日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

良いお年を

2008年12月31日 | Weblog
31日大晦日1年を締めくくると色々ありました。なによりも記憶に残るのは神戸において6000人を前に講演をしたことです。生涯にこのような経験は再びないと思います。わりに冷静になって自分の思うところを十分言い切れた事で心残りはありません。近頃は心が内向きで海外旅行も打ち止めのような状態です。来年こそはと張り切っておりますが、今年1年間ご縁のあった方々、どうか良いお年をお迎え下さい。

   大英博物館 にて

2008年12月30日 | Weblog
             大英博物館

1、人間に生と死が有る限り、神秘が付きまとう。神秘が有る限り人間は神とは切れない縁で結ばれている。こういう実感が強い。

2、5000年前の人骨を見てなぜだか急に父を思い出した。

3、英国は世界中の宝物を奪って自国にもって帰り、大英博物館に収容した。それを自国だけで独占せず人類の文化遺産として保存し世界に向けてオープンした。

もし英国がこうしなかったら人類の文化遺産が守れたか。散逸や破壊や消滅があったに違いない。大英博物にしてもその根底には人類遺産の保護継承の部分があったが
それは正に英国の手柄であり、英知である

ただし英国が保存するにしてもその根底にはこれは人類の財産でそれを保管していて、決して英国一国だけのものではないと言う思想が流れていなくてはならない。博物館内を僕はそう思いながら、見物した。             

生命を持つもの

2008年12月30日 | Weblog
 生命を持つもの

生命を持つものは生物だけだはない。人間が生み出した芸術作品だって世代から世代へと受け継がれて、人の心に生き続ける。、つまり生命をもつ場合がある。人為的に押し付けられて生き続けるのではなくて、ごく自然に人々の心に宿りーそれはその人に深い感動を与えるから人の心に宿るのだがー人の心から心へと伝わって拡がっていくのである

終わりよければすべて良し

2008年12月28日 | Weblog
終わりよければすべて良し と言うじゃありませんか。それは人間は直近の過去二枚没してその雰囲気におおわれてしまう。その気分に巻かれてしまうと言う意味に解釈するなら、人生は最後の時をどういう思いでこの世を去るかそれにつきるだろう
だとすれば最後の瞬間自分の人生が自分の考えた瞬間になっているのかどうかが問われる
だから人生の終着駅に向かう年頃になると「終わりよければすべて良し」と思える方向を目指して日々を送るのが理想であり、得策だと思うが如何なものでしょうか。

その名は井上玲奈さん

2008年12月26日 | Weblog
井上玲奈さん

彼女のお父さんはまだ40歳代という若さで、肺がんのために亡くなった。しばらくして彼女にもガンの症状が出た。

彼女は井上玲奈さん。32歳。フュギュアースケート選手である。

やりたいことがあったから前で進めた。と、ガンを克服したこのスケート選手は言う。また、1日1日を大切に過ごすことともいう。

彼女は、アメリカに渡り、アルバイトをしながら独力で、病と戦う。

テレビでは、この銀盤の女王が、コンビニの店員して働いている姿も放映した。

この場面を見たとき、僕は、久しぶりに感激した。テレビ画面を見て感激することは、ほとんどないから、この感激は新鮮だった。そして彼女のことは、頭の中に、くっきりとやきついた。

すごい人がいるものだ。がんばって欲しい。病気を克服してほしい。立派な選手になって、スケートリンクの上で、舞ってほしい。美しいその姿を見せてほしい。僕は心からそう願った。

そういう彼女に、大きな大きなプレゼントが、贈られた。
彼女とペアーを組んだ選手 ジョン・ボールトン選手が、彼女に、スケートリンクの上で、プロポーズしたのである。これを見た僕は心から拍手をした。
拍手は僕だけではない。リンク上で彼と彼女を見た人たちは、大きな大きな拍手を寄せて二人を祝福した。

昨日のテレビでは、彼女はガンにかかっている子どもたちをスケートリンクに招待して、一人一人に声かけ励ましていた。

言葉ではなくて、その姿や行動によってガンにかかっている子どもたちをどれほど慰めたことだろうか。子どもたちにどれほど生きる希望を与えたことだろうか。

これは作り話ではなくて、現実である。だからなによりも説得力がある。毎日毎日、暗いニュースしか放映しない、テレビ画面に比べ、これらの場面を見て、僕は心の底から気持ちが暖まり大いに励まされた。

童謡や抒情名曲の現状

2008年12月25日 | Weblog
童謡や抒情名曲の現状

明治 大正 昭和、と歌い継がれた童謡や抒情名曲は、40歳代以上の人々の心の中に、美しい宝物として、しまいこまれている。

現代の20代が30代の母親は、名曲を知らないし、童謡を知らないから、子供達に、童謡を教えることはできない。ここで名曲の伝承が、断絶されている。

誰に伝えれば、童謡や抒情名曲の世代間継承ができるのか、

40歳代以上の婦人、おばあちゃんへアプローチする必要がある。この世代は、自己体験があり、孫への継承ができる。
つまり、継承できる次第というのは、
人生が分かる。味わえる世代
子育てが済んでホッとしている世代
名曲を幼いころに聞いて育った世代

