日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

白毫寺 閻魔寺

2008年06月30日 | Weblog
           白毫寺 閻魔寺

白毫寺は奈良市の南 志賀直哉が生前、住んだことのある邸宅、高畑町から歩いて南に下がること、約20分くらいである。高円山の中腹にあり、藪や雑木林に隠れて、道ばたから見えない。

入山するまでは、石段が長々と続く。石段の両側には、萩が植えられていて、見頃になると石段を覆い被さるような形で、道をふさぐ。シーズンになると、テレビが取材して、放映してくれるので、居ながらにして、見事な萩を鑑賞できる。

石段を登り詰めると、拝観料と引き替えに、寺の案内書を貰う。ここの宗派は真言律宗で本山は西大寺である。律と言えば、仏教の法律みたいな物で、その律に縛られて、(守ることによって)ずいぶんと非人間的な生活を、強いられることだろうと、気の毒に思った。

人間は片時も、おなじところに所に、とどまることはなく、心のむくまま、気の向くまま、ふらふらするのが、本来の姿であるからだ。常に流れている。いや常に揺れ動いている。
その本来の性向が律によって制約を受ける。つまり律が認めた範囲でしか、自由がないと窮屈がるのは、凡人の淺智恵といえばよいのか。

この寺の名物は、五色椿(県木)と閻魔サンが祀られていること。そのほかに、中腹にある寺の境内から市街地を眺める眺望の良さや、置かれたベンチに腰掛けて、木陰に身を寄せ吹き上げて通り過ぎていく極楽風を、体一杯に受けることにあるだろう。

勿論季節になれば、萩も見物できるし、なんと言っても、市街の中心から離れているので、静かである。
時折通り過ぎる風に身を任せ、雑木林の葉擦れの音を聞き、鳥の声を身に受けていると、しばし仏の境地を、味わうかのようである。


仏の境地といえば、本堂の入り口のとびらに、小さく書かれた佐佐木信綱博士の
「山高き 御寺のうちに あるほどは 我もしばしの 仏なりけり」という短歌が実感をもって迫ってくる。

僕はかってこの詩を詠み込んで「白毫寺」という題を付けて作曲したことがある。
勿論歌詞は3番までとした。
2番は当山の御詠歌として、3番は
「その昔の 志貴皇子の白毫寺 五色椿は 今盛りなり」 と僕が詠んだ。

五色椿は不思議な木である。一本の木の枝に色の違った椿の花が咲くのである。
白、紅など花の色は5色(正確には分からない)に分かれている。珍しい木である。勿論県指定の県木になっている。
この五色椿の北側に本堂があり、さらに北に宝蔵がある。
宝蔵の入り口には禁撮影の文字がある。そこには何故写真に撮ってはいけないのか、
理由が説明されている。曰く「仏像は拝む対象で、美術品ではない」。理屈はその通りである。
しかし地獄極楽、閻魔さんの姿など見たこともないから、人目がないのを幸いに、シャッターを押そうとしたが、やはりやめた。先ほどの薬が効いている。
加えてもし閻魔さんの裁きを受ける時がやってきて、「お前は盗みどりした犯人だ」とでも冒頭に図星でもさされる日には、後々の返答に困ると計算したからである。

ところで地獄極楽は、あの世にもあるのだろうか。この世にあるというのなら話は分かる。
今日この寺に来るのに、女房の誇大妄想狂のお陰で、地獄を味わった。妻たる私を連れて行かないで、他の女性を助手席に乗せて、連れて行くとは何事か。その声と顔たるや、ここに鎮まる閻魔さんの憤怒像よりも、すごい形相で、火を噴きそうと言うだけではなく、憎らしさの余り、とって食い殺されるか、と憤怒激怒の顔が、声の向こうにある。

女房がいくら悋気しようとて、僕にはそんな実態は、影も形もないから、まるで平気である
なんと言うことを想像する女だと、こちらも怒る。しかし今日は正真正味、独りで来ている。助手席には誰も乗っていない。女性を連れて浮気をしていると言うのは、彼女の誇大妄想以外の何ものでもない。全く関係がないところで、地獄へ突き落とされたような気分だ。いくらこちらに正義が有り、と頑張っても、気分の悪いこと、おびただしい。

この世には地獄が確実にある。つくづくそう実感した。そして不合理だと思ったのは、自分に何の落ち度も、責任もないところに、地獄の風が吹いて、真っ逆さまに地獄へおとされる不愉快さである。
僕はベンチに腰掛けながら、携帯電話という物は、時として、地獄行きの道具に早変わりすることがある事を知った。文明の利器は必ずしも、人を幸せにするだけの物ではない。

こういう地獄の風も、時が経つにつれて収まり、僕は高円山の中腹、白毫寺の境内に吹き上げてくる、心地よい風に身を任せていたので、地獄界から徐々に抜け出て、極楽世界の方に、向かうことになった。

頭で今までの家内とのやりとりを、反芻してはダメ。反芻すると、たちまちにして地獄直行になる。だから出来るだけ、頭と体を切り離して、自分の世界に籠もるようにした。
我独りの世界を取り戻すと、この境内は極楽世界だった。そして僕は閻魔さんに次のように言って置いた。
「全てにわたり、真実を追求される閻魔さん。先ほどは携帯電話を使って、地獄へ行って参りました。ご存じのように、今日はガールフレンドを同伴しておりません。先ほど声を荒げて、もうめちゃくちゃに、ののしったのは妻です。彼女の妄想です。今回ばかりは一人っきりで来ているので、彼女が言うように、助手席には、誰もいません。そこの所をはっきりとえんま帳に記入しておいてほしいのです。今日は紛れもなく、独りで御前に詣でていることは一目瞭然でしょ。

{「だがしかし、それでは二人づれの事もしっかり記録しておく}と。おっしゃることは尤もです。しかし人の世というものは、閻魔さんの思われるほど、単純な物ではありません。色々複雑で、相反するようなことも、現実には起こりうるのです。そこをうまくかき分け、かき分け生きているのが、人間の生活です。その現実を無視して、これは定め、だからの一点張りで、裁かれた日には、たまったものじゃありません。

閻魔さんは神さんか、仏さんかは知らないが、少なくとも人間レベルよりは上の筈。事情ご賢察の上、真実に基づいて公平にお裁き願います。
人間世界では、閻魔さんの名前はよく売れています。そこらそんじょの洟垂れ小僧でも、よく存じております。しかしながら、どのようなお働きをなさるのか、については、皆目存じておりません。ウソをついたら閻魔さんに舌を抜かれる、と言うことだけが、定着しております。
次回はインターネット上で、判る範囲で調べ上げて報告し、世の人々にしらしめる事に勤めたい、と存じております。しばしお時間を頂戴いたします。では今日はこの辺で」。
























ある娼婦

2008年06月29日 | Weblog
           ある娼婦

 大阪市西成区愛隣地区といえば、厳しい人生の風雨にさらされて、おちぶれた人々の吹きだまりの様なところである。
その愛隣地区近くの路上で、刑事とは知らずに、客引きをした45歳になる、売春常習者が警察に摘発された。

