日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

ダブルブッキング

2008年07月28日 | Weblog
 ダブルブッキング

遅れることはあっても早くなることはない。けれども、ぼくは落ち着かなくて、目と鼻の先にあるプネ駅へは一時間以上も前に着いた。

 インドでは何が起こっても不思議ではない、というのが僕のインド観である。前回のインド訪問で僕はのことをしっかり頭に叩き込んでいる。あつものに懲りてなますを吹いているが、そのくらいでちょうど良いのが、インドの旅のタイムスケジュールだ。
 
 列車は定刻より1時間遅れで発車した。僕は車番を間違わないように何回も自分の名前が書かれているデッキの入り口に貼ってある、座席シート表で座席を確認した。33番。これが僕の席である。
 
 33番へ行ったら若い女がでてきて、ここは違うという。チケトに表記された番号を示してここだと、いったら他の席だという。念のため僕はもう1度予約シートを見に行ったら、その女の連れあいに出会った。彼はミスターの席はこの列車の33番だと言った。彼と一緒に座席に着くと女はもう何も言わなかった。やれやれ。これで明朝8時から9時にバンガロールにつく。約1000キロの旅だ。
 
 地図で見ると、プネからバンガロールまでは近いが、走れば1,000キロメートルの旅である。下関から東京へ行く距離だ。さすがにインドは広い。冷房は穏やかに効いていて居心地がよい。ああ、極楽。

 先程は駅まで歩いて10分もかからないというのに、汗だくになった。インドは日が昇ると暑い。日が沈むとさわやかになり、夜から朝にかけてはかなり気温が下がる。昼は35度以上あっても、真夜中になると25度以下まで下がることだってある。ファンを回したりエアコンをつけたりしたままで、水シャワーを浴びて、そのまま部屋に入ると寒くて身震いすることも何回かあった。

 ビヤ樽は僕にチケットを見せてくれと言った。僕はチケットを出しながら自分の座席は33番だと指さした。彼は2人分のチケットを示しながら、34番、33番だという。

 あれ、ダブルブッキングじゃないか。今さら俺の席だと言われてもハイハイというわけにはいかない。僕は少々あわてた。が、彼にとにかく座っていて、車掌がきたら聞いてみようと提案した。彼もそうだといった。
 なりは粗末だが、乗客にあれこれ説明していたから、てっきり車掌だと思ったので、この問題についてその彼に話をしたが、要領を得ない。彼は車掌の補助員で毛布やシーツを配りに来た。そうだったのか。だからわからないはずだ。僕は納得した。

 その後でチケットチェックに来た人は制服を着ていた。
 ビヤ樽は車掌にしきりに説明している。車掌は33.34と書いたチケットを見ながら、うなずいている。僕は自発的にチケットを見せて33は僕の席だと主張した。しばらくすると車掌は46番に移ってくれと言った。ただそれだけをいって詳しい説明をしなかった。

 どんな席かわからなかったが、僕はしぶしぶ荷物を持って46番を探したら、なんと1人用のシートである。これはありがたい。
 座席を寝台に作りかえ、毛布を重ねて枕を高くして横になった。ここは列車の出口に1番近いところなのでエアコンが効きすぎている。そういうマイナス面もあるが、窓の位置がちょうど顔の位置で、
寝ながらにして外の景色が楽しめる。エアコンのため窓を開けるわけにはいかないが、サンシールの張ってある窓からは、外の景色がみんな黄色がかって見えた。
 
 やっと落ち着きを取り戻した僕はシートの移動について考えた。ムンバイで取ったチケットは2人用寝台である。つまり4人掛けのうちの1人が僕である。この一画はすでに新婚旅行の若夫婦が二席をとっており、残る二席が僕と他の1人という形になっていた。
 そこへビヤ樽夫婦が来たのである。チケット売り場では、気を利かして
夫婦に33.34番の席を売ったもんだ。そこで彼は僕に座席ののチェンジを申し込んだのだ。だが僕は意味が分からないから、ここは僕のシートだと一歩も譲らず頑張った。インド英語を解し得ないとこんな馬鹿みたいなことが起こる。
 
 おれたちは夫婦連れだから同一区画の上下で寝台が欲しいんだ。君は1人ものだから、チェンジしてくれても実害はないはずだ。俺達は別々の席よりはこのほうがいいんだよ。

 言葉が分かれば、たったこれだけのことなんだ。が、意味がよくわからなかったばかりに、ダブルブッキングだと車掌にクレームを言わなくちゃなんて大げさな自分に僕は苦笑した。結果として僕は得をした。

