日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

自由律

2009年10月31日 | Weblog
自由律

五七調か、七五調か、定型詩は言葉の運びが調子よい。
漢詩は概ね定型詩っでえ子供のころから韻文としてなじんできたがゆえに、詞を作る場合七五調にこだわり勝ちである。

だが、感情を五、七の文字の中に上手にもりこんだ場合には別にして、言葉にならなかった感情はどうしても定型をやっぶって自由律で行くしか仕様がない。

山頭火を読んで見るとこの辺のことが良くわかる。自由律の句は調子は良くなく、散文を読む調子で読み流すが、時として定型詩句に負けず劣らずぴしっと決まる場合がある。

山田耕筰先生が詩人の定型詩にうんざりして非定型の詞や句を作曲ようとして使われたのも今になればうなずける

現在の世相

2009年10月30日 | Weblog
現在の世相

鎌倉時代の昔から、我が国には武士道もののふのみち というものがあった。それは時代と世相を反映しながら、昭和20年の太平洋戦争終結まで
その時代時代に合わせて武士道の精神は受け継がれ、日本国民の体質までになっていた。例えば質素倹約も礼節を重んじることも、恥を知ることも国民一人一人が持っていた。つまり儒教精神やそこから派生した武士道精神などが道徳として国民の間に定着していた。

敗戦の惨めな思いと、アメリカからやってきた民主主義思想が相まって
4,5年の間は思想上の混乱も起きたが、昭和25年に勃発した朝鮮戦争のおかげで、経済は持ち直し、昭和30年代に入ると戦前の経済力をしのいでもはや戦後ではないというフレーズが時代をリードするかに見えた。

太平洋戦争が終わると、時を同じくして世界の冷戦がはじまった。アメリカを代表とする民主主義国家群と、ソ連を形成した社会主義・共産主義国家群との対立である。日本はその狭間にあって経済的には冷戦体制つまり55年体制が終わるまで高度成長を続けた。

2回に亘るオイルショックもうまく切り抜け、GNPは世界第2位になるまで経済的に発展して一時期目を見張るものがあったが、それは経済だけの話で、国民の精神は武士道から離れていった。そしてそれは節制のない自由 へと流れて、日本人の誇りも美風も破壊して現在に至っている。

そして現在何が一番問題なのか。それはモラルの破壊である。
想像すら出来ないような事件が毎日頻発していることをみれば今の世相がいかなるものか、よく分かる。

ではどうすれば日本の社会が良くなるのか。基本的には価値観の修正を試み、今後30年の教育体制を確箇たるものにしたらよいだろう。基本は現代に即した哲学的な次元にまで掘り下げた道徳(人間が生活していく上で絶対に守らなくてはならないもの)を、身につけるようにしつけることである。教育の一環として問答無用でしつけることである。

現状を見るに、保護者と教師  生徒と教師の間には教えるものと 教えられるものの間に上下の関係をはっきりした線をひくのがよい。ルール違反者は有無を言わさず集団再教育所へ入れて間違った性根をただせばよい。一定期間再教育をしてまっとうな人間を作るのがよい。勿論こういう考え方には問題も有ることを承知しての話だが、こういうことでもやらなければ 、現状は改まることはない。いま教師の質について論議されているが、余りにも現状現場を知らないものの机上の空論に 思えてならない。