20代、30代ならともかくも、45歳にもなって、正業に就くことなく、身を売ることによって、生活を支えるなければ、どうにも立ち行かない環境に置かれた、彼女の心の内には、どんな嵐が吹いていたのであろうか。

 身売りをしなくては、生活が立ち行かなかったのは、何らかのやむにやまれない事情によるもので、普通の人間であれば、誰が好んで人の蔑む身売りなどをするものであろうか。彼女の場合もよくよくのことがあってのことだろうと私は思った。
 私個人の覗き趣味からではなく、一歩踏みはずせば、どう狂っていくか、わかんない人生の不確かさの実例として、私はこの娼婦に非常に興味を持つようになった。

 警察の調書をもとに、正確な追跡を行い、事実関係を調べあげた上での、話ではないのだが、だいたいの様子は新聞記事から読み取れるし、第1に、一挙手一投足も克明に、記述したところで、それは話の展開にあまり関係がないことである。

 この種の人たちに共通していることだが、普通の家庭に生まれ育っていない事が多い。彼女の場合、父の名前も、何もわからなければ、母も途中から、この子を残して出奔してしまい、いわゆる家庭という心の安らぎの場所もなく、食べることさえこと欠きながら、今の歳まで生きてきたと言うのである。
その過程のなかで、自分の境遇と同様に、彼女は身障者の父なし子を産み落としている。
 
 彼女には幸せの女神はそっぽを向いているのだろうか。こういう不幸な人なればこそ、神仏のご加護があっても良いと思うのだが、神仏も意に沿わない人や、神仏の教えに救いを求めて来ない人には神仏ですらも、いつも背を向けているのであろうか。

 幾日か過ぎて、彼女の裁きの日がやってきた。
検察官からの詳細な訴状に目を通した裁判官は、彼女に、今度こそ立ち直るように諭しながら、執行猶予付きの寛刑を言い渡した。私は他人ごとながら我がことのように、安堵の吐息をもらした。

 この話に、もう一つ、心温まる話が加わった。
この婦人をある飲食店の店主が、食堂の従業員として雇い入れたのである。今までのすさんだ生活に、慣れ染まって、身も心もボロボロになった彼女が、果たしてこんな正業を無事に勤めるあげることができるか。幾ばくかの懸念はぬぐいされないが、それにしても、彼女にとっては、善意に満ちた配慮以外の何物でもないのだから、今度こそは立ち直ってほしい。

 考えるに、大勢の人間が、己の才覚で、自由競争をし、適者生存のみを基本原則にして生きると、生まれながらにして、ハンデイを背負っている人は、どうしてもおってけぼりを食ったり、下方を目指して落ちて行かざるを得ない場合が多い。それを社会的な落伍者と烙印を押すのは、いとも簡単であるが、それだけでは決して社会はよくならない。よくならない社会に住む庶民も、どこかでとばっちりを受けて足を引っ張られる結果になる。それ故にちょっとした思いやりとか、暖かい心遣いを心がけることによって、人間の社会はまだまだ住みやすいように改善できる。
殺人だ、火事、事故だ、毎日うっとうしいことの多いニュースとは逆に、このうっとうしい娼婦の話は、一人の人間の行為と、それを取り巻く人間模様の中に、一陣の春風を吹き込んだようで、私は心温まる想いがして、すがすがしい気分になった。












自由に生きる山頭火

2008年06月28日 | Weblog
            自由に生きる山頭火


 ゲタをはいて、着物を着た人が、大山澄太、その人だとは私は知らなかった。
 中々上品な風貌で、知性が漂っている。
とても八十歳を越えた人には見えない。
「お宅も作曲したりして、自由人ですな。」
「いやいや、これでなかなか苦しいんですよ。」
「延命十句観音経が合唱曲になるなんて、びっくりしましたよ。なかなかやるじゃないですか。」
「ありがとうございます。この娘たちは今日もコーラスで、延命十句観音経を歌いますが、いま手元にこの娘たちが吹き込んだテープがありますので、差し上げたいと思います。どうか貰っていただけませんか。」
「それはどうも、ありがとう。松山に帰ったら、
山頭火の本を送りますよ。お礼に。」
「それはそれは、ありがとうございます。
どうかよろしくお願い致します。」

 間もなく、松山の消印の押された小荷物が私の手元に届いた。
茶色の紙に、紐を掛けた包みをほどくと、本が2冊出てきた。その本のページには、便せんにひょうひょうとした文字で、本を贈る旨が書かれていた。
多少とも仏教と芸術に関心を寄せている私ではあるが、山頭火は失念していた。
 緑色の表紙には、黒い文字で山頭火と表記されている。


 山頭火。漂白の俳人。頭蛇袋を首から下げて、日本全国を放浪し、心に去来する想いを、自由律の俳句に託した徹底人。
 その生きざまは西行にも似て、一種のあこがれさへも感じさせてくれる。
自分の人生、時空を含めて、自分の欲するままに生きた人。
 生涯は貧しさと引き換えに、いつも心の自由を確保していたことだろう。
 
 山頭火の友人であった大山澄太も、彼にあこがれて著作したのだろうが、私も同じく、彼の心の自由さにあこがれている。
 生き方をよく考えて、人生をすごさくちゃ、とつくづく思った。

 山頭火は私に良い見本を、見せてくれている。
大山さんも良いことを教えてくれたものだ。
そういえば、かって、山田耕作先生は
「歌詞といえば、詩人はすぐ定型に当てはめて作ろうとするが、付曲する側、つまり作曲家は定型に縛られて、たまるものか。
 メロディの流れには、それ自体に必然性があり、定型よりは、自由律の方がよい場合だっていくらもある。」といわれたのを思い出して、
大山さんの「山頭火」を大変ありがたく思った。

横笛悲恋

2008年06月28日 | Weblog
横笛悲恋

近畿地方では、今日は夕方から雨が降ると
天気予報は言っている。
朝は快晴だったが、昼近くになるにつれて、うすい雲が出だした。 花曇である。
今年は暖冬だったせいか、桜は三月二十日過ぎごろから、という開花予想だったが、三寒四温が続き、ちょっと遅れた感じがある。
そのせいか、咲き出したらぱっと、急に満開になった。
 
そこでぼくは今日を除いては、桜を見る機会もなかろうと、京都嵐山まで出かけた。
 たぶん今夜の雨で、大部ちるだろうから、今日の桜見物は大切だ。 わざわざ京都まで、出かけなくても、花見だけだったら、近所で良いのだとも思ったが、ついでに嵯峨野の滝口寺へ行ってみたいというも思いもあった。

 向いで隣り合わせになっている祇王寺には何回か、足を運んでいるのに、滝口寺には、ついぞ足を運ばなかった。
とりわけ理由があったわけではない。なんとなく行きたくなかっただけのことである。
 今日訪問しようと思ったのは、滝口入道と、横笛の悲恋物語が伝説として伝わっているから、一度のその気分に浸ろうと思ったからだ。
 