 ひとりで景色を楽しみながら体を横にして、ペン走らせることができたから、コルカタからムンバイまでの2,000キロを二晩列車で過ごし、さらにムンバイについてからは、その晩の夜行バスで13時間かけて、徹夜でアウランガバードまで走った。なれない土地でスケジュールに縛られて、すべてを忘れて突っ走った。当然疲れた。特に睡眠不足からくる神経の高ぶりは簡単には鎮まらなかった。不便、暑い、汚い。そのどれもがいらだちの原因だった。

 だが今は違う。エアコンのよく利いた1人用の寝台で景色を楽しみ、列車に揺られながらエッセーを書く。暑かろうが、寒かろうが、汚かろうが、清潔だろうが関係ない。このコンパートメントこそが地獄の中の極楽なのである。

 列車は1時間遅れのままで走っている。18時だというのにまだ日が暮れない。もう少し立てば真っ赤な火の球となって地平線に落ちていくことだろう。外は何百キロ走っても似たような風景だ。果てしなく続く平野は熱帯の樹木と、畑と、実った小麦と、レンガ造りの粗末な家いえ。
 暑さにもめげず働く真っ黒な農民の姿。川もなければ海もない。何の変哲もない画一風景。林もなければ森もない。そのくせ所々に蛍光灯の明かりが見えるのは、何かアンバランスでユーモラスだ。列車は荒野を疾走している。初めて極楽の旅をさせてもらった。これもインドの旅なんだ。旅にも色々あるなー

感謝

2008年07月27日 | Weblog
感謝

何事によらず、すぐありがたいと、感謝する人がいる。この人の心理構造は、ありがたや節で、埋めつくされているのであろうか。

うだるような厳しい連続の日々でも、ぼやくことなく、ありがたい、ありがたいと口に出すから、ひょっとしたら、一般大衆からずれているのかもしれないと思ったり、また逆に、どのような状況にでも、ありがたい心を持つということを、うらやましく思う。

どのようにすれば、このような感謝ので、心を埋め尽くすことができるのか。その根底には、生きていることへの感謝。生かされていることへの感謝があるのだろう。
例えば、われわれは、毎日、安穏に暮らせるのは、神々の守護の賜物と受け止めることができるだろうか。
雨が降る。風が吹く。天地自然の理、すべてが、われわれを守っている。あるいは、天地自然の理に守られて、その上で生命生活を営んでいると思うならば、われわれを支えてくれている、これらの諸条件に対して、感謝の念をもっても、なんら不思議ではない。

ありがたや節で心を埋め尽くしている人は、こういう原理原則を知っているのであろうか。人が不満に思うことをそんなに思いつめなくても、と、直感的に、ありがたいと、受け止めているのであろうか。

方法はどんなものであるにせよ、いずれにせよ、こういう人たちにとっては、必ず神仏を心に抱き、信仰している人のように思われる。天地自然の理を神の恩寵と受け止めているからである。

そういう人たちにとって、八百万の神は、常に、祈祷と感謝の対象になりうる。
そういうことを心の奥底において、すべてを判断し、行動するから、体の表面に出てくる言葉の端々には、ありがたいという言葉と、感謝の気持ちがあふれている。

こういう心の持ち主と言うのは、非常に優れた人生を送っているように思う。

「人生は、苦である」と、釈迦は教えた。つまり、生まれてから死ぬまで、生きて行くということは、苦を道連れにしているということであるから、自分の好きなように人生を生きるということは先ず難しい。と言うのは、思うようにならないのが、人生の大原則だからである。

そこからわき上がる、嫌な部分を乗り越えて、感謝の部分だけを大きく膨らませて、心全体を包んでしまう。考えようによっては、これは、尋常の人ができることではない。何重もの苦しみを乗り越えて、苦を克服した境地や、さとった境地に達した人のできることである。

自分の周りを含めて自分も、どちらかといえば、ぼやき専門の部類である。どういう修業すればよいのか分からないが、もし人生の全てを感謝の気持ちで受け取れるとすれば、その人は幸福な人である。うらやましいとさえ思う。


実刑は当然だ

2008年07月25日 | Weblog
個人の名前は出さないのが慎みだとは思うが、、個人の名前をあえて出す。
今日の2審判決でもホリエは、出席しないで、実刑を言い渡された。

