるが、山頭火は失念していた。
 緑色の表紙には、黒い文字で山頭火と表記されている。


 山頭火。漂白の俳人。頭蛇袋を首から下げて、日本全国を放浪し、心に去来する想いを、自由律の俳句に託した徹底人。
 その生きざまは西行にも似て、一種のあこがれさへも感じさせてくれる。
自分の人生、時空を含めて、自分の欲するままに生きた人。
 生涯は貧しさと引き換えに、いつも心の自由を確保していたことだろう。
 
 山頭火の友人であった大山澄太も、彼にあこがれて著作したのだろうが、私も同じく、彼の心の自由さにあこがれている。
 生き方をよく考えて、人生をすごさくちゃ、とつくづく思った。

 山頭火は私に良い見本を、見せてくれている。
大山さんも良いことを教えてくれたものだ。
そういえば、かって、山田耕作先生は
「歌詞といえば、詩人はすぐ定型に当てはめて作ろうとするが、付曲する側、つまり作曲家は定型に縛られて、たまるものか。
 メロディの流れには、それ自体に必然性があり、定型よりは、自由律の方がよい場合だっていくらもある。」といわれたのを思い出して、
大山さんの「山頭火」を大変ありがたく思った。

  メルヘン

2014年04月17日 | Weblog
            メルヘン

子供のころには、大人になって考えてみると、理解できないようなことを考えたり、信じたりにするものだ。
現実にはおそらく、この世には存在しないであろう世界に自分を引きづりこんで、その世界を現実の世界だと信じこむ。

つまり、客観的な世界と主観的な世界の未分化である。そしてこの未分化の世界こそが、メルヘンの世界である。
メルヘンの世界は意図的・無意図的に願望の世界であるから、主観性が非常に強い世界であり、これは我々大人になって、客観的な世界に飛び込んで生活をするにもかかわらず、へその緒みたいに、我々の心の中に強く結びついている。

 本質的に主観性が強いとされる、女性においては、このへその緒は、かなり太いのであろうか。往々にして、女性はこの世界に足をおろして立ちながら、現実の世界で生じるもろもろの事象に対し、判断を下すのでほほえましい場面が生ずる。

 「そんなのはメルヘンの世界だ」という言い方で、その世界に住むことがあたかも悪い、少なくともレベルの低いことであるかのように、我々は言うが、一概には悪いとも言えないようである。
それどころか、厳しい現実ばかりを眺めていると、我々は人生に夢を見いだすことが難しいように、悲観的になってしまうが、おそらく現実には存在し得ないであろう観念の世界に浸って、我々は航海で疲れた船が港で休むように、メルヘンの世界に遊ぶことによって、心が癒されているのである。

 極端につらい現実に浸かってもそうだし、冬の日光を背にうけて、うつらうつらする時も、メルヘンの世界に遊んでいることが非常に多い。そしてこのことは後になって判ることが多い。

ともあれ、神は我々人間男にも、女にも、メルヘンを与えてくれた。現実の場面で、メルヘンの世界の話をされると腹立たしく思うこともあるが、なかなか楽しいものだから、これは大切にしたい世界である。




















  雲南航空

2014年04月16日 | Weblog
       雲南航空

 安いだけで、サービスは不要、という人は雲南航空に乗るべきだ。ガラガラの席にもかかわらず、サービスの悪いこと、悪いこと。
 
飲み物を出してすぐに、食事を出す。隣の席に食べ物をおいていく馬鹿がどこにあるんだ。食べ終わらない内に、食器を下げてどうする。鶏に餌をやるのとは、訳がちがうのだが、彼女たちのサービスはこの程度の域から抜けていない。
 つまり、おおうよそサービスというものが分かっていない。
 
快適に空の旅を楽しんでもらう為に、自分の仕事があるのだ、という感覚が欠如している。

もしこう考えれば、今、自分は客に対してなにをすれば良いのか、が自ずと判ってくるはずである。それは訓練を受けたかどうか、以前の問題である。
 経済の原則は、安くて良質の物や、サービスの提供がどこまで出来るかで、決まる。

もし中国雲南航空がタイ航空と競争しようものなら、ダントツの差が付いて勝負が決まるだろう。
 
これはサービス以前の問題だから、国情というのだろうが、今のままをやっていると、中国雲南航空は何年経っても、空の競争には勝てないだろう。

機内サービスの悪さにむしゃくしゃしている僕は腹の内で、雲南航空をけちょんけちょんにけなした。いろはのいが出来ていない人間に向かっていくらサービスの重要性を説いたところで、理解されないだろうし、心のこもるアドバイスでも、彼女達にすれば立腹の種になるだろう。