この世は、ままならぬことの方が多い。この物語も、この世で最も叶えて欲しい願いが、叶えられないところから、生じた悲劇である。
その哀れさや、寂しさが、ぼくの心に共振し、ここにやってくることになったのだ。
 
平家全盛の時代の世相と、現代の世相とは、全く、異次元のようなものだろうが、人情は何も変わっていない。今も相思相愛を、形に仕上げて添い遂げることの出来ない、若い男女はいくらでもいる。
 
確かに、情報社会だから、たった一人の人に縛られることは、少なくなっているだろう。
 あれがダメなら、これがあるさ的に、素早く転換出来る可能性は広がっている。しかし、それは人間関係が、広く浅くという風に、なったまでのことで、浮ついた恋愛感情だろう。
 狭く深くというふうになって、ただ一途に、時には命をかけてもという気持ちになるのが、
恋の情熱というものであれば、浅く広くは現代でも、案外恋愛としては、うけいれられていないのかも知れない。
 
考えれば、この悲恋物語は、現代でも、十分起こりつつある話しである。
 人の縁、特に男女の縁というものは、難しいものだとつくづく思う。
それは、もてないない男の、もてない口実と、聞こえなくもないが、もてない男や、もてない女が大多数である現実を考えるとき、縁の難しさを痛感する。

 さてさて、話は、気持ちの赴くままに、それてしまった。
横笛悲恋の話に戻そう。
平重盛・小松殿の家来・斉藤時頼はある日、建礼門院の侍女・横笛の舞姿を見て、恋しく思うようになった。が、彼の父は
「お前は名門の出で、将来は平家一門になる身でありながら、なぜあんな、横笛如き女を思いそめるのか、」
と厳しく注意した。

時頼は、主君・重盛の信頼に背いて、恋に迷う己を責めた。そして これはきっと、仏道に入れという尊い手引であると思い、嵯峨の往生院で出家してしまう。

横笛は風の噂に、斎藤時頼が出家して、滝口入道となり、嵯峨野の往生院で、修行していることを聞いて、自分の本心を打ちあけたいと、訪ね歩く。
 ある時荒れ果てた寺で、僧侶の読経する声が聞こえたので、これは時頼に違いないと思い、彼女のまことの思いを打ち明けたいので、女子の身でありながら、ここまでやって来たことを同坊の僧に伝えた。
 
時頼すなわち今は仏門に入って、滝口入道となっている彼は、胸をどきどきさせて、ふすまの隙間からのぞいて、横笛を見ると、女のたもとは涙でぬれ、やせこけていた。
しかも以前懸想して焦がれた顔つきは、あちこち探し求めてさまようて、やつれ果てた横笛そのものであった。
彼女が横笛であることを確かめながら、滝口入道は、別の僧に、
「ここにはそのような人はおりません。」
と言わせて、横笛を追いかえした。

横笛は、どうしても彼女の誠の心を伝えたく、自分の指を切って血を出して、そばにあった石に、
「山ふかみ、おもいいれぬる柴のとの まことのみちに 我をみちびけ」
 と歌を残して、帰っていった。
滝口入道は、未練が残ったまま別れた女性に、住まいを見つけられたからには、修行の妨げになると思い、高野山を修行の場として、高野山に登った。
横笛も、そのあと、すぐ法華寺で尼になった。

その話を聞いた、滝口入道は、歌を一首、横笛に送った。
「そるまでは うらみしかども梓弓 まことのみちにはいるぞうれしき」
横笛は返歌として
「そるとても なにかうらみの梓弓 ひきとどむべきこころならねば」
と贈りそれから、横笛はまもなく法華寺で死んだ。
滝口入道はこのことを伝え聞いて、ますます仏道の修行に励み、高野山の高僧となった。
という話である。原典は平家物語にある。
 
これが、約千年間、語り継がれて続いてきているが、何とも、もの悲しい話ではないか。
 仏門に無縁のぼくなどは、ばかばかしい話にさえ思える。
 もっとドライに考えて、なんとかならなかったのか、と思うのはぼく一人だろうか。
 
男にとって、何か進むべき目標があるとき、思いを寄せる女性がいるというのは、果たして妨げになるのだろうか。相手が邪魔になると、とらえるのではなくて、目標達成のためのサポーターあるいはアシスタントとしてとらえられないものか。そのように活用すれば、むしろプラス要素として受け入られるのに。
そう思うのはぼくのセンチメンタリズムだろうか。
 
この世でもっとも美しく命の炎が輝く、相思相愛の恋愛感情が、修行とか、他にやることがあるという理由で、なおざりにされて、果たして充実した人生が送れるのか。
 首をかしげて、大いに反論したいところである。

 人生目標とラブラブの恋愛感情は両立しないものなのだろうか。
経験のないぼくには両立しそうな気もするけど。

ままならない人生において、お互いに思いをよせあう男女が、その思いを遂げることなく、別れ別れて、この世を去っていくというのは、決して平安時代や鎌倉時代だけの話ではなく、現代でも、どこの国でも、探せばいくつもあることだろう。そして、その現実は悲しい。
 
 それにしてもこの悲恋物語が、千年の時を越えて、現代に伝わり、語られているということは、いったいどういうことを意味するのだろうか。
それは明らかに、この種の問題が、時間を超越しているということを物語る。そして、横笛と滝口入道のような悲恋は、人類発生以来、無数にあったと、思われるから、人々の心の中の哀れという部分に、こういう感情が、こびりついているのであろう。
そしてそれが時々頭をもたげるだろう。だから共感を呼びやすいのだ。
つまり人類普遍の原理、原則の一つであるのだ。

「どちらからですか。ちょっと曇っているけれど、これを花見日和と言うのでしょうね。」
「そうですね。大阪からきました。大阪でも、花見はできるが、嵐山や嵯峨野の方が、なんとなく風情がありますね。一年に一回しか見ることができないので、今日は桜の花の色香を満喫して、帰ります。」
「それはぼくだって同じです。それにしても、ほとんど人のこない、滝口寺に、こられたのは、どうして?」
「詳しくは知らないが、この寺は、悲恋に終わった二人が、あの世で結ばれている。いや、結ばれてほしいと願う寺ではありませんか。
 そういう思いが今の私の心境に、ぴったりなんです。
その思いを重ねあわせると、私は得もいえない気分に包まれるのです。だから、私の今の気分を味わおうと思ったら、いつまでもここに立っていたい。佇んでいたい気持ちです。
 いくつになろうと、私は今のこの気分を、いつまでも忘れないでしょう。私の記憶の中にこの思いをきざみこんでおきたいのです。
 男と女の仲というものには、真実の恋というものがあるのでしょうが、私には、それは単なるあこがれの世界のものであるとしか思えないのです。しかし、現実には恋を求めているし、恋をするという気持ちを失いたくは無いのです。
 ひょっとすると、この気持ちが、今この寺に鎮まっている、横笛の気持ちと、二重重ねになって共鳴しているのかもしれませんね。
 人は死んでも魂は残るというじゃありませんか。たぶん強い思念というものは、残ると思います。それは、単なる私自身しか通用しないロマンかもしれないが、その何とも言いえて妙な気分が好きなんです。」