こういう横着な輩は実刑がモット長ければいいと何の同情もない。まだ100億を超える金を持って豪華なマンションに住んでいるらしい。

それに比べてテレビの画面で見る限り、被害者が気の毒に思えた。自らの意志でホリエ株に投資したのだから、自己責任は免れないが、あのときの彼の言動からすると山っ気のある素人はだまされるとは、よもや思ってはいなかったことだろう。いわゆる欲の皮は厚いが、善意の株主だ。

僕は彼の一言を思い出して、はらわたが煮えくりかえった。
「これからは株主もしっかりしないと、悪い奴にだまされますよ、」とテレビに向かって昂然といったことが、未だに耳から離れない。

私流にコメントすれば、事情を何も知らない素人株主はバカだから、悪い奴すなわち俺にだまされるよと言っているのだ。これほど人をバカにした話は無い。
経営者としてではなく、人間として恥ずかしいと思わないのか。ずうずうしくも、こういうことを平然といえる人間性が、どの程度のものか。皆さんおわかりになるだろう。

反省している態度は微塵もなく、即時抗告したらしい。最高裁まで己の主張を通そうとしている。
対照的に、彼によって退職金をだまし取られた老人は悔やんでも悔やみきれないと、そしてあの程度の人格の持ち主に、金をだまし取られたかと思うと自分が情けないし、怒りものって行き場がないと嘆いていたが、ホリエという男は大概の悪人だ。
あの面構えの通り、手のつけようのない厚顔無恥の男だ。

裁判でも指摘されていたが、潔さも反省もない。あれだけの被害者を作りながら、悪いのは、だまされる方だと言わんばかりの態度には、裁判結果の倍以上の社会的制裁を加えたいものと思う。

ふてぶてしい態度、傲慢な言葉等、まともな人間にはもっとも嫌われる資質をさらけ出して、反省がないのはプライドをかなぐりすてた、人間扱いできない くずだ。

ホリエ。よく聞け。地獄の釜のふたがあいてお前が来るのを待ってるぞ。
その前に、刑務所の正門がお前を待ち受けているぞ。

涙を流さずして

2008年07月25日 | Weblog
人の一生にまずレールを敷くのは神仏である。

そのレールの上を歩くのは人間である。レールの方向の違いは神仏の意志である。人間はただ黙々とその上を歩まねばならない。

天職をコーリングと呼ぶのはこの辺の事情かと思われる


道を説く一方であまり説く道とかけ離れたことを、言動をするとやはり滑稽が先立つ。それは嘲笑を引き起こす 

正しい見方、正見―しんじつにが一致した姿をそのままに見るーを、みにつけないで、自分の見方だけに固執すると人は間違いを犯す。
曲がった木をまっすぐだと思うと、まっすぐな木を見ても曲がったように見える。これは間違いを犯している。

涙を流さずして他人の飯は食えない。他人の飯を食うて初めて我が家の居心地の良さがわかる。かわいい子には旅をさせようとはよく言ったものだ。他人の飯を食うその中に一人で生きていく本当の人生があるのだ
艱難辛苦汝をたまにす。これは至言だ。
人生の味はそれだけわかる。だが、人生の味を知らなくてもよい連中にはこれは至言どころか愚の骨頂の見本みたいなものになろう。


人類に普遍的に

2008年07月25日 | Weblog
人類に普遍的に通用し、あらゆる人々を差別しないで、幸福をもたらす真理をこの世で今実現しようとしている崇高な精神の持ち主が、たとえ凶弾に倒れようともそれは仕方のないことである。

歴史は人類のために何か新しいことを企て、実行することは常に犠牲を伴うということを証明している。

ベンジャミンフランクリンの肖像画を見てそう思った。そしてこのことは洋の東西を問わず、時を越えて通用する一つの真理なのだろう

人生でもっとも値打ちのあることは

2008年07月24日 | Weblog
人生でもっとも値打ちのあることは
、自分が生きたいように生きること、気楽に生きることである。意に添わないことを無理にやって神経をくたくたにし名誉を勝ち得たとしても、それがどうだというのだ。
世に名門という。名門を継承していくためにどれほどの犠牲が意に反して強いられることか。この世でよりよく生きるということは、何者にも拘束されない自由意志で、自分の思うとおりに生きることである。それが一番価値あることである。人は世評に惑わされてはいけない。自律的に生きることだ。

