日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

法務大臣の責任

2007年08月29日 | Weblog
昨日31歳の女性が、3人の男に車で拉致され、殺された。被害者に何の落ち度もなかった、この女性は悪魔のような野獣に命を奪われた。

犯人の1人が死刑が怖くなって、自首したことから、他の2人も逮捕された。なおこの事件は4人の男がかかわっていたようでもある。

彼らによって、問答無用に殺されたのだから、社会的報復として、被害者以上の恐怖と苦痛を与えて後に、さらし者にして、後、公開処刑にしても、復讐の念は消えない。

 江戸時代には獄門、さらにはさらし首にされた犯罪者もいたようだが、その程度の仕返しをしても物足りないくらいだ。

 罪のない女性を殺して、己が死刑になるのはこわいという自己中心的な犯罪は絶対に、犯人たちの命によって償わされなければ成らないのは、自明の理だ。
そこには何の理屈も不要であるし、どんな理屈をもってしても、正当化できない。

裁判というのは、常識や素直な感情に沿っていないことも多いが、今回の事件の凶悪性、残酷さは天人ともに許せないもので、こいつらを確実に抹殺しなければ、即ち殺さなければ、日本の社会の正義は実現しない。日本の社会の正義は失われるだろう。


被害者の冥福をいのるのもいい。許さないと怒るのもいい。しかしそれらの感情を犯人に向けて、現実にどう実行するのか。そのことの方がよほど大切である。

ところで、裁判で死刑判決が出ても、法務大臣が処刑のために、書類にサインしないと執行されないという制度の下で、大臣がゴーサインを出さないのは、理解に苦しむ。

 サインできない大臣は職務怠慢で、即座にその職を辞さなければ成らない。
本来法務大臣には成ってはならない人物が、名誉欲か、自己顕示欲か知らないが、場違いのポジッションにとどまって、しゃあしゃあとしているのは、無能をさらけ出して、なお恥を知らない厚顔無恥な人間である。

 死刑確定者が100人を超すということは、現行法が機能していないことを意味する。法律のためにも、犯罪抑止の観点からも、職務を全うするのが、法務大臣に課せられた任務であることを忘れないで、粛々と処刑すべきは処刑してもらいたい。

オスカー君1-8

2007年08月20日 | Weblog
オスカー君は猫の名前である 。

2007年8月20日の朝日新聞 科学面 第10版には次のような話が載っている。
一段と大きな活字で 「ベッドに上ると、数時間後に患者死亡」
アメリカの 最後を予言する猫」 話題。 とある。

オスカーの写真も載せられているが、見たところ、首に鈴をつけた、どこにでも、いそうな感じの猫である。ご丁寧にも 天使?それとも死神? の文字もある。

話題の主 オスカー君は、アメリカ・ロードアイランド州都・プロビデンスにある、養護リハビリセンターで飼われている2歳の雄猫である。

彼のことはブラウン大学のデビッド・ドーザ准教授が、米国医学誌のコラムで取り上げたことから、注目を浴びるようになった。

そのコラム「猫のオスカーのある1日」によると、オスカーは3階を住処にして、入院患者がいる病室を、自由に出入りして生活している。

日によっては、突然患者のベッドのうえに上り、そのままそこに、いついてしまうが、そうすると、患者は数時間のうちになくなるという。

なんか薄気味悪い話であると同時に、にわかには信じられない話である。 が、そんな思いとは別に、これは事実なのだろう。


猫といえば、僕はと言うよりは、家内が不思議体験をした。僕の家族は犬猫など嫌いで一度も飼ったことがない。

ある夜、お客さんが帰るので、玄関を出て、階段の下まで、客人を見送りに出た。
そしたら、どこから現れたのか、今まで見たこともない真っ白な毛並みの猫が、家内の足に身体を摺り寄せてきた。家内は気持ち悪がって、僕の腕をしっかり握っている。僕も気持ちが悪かったので、その猫をシッ シッと声を荒げて追い払ったが、白猫は逃げることなく、家内の足にへばりついている。よほど足蹴にかけようかと思ったが、客人の手前そんなことも出来ず、実情は猫のするままに、放置しておかなくてはならなかった。不思議にも猫は、家内の足元にのみ、身をこすり付けてきて、他の誰にも身を寄せては来なかった。

客人の車が見えなくなるまで見送って、家内は自ら声を出して追い払ったが、それでも、しつこく、左右の足のくるぶしに、身体をこすり付けてくる。気持ちの悪い猫だったが、蹴飛ばすこともなく、階段を上がって、玄関までたどり着いたが、白猫は玄関までは、ついてこなかった。