[いやいや、そういうことを考えているのは、決してあなた一人ではありますまい.。
 昔だったらとっくにこの世を去っているような年代のぼくも、今あなたが言われたのと、同じ感覚を持って、生きていますよ。だから独りで、この滝口寺を訪ねたのです。
たぶん目的が同じく、あなたのような気分をここで味わいたいということだったと思います。]

「それにしても祇王寺は、あれほど頻繁に人が、出入りするのに、すぐ隣にある滝口寺はかくも有名な横笛悲恋の伝説を持ちながら、訪れる人はほとんどありませんね。なんとも不思議な感じがします。
自分の人生が意のままならないという理由で、多くの人が出家したり、世をはかなんで、自殺したり、愛する人と別れたり、本当に人生いろいろありますね。」
 
「その通りです。自分の外側に起こることは、自分の力ではほとんど変えることができませんが、自分の内側すなわち心の持ち方によって、
少しは、事態は変わると思いますよ。
 心の持ち方です。たとえば、人そのものに強い執着心を持てば、それはそれで良い面もあるが、うまくいかなかったときに、命取りになりますよ。だから、ぼくは物事にあまりこだわらないようにしているのです。
般若心経というお経の中にも、人がこだわるものは、夢や幻のように、実体のないものであるから、こだわる必要は無いと、説かれているように思います。
 いやはや、仏教の専門家でないぼくが、説教めいたことを言って、恐縮に存じます。」

会話をしているうちに、顔に冷たい水滴が一筋触れた。たぶん雨が降ってきたのだろう。
その人は
「じゃ、お先に」という言葉を残して石段を下りていった。

 滝口寺という寺の名前は、佐佐木信綱博士の命名らしいけど、寺というには、あまりにもかけ離れたイメージで、農家の一軒家のような感じがする。
 この滝口寺は、曇り空の下では、まだ三時だと言うのに、薄暗くなり始めてた。
 
 嵐山や嵯峨野の一帯は、花見の人で、溢れている。にもかかわらず、滝口寺は、今は、ぼくひとりで約千年昔の悲恋物語に、思いをはせている。誰も来ない。風もおとなわない。
 
静かな春の一日。ぼくに与えられた時間は心の中が、横笛ロマンで埋め尽くされ、なかなかその場を離れがたかった。
生者必滅 会者定離 誰か、これを免れん。
そんな言葉が頭のなかで渦巻いている。

 辺りを薄暗くしている竹藪も、人々の喧噪も、どこかへいってしまって、少しも気にならなかった。
 
人の縁が結ばれる難しさは、いつの時代でも同じで、またいつの時代でも、恋愛感情は成就してハッピイになるのが少なくて、大方は片思いや、悲恋で終わるのが、世の常だと思いつつ、
滝口寺を後にした。

世間虚仮

2008年06月27日 | Weblog
        蛇と縄 
南九州は暖かい。冬は2月までで終わり、3月になると、ぐっと暖かくなる。
ぽかぽか陽気に誘われて、春先になると冬眠していた蛇が、太陽に照らされて暖かくなった、人の通り道に寝そべっていることがよくある。
 たぶん中学生ぐらいの時のことだったと思うが、鼻歌を歌いながら歩いていたら グニャと異様な感覚が足の裏から伝わってきた。私は咄嗟に蛇をふんだんに違いないと思って大急ぎでその場を飛び跳ねて逃げた。
恐る恐る本の場所に戻ってみると蛇は動かないで、そのままじっとしている 。近づいてよく見ると、それは大きさも色も蛇によく似た縄切れだった。蛇と縄切れはとてもよく似ていた。
「なんだ。縄か」。一安心したが、ふんずけだときは実にびっくりした。足の裏には、まだあのぐにゃっとした感覚は残っている。
 縄切れなのに、どうして蛇とに間違ったのか。僕はこのことを今でも考え続けている。目には縄として映っていたはずである。 だが僕はそれを蛇と認識してしまった。
明らかに事実と、認識したものとでは、違いが生じている。目に映った物体の事実が、認識される過程において類似のものに変更されてしまったのである。
だとすれば認識の主体は何だろうか、たぶんそれは脳だろうか、それ以外のどこかにある種の意志が働いて縄が蛇になってしまったのだろう 。これは縄と蛇に限らず、枯れ尾花を幽霊に見間違うことと、同じ理屈に違いない。

じゃ脳に働く意思とはなんだろう 。目に映った像に対して脳のどこかに命令判断する部分があるのではないか。たいていは見たものをそのままに認識するようになっているが、時として映った像を別のものとして、認識することが起こる。
目に映った像は紛れもなく縄であるが、脳が認識する過程で、ある種の力が働いて 縄を蛇と認識してしまうのだ。
ある種の力とは、その時の置かれている状況によって心の奥底に潜む心理的な力が、意思として働き、誤った認識を生じさせるのではないかと思う。
ただしこの場合、自分の意志を自覚できないままに、人は自分が見たものは真実だと思う。
縄(真実)を蛇(判断が加味された真実)と認識するから次の行動として、びっくりとびっくり声が出るのだ。つまり人は真実を真実として認識するとは限らない。言い換えれば人の認識には真実の認識と錯覚による認識がある。
人の見た事実は、それが真実である場合もある、錯覚によって作られた事実の場合もある。ところが人は自分の見たものは、真実であると信じて疑わない。

世間虚化 唯仏是真 これは聖徳太子の言葉である。
人間の世界は真実で満たされているのではなく、人間そのものが不確かで、時として錯覚の上に世界を構成展開する。これは不確かな世界であてにはできない。にもかかわらず人は自分の認識の正しいことに拘泥される。だから人間世界は矛盾に満ちているのである。
つまり我々が住むこの世には、もちろん真実はあるが、それを認識する主体、言い換えれば
人間は不確かなものであるということに気づくべきだと思う。
今まで私は自分の五感に触れるものは、それがそのまま真実と思ってきたが、こういうことを考えると、果たして自分の認識に、それを真実として、100%の信頼を置いて良いものかどうか。自信が無くなってきた。もし自分の五感があてにならないということになれば、いったい何を信じたらよいのか。
 あいまいな自分の認識や、それに基づく判断から身を守るためには、物事に頑迷にこだわる態度を改めるべきだ。ということは頭のどこか片隅に疑念を抱く部分を残しておくということだ。今後起こりうる自分のこと、他人のことを判断する際には、すでにこの部分(事実)から光を当ててみる習慣が必要だ。そしてそれはすべてに対して猜疑心を持ち続けるということではない。
そういう次元ではなくて、人間は不完全なものだということを常に念頭に持っておくということが大切だと思った。
聖徳太子の言葉 「 世間虚仮 唯仏是真 」
、こういうことを考えてみると、改めて聖徳太子の偉大さが身にひしひしとしみこんでくる。
























