日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

万人におのおのふさわしい才あり

2009年01月31日 | Weblog
万人におのおのふさわしい才あり

重い引っ越し荷物をかつぐ作業員  老人精神病棟で働く人達  死体を検視をする検視医
私にはとてもできない事を天職として、もくもくと働く人がいる。天は人をこの世に送り出すときにそれぞれの使命を与えて出したものと見える。
したがって人をその従事する仕事によって、差別するなんて許される事ではない。それは天に対する冒涜である。
人は自分が行った行為によって、またその責任によって差別されるのであり出自・門地や経済的あるいは社会的地位によって差別されてはならない。色々な仕事についている人を見るにつけつくずくそう思う。

汚い

2009年01月31日 | Weblog
汚い

去年夏(8、9月)に韓国はソウルやプサンヘ行った。人ぼこり舞い立つ路上にスシやモチなど食べ物を並べて売っている。非常に不衛生な感じがして買って食べるきにはなれない。
今年、(93-4)春タイへ行った。タイは真夏であったが、韓国のように直に路上に食べ物をおいて、売ってはいないが、モノスゴい車の排気ガスや騒音や砂ぼこりの歩道に、所狭しと食べ物の屋台が並んで、皆そこで食べている。これも汚い。
おまけに屋台の後ろには、異臭を放つドブがある。それでも人は平気出食べている。慣れてしまえばこんなものか。
日本は清潔な国である。ドヤの近くを除いては、汚くしている食べ物屋は、まず人が寄り付かない。   

二人の博士8-12

2009年01月30日 | Weblog
生かされて、命ありけり、清滝のせせらぎ、河鹿聞きつつ 京大名誉教授
          工学博士 川畑愛揮先生
              

 独創、発見、発明について

既に作られたものがある。それを誰が一番先に、発見するか、それだけの問題です。
  西沢潤一元東北大学工学部教授 文化勲章受章 文化功労者 学士院賞受賞

生かされて命ありけり すばらしい言葉だ
既に作られたものがある。何と謙虚な言葉だろう

優れた人は考えが深い。

公園風景

2009年01月30日 | Weblog
公園風景

噴水の周りでその親子は遊んでいた。五時間ほどたつて私はまたそこを通った。
今朝がた見かけたあの親子はまだ同にところに居た。父親はべンチに腰かけ女の子は、父親にしがみついていた。何かにおびえているように見えたし、母を求めて泣いているようにも見えた。膝の上に女の子をのせて胸で抱いているその姿からするとクレーマー、クレーマに見えた。女の子は三つぐらい、男の子はよちよち歩きで無心に砂遊びをしている。奥さんはどうしたのだろう。病気なんだろうか、買物にでも出かけたのだろうか、いやひょっとしたら離婚して家を出て行ったのかもしれない。いやいや最悪亡くなったのかもしれない。私の思いは悪い方へ悪い方へと発展しそうな気配だったので、それをふりきろうと私は空を見上げた。
煤煙が漂う都会の冬空を茜色に染めて、太陽は西の空へ落ちていく。青黒い影に転じた
生駒の山にはもう夕月がかかっている。私はコートの襟を立てゝ足早に立ち去った。

人相

2009年01月29日 | Weblog
人相

人相には見える部分と見えない部分がある。器量は見れば分かるが、隠れているその人の心理状態なり感情なりは分からない。しかも、心理状態こそが、その人の本質である場合が多い。

見かけのよいのを美人というガ、その人から受けるイメ-ジとはうらはらに,接してみるとぞっとするような冷たさと不快感に出会うことがある。そのとき果たして、見かけ道理の美人と思えるだろうか。
つまり、その人の心の奥底にあるものを無視して美人という認識が成り立つであろうか。

人相は顔にでるとよくいわれるがそれは、心の中が表面に出ての話で、その部分を覆い隠して表面だけで判断するのは間違っている。
心の底に秘めたものを、読めるようになって初めて、人相から人が分かると言えるのである。       

私の生きる意味

2009年01月29日 | Weblog
  私の生きる意味

人々は何で悩み、何を楽しみにして、人生を送っているのか、天命とは何なのか。
人はどうして生まれてくるのか、そしてどこへ行ってしまうのか、とめども無く思いは膨らんでいく。浮かんでは消えていく。色々な想念が頭をよぎるが自分は一体何をしたいのか。

殺伐とした暗い時代

2009年01月28日 | Weblog
殺伐とした暗い時代だからこそ、心静かに、自分と対話する時間が欲しくなる。その1つの方法として神仏に手を合わせ心を向ける事がある。
と言うことは考えられるが そうかといって、繁盛している寺の話など聞いたことがない。