今の住まいに30年近くすんでいるが、白猫の姿など見たこともなければ、今回のように身体をこすり付けられたこともない。
 その晩は気持ちの悪い猫の話で、家族はいろいろ話し合ったが、何の結論も出なかった。後味の悪い、薄気味悪さだけが残った。

ところが、翌日早朝、家内の母がなくなった。
話題は昨夜の白猫の出現に集中した。きっとお母さんが、猫に姿を借りて、明日この世を去るから、お別れに来たのだ。それは全員が一致した意見だった。とはいえ、みながそう思っただけで、科学的な根拠は何もなかった。
不思議だな。気持ちが悪い。猫に人間の死の予知能力があるのだろうか。

今回のオスカーの行動については、次のようなコメントがついている。

「死期を予言するのではなく、病院スタッフの動きの違いを見分けているのでは。」という意見の他に、「猫にはまだ知られていない、第六感のようなものがるのではないか。」というのがあった。

僕らのたった一回きりの経験から言えば、猫に限らず動物には、人の死を予知して、行動を起こす現象があるのではないか。似たようなことを、僕は雀で経験している。
それは不可解なことで、いまだに説明がつかない。しかし起こった現象は事実そのものである。
ある日突然窓から家の中へ、雀が飛び込んできた。不思議である。めったにあることではない。早速窓を閉めて雀を捕まえて、ザルを逆さに伏せて、その中に入れて、鳥かごを買いに出かけた。
籠を買って持ち帰って、ザルの中を見ると、雀がいない。家の窓は全部閉めているので家からは逃げることは不可能である。にもかかわらず、雀の姿はない。
まるで雀の神隠しである。 家中どこを探しても、雀は見当たらないので窓を開けたが、雀はどこからも、逃げていかなかった。
不思議なことがあるものだ。家族全員が首をかしげた。

 果たして翌日、叔父が死んだと病院から連絡があった。元気にしていたから、よもや死ぬなんて、想像すらできない急死だった。
そこで問題になったのは、雀の件である。雀はきっと叔父の死を知らせに、いやおじにかわって別れの挨拶に、家の中に、飛び込んできて、家族に何らかの異変をしらせ
、お役目を果たしとばかりに、どこかへ飛び去ったのだろう。

 常識で説明のつかないことだから、そう思うのだ、といってしまえば、それまでだが、オスカー君をはじめ、白猫、雀の闖入など この世の常識では理解できないことが起こっていることは事実である。
 
説明がつかないという理由で、この種の出来事を無視するというのは、あまりにも極端な科学主義だと思う。僕はこの世にはまだまだ科学的には解明されていないことが多いと思うのである。
そしてそれは決して、そのような謎めいたところに、ロマンを感じるという情緒的なものではない。

40、9度の体感

2007年08月16日 | Weblog
今日多治見と熊谷では41度近くになった。観測史上最高の気温らしい。僕が住む関西も気温は上がって暑かったが、37度止まり。残念ながら体感することはできなかった。

 日本では40度という気温は、体験できなかったが、バンコクやインドのナーランダでは直接体感した。ナーランダでは、水をのむと、数分のうちに汗となって皮膚から噴出し、直射日光に当たると、皮膚がひりひりした。だが木の陰は涼しく、影は濃い。

 遺跡の上に登って、大学跡を見渡せば、所々に大きな井戸があり、建物はこの暑さをどのようにしてしのぐか、太陽光線のさし具合が計算されて、設計されているように見受けられた。

 三蔵法師がここで、この暑さをしのぎながら、膨大な量の仏典を勉強、研究したのを思うとき、今日のように文明の恩恵に浴すことが出来なかった環境の下で、よくあれだけのことが出来たものだと驚嘆した。人間の力には驚くべきものがある。
それは将来の人類の可能性を暗示するものだと思った。

人類の未来は悲観するものではないとは思いつつも、ただしそれには条件がつく。
環境破壊がなくなって、元の自然環境を取り戻すことが前提である。この地球を人類中心にして回してはいけない。あらゆる生物の命の共生が、確実に守られなくてはならない。なぜならば、人類もまた地球環境の一部に過ぎないからである。

20世紀から21世紀にかけて、人類はすべての命は共生によって成り立っていることを忘れて、人類の都合ばかりを考えてつっぱしってきた。
こんにち、その弊害が異常気象として、現れているのだろう。

人類のための地球ではない。人類は地球を構成する一部に過ぎないことを、肝に銘じておくべきだ。
日本の中部、関東地方で、気温が40度を超えたというニュースを知って、僕は以上のようなことを考えた。