借景

2008年06月23日 | Weblog
借景

人間はうまいことを考え出すもんだなあ、とつくづく感心した。
大和郡山にある慈光院は、建物、庭そのどれもが、方何里というようなものではない。

しかし、方何里に匹敵するような庭のある家に、勝るとも劣らない効果を持っている。座敷から遠望さられる山の麓までの眺めを、この建物の庭として見立てるというから、スケールは大きい。

自家の建物の余った部分の広さが庭という形ではなくて、自家の庭など、問題にせず、座敷から眺められる視界そのものが庭であるという発想である。

自然が生んだ山も川も、野も、原も、畑も、田も全部ここでは庭の一部を構成する。

これほど雄大で、維持管理の手間のかからない庭園がかってあっただろうか。

視界そのものを自家の庭にするという発想は、中国の仙人を彷彿とさせるものがある。そして、これを景色を借りるという意味で借景という。なるほど、借景か。実にうまいことを考え出すものだ。

現在、公共団体が売り出す土地でさえ、30坪買えば
1000万円の金がかかる。30坪の家というと、自分の家の庭を楽しむなんていうことは全然できない。隣との境目との間隔はわずか50センチ。なんていうことに落ち着くのが一般庶民の住環境である。

とても庭をつくる空き地はなく、庭なしで過ごさざるを得ないが現実だが、庭の欲しい人は、借景の発想をもつ以外には一般概念の庭というものを放棄せざるを得ないようだ。

もし、自家の部屋から見えるものがすべて自家の庭であるとしたら、どうなるか、たぶん気宇壮大になるだろう。

庭に作った池の鯉にエサをやるのが、唯一の楽しみだとか、庭に植えた野菜の手入れをするのが、健康のために良いとか、四季折々の花が咲くように、庭の手入れをするとか、
庭に対する相当の思い入れがないと、庭に値する土地を買うだけでも大変だ。

僕のような面倒くさがり屋は、このことはすべて借景の発想で、間に合わすのが、最もふさわしい。

第一、維持管理のお金も時間も必要がない。それでも、日本では、春夏秋冬に合わせて、それぞれの草花が、花を咲かせて目を楽しましてくれる。心を憩わせてくれる。
庭に関して言うならば、僕にとっては、借景が最もすばらしい。こういうのを団地族というのかも知れない。
そして、
借系の原理を拡大解釈して、援用し、銀行の金庫に眠る札束を想像して、自分が裕福になった気分にになれば、法外の余録である。


































股下3寸パンチラ2-39

2008年06月22日 | Weblog
股下3寸パンチラ

股下3寸。これは勝手におれが名付けた。何のことはない。
おれの目から見て超ミニスカートをはいた女を見つけて驚いて、言葉探しをしたら
股下3寸と言う言葉がひらめいたもんだ。もっと気の利いた言葉はないのか。横文字にするとか。
しけてるなー。我ながら己の石頭に、情けなさがこみ上げてきた。

下品ではないが、要するにスカートの裾がパンツすれすれなのである。
色気むんむんで断然男を挑発するスタイルである。
色は白いは、肌はプリプリ。

男の視線を完全に意識して仕掛けている。腰を曲げてお辞儀でもしようものなら、パンツ丸見えじゃないか。面白い。知らん顔して彼女のそばに財布でも落としてひらってもらうか。そしてほんの何分の1秒の間にチラッと視線を向けて、覗き見するか。
普通の男なら見るなと言われても、視線は釘付けになって、あらぬ妄想に耽るだろう。
挑発しなくても、痴漢は男の専売特許なのに、こうあからさまに挑発されたら、痴漢する方がぜったに悪いとは言い切れない。どっちもどっちという気がしてきた。
かといって痴漢をする勇気はないし、この年をひっさげて痴漢して、お縄頂戴なんて死ぬより恥ずかしい事だから、手出しはしない。女の側から見ると完全に安全パイである。

頭の中でいろいろ肥大した妄想を巡らせることが関の山だ。妄想を楽しむ?人間は、特に男はこの分野が得意に生まれついているのか。

こういう大胆なポーズがとれる女の年齢層はどうなんだろう。30代の女性?全然むり。25歳は?この服装ではババアが腰巻きという感じで似合わない。とすると
18くらいから精々22,3歳くらいまでか。

ピチピチギャルといったって、あと20年も経てばマドンナを通り越してうば桜。
花の命は短くて、苦しきことのみおおかりき。名言を吐いた林女史の実感が伝わってくる。

となると花の命を謳歌できる時には、謳歌すべしと言う理屈に突き当たる。
ここまでくると女の美を楽しむ、賛美するという次元から離れてしっちゃかめっちゃかの理屈をこね回して、抱く妄想の世界の言い訳がましいことを一人でほざくことになる。

それにしても、見るだけよ、と言う世界だけではつまらないな。何とか根性が頭をもたげる。へっへっへー。人生は考えようってもんだ。

今日はこんな事を考えながら、心斎橋から難波まで、雨に濡れて、御堂筋を歩きながら、一人で悦にはいっていた。

ところで股下3寸なんて江戸時代に使われた言葉みたいで、どうも引っかかる。
そこで思いついたのが、パンチラだ。これなら大部ハイカラになった気分になるが、お宅は如何?

宮崎勤の死刑執行について

2008年06月22日 | Weblog
宮崎勤の死刑執行について

鳩山法務大臣の言い分。

自信と責任を持って執行できる人を選んだ。

正義の実現のために粛々と実行。

裁判所ででた判決を行政の裁量で執行を引き延ばす方がおかしい。

死刑制度は国民の80%が望んでいる。

朝日新聞は 次のように書いた。
就任1年未満で13人執行 死刑執行粛々と加速。これまでの慣例は鳩山法相の下で次々覆される。

僕の言い分。
朝日新聞のような書き方をすると、鳩山法務大臣の今回の死刑執行には物言いがついているかのような印象を与える。
彼以前の法務大臣が刑事訴訟法の定めを忠実に実行しなかった責任追及はどうして行われないのだ。執行書のサインと刑訴法の整合性はどのように説明するのか。

加速ではないのだ。以前が怠慢すぎて執行数が0だったり、少なかったりしたのだ。どうしてそこを追求しないのだ。追求すれば大きな問題が浮かび上がってこよう。そこを素通りして「、加速」というのは完全に片手落ちだ。僕の考えでは怠慢から抜け出て、やっとその職責を全うする法務大臣が現れて職務を忠実に行ったと思っている。
新聞社氏よ。 反論を期待したい。

鳩山法務大臣の主張に対して
死刑廃止論者の国会議員で作る死刑廃止議員連盟は危機感をあらわにした。
彼らの意見は今忖度するには当たらない。次元が違う話だからだ。口を挟むなら死刑制度の存廃についての話だ。



宮崎務事件

4人の幼女を誘拐して殺害 そのうちの一人は遺骨にして被害者の団地の自宅前において、さらに犯行声明を出した。
この事件を機に子どもが外で遊ぶ姿が消えたという。犯人の持つ残虐性、凶悪性
と社会にあたえた衝撃と震撼の大きさは計り知れない。