どこで味わうのか

2009年10月29日 | Weblog
どこで味わうのか

よい香りは鼻で、良い味は舌で、美しい花は目で、きれいな音楽は耳で聞いて、味わう。

幸福感は一体どこで味わうのか。肉体なのか、心でなのか 。

それとも人間には別の魂というものが有るのだろうか。

歌は世につれ

2009年10月28日 | Weblog
歌は世につれ

演歌作曲の大御所 、古賀政男先生は生前、次のように語っていたのを私は聞いたことがある。

「私は自分が作った歌が売れなくなるような時代が来ることを強く希望する。私自身も、この日本社会の苦しく悲しい思い、の時代はもうたくさんだ。」

古賀先生が、心の底からそう願っていたかどうかは分からないが、現代の世相を見る限り、古賀演歌は懐かしい過去になりつつある。

人間が生きて行く上で、悲しみが消え去ることは絶対にありえないだろうから、古賀メロディーは、先細りになりつつも生き残るであろう。

あんなに心にしみるメロディーが、と思うが、確かに悲しい歌からは遠ざかる心が自分の内にある。それが分かるから、古賀先生の主張は納得できる。

時代が移るに連れて、世相もその心も移り変わって行く。

高度経済成長を遂げた現代では、個人の懐具合もよくなり、豊かさは、人々が実感できるまでになっている。

貧乏なるがゆえの悲しみは、豊かさと反比例するがごとく、少なくなったが、人々の持つ意のままにならぬ悲しみの大部分が消えたわけではない。

物質的な面に起因する悲しみが少なくなったとしても、精神的な面に起因する悲しみが、減ったということではない。

形を変えて、悲しみは人の心に忍び寄る。これはいつの時代でも同じこと。

されば、悲しみを歌い上げる演歌は内容が変わることがあっても、この日本から消え去ることはない。これから先もあの哀愁に満ちた演歌は日本人の心の歌として、いつまでも歌い継がれて行くことだろう。

道徳

2009年10月27日 | Weblog
道徳


話がそれたが、こういう種類の犯罪に毎日毎日、殺人事件の報道がマスコミでなされるのにはうんざりするなあ。

いったい人の心というものはどうなっているんだろう。先ほどの例は論外だが、やはり人間には道徳心を植え付ける道徳教育というものが必要ではないのか。道徳教育というとイメージが悪いが、人々が自分の思う方向で自由にできるためのルールやエチケットが必要だと思う。世の中はすべてルールを守るところから、始まると、俺は思うんだ。そのルールと言うのは、言い換えれば、常識と言えるものもあるが、出来る限り人間の共通規範に基づいた真理に近づいたものが良い。


おいおい。話が難しくなりはしないか。俺にも分かるように言ってくれ。
確かに、お前のいうように、人間が社会を形成してしていく中には、自由と同時に気持ちよく過ごすためのルールが必要だ。道徳といえば大袈裟だが、人間がお互いに、気持ちよく生きるために、守らなければならないルールといえば、誰でもわかる。しかし、簡単にルールと言うが、これは誰が作るのだ?

9,
人間がつくったら、いちばん良いとは思うけれども、やはりこれは人間の知恵を超えた部分もあるので、宗教的な教義や真理に頼らざるを得ないのではないか。
8,
また難しくなった。要するに、このルール作りは
宗教の力を借りるということか。もしそうだとすれば、どの宗教を借りるのか。


そこが難しいところだ。ただ日本の場合は、八万八百 の神があるけれども、信仰を集めているのは仏教だろう。だから仏教の教えをヒントにしてルール作りをしてみたらどうだろう。


なるほど。ちょっと戦前の道徳を思わないでもないけど。

9,
ええっ。お前、戦前の道徳しってるのか。そんなわけないだろう。戦前の道徳なんて俺たち世代はしらないはずだよ。だって生まれたときには戦後になっていたから。

8,
俺もしらないよ。しかし何となく戦前の道徳と言うのがわかっているんじゃないか。道徳というと戦後はほとんど死語になって、中味は何か全然わからないから。これは後ほど先生に聞いてくるとしよう。先生なら戦前生まれだし、道徳をたたき込まれた世代の人間だからキッとしってると思う。















何かあったんだろう

2009年10月25日 | Weblog
何かあったんだろう。

男はぶすっとした顔をしていた。女が何か言ったら男は彼女を汚い言葉でののしり、女の顔を素手でなぐった。満員電車の人混みの中で人目もはばからずに。こんな粗野な男とくっついた、女は生涯が不作になる。