言わないが良い。ほっとけばいい。のど元まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。

ダブルブッキング

2014年04月15日 | Weblog
ダブルブッキング


 遅れることはあっても早くなることはない。けれども、ぼくは落ち着かなくて、目と鼻の先にあるプネ駅へは一時間以上も前に着いた。

 インドでは何が起こっても不思議ではない、というのが僕のインド観である。前回のインド訪問で僕はのことをしっかり頭に叩き込んでいる。あつものに懲りてなますを吹いているが、そのくらいでちょうど良いのが、インドの旅のタイムスケジュールだ。
 
 列車は定刻より1時間遅れで発車した。僕は車番を間違わないように何回も自分の名前が書かれているデッキの入り口に貼ってある、座席シート表で座席を確認した。33番。これが僕の席である。
 
 33番へ行ったら若い女がでてきて、ここは違うという。チケトに表記された番号を示してここだと、いったら他の席だという。念のため僕はもう1度予約シートを見に行ったら、その女の連れあいに出会った。彼はミスターの席はこの列車の33番だと言った。彼と一緒に座席に着くと女はもう何も言わなかった。やれやれ。これで明朝8時から9時にバンガロールにつく。約1000キロの旅だ。
 
 地図で見ると、プネからバンガロールまでは近いが、走れば1,000キロメートルの旅である。下関から東京へ行く距離だ。さすがにインドは広い。冷房は穏やかに効いていて居心地がよい。ああ、極楽。

 先程は駅まで歩いて10分もかからないというのに、汗だくになった。インドは日が昇ると暑い。日が沈むとさわやかになり、夜から朝にかけてはかなり気温が下がる。昼は35度以上あっても、真夜中になると25度以下まで下がることだってある。ファンを回したりエアコンをつけたりしたままで、水シャワーを浴びて、そのまま部屋に入ると寒くて身震いすることも何回かあった。

 ビヤ樽は僕にチケットを見せてくれと言った。僕はチケットを出しながら自分の座席は33番だと指さした。彼は2人分のチケットを示しながら、34番、33番だという。

 あれ、ダブルブッキングじゃないか。今さら俺の席だと言われてもハイハイというわけにはいかない。僕は少々あわてた。が、彼にとにかく座っていて、車掌がきたら聞いてみようと提案した。彼もそうだといった。
 なりは粗末だが、乗客にあれこれ説明していたから、てっきり車掌だと思ったので、この問題についてその彼に話をしたが、要領を得ない。彼は車掌の補助員で毛布やシーツを配りに来た。そうだったのか。だからわからないはずだ。僕は納得した。

 その後でチケットチェックに来た人は制服を着ていた。
 ビヤ樽は車掌にしきりに説明している。車掌は33.34と書いたチケットを見ながら、うなずいている。僕は自発的にチケットを見せて33は僕の席だと主張した。しばらくすると車掌は46番に移ってくれと言った。ただそれだけをいって詳しい説明をしなかった。

 どんな席かわからなかったが、僕はしぶしぶ荷物を持って46番を探したら、なんと1人用のシートである。これはありがたい。
 座席を寝台に作りかえ、毛布を重ねて枕を高くして横になった。ここは列車の出口に1番近いところなのでエアコンが効きすぎている。そういうマイナス面もあるが、窓の位置がちょうど顔の位置で、寝ながらにして外の景色が楽しめる。エアコンのため窓を開けるわけにはいかないが、サンシールの張ってある窓からは、外の景色がみんな黄色がかって見えた。
 
 やっと落ち着きを取り戻した僕はシートの移動について考えた。ムンバイで取ったチケットは2人用寝台である。つまり4人掛けのうちの1人が僕である。この一画はすでに新婚旅行の若夫婦が二席をとっており、残る二席が僕と他の1人という形になっていた。
 そこへビヤ樽夫婦が来たのである。チケット売り場では、気を利かして
夫婦に33.34番の席を売ったもんだ。そこで彼は僕に座席ののチェンジを申し込んだのだ。だが僕は意味が分からないから、ここは僕のシートだと一歩も譲らず頑張った。インド英語を解し得ないとこんな馬鹿みたいなことが起こる。
 
 おれたちは夫婦連れだから同一区画の上下で寝台が欲しいんだ。君は1人ものだから、チェンジしてくれても実害はないはずだ。俺達は別々の席よりはこのほうがいいんだよ。

 言葉が分かれば、たったこれだけのことなんだ。が、意味がよくわからなかったばかりに、ダブルブッキングだと車掌にクレームを言わなくちゃなんて大げさな自分に僕は苦笑した。結果として僕は得をした。

 ひとりで景色を楽しみながら体を横にして、ペン走らせることができたから、コルカタからムンバイまでの2,000キロを二晩列車で過ごし、さらにムンバイについてからは、その晩の夜行バスで13時間かけて、徹夜でアウランガバードまで走った。なれない土地でスケジュールに縛られて、すべてを忘れて突っ走った。当然疲れた。特に睡眠不足からくる神経の高ぶりは簡単には鎮まらなかった。不便、暑い、汚い。そのどれもがいらだちの原因だった。