何かをするのも自分、何かをしないのも自分。が自分がやりたいことを通して社会に貢献する義務を背負ってこの世に出てきているきていることだけは忘れては成らない。

思うようにならぬ人の世で、できる限り思うようにに生きること、それこそ人間の理想であり目標である。

演歌

2008年07月24日 | Weblog
演歌は声の美しさ独特さもさることながら、心の思い、感情を全面に出して聞く人に強く訴えることが肝要である。心をフレーズごとに乗せればよい。

心、(人間のハートの思い、気分)をむしろオーバーに表現して相手に伝える。
だから歌(心の発想)は大二義的に考え、重視すべきは
心の表現、心の思いの伝え方であろう。

極端にいえば演歌は人の心を声に乗せるのが大切でその心を持ち合わせていない人は歌手になれないと言える。
このような意味から歌手は作曲家と同様の心を持ち合わせている必要がある。


歌番組を聞いていると、プロよりも上手なアマチュアがいる。ではなぜ両者の差がでてくるのか。
プロには歌のうまさだけではなく、歌以外の要素、(たとえばタレント性といえばよいのか、光が当たっているといえばよいのか)が厳然として存在している。

日本も恐ろしい国

2008年07月23日 | Weblog

 円天

「えんてん」ということから連想することは  炎天しか言葉をしらない

円天は擬似通貨 使ってもへらない通貨

100万円預ければ年に36%の配当がつく

高利配当+ 円天 擬似通貨

集めた金は1000億 会員が5万人

出資金が倍になる話
全国八葉物流
豊田商事
リッチランド
IP電話近未来通信

世の中の仕組みを知らなさずぎるうえに、欲の皮だけが張りすぎているから、上記のような詐欺商法に引っかかるのだ。

現状から見ると36%の配当など出来るわけがない。確実な儲け話なら、庶民に話が来る前に、大手の業者や企業が群がっている。

ねずみ講的発想で友人などを勧誘。 相手に損をさせた。このことが原因で人間関係を壊して、被害者である本人が勧誘した人に対しては加害者になる。


狙われているのは高度成長期に働いて、老後の小金を蓄えた高齢者と その予備軍団塊の世代、今退職金が入ってくる。そこが狙われていくのだ。

いつの世でもこういうペテン師が暗躍しているので気をつけよう。
世のなかにうまい話はない。

判断基準はやはり常識である。これを超えたり、以下だったらする話は常に警戒する必要がある。

大切なことは常識で判断しながら、欲の皮をうまく働かせることだ。

人間から欲の皮を剥ぎ取ってしまうのは不可能だ。

日本人のお人よし、脇のガードが甘いのは、自分を含めてあきれるばかりだ。狭い島国だから性善説をとるものが多いが、人の交流がこれだけ増えると、もっと実情を知らないと、被害者ばかりが生産される

日本人はお人よしというのは、すれてないというのか、元々善良な民なのか、知らないが、物事を善意で受け取る傾向がある。まずその話の裏を取ろうとはしない。すんなりと信じてしまう。

お人よしで、ガードが甘いから、だましやすい 。そこをつけ狙って不良外国人は犯罪を起こす。それにつられて不良日本人も犯罪の手引きをする。

50年ほどの間に犯罪状勢も治安もさま変わりである。
いぜんには想像すら難しかった形の犯罪が、常態化している。

日本人がいかに無防備でお人よしか、外国へ出てみるとよくわかる。インドではカルカッタでも、ニュデリでも、半ば脅されてだまされて物品や金を巻き上げられた。
相手は日本人と同じだと思って対応するので、間違いが起こる。
彼らは対価を払う前に、どうして日本人から金を巻き上げるかを考えて接してくるので、信用以前の問題がそこにはある。
何回もいやな目に会って初めて、これでは人種が違うときずく。その前にいくら月謝を払ったことか。
悲しくて、気分の悪い話だが、これが現実である。
インドで日本人に話しかけてくる一見のインド人(インドへ流入した流れ者だと思う。恐らくインドの村ではこんなことはなかろう)は日本人の人の良さにつけ込むたちのよくない人間だ。そしてそんな奴らがごまんといるのだ。

モラルの低下が叫ばれて久しいが、なべて言えば、日本人は信用の置ける人種だと思う。
しかしながら、近頃の理解しがたい犯罪の多発には、どう対処したらよいのか。個人防衛を考えてしまう。日本も恐ろしい国になりつつある