私はすぐ横でこんなことを思った。やさしいばかりで甲斐性のない男も困るが、さりとて粗野で乱暴な精神しか持ち合わせていない男も困り者。
女にとって男は不可欠か、男にとって女は必要なものか。

暴力は腕力だけではない。精神的な暴力もある。しかも暴力というものはわれわれ人類が進化始める以前から動物的な部分として、体の1部としてくっついて持っているものである。
そういう状況の中で女も男も生きていかなければならないのだ

2009年10月24日 | Weblog

母、
自らの命を懸けて私を生み育てた人。
母性本能とはいえ、ずいぶんつらい思いがあったに違いない。あらゆる困難を乗り越えて命を守ってくれた。時には己の命をまたにかけて。
そんな母の思いが分かる年頃になった。母かどう思うか、どんな思いをしているか、それとは別々に私には私なりの母への思いがある。一般化していうならば、人類の究極のあこがれとして母性があり、母性こそがあらゆるものを生みはぐくみ育てる唯一のもの。それが故に感謝の対象に収れんしていく。それは遠い宇宙からのノスタルジアであり、すべてを包み込む大海であり、ぼわっと積み込む温かさがである。羊水に包まれたあの安心感がある。
私は山田耕筰先生の肉声を録音したテープを持っている。1分足らずの会話の中に母という言葉が4回出てくる。これは何を意味するだろうか。母は間違いなく女性であるが、ここでの母はもっと抽象化されたもので、それは母性といえるものではないだろうか。
いやもっと抽象化されると、それは神とでも言うべきものであろう。


バランス

2009年10月23日 | Weblog
バランス

幸、不幸のバランス計算はどのようにして求めればよいのか。幸,不幸はコインの裏表の関係にあり、幸の裏側には不幸が、不幸の裏側にはが背中あわせにくっついている。

そして人は不幸をできるだけ少なくして幸をできるだけ多く求めている。しかるにこの世は魂の修行の場、修行のためにこの世に生まれでたのであるから少々の不幸でつらい試練を受けるのも仕方のないことかもしれない。

幸が+10であれば不幸が-10だけ背中あわせになって裏に隠れていることを知っておくと油断がない

秋たけなわ

2009年10月22日 | Weblog
秋たけなわ

大阪のメインストリートは御堂筋で、路の両側はイチョウ並木になっている。
その御堂筋と交差する通りに周防町がある。

その周防町の並びにエフという名の喫茶店がある。12月も年末におしせまった
ある日、私は、Mさんとここで待ち合わせをした。そのエフ店の女経営者はその昔、
Mさんと、懇ろだったという話だった。

彼女は金縁の眼鏡をかけていたが、それが上品な顔立ちにとても良く似合っていたし、履いてた黒の、ビロードのスカートがなんともいえず清楚な感じで、とても水商売の女経営者には見えない。どこか山手風の感じのする人であった。当時50歳そこそこの年齢ではなかったかと思う。

Mさんは、昔金持ちのボンボンであった。金にあかせて、いろいろな遊びや道楽をしていたので、やることがなかなか粋であったし、世間の裏表をよくしっていた。そして、彼は二号さんや二人の子供と暮らしていたが、 ある日まったく突然、ポックリ亡くなった。
兆候は全然無くはなかったのであろうが、ひた隠しに隠していたのであろう。

私には彼が死ぬ人なんて、とても予想だにできなかった。しいてあげれば、彼はよく酒を飲んだ後に、[酒が飲めない位なら死んだほうがましだ。」と言っていた事くらいである。

今から考えれば、それが伏線になっていたのかもしれない。しかしいずれにせよ、彼は、自説を地で行ったいた人である。死因は酒の飲みすぎによる肝硬変だった。彼はまたこうもに言っていた。

[人間的に感情の通いあいがない妻と、名目上の夫婦関係を保つよりも二号さんと暮らしている方がよほど幸せだ。大声を張り上げて怒鳴りあってよく喧嘩もするが、それでも感情の通いあいがあったから、またすぐ元の中に戻った。夫婦模様とはこんなものかな。]
僕は当時20代で、まだ結婚していなかったので、夫婦の人間模様など全くわからなかった。
僕はじっと耳を傾けて彼の説を理解することに努めた。50代には50代の知恵がありに20代には20代の知恵がある。