近頃は人心は宗教から離れている。宗教離れ、寺離れは急速に進んでいる。寺や神社に行って静かに手を合わせ神仏と真剣な会話を交わしているようでもない。

しかしながらそういう働きかけが無くても、神社仏閣のもつあの雰囲気はそこに浸るだけでも心安らかに成る思いがする。
人間は存在自体が神仏の世界に内包されて、いるのだろうか。もしそうなら、人は神仏を含めた世界観を持つ必要がある。

今我々は神仏を含めた世界観や価値観の中に生きていると言う自覚があるだろうか。そういうことは無自覚の自覚の範疇にあるのかも知れないが、現実に神社仏閣の前にたたずむと厳粛な気持ちに成るというのは、心の底では無意識的に神仏への畏敬の念を持っていると言うことなのだろうか。
寺院と神社との境をとり払った。新しい巡拝ルートを提案する動きが現れた
普通の観光にはない。精神的な意味合いが加わるため、自己を見つめる機会にふさわしいということらしい。
さあ どれほど現代人にアピールするであろうか。

中道

2009年01月27日 | Weblog
中道

人は美しいものにあこがれる。
人は汚い物にも憧れる
貴いものにも、憧れる
卑しいものにも憧れる。
人が正反対の両極端に憧れるということは、両極端まで受け入れる許容範囲の動物、それが人間なのである。ただし、人間らしく安穏に暮らそうと思えば、一定のルールを守る必要がある。
そのルールを与えるのが宗教なのである。
お釈迦様は中道を説いた。

後30年

2009年01月27日 | Weblog
後30年

ソウルの雑踏で私はある種の臭いをかいだ。
プーンと独特の臭いがする。これがこの街に住む人々似、生活臭というものだ。
地下鉄に乗ろうとしたがここでも、やっぱり臭くて汚い。蒸し暑く汚れている。
浅草を思い出した。日本だって、銀座もあれば浅草もある。だけれども、ソウル全体と、東京全体を比べるならば、東京のレベルに達するには、後30年はかかるだろう。

チャオプラヤー

2009年01月26日 | Weblog
チャオプラヤー

バンコクには良く来る。
と言うよりここを起点として東南アジアを1人旅しているのである。熱帯だから熱いが、僕は寒いより暑い方がまだましである。旅をしてよその国に行き一番快適な気温などもとめる方が無理に決まっている。陀kら少々の暑さは我慢するようにしている。

ひょっとすると輪廻転生するずっと昔は熱帯に住んでいたんだろう。加えて大阪や東京の様に便利であるにも拘わらず物価が安い。ものにもよるが、主食のラーメンはまず十分の一である。60円か70円出せばタイラーメンは食える。マグロの刺身は東京からその日の内にここの持ってくるから高いのは当たり前だ。それでも日本風の食事は日本並だ。米だって日本から持ってくるので、タイ米のようにふっと匂う事はない。書物とかその手の物は日本より高いが、わざわざここまで来て、買わなくても日本で買えばいいことだ。

僕が1番気に入っているのは、エアーチケットが安いことである。日本から、インドへの直行便だったら安くても8,9万円はするが、バンコクでカルカッタ行きの航空券を買うと安さが身にしみる。

カルカッタたったら日本円に直して2万円も出せばおつりがくる。今まで、何回かインドに行ったがいつも6万円台である
カオサン通りで格安チケットを買うのは、間違いなくやすい。

バックパッカーを自認する僕はいかに安く、安全に旅をするかが、誇りである。
そのために神経を使うことはもちろんであるが、情報を集めにも真剣である。
こういう観点からも、カオサンは僕にとっては不可欠のところである。

ボートからは 西日の陰になって、ワットアルンは墨絵の影絵になっていった。
修復のために足場を組まれ、見ることも出ない時もあったが、今朝は優雅な姿を現していた。
特に涼しい風が吹く夕方は、船の1番後ろの甲板に立って、その優しい姿が見えなくなるまで見つめてた。

夕風 が頬を通り過ぎて行くと、ひとり旅の、えもいえぬセンチメンタルな気分が体全身を包み込む。それはノスタルジアてやり、寂しさであり、前進するための力でもある。

後ろに乗ったボートの車掌ともいうべき、青年は 太い綱を持って舟を固定し、乗客の、乗降を助ける。その見事な綱裁きが笛の合図によって船頭と気の合ったところを見せる。
出発、前進、左寄せ、右寄せ、後退など、およそ必要なことは、この笛ひとつで事足りる。笛を使うことによってまるで自分の手足の1部かのごとく上手に操る。