人間の姿をした野獣

2008年07月23日 | Weblog



公美子ちゃん事件に思う

1月23日以来、行方不明だった、くみ子ちゃんが5月5日、子供の日に能勢の山中で、白骨死体で発見された。
 当時小学校3年だったくみ子ちゃんは、行方がわからなかったけれども、学校はこの少女を4年生に進級させていたのを見ると、両親のみならず、級友も、先生たちも彼女の無事帰還を心から待っていたに違いない。
 
 そのくみ子ちゃんが能勢の山中で、発見されたのだが、それを報じるテレビの画面を見て涙を流したのは、私1人ではない筈。両親を初め友達、先生などの悲しみはいかばかりか、とまた涙が込み上げてくる。
 それにしても、何とむごいことをする奴がいるものだ。到底人間業とは思えないから、やはり人間の皮をかぶった野獣、もしくは悪魔なんだろう。
 理由もなく、他人の人権を犯すものは自分の人権も犯されて当然である。恣意的に他人の命を奪うものは、自分の命を奪われて当然だ。殺人者が自らの死をもって、己が殺した人に詫び、償いをするのは自然の道理であり、それは因果応報の理である。
くみ子ちゃんを殺した犯人が捕まったら、有無をいわさず・ 即刻処刑すべきである。
 鉄は熱いうちに打てという。間が抜けてどうでもよいような気分になるほど、
長い時間をかけて、それから処刑するなんて、文字どおり間が抜けている。
間が抜けているから、信賞必罰の掟をピシっと決めることができない。そのために死刑による犯罪防止には、ほとんど役だたない。

 近頃の風潮として、犯罪者にたいして非常に甘いように思うのは、私1人だけだろうか 。殺された側に何の落ち度もない、過失も責任もない事が明確な場合、殺人者が即刻死刑になるのは当然の事であると私は思う。そこに何のためらいも躊躇もいらない。
 
 恐怖のどん底に突き落とされて、苦しみもがくその後に来る死。それが被害者の実感なのだから、加害者は当然このことを味わってみるべきである。死の恐怖、それをあじわって後に、殺されるのは当然である。自分が仕掛けたことだから、被害者が感じた苦痛を、あじわってから死ぬべきだ。いやそれ以上の苦しみを味わってから後に、死ぬべきだ。それによってこそ、初めて公平なバランスが保たれると言うものだ。

犯罪者の人権を守らなければならないと、主張する人にたいして私は大いに疑問をもつ。
公美子ちゃんは、野獣のような奴に殺されたのだ。公美子ちゃんがもっている生きる権利は、正当な理由もなく奪われたのだ。


 命を奪った極悪非道な奴の権利をいう前に、何故殺された者の権利が主張され、尊重されないのか。死んだものは再び命を取り戻せないから、諦めろとでもいうのか。それは子供の頭でもわかる不条理であり不正義だ。
一方的に命を奪われた被害者の無念さや、生きる権利は、何によって償われるのだろうか。
何の落ち度もない、いたいけな子供を殺すという残虐な行為を行うことによって、平和な市民社会に挑戦する悪魔には、よってたかって天誅を加え、この世から抹殺すべきである。

バランスのかけた、片手落ちな人権擁護を掲げて、殺人者を擁護する弁護士よ、
僧侶、社会運動家、死刑廃止論者たちよ。まず殺されたものの、人権を回復させよ。それが第一の急務である。君たちの力でそれをやったあとで殺人者の人権擁護に廻れ。順序が逆ではないか。
人間の姿を被った野獣や悪魔は、再び活動出来ないように、とことんたたきのめして、抹殺してこそ社会正義は実現されるのだ。

再びこの世に姿を見せない公美子ちゃんに代わって、この怨念を晴らしてやりたい。そんな気持ちで一杯である。
善良な市民にとって、平和で安心出来る社会を、心から希求するのは当然だし、それは又私の熱い思いでもある。私にとって公美子ちゃん事件は決して他人事ではない。

後日談

かなりの歳月をへて、犯人は捕まった。54歳のこの男は、ほかに4人の女性を殺していた。そのうち、一体は死体をバラバラにして、奈良県広陵町の竹やぶに、後の一体は山の中に捨て、最後の一人、神戸での女性殺人は、そのままで捨てたと自供した。
他人の生きる権利を一方的に奪ったこの野獣のために、罪のない5人の女性が命を奪われたのだ。
ハムラビ法典じゃないけれど、八つ裂きにしても足りない思いがする。