理念は理念、現実は現実

2007年08月16日 | Weblog
戦争放棄の平和主義。日本国憲法に決められて、理念としては、世界に冠たる、輝く理想である。

然るに周りの世界を見渡すと、テロという名の小規模の戦争があちこちで起こっている。イラク、アフガンでは銃声がとどろき、毎日何人かの人が死んでいく。
こういう現実を見るとき、風向きが変わって、日本のほうへ戦火が飛び火したら、
どうなることやら。この問題は決して対岸の火事として見過ごせないものだ。

そういう事態に対処するために日ごろから備えをしておく必要があるというのは常識だ。無防備では、戦火が飛び火してくる時には、一方的に被害をこうむるだけで、無条件降伏以外に手の施しようがない。それでいいのか。

僕の気持ちとしては、結果がどうあろうとも、自衛の努力をしないで、座して死を待ち、日本国は消滅してしまうことは、断じて許れることではない。
ということは、最低限度自衛する軍隊は持たざるを得ないということになる。

東京を火の海にしてやろうか、等というセリフを吐く隣人がいる限り、国土防衛上、絶対に手抜きは出来ない。無防備は日本国家の自滅を意味する。

対処する現実的な方法は、やはり日本という国を防衛する所、すなわち自衛軍が不可欠ということになる。戦争放棄、平和主義の理念と、現実の世界情勢の乖離であるが、二者択一を迫られたら、現実をとる以外に、選択肢はない。

なべて理想と現実はいつも大きく食い違う場合が多い。しかしこの両方を直視して
現実をなおざりにすることなく、その上に立って、平和主義の理想は希求しなくてはならないのが、日本の現実ではなかろうか。

こちらから喧嘩を売る必要は絶対にないが、不条理に売られた喧嘩は受けてたたないと、無抵抗では、自滅するほかはない。

一見矛盾するようだが、世界の恒久平和を求めつつ、戦火が発生、飛び火したときには自衛軍によって、国民の財産や生命を守ることは不可欠である。

再軍備、自衛軍を保持しながら、世界平和を希求して、人類の安寧を確保することが大切である。もし日本が完全に独立して自衛できるなら、それに越したことはないが、他国と安保条約を結ぶ限り、協調によるある程度の犠牲は覚悟しなくてはならない。それ以外に現実的な方法はあるまい。

丁と出るか半とでるか

2007年08月10日 | Weblog
小池大臣が「テロ特別措置法」の延長に関して、アメリカで次のように、小沢代表を批判した。「小沢さんのカレンダーは止まっている」と。

アメリカで自分の存在を誇示したかったのか、何を目的に言ったのか、判らないが、これは自民党からすれば、問題発言ではないか。

というのは、訪米して、そこでどうしても、発言しなくてはならない必然性は見あたらない。余計な発言である。微妙なときだから発言には、最大限の注意が必要なこのときに。

今からこの法律の延長を巡っては、自民党と民主党が激突することが予想される。

この発言を聞いて、小沢氏の気分が良かろうはずがない。この問題で窮地に立たされた自民党は、何としても延長に、賛成して貰わなくてはならない立場だ。そんな事情を考慮すると、言わずもがなのことを言って、何の役に立つというのだ。

どんな些細なことでも、それをあげつろうて、と言うのが、緊迫した場面では、力を持ってくる事ぐらい、判らないのだろうか。
アメリカは要人に逢わせて、厚遇したらしいが、アメリカの本音を代弁してくれる人間は、便利に使えるからだ。悪のりか、自己顕示欲の表れか。この程度のことしか思えないような軽い発言だ。いざ論戦が始まったら、この発言が、丁となるか、半となるか。高みの見物は面白い。

白蛇1-5

2007年08月07日 | Weblog
真夜中の出来事である。

天井向きに寝ていた。僕のヘソの当たりから、突然白煙が立ち上り、それに乗るようにして、真っ白な蛇が出てきた。蛇は頭を天井の方に向けて、その姿はちょうど、タツノオトシゴみたいだった。両眼共に真っ赤である。それは
降り積もった雪の上に、南天の真っ赤な実が、1粒落ちている風情である。

体から抜け出るときは、鱗がざらざらした。その感触は今でも残っていて気持ちが悪い。

そう言えば、もう十年も昔になるが、宮崎県の西都原丘陵に白蛇明神の幟を見つけて、お詣り?にいったことがある。鳥居もなければ、宗教的雰囲気を醸し出す小道具も一切ない。