20年の長きにわたって、裁判は慎重に行われ、いずれも死刑以外の選択肢はないと結論つけた。この事件を総観すると犯人の異様さに薄気味悪いものさえ感じる。
死刑判決は当然である。それ以外に選択肢は無い。

このような猟奇殺人はタイの首都バンコクでも起こった。子どもを5人誘拐して、殺害し、食べてしまったのである。
犯人のシーウイは処刑後、本人を樹脂で固め、シリラット病院の中にある犯罪博物館に展示されている。大きなガラスケースに立ち姿で入れてあり、誰でも見学できる。処刑して済ませる問題ではないと考えられたから、標本にしてあるのだ。僕は実物を見てきたが、これは当然のことだと思った。
シーウイの標本を目の前にして、むらむらと憎悪の炎が燃え上がった。正義感を持つ人間なら、みなそう思うのではなかろうか。

再審請求をしようとしている、常識欠如の弁護士がいるのははなはだ情けない。
加害者の人権など、問題にする方が異常人間で、彼らこそ社会の安寧を壊す破壊者だと断じた。

特別被害者の肩を持つわけではないが、これだけの凶悪な殺人をしでかしたのだから、社会的には死刑以外に、モット大きなお仕置きを受けても当然だとさえおもう。

一方、時たま死刑が残酷だと主張する意見がある。だが物事の本質を考えてみるが良い。死刑よりはモット残酷に、無慈悲に殺された被害者の受けた残酷さを思い出すがよい。そして現行の死刑の残酷さと比較すれば、どちらが残酷か。一目瞭然だ。僕の考えでは死刑が残酷だなんて問題外の話だ。
この世の事は、すべて自己責任だ。己の行った事のすべての責任は自分が背負うのが基本原則で、これを恣意的に、ゆがめるわけにはいかない。ゆがめたら法律の根本がゆらいで収拾がつかなくなる。
だから自分の行った犯行については、刑罰を受けて責任をとるときにはその残虐性も当然背負わなくてはならない。そこに何の論理矛盾も感じないのは当然だ。なぜなら、この世の中の事は、すべてこの原理で動いているわけだから。



流行8-13

2008年06月20日 | Weblog

          流行

最近個性の多様化とか、個性の重視とか、個性の尊重 とか、叫ばれながらもその一方で、今年のファッションには熱いまなざしがおくられる。

私は、元来ファッションに身を委ねるということは主体性の欠除ではないかと考えてきた。自己主張を重んじ、個性を重視するのなら、今年の流行が何であろうと平気でいられる筈ではないか、私はそう思う。

誰かが作り出して、はやらせたフアッションの中に身を委ねるということは没主体もいいところ、もともと主体性がなかったのではないかとさえ疑う。言葉を変えれば.主体性のない、つまり中味のない軽薄人間ということになるだろう。

 こういう私の立場からすれば、ファツションも無批判に受け入れて、ファツションという川の中に飛び込むのではなくて主体性をきっちり持ってフアッションとかかわりあいを持ったらいいのではないかということになる。

こういう考えのもとに 、私は万年ジーパンをはいては娘たちのひんしゅくをかっている。がんこ一徹も困りものだがさればとて、何でもファッション・ファシションと騒ぐ娘達の生きざまも困ったもんだ。私はこと服装に関してはファッションのラチ外にいて孤高を保つつもりでいる変人である。
92・12・13

公園風景

2008年06月20日 | Weblog
公園風景

噴水の周りでその親子は遊んでいた。五時間ほどたつて私はまたそこを通った。
今朝がた見かけたあの親子はまだ同にところに居た。父親はべンチに腰かけ女の子は、父親にしがみついていた。何かにおびえているように見えたし、母を求めて泣いているようにも見えた。膝の上に女の子をのせて胸で抱いているその姿からするとクレーマー、クレーマに見えた。女の子は三つぐらい、男の子はよちよち歩きで無心に砂遊びをしている。奥さんはどうしたのだろう。病気なんだろうか、買物にでも出かけたのだろうか、いやひょっとしたら離婚して家を出て行ったのかもしれない。いやいや最悪亡くなったのかもしれない。私の思いは悪い方へ悪い方へと発展しそうな気配だったので、それをふりきろうと私は空を見上げた。
煤煙が漂う都会の冬空を茜色に染めて、太陽は西の空へ落ちていく。青黒い影に転じた
生駒の山にはもう夕月がかかっている。私はコートの襟を立てゝ足早に立ち去った。

2008年06月15日 | Weblog
     旅


九州の旅は1週間ほどを続いた。宮崎を駆け足で回った。大分では、むっちゃん平和祭式典に出席し、市長から、感謝状をもらい、その足で宮崎に行く。

宮崎には、中学校高校の友達がいるから、どうしても彼らに会いたくなる。人情のあつさと、人の心を打つ誠心誠意のこもった、もてなしにはいつもながら、敬服する。これが友人が大成するための最大の武器になるんだろう。
もう一人の友人は信念の人である。その信念も、半ぱっものじゃなくて鉄のような信念なのである。この信念が彼の邪魔をしたことが、さぞ多かったろうが、彼の口から、「正義と同じ位、人情が大切だ」と、言われたのには驚いた。そして納得した。

そうだ。どんな論理の正確さや正当性でもってして、人の心に訴えるよりも、人情という情の世界に、訴えた方がはるかに人の心に、しみとおりやすいのだ。
単なる記者の段階を通り越して、記者の心を読者に通わせて、両者の間にとうとうと流れる命の水の交流を図らなければならない立場にいる、と彼は自認してるからだ。近ごろには全く少なくなった骨のある人物。なんとしても大成してほしい。

今まで日向といえば、日南海岸 青島 鵜戸神宮 などをいちばんとしたが、今回高千穂を訪ねてからは頭の中の観光地図は書き換えられた。

より歴史的で、心のふるさとを感じさせてくれる懐かしさがあり、道々は爽やかな風が吹いていてり、清水の滝は永遠の音楽である。古代から連綿と今も、そして私の死後も、何百年、何千年、同じ音楽を奏でると思うとき、ただ、その時間的なスケールの大きさに驚嘆するほかない。

シェイムリアプは満天の星

2008年06月14日 | Weblog
シェイムリアプは満天の星

「あの山で、蚊に刺されたのです。大丈夫でしょうか。?」彼女の友人が僕にそう尋ねた。
「何カ所も?」
「ううーん。1カ所だけ」
「多分大丈夫。でもマラリアに注意した方が。薬持ってる。?」
「いや」
「そうだ。僕の消毒薬、イソジンをとりにかえってくるからに帰ってくるから待ってて」
僕はすぐさま、宿に取りに帰り、引き返してくることを告げて、バイクの兄ちゃんを促した。