 だが今は違う。エアコンのよく利いた1人用の寝台で景色を楽しみ、列車に揺られながらエッセーを書く。暑かろうが、寒かろうが、汚かろうが、清潔だろうが関係ない。このコンパートメントこそが地獄の中の極楽なのである。

 列車は1時間遅れのままで走っている。18時だというのにまだ日が暮れない。もう少し立てば真っ赤な火の球となって地平線に落ちていくことだろう。外は何百キロ走っても似たような風景だ。果てしなく続く平野は熱帯の樹木と、畑と、実った小麦と、レンガ造りの粗末な家いえ。
 暑さにもめげず働く真っ黒な農民の姿。川もなければ海もない。何の変哲もない画一風景。林もなければ森もない。そのくせ所々に蛍光灯の明かりが見えるのは、何かアンバランスでユーモラスだ。列車は荒野を疾走している。初めて極楽の旅をさせてもらった。これもインドの旅なんだ。旅にも色々あるなー。


K子さん第2信

2014年04月14日 | Weblog
和世さん第2信

あなたがマーブンクロンで、マッサージしてみたい、といった言葉が耳に残っています
。もう少し時間を上手に使えたらよかったのに、あの時間から30分マッサージを受けていたら、たぶん死ぬほど慌ただしい旅立ちになったことでしょう。でも僕は次回ご必ず案内します。昨日16番のバスがスリーウオンを通ったとき、タニヤ パッポンのほうを指さしたが、すこしでも覚えていますか。
あのときに有馬温泉の話をしたと思うが、今日伊勢丹の前のナライパンに立ち寄って、それから歩いてエラワンの神様の見学に行きタイダンスの奉納をしっかり見てきました。
そしてみんながしているように、僕の思いがあなたに届き二人はよい中になりますようにと願掛けしてきました。
暑い昼下がりだったが、演奏やダンスやお参りにくる人々を眺めて、ときお忘れました。エラワンの交差点からいっしょに行ったサイアムスケアのマーブンクロンに立ち寄り
ざるそば ならぬザルラーメンンを食べたが味がよくとてもおいしかった。それから16番のバスでスリウオン通りにある有馬温泉に行きました。その時の様子はタイマッサージで詳述しようと思います。
結果だけの報告になるが、僕には快適そのもの。足のほうからもみほぐして体の上のほうへ、特に肩こりがひどかったので、そこをしっかりやってもらいたかったけれど、我慢すると後に得もいえぬさわやかな快感があり、何回も居眠りしていたみたいです。カオサンは160バーツですが、それとは違ってしっかり訓練されたマッサージ師が精一杯力を込めてくれたので肩のこりはほぐれたようでした。
次回への期待もあるが、できるものなら今回ご一緒したかった。料金は1時間220バーツですが、チップを要求されます。チップの習慣のない日本人にはどれだけ、払えばいのか、わからず前回20バーツあげて喜ばれたので、今回も20バーツ渡したら突っ返されて100バーツ要求されました。ちょっと嫌な気分になったが、それなりの仕事ぶりだから小銭をかきあつめて、みなあげました。そのぐらい値打ちのあるマッサージだったから、明日もいくように予約してきました。明日は12時に部屋、をチェックアウトして、荷物はフロントに預け、2時間のマッサージをしてみようと思う。たぶん2、3カ月はバンコクに来れないと思うので、タイ土産にしたいと思っています。
それにしても不思議な出会いでしたね。もう1日早く出会えていたら、僕の知るかぎりのバンコクの穴場を紹介してあげたことだと思います。あなたはきっとタイマッサージの虜になると思います。大げさではなくて、僕はあなたのような知性のある女性が好みです。というのはいろいろ話ができて、それによって僕はいっそう深められるような気がするのです。惜しむらくはあなたから見ればツー・オールドかもしれませんが、僕は今こそ僕の青春だと思っています。きざっぽい言い方になるが、僕の28歳は勉強に明け暮れして、恋をする暇も心の余裕も何もなかった。今からふりかえってみると、それほど学問は大切なものかと思わないでもないが、ガールフレンドでも作って青春を謳歌している人が人生どれほど楽しかったかもしれない。でも時代も時代ですから、あきらめてがいるが、その代わりそのときに蓄えた女性のあこがれは決して失っていません。恋愛感情を大切にして、恋の喜びで自分の命に潤いを与えたい、ずっとそんなことを考えながらときを過ごしてきました。そんな気持ちのときにあなたに出会えたのです。この出会いはきっとエラワンの神様が与えてくれたものでしょう。
「神様。彼女の身も心も僕のほうに向けてくれますように。その代わりこの願いをかなえてくれたら必ずバンコクにきて、まず第一にエラワンの神様にお礼参りいたします。
神様どうぞよろしく。 終り