あるのは金魚鉢くらいの大きさの水槽だ。その中に白蛇が1匹ずつ入っていた。

そのうちの一匹の白蛇を取りだして、僕の頭の上にしばらく置いた。蛇はとぐろを捲いたまま動かない。その姿は巻き線香の形に体を捲いた、たわし のようであった。

それから主人は財布を出すように、言った。多分財布に金が貯まるように、と言う事だったんだろう。こうして500円の儀式は終わった。

実際に貯まったのか、というとその実感はなかったから、蛇の御利益はなかったように思う。

蛇は芸能の神様、弁財天のお使いだと言われている。ひょっとしたら白蛇は僕にくっついていても、ラチがあかないと思って逃げ出したのかも知れない。

これは困ったことになった。僕の創作はすべてその根源が、弁財天にあると思うので、そのお使いをすると言われている、蛇が逃げてしまったとなると、支えを失う事になる。たかが夢かも知れないが、気にかかることである。

蛇はあれからもう、戻っては来ない。

自民党の危機がわからない連中

2007年08月04日 | Weblog
政治資金規正法は再度改正されるそうな。当たり前の話だ。

誰が見ても、ざる法としか思えないものを、作っておいて、選挙に惨敗したらザルの目を細かくするために、1円からレシートをつけて透明性を高めるという。

取り上げる際には、国民には1円のレシートをつけえるように要求し、それを使う段になると、5万円以上だなんて身勝手が過ぎる。

国民の目線に立つならば、こんな事、いえないはずだ。僕はここに国民感情から遊離した自民党のおごりを見る。

今回やっと重い腰を上げて、1円からということにしようといったら、待ったをかける奴がいる。大いに待ったをかけるがよい。それは総理の辞任を早めることになるだろう。解散総選挙の時期を早めることになる。

総理は1円からとテレビではっきり言った。これだけ民意が離れたのだから、自分たちにとっては、不都合なことではあるが、一度やって国民の信頼を取り戻そうという気にならんのか。

国民には1円まで、やらせているじゃないか。できないとは、どういうことだ。それができないというなら、そんな能力のない議員なら、さっさと辞めたらいい。
自民党議員でも、ちゃんとやっている人も、いるではないか。
彼らの言いたいことは、大人としてわからないでもないが、今は自民党にとっては非常事態のはず。襟を正せ。しっかり現実をみて対応しろ。と怒ってやりたい。

僕が注目している人

2007年08月01日 | Weblog
報道ステーッションで、石破氏と渡辺氏の二人が、安倍内閣について語った。石破氏は今日も正論を言うので、僕の価値観と一致するところが多い。彼は筋を通す人で、ごまかしがないだけに、好感が持てる。

今回の安倍総理の政権選択的な演説は続投との整合性を欠くという。理屈で言えばその通りで、誰が見ても矛盾があり、整合性を欠く。

次にテロ特別措置法に話が及んで、自衛隊の給油行動はアメリカ軍のみならず、世界の要請だという。テロ拡散を防止するために、世界各国が協力している姿を見ると、民主党の言うように、反対すると世界から袋だたきに遭うことは目に見えている。そこで今回発生した両院のねじれ現象で、最悪世界世論から取り残されて、のけ者扱いを受けても、それが国益に叶うのか。彼は心配する。

民主党に一票入れた僕も同感だ。唯違ったのは赤城氏の件である。彼は有能な政治家だという。ジム能力が優れているという。

政治家は官僚ではない。人々の体温を共有しながら、事を進めるのが政治家だと思う。
ところが今回赤城氏が国民の前に立って話したことで、彼の有能さが人々に理解されただろうか。これは一目瞭然だ。

彼の本質は官僚的体質で、国民に目を向けた政治家とは、とても思えない。これはあくまで官僚的な有能さが勝っているだけで、政治家としての有能さを表すものではない。むしろ政治家としては、不向きなタイプの人間である。

そこの所を石破氏に再度聞いてみたい。官僚的有能が政治家の有能さに直結するかどうか。

犬猿談義 選挙の後始末

2007年08月01日 | Weblog

おいおい。問題児の赤城大臣は選挙が済んで3日経った今日辞任した。2月の命だった。


いまごろ?どうして?国民がこれで納得すると思うか?
これについては遅きに失したと非難苦情が出ている。当たり前の話だ。


お前も手厳しいな。もっと惻隠の情というものを持ってやれよ。
そう痛めつけるものじゃない。


これは人間様の世界の出来事だ。情もくそもあるものか。


もっと他にチャンスはなかったのか。マイナスにこそなれプラスには働かないだろう。みんな今更なんだという感じを持っている。

猿だって犬だって、アンタイムリーな事をすると、その効果は逆効果にこそなれ、決してプラスには働かない。お互いに良い勉強をさせてもらったよ。