 急いでいるときは、気が焦る。だのに真っ暗ヤミの中でバイクは立ち往生した。聞けば、ガス欠だという。そんなばかな。こんな夜になって、スタンドがオープンしているのか?僕は不安になった。2人は黙ってバイクを押して、ガソリンスタンドを2軒訪ねたがどこも、閉まってて人の気配がなかった。しかし彼は少しも慌てない。
 オイオイ。まさか、宿とホテルを歩いて往復するんじゃないだろうなぁ。
僕は焦っているうえに、さらに焦った。
ところがカンボジアの、給油所はガソリンスタンドだけではなかった。
道端で、ガソリンをペットボトルに詰めて売っているのだ。なるほど。だから彼があわてないわけが分かった。販売店といえば大げさで、こういう形での、ガソリン販売は机の上にガソリンを詰めた、ペットボトルを10本程度おいているだけ。よくも、こんな危険な取り扱いをするもんだと感心した。
給油するとエンジンは1発でかかった。ホッ。安心のため息が漏れた。
シエムリアプの町はずれの道は、文字どおり漆黒である。街灯も家々の隙間から漏れてくる明かりもない。
時おり通るバイクのライトが、唯一の明かり。その代わり、空には、吸い込まれそうな満天の星。黙って空を見上げた僕は漆黒の闇に吸い込まれて言葉を失った。
夜がこんなに暗い物だとは今の今まで気が付かなかった。いつも都会の夜に慣れてしまっているので光のない自然の夜の暗さに驚いた。
何時か此の星空を駆けめぐる事が出来たらな 青い大空もよい。真っ暗な星空もいい。僕は全てを忘れて漆黒のヤミを見続けた。時間が止まった一瞬だった。
いや、勝手に流れている。
シエムリアプの漆黒の夜のヤミ。見応えのあるいい物だ。日本ではどこにいても必ず光が在る。余程の所へ行かないと光の漏れて来ない所はない。
文明の光のさしこまないところには、漆黒のヤミが人の眼を閉ざして心の目を開ける。


姥捨て

2008年06月12日 | Weblog
楢山詣り


後期医療保険制度の与党案は国民の生活実態を正確に反映した物ではない。つじつま合わせのぼろが、続出している。だから評判はすこぶる悪い。ひょっとしたら政府与党は次の選挙で大敗北を喫するかも知れない。
それはあまりにも国民をなめた諸行に、国民の怒りが爆発した結果そうなると思われる。例えば後期医療保険制度を1つ例にとってみればよく分かる。

いくら保険制度を改善して将来に備えると言っても、哲学とイメージが悪すぎる。
法の趣旨から読み取れる、哲学について考えて見ると、

これは姥捨て山法案だと言われてもしかたがない。というのは75才で線引きしたことである。線引きされなくても判っている老人の淋しい気持ちを全く無視して、差別するのがこの法案の実態だ。

改革してあるいは改組して、来るべき本格的高齢者社会に備えるというのは正しいことである。しかしながら現在の法案を見るかぎり、そこに人間として温かい血が通っていると思われるだろうか。

この法律から感じるのは、数字だけの世界で、将来を考えようとする態度がありありと見え甘い砂糖で表面をいくら糊塗しても、中味が丸見えで、従って得心はいかないのである。

現在の75才以上の人達の生き様をよく考えて見るがいい。戦争中は兵隊としてかり出され、死ぬような目に遭いながら、運良く命あって生還した男達。あるいは銃後を守る婦人だと強制され、そのように教育された女性達。75才以上という昭和1桁世代とはこういう受難の世代である。

戦後の復興時には、馬車馬のように働かされ、企業戦士と言われるほど、こき使われて、そのあげく、後期高齢者として姥捨て山に捨てられるかのような法律を強制される。

自民党よ、公明党よ。昭和1桁生まれの悲鳴や、悲哀節が聞こえないのか。特に弱者の味方を標榜し、政治に暖かい血を通わせると公言する、公明党に至っては、血も涙もない法律が判らないのか。如何に嘘つきか。

公明党は弱者と言われる人達の味方ではなかったのか。何故政府自民党を諫める勇気がないのか。暖かい血を通わせることが出来ないのか。公明党支持者の中には何故反対の声がわき起こらないのか。不思議である。

所詮は与党に同調して官職や地位を得ようとして与党のお先棒を担いでいるように見える。これは心外なことではないのか。そう言う誤解を与えることが真意だとは思えない。しかしそう見える。これは世間でよく言う「不徳の致すところ」で済ませられる問題ではない。
法律を作る場合その根底には出来る限り、多くの人達の幸福と安寧が前提とされるのが当たり前である。

現代の人口の中で国家の命令で最も苦難な道を歩かされた世代を、この法律のように冷酷に扱ってそれで、人の道に叶っているであろうか。本音の段階で、人が心の底から怒りを覚えるような法律を、その世代の人達に強制できるのか。これでは人心は離反して当然だ。僕は前期高齢者だが、後期高齢者世代の人達に同情する。

さてそれではどうすればよいのか。やはりもう一度最初からやり直し財源については矛先を徹底した無駄の除去に向け、それを行い、それでも足りないときは消費税に手をつけるべきだろう。
今の自民党のやり方は、経費節減特に官僚組織を無傷にして国民から金を巻き上げようと言うところに基本的な無理がある。現状のたらずまいを全て国民負担というのでは話にならない。自民党も官僚も何の痛みを感じることなく、と言う発想は国民の生活実感からかけ離れた、思い上がりも甚だしい。

              姥捨て(作詞)
1,
街の外れの 老人の里
里山権現  詣りたや
祭り囃子に わらべうた
じじも長生きしすぎたか
漏れるため息 また聞こえる
2,
裏山 つくづく 眺めれば
陽は はやかげって 夜半の月
古い入れ歯に   白髪染め
ばばも長生きしすぎたの
(老女)おうなの つぶやき  また聞こえる

3,
灯りを消して  外見れば
陽は はや 沈んで秋の月
チラチラするは  初雪か
二人は長生き し過ぎたの
諸行無常の 想いあり
 
諸行無常の音がする

重ねあわせると

2008年06月09日 | Weblog
     重ねあわせると、


新聞情報で、実際に、この目で確かめた話ではないのだが、タイの首都バンコクにある
エラワンの神様を破壊しようとした男は、参拝者に捕らえられて、衆人の目の前で、なぐり殺された。

今回の東京秋葉原の無差別殺人殺傷通り魔事件。

手錠をかけられた犯人にたいし、怒り狂った民衆が殴り殺す場面が、あってもよかったんではないか。

この両者は、片や信仰心から、片や正義感に裏付けされた社会的制裁論から、
犯罪者を目の前で、殺すことには変わりは無いが、両者を並べてみると、最悪の中に、ごくわずかでも、テンションを下げる気持ちが出るのはなぜだろうか。それは、共に極度に高まった怒りと緊張を、少しながらも解き放つ役目を果たすと、僕は考えている。

バカは死ななきゃ直らない。というが、こいつを殺すまえに前にとことん苦しめないと、犠牲者の霊は浮かばれない。ヤラレ損は決して赦してはならない

中国四川省の大地震

2008年06月08日 | Weblog
中国四川省の大地震


2008年5月12日午後2時半。
中国の内陸部、四川省で大地震が起こった。四川省は広大な中国の内陸部にある一つの省で、ぼくは南隣の雲南省には行ったが、四川省にはいかなかった。
成都行きの切符を買うために昆明の駅にいったが、凄まじい行列の長さに閉口して、昆明から直接、バンコクへ帰ることにした。