ところで神様
こんな畜生でも人間がさばくのはいけないのですか。人間の裁きより神の裁きの方が適切なのでしょうか。突っ込んで言えば、神の裁きの方がきついのでしょうか。


紅葉とシー・ウイ

2008年07月21日 | Weblog

紅葉とシー・ウイ
京都は雲ひとつない快晴で、立冬もすぎたというのに暑い。御所の一般公開があるせいか、人の混雑がすごい。車も渋滞を起こしている。これは思っても見なかったことだった。
やはり秋は京都の観光シーズンだ。だから僕も今京都までやってきている。しかし古都の静かな風情を、味わいたい僕にとっては、こういう人ごみは苦手だ。あの広い御所を散策するのも、それなりに趣はあるだろうが、御所見学で人波にもまれるのは、ごめんだ。

こんなことを思いながら、御所の北の端と同志社大学にはさまれた、今出川通りを、地下鉄の今出川駅を目指して歩いて行くと、交差点の北側に「Tsutaya」の看板が目についた。

バンコクにある、シリラート病院の中にある、犯罪博物館で僕は、
「シー・ウイ」のミイラを見てきたばかりだ。まだ1月もたっていない。強烈な印象は、頭の隅どころか、真ん中にある。

犯罪博物館だけあって、凶悪犯ばかり5体、ミイラにして標本にしてある。処刑後樹脂で固めて、保存されている。もちろん等身大の立ち姿をそのまま、ガラスのケースに入れて陳列されている。特にシーウイについては、凶悪すぎるのだろう、タイ語で説明書きがついている。僕はタイ語が理解できないので、帰国後インターネットで調べてみた。そこにはこう説明されている。

中でも有名なのが、1991年にその生涯が映画化されたシーウィという名の中国系移民の標本だ。この男は1950年代初頭の数年間にわたって5人の幼い子供を誘拐して殺害し、不老長寿の妙薬としてその内臓を食っていたらしい。、、、、

子供5人、それに両親がついているから、合計15人の平和な市民が、悲しみのどん底に突き落とされたのである。この人たちの悲しみや悲嘆は、どれほどのものであったろうか。それは僕の想像を絶する。僕は頭に血が上った。正義の名の下に、どんなことをしても、復讐をしてやるし、未来永劫こやつを許すわけにはいかない。

できることなら文字通り八つ裂きにして、切り刻んでやりたい。もし僕にそのことが許されるなら、僕は何のためらいもなく、彼を生きながらにして、切り刻んでやる。
大好きな魚釣りも、釣ったら魚を死なせしまうのがいやで、釣りさえも止めている僕が、今の気持ちだったら、彼を八つ裂きにして、殺すことができる。天に代わりて不義をうつだ。

もう僕は完全に、自分が復讐の鬼と化していることを、冷静に受け止めている。でも僕の正義感と、復讐の念の強さの前には、冷静さは意味を持たない。子供や両親の痛みを、我が身に受けているから、遠い異国の凶悪な出来事だと突き放すことはできない。完全な感情移入だが、これは人類に対する罪だとも思った。

1991年に、生涯が映画化された、という話を聞いた僕はその映画をみることができるのか、ビデオや、DVDをどこで買ったらいいのか聞くと、友人はシーロム通りのTsutayaがいいという。時計を見ると、9時を回っていた。が、夜はめったに繁華街には、出ない僕も、きょうばかりは、Tsutayaまで走った。

スリウオン通りで、バスを降りて、パッポンを通り抜け、シーロム通りに出た。分かりにくかったけれども、何とかシーロム通りを向こう側にわたって、ビデオか、DVDを探し求めたが、Tsutayaの店員はそれは売っていないという。
バンコクのシーロム通りの、Tsutayaで売っていないとするならば、日本のTsutayaに、問い合わせで、日本で買えばよいと思い、その日は手ぶらで帰った。

そして今日僕は、京都の今出川交差点で、Tsutayaを発見し、かなり食いさがって、探し求めているビデオか、DVDを求めたが、結局はなかった。
なによりも驚いたのは、Tsutayaでは、いま海外出店はしていないそうである。ということは、バンコク、シーロム通りにあるTsutayaは、コピーであるということになる。タイでは、著作権保護的な発想があまりないから、何でも勝手に使用する。

つまり、コピー商品を作る、ということは聞いていたが、お店の名前まで丸ごと使っているということは、ほほえましいという気持ちを通り越してあきれた。これじゃあ、シーウィの生涯のビデオやDVDを探しても話にならない。僕はあっさりあきらめた。