かって、大阪伊丹空港でタイ航空機が機械の故障で、片足が出なくなりあわや、胴体着陸かと心配したことがあったが、まるで、飛行機は水面をすべるかのような見事な着陸を成し遂げた。もちろん事故はなかった。この時タイ人の器用さが大きく報道され、拍手喝采を受けた。ぼくはこのことを、思い出した 。
この、ボートの見事な操船ぶりを見ている、とタイ人の器用さを改めて思い知った

そんなに便利で涼しく、しかも料金ガ安いチャオプラヤーボート・サービス
を知るまでに、3、4年かかった。それまでカオサンに行くには、いつもタクシーを使っていた。

バンコクの道路は、ものすごい渋滞が起こる。眼と鼻のところであっても、この渋滞に巻き込まれれば、一体いつになったら目的地に着くかわからないし、お金がいくらかかるのか、それすらも定かでない。
何回かタクシーを利用して渋滞て、懲りたのでトクトクに変えてみた。これはタクシーよりはましだが、排気ガスをモロに受けて走るので、喉が痛くなる。タオルで口をふさいだが、乗った翌日は黄色い、タンが出る 。明らかに、健康に、良くない。

しかしボート・サービスは、特別な場合を除いて排ガスの被害を受けることもなければ、大渋滞に、巻き込まれることもない。

ついでながらこの便利で、快適なボートサービスに、ただ乗りをしたという女の子が現れた。1泊、何万円、もするような、豪華なホテルに泊まりながら、これは1体どうしたことか。落差が大きすぎる。僕は、彼女が、どうしてただ乗りをしたのかということについて興味を持った
彼女が言うには最初から、ただ乗りをする予定ではなくて、どうすれば、よいのかわからなかったので、たまたまお金を払わなかったというだけのことである。そうだろうよ。

ぼくは金額やルール違反のことではなくて、今まで聞いたこともない、話だったから、興味を覚えた。
よくやってくれたな、というのが僕の率直な、感想である。不慣れとはいうものの、若いということもあり、また無鉄砲だということも言えるが、話題としては彼女はおもしろいは話題を、提供してくれたれた 。

































我以外人は皆師

2009年01月25日 | Weblog
         我以外人は皆師。

とよく言われる。確かに我に無いものを人がもっていることも多い。そこを見習い、我が師とするというのも分からないではないが、人間には好き嫌いと言うやっかいなものがある。嫌いな人が例えどんなによいことを教えてくれたり言ったりしても生理的反感のため、聞く耳をもたない。これでは師たりえない。つまり、人皆我が師というのは一つの極論であり一つの理想すなわち、あらまほあしきことなのである。
人間にとって、謙虚であることは大切なことであるが、理想論だけで突っ走るのもどうかと思う

教育

2009年01月25日 | Weblog
教育

立ち向かって行くことー努力、それをさせるのが教育  藤原てい

自分のからだから、にじみ出るものを信じる。

私の歌の基本は西陣の織機のそばで口移し出習ったもの、ピアノではない。   都はるみ

知識をとうして、見ては本物はできない。知識をとうしては真似はで来ても本物はできん。浮き上がってしまう                宮大工 紫授褒賞受賞

体がノート。体に切りきざんで覚えたことは、染み込んでいるので忘れようがない。

エネルギッシュ

2009年01月24日 | Weblog
エネルギッシュ

貧乏な国ほど、エネルギッシュに生きている。35度を越すなか、50-60Kgもあろうかと、思われるドンゴロスの袋に入った穀物を担いでトラックに積み降ろしいている。
夏の盛りの肉体労働がどれほど、つらいものか私は高校生時代に十分経験済みである。体を使うか、頭を使うかだけどまあ良くやるなとただ眺めているた。
極限に近い生活状態の中からは、見事なエネルギーが湧出するものだ。そのエネルギーによって人はこんな苛酷な労働もいとわないのだなあと、タイのチャイナタウンの雑踏の中でふっとおもった。

文化財・暁の寺

2009年01月23日 | Weblog
 文化財・暁の寺

 チャオプラヤ河畔に建つ壮麗な石像寺院・暁の寺を見た。見事なもので材料・設計・建築など、すべてにわたって当時の権力がどんなものであったかよく分かった。つまり、文化的価値となって今は輝いている。
が、多くの人々の労力や場合によっては命の犠牲の上にこの建物が建ったのであろう。  
今ではこの石造建造物が文化遺産として金を稼ぐ。先人の労苦や余徳が時を経て今、子孫が受け継ぐ。しかし、これも現在残っているからそう言えるのであって、天災や人災で破壊されていたらどうなるのか。
文化とは労力や金をつぎ込み、その価値は幾世代も経てよみがえる。
 美しい暁の寺を見てつくづくそう思った。