人類が今までに経験したことがないような四川省大地震だが、マグニチュードも7.8から7.9、さらに8.0に訂正された。その規模や放出されたエネルギーは阪神淡路大地震の30倍に達するとか。その被災面積たるや日本国土の4分の1に当たるのだそうだ。

それはどれほどのものかというと、300kmの長さで、幅40kmにわたり、断層のずれが生じたというのだ。日本に例えれば、大阪から静岡までの距離で、幅40キロにわたり断層がずれたということになる。あまりにもスケールが大きすぎて、どう考えてみても、今回の未曾有の大地震には、対応の仕様がなかったのではないかと思う。

死者はおそらく10万人近くなるのではないだろうか。被災して家を失った人々が500万人以上とのことである。
災害発生市から生き埋めになった人の、生存の生理的限界と言われる生存率は72時間を境にして、ぐっと減るらしい。しかし、一人でも多くの人を助けたいのが、国際世論であろう。どの国であれ平和に暮らす人々の世界中の気持ちだろう。
72時間以内に何とかしなくてはと、気がせいたのは大勢の人の思いだろう。
わが国も救援を申し出たが、最初は中国は辞退していた。ところが、生存の生理的限界の72時間間際になって派遣を要請してきた

第1陣31名は成田から現地へ向かって出発した。おそらく睡眠も十分には取れていないはず。しかし、1秒を争う事態だから、ここは日本人の熱い救援熱で、がんばって欲しいのー言だ。日本が隣人・中国を思う友人であることを行動やその結果で示してほしい。

この大災害に、中国は軍隊と警察を合わせて、13万人出動させた。それでも手つかずのところが多いと聞く。
これだけスケールが大きい大災害が起こると、日頃からからどのように気をつけたらいいのか。途方に暮れてしまう。

当然のことながら、世界各国はそれぞれの事情に応じて救援物資や人を派遣している。
日本では自衛隊機による救援物資輸送という案が検討された。火急の時だいうのに、何の異論があるだろうか。一刻も早くと思えば、自衛隊機であろうと、民間機であろうと、何だってかまわない。
僕は最初は日本人としての立場だけで、物を考えた。しかし、よく考えてみると、過去に忘れられない大きさの傷を負った中国民が日の丸をつけた軍用輸送機に対してどれほどのアレルギーを持っているか。そこまで気が回らなかった。救援物資の輸送は結果として、民間機で運ぶことになった。それにしても悪夢の帝国主義侵略軍隊のイメージが、今なお厳然として、残っていることを忘れてはならない。普段はうっかり忘れている問題だ。

話は変わる。

僕は直接には、なんの被害も受けていないが、テレビの映像から見る、その惨状には、何回も涙がこぼれた。言葉にならないほど、気の毒な場面を見た。

名前は忘れたが、30代前半の男性が、8日ぶりに助けたされた時のことである。
建物のガレキに挟まれた彼の姿を大きく、テレビが映し出していた。
何か必要なものをと、リポーターが励ましに行ったときに、彼は携帯電話をほしいと言った。
それを差し出すと、彼の妻の名前を呼んで「お前と僕は永遠に一緒にいる。」といった。
彼は助けたされた。大勢の人の拍手に見送られながら、彼はタンカーで運ばれたが、救出された瞬間に容態が急変して結果は不帰の人になった。

声こそ出さなかったが、とめどなく、涙は溢れて、泣けた。泣けた。今まで彼はガレキの下でがんばっていたのだ。助けだされた時は、テレビで見ている僕も、思わず拍手をしてがんばれと叫んだ。だのに、彼は生還してはくれなかった。夫婦愛を飛び越えて、すばらしい人間愛いっぱいのこの言葉を残して、テレビの前で、彼は事切れたのだ。
ああ良かったと思ったのもつかの間、逆転の深い悲しみが体中に広がった。
彼は逝ったけれども、彼は最後の力を振り絞って、愛妻への思いをテレビの前で語ってくれた。その言葉が今も耳について離れない。

自然災害だから、誰を恨むということはないけれども、あまりにもムゴイと僕は思った。強いて恨むとすれば、天意外にはない。どうしようもない、もどかしさのみが渦巻いている。


再度、話は変わるが、
中国と違って、アメリカと日本の戦後関係は今まで、おおむね良好である。
星条旗を見て、アレルギーを起こす日本人は少ない。
沖縄戦では20万人以上の命が失われ、東京大空襲で10万人以上が焼き殺され、さらに原子爆弾を2発も喰って、戦後60年を経てなお、後遺症に悩み、裁判沙汰になっている原爆症状の患者がいる。

広島、長崎で直接被ばくして死んだ人の人数も10万をくだらないし、そのあとの後遺症で悩み苦しんで、死んでいった人は、60万人を越えているはずだ。
そんなひどい目に遭っても、中国国民が日本に対して抱くほど、根深い怨念は持っていないのが、日本人の心情である。どこが違うのか。

それはアメリカの占領政策が功を奏したことにもよるだろう。たとえば、軍国主義一掃や食糧援助や民主主義を定着させたことなどと、大いに関係があるだろうが。熱しやすく冷めやすいと言う軽い国民性もあるのかも知れない。

ひるがえって、戦後の日中関係は日本人が窮乏のどん底で敗戦を迎え、耐乏生活を脱して、ようやく昭和30年代後半から、経済が自立できる状態で、とても賠償まで手が回っていなかった。

歴史の展望が開ける一部の指導者を除いて、大多数の中国人が日本軍国主義のためにひどい目に遭わされたという怨念を、いまだに解いていないのも、わからないわけではない。
だが、中国国民に理解してほしい。あの帝国主義的軍国主義は昭和20年を境にして葬りさられたということを。
あの忌わしい、太平洋戦争終結後の日本は、軍国主義を否定し、平和憲法をもち、他国を再び侵略することは無い。憲法にはそう決められている。
国が1000兆円の借金に苦しみながらも、国連を通してODAにお金を出し続けていることも知ってほしい。
今回の大地震の被災地については、できるだけ日本人の行動を人道的善意として受け止めてほしい。
過去の軍国主義の悪夢というフィルターを通して、日本人の救援活動を見ると、そこには日本人の真心が欠落してしまう。日本人は大変残念に思うだろう。

中国に対して希望したいことは、過去の歴史と、戦後60年経つ現在の日本の歴史と実情を国民的レベルでよく理解してほしい
甚大な災害を受けた中国民は、日本人が持っている救援活動をありのままに受け止めてほしい。ここには火事場泥棒的発想もなければ、商魂もなく、唯純粋に被災され困っている隣人、四川省の人々へのひたむきな救援の想いである。これを通して現在の日本人の心根をそのまま受け取ってほしい。
日本では今、中国の被災者のためにあらゆるマスコミを通して募金活動を行なっている。
これもまた隣人中国への人々への日本人の率直な想いである。