帰国してから、インターネットで調べてみると、2003年、6月に、クランクアップされたそうである。ということは再び、映画化されたということなのであろうか。バンコクエンターテインメントという会社が映画化をしたらしいが、上映はまだだということである。僕はシリラート病院の犯罪博物館で、ミイラになったシーウイに対して、怒りの炎をぶつけてきた。

思いこみが、そこまで激しいので、何としても、この映画をみたいものだと、熱望している。

ところで僕は今、京都に紅葉を観賞するためにやってきているんだ。なぜそれなのに、紅葉観賞は頭から吹っ飛んでシーウィの事で頭が1杯になっているのか。一つには、恐いもの見たさがあるのだろう。また僕の正義感が、許さない部分もあるのだろう。さらに、Tsutayaという。ニセモノが、バンコク、シーロム通りにあるということに対する驚きもある。

11月3日の京都の紅葉は少し早かった。やはり、11月も末、20日過ぎ、23日が24日の連休辺りが、いちばん紅葉する時期ではあるまいか。
そのころにまたやってくればいいじゃないか、僕は自分にそういい聞かせて京都を後にした。




























ワット、プノン

2008年07月21日 | Weblog
ワット、プノン


 昨日、単車で市内を回ったから、めぼしい物 がどこに有るか、あらかた見当をつけておいた。雨期の湿気で湯船に入ったような街を地図を片手にマイペースであちこち市内を歩きまわった。
 ワットプノンはアチャミン通りを北上して、駅の北側の道を右、つまり東側に曲がりそれを少し北に行った所に有った。小乗仏教のにおいのするお寺で、タイのそれとよく似ていた。サップ川から近く、小高い丘の上にたつ、この御堂は石段を作りそこを上るようにはしてあるが下からみると自然の盛り土の上にちょこんと建っている風情で、どこからでも上れる感じがした。
 回りは緑が濃い大きな木々によって囲まれ、その木陰は何にもまして涼しさを作り人々に安息の場所を提供していた。サップ川から時折吹いてくる川風はすばらしい清涼剤、僕はしばらくここを離れることができなかった。
 こんな所でどうして小鳥をかご一杯に積めて売りにくるのか、鳥かごを持った少年がうるさくつきまとい、なにかしゃべりかけてくるの。うとましく思い、僕は少々怒気をふくんだ顔をしあっちへいけと怒 った 。何回いやな顔をしても懲りずについてくる少年には堪忍がならなかったのである。最後はじっと立ち止まって彼をにらみつけた。彼は悲しそうな顔をして、うるさく騒ぐ小鳥篭をもって黙って去っていった。1人になると、またもとの静寂は戻ったが、なにか悪いことをしたような気がして心のなかは必ずしも穏やかでは無かった。
 こんな所で小鳥を買ってどうしろというのだ、餌をやるやる訳にもいかないし、第一飛行機に乗せて持って帰るわけにもいかないじゃないか。買えばたちまちにして処置に困る僕に対してどうして買えというのだ。所詮君は小鳥を僕に売りつけて僕から金を巻き上げれば好いと思っているのだろう。君はそれでも好いけれど期待に応えたら僕は大いに迷惑をする。だから買わないのだ。心の中でなにかにひっかている僕は、そう自問自答した。いや言い訳ををした。しかしもしこの時に放生と言う言葉が思い浮かんだなら、誰かが、たとえばさっきの少年でも好い、なにかそれらしいヒントをくれていたら対応はまた違っていただろうに、悲しいかな放生ということはまるで眼中になかった。