、昨日久し振りに御堂筋から周防町あたりをうろついた。エフ店は、人通りが多いにもかかわらず、ひっそりしていた。あの上品な彼女は、とうの昔に70歳を越しているだろう。ひょっとするとMさんの後を負うようにして、既に他界しているかもしれない。

コーヒーカップから流れて来るあの当時の匂いにふれて当時の雰囲気を感じながら、20年昔のMさんとの会話を思い出した。
物思いにふける秋たけなわである。御堂筋のイチョウは、風に吹かれて散っていく。
















感謝

2009年10月21日 | Weblog
感謝

人生の目的は幸福感に包まれて暮らすことである。幸福感とは過不足なく心が満たされている。
心がほのぼのとした情感に包まれることである。
この時の心理状態は満たされて、いうことがなく、なにものにも感謝したくなるような心境である。

感謝とはありがたいと感じている時の心理である。
この世の中で一番ありがたいことは親の恩である。無私、献身、わが子の命を守り育てるために、親が払う自己犠牲はなによりも大きいものでありその愛があるからこそ今の我が存在しうるのである。

子は親に、親はその親に、、、、とさかのぼっていくと神仏にぶち当たる。だから感謝の対象は直接的には親であるが、それが一般化されると神仏ということになる。

2本のレール

2009年10月20日 | Weblog
人は常に2本のレールの上に乗っかっている。
1つは普通の日常生活をするための常識というレール。人間として共通のルールに自分を合わせて生きる、いわゆる
常識人としての振る舞い。並の人間のするようにすればよい。


もう一つはその人固有の才能を生かすレール。この上でははっきりと自己主張と強烈は個性を発揮すること

下界を見て考えた

2009年10月19日 | Weblog

高度1万メーターのうえから下界を見て考えた。

こんなに手着かずの土地が沢山在りながら,殺しあいをするのは自然淘汰という神の思召しか、それとも単に人間の欲のぶっつかりあいか.,人生わずか60年で殺しあいしてなにになる..


やはり科学という大きな力の究極の目的は,人類が共生できるようにするために的をこの一点に絞るべきだ


心ときめくこと

2009年10月18日 | Weblog
心ときめくこと

人によって様々だろうが

1,お金が沢山入ってきたとき
2,恋人が出来たとき
3,海外旅行に旅立つ
4,身辺に新しい喜び事が起こる予定がある
5,体の中で鳴っているメロデイやフレーズがそのまま楽譜に置き換えられたとき
6,遠方から親友がやってくる

目や心に映る全てのものに心をときめかせることが出来たらどれほど、
この世に生まれて、生きていて良かったと思うことだろう。

どの顔も生きていることに疲れている。
電車に乗って向かい側に座っている人々の顔を見て、こんな事を思った。

僕にとって旅は

2009年10月17日 | Weblog
僕にとって旅は

1若かった昔に還り心を癒すものである 青春の思い出
2,新しいものの発見。見落としていたものを見つける事
3,古いものの再認識、再発見
4,そこはかとなくわき上がる叙情
5,新しい人や物との出会い
6,憧れや夢の追求

東洋には

2009年10月16日 | Weblog
東洋には

神仏をたたえるのにお経がある。和讃、声明、ご詠歌などがある。
西洋には神をたたえる賛美歌がある。
この表現現行法の違いが、東洋と西洋の精神構造の違いを表しているように思えるのだが。

行が足りたから、十分になったからといっても神の試練やほとけの催促を受けない訳ではない。神や仏は慈悲の心を以て試練を与えるが、どこかで救済の手をさしのべておられる。老師はどんな悪い状況になっても、信仰がなかったらさらに事態はなくなっている、すなわち現在この状態で救われているのだともうされる。学ぶべき考え方だ。