もし昨日キリングフイールドやツールスレンを訪問しないで、大量虐殺の事実を知らなければ、僕はワットプノンはよいところだとしか書かなかっただろうが、ポルポトの所業に対し心から怒りを感じていた僕はこの世に一体、神や仏は有るのかと強い憤りに身も心も包まれていた。罪無き人々を救うことができない宗教に対して怒っていた。こんな無力な宗教ならお布施の必要が無い、生きている人を救わずして何が宗教か。僕は怒りを神や仏に向けて悪態をついた。そうでもしなかったら気が収まらなかったのである。
 幾時間が過ぎたのか分からなかったが、袖を引っ張られて気がついた。海外旅行ではよく経験する事だ 。いつのまにか自分の横に人が立っているのだ。韓国でもインドでもそうだった。それは突然地中からわき出るという表現がぴったりで、大抵の場合結果は悪い出会いになる。またか、思わず口からチョロと言う言葉が飛び出した。
インドで繰り返し繰り返しいやほど使った言葉で、あっちへ行け、という意味である。
 チョロの意味が分からない青年はつったったまま片手を出している。情けを掛けるというよりは付きまとわれてはうるさいので、100リエル札を2枚渡して立ち去る振りをした。小鳥売りの時もそうだったが、普段考えていることと、現実の場面とでは丸で違ったように振る舞ってしまう。この青年の場合もそうだ。きっと少年の時に兵隊にかり出されたか、遊んでいて地雷を踏んだかで片足を無くしたのだろう。同じ世代に生きている者として、どうしてもっと優しくできないのだろうか。そろそろ自分がいやになってきた。
 吹く風はさわやかで、辺りは静かでのんびりしている。旅の疲れをいやすにはもってこいの場所であるにも関わらず、心の中はなにかもやもやしている。肉体的には快適でも心の中はブルーで、何ともいえない、いやな気持ちである。
 小1時間もいたであろうか、僕はまた旅人にもどった。小乗仏教はいかんな、僕は訳の分からないことを言って自分をごまかしながら、サップ川の方をめざして歩き出した。

カルカッタとカトマンズ

2008年07月20日 | Weblog

私は肺いっぱいにカルカッタの空気を吸い込んだ。異臭が鼻孔を刺す。路上は糞だらけだ。魂はインドに、ゆだねるほかはなさそうだ。


貧しいけれど、平和でのどかなカトマンズは、インドのまちまちで、必ず見られるインド人たちの口汚いののしりあいとは、無縁だ。

こそどろの被害は多少はあるが、インドもように46時中警戒していなければならないようなことは無い。


インドは仏教発祥の地ではあるけれども。やはり異人種の国である。

旅行者が、インドからネパールにはいってホッとするのは、眼光するどく、体格、たくましく、ずるがしこく、小知恵が働き、油断禁物のアーリヤ人の国から、表情も、骨格も日本人と、似通った、ネパール人たちに親近感を覚えるからだろう。


私はふと我に返る。このような贅沢が許されて良いのだろうか。贅沢。確実に贅沢だのに、ダラリと日をおくり送り時間を湯水のように、浪費しているのだから、この先、贅沢に時間を浪費することがどれだけできるだろうか


時差ボケと老化現象

2008年07月18日 | Weblog
時差ボケを体験した
1. 体がだるい
2. 頭がぼーっとしている
3. あくびがでる
4. 就寝、起床のリズムが狂う
5. 体は起きているが気持ちは眠っている  92.1.5
老化現象
1. ものぐさ、何事も面倒になる
2. 忘れっぽい
3. 短気になり怒鳴る
4. 新しいことに抵抗を感じる
5. 頭になかなか入らない
6. 難しいこと、ややこしいことをとばして取り組むことはしない
7. 体力のなさが実感できる
8. 気力が萎える
9. 格好付けはしなくなる


できる限り思うように生きること

2008年07月18日 | Weblog
人生でもっとも値打ちのあることは、自分が生きたいように生きること、気楽に生きることである。意に添わないことを無理にやって神経をくたくたにし名誉を勝ち得たとしても、それがどうだというのだ。

世に名門という。名門を継承していくためにどれほどの犠牲が意に反して強いられることか。この世でよりよく生きるということは、何者にも拘束されない自由意志で、自分の思うとおりに生きることである。

それが一番価値あることである。人は世評に惑わされてはいけない。自律的に生きることだ。

何かをするのも自分、何かをしないのも自分。が自分がやりたいことを通して社会に貢献する義務を背負ってこの世に出てきているきていることだけは忘れては成らない。思うようにならぬ人の世で、できる限り思うように生きること、それこそ人間の理想であり目標である。

さあ何かを始めよう

2008年07月18日 | Weblog
人はなにが面白くて生きているのだろうか。

通勤電車の人たち。疲れた顔、押し黙った人々元気がよく威勢よくはしゃいでいるのはガキばかり。

皆死んでいるのであろうか、、、、、。黙って目を閉じている。
目を開けた人はうつろな目で一点を見つめている。笑いもしない、泣きもしない。皆退屈しているんだよなぁ。

さあ何か面白いことを始めよう。胸のすくような、胸がワクワクするような何事か、何でもいい。始めよう、始めよう。座して死を待つ愚は 後悔の種。
さあ何かを始めよう