おばあちゃんから孫へ。話 童話 歌 物語の絵などを使って伝承すればよい。

夫婦喧嘩はあって当たり前

2008年12月25日 | Weblog
夫婦喧嘩はあって当たり前

生まれて以来、今日まで環境の違う男女が、ある日突然を境にして今までと違った環境で、生活(新婚生活)するのだから、戸惑いやボタンの各違いや、誤解 錯覚 思い込みなど、あらゆる面の相違が生じて、それがいケンカの原因となる。

おまけに愛という得たいの知れない気分にごまかされて、それが覚めると、お互いの相違点がはっきりと浮かび上がる。夢から覚めて、現実に戻ると、両者の分別が効かなくて、あまりに大きな差のある現実とのギャップによるショックに目を回す。

もともと男と女は本来的に違う動物である。男の体験を女にしろと言ったところで、できるものではないし、また逆も真実なりである。お互いに
アンタッチャブルの世界があることを忘れてはならない。

ではどうすればいいのか。基本的には、犬も食わないん夫婦喧嘩は、ほっておくに限るが、強いて知恵付けをすれば、次のようになるのだろうか。

1,できるだけ数多くケンカをして、お互いありのままの姿をよく知って、理解し、それらを許し合うこと

2,お互いに、理解できない部分をもつ動物であることを理解し、その分、お互いに思いやる心をもつこと。場合によったら、あきらめること。

3,生涯という長い時間があるのだから、短兵急に焦らないで、夫だけのものでもない、妻だけのものでもない、新しい環境を作りだし、協調すること

4,負けて勝つ。ということわざの通り、男の上に立つのは考えものである。

命がめらめら燃え立っているいるところに

2008年12月24日 | Weblog
命がめらめら燃え立っているいるところに身を置くと、その影響を受けて自分の命も燃え立つのわかり、生きていることが実感できる。

そういうところに身を置いて生きていることの実感を、息吹を吹き込むようにする。命の躍動がもっとも感じられる所を求めるべきである
 
青年にとってそれは自然であるが老人にとっては求める努力必要である

よりよく生きるテクニックを教えるところがない

2008年12月24日 | Weblog
よりよく生きるテクニックを教えるところがない
学校
小、中、高、大学と、学校は学問を教えるところで必ずしも、よりよく生きることを教えるとは限らない。
家庭
家庭ではまれに教えるところもあるが<よりよく生きる>テクニックは教えない
社会
生きるという現場であって、各自がテクニックを学ぶことがあっても社会から個人に向かっての働きかけはない。
人々が求めているのは(よりよい生き方)のテクニックや考え方であって、必ずしも学問的知識ばかりではない。

散髪屋

2008年12月23日 | Weblog
散髪屋


散髪屋の軒先で、朝飯を食べた。

おやじさんは、見るからに人のよさそうな好人物で、信頼のおける人だと思う。

お互いに、にこやかに笑いながら、ボデーランゲージで会話を交わした。

要するに僕は、髪型も、慎ちゃん刈にして欲しいのである。いろはのいが分からないお互いが
以心伝心で伝えあうことが至難の業だが、手を使って、別段の意志をなんとか伝えた。

言葉が、通じなくても、読み書きできなくても、最終的には、手振りで、身振りで意志が伝わるものだなぁと感心した。

バンコクではこういう事も出来るようになった。

人の真実は

2008年12月23日 | Weblog
人の真実は

心の中にあるもので身分、出自、貧富 社会階級などで判断できるものではない。

唯円が17才のかえでという遊女と夫婦の約束を交わしたのは一重に純愛である。

その純愛がお互い生涯もち続けた場合、ハッピーエンドになるが、純愛を失ったときには、育ち、すなわち遊女と僧に戻り必ずしもハッピーエンドに成るとは限らない。

そして純愛を生涯貫けるかどうか、それは二人の問題であるにもかかわらず、二人にもわからない。



溜飲を下げる

2008年12月23日 | Weblog
    溜飲を下げる         

JAL、123便 の犠牲者に鎮魂曲を書いたら読売新聞が載せてくれた。そしたらその記事を利用して週間文春がさらし者にするような記事を書いた。
社会的に有意義なことをすると、それを冷やかしたりちゃかしたりして、やり玉に挙げ、不満を解消するというのは現代社会の病理現象だ。かくいう僕も権力に対しては こういう形でやり玉に挙げ、溜飲を下げているところがある。

占い師と霊感者

2008年12月22日 | Weblog
占い師と違った予言者は、いつの時代、どこの国でも多く、下の方はいかがわしいインチキから、上は聖書。その他の経典に、名をとどめるものまである。

占い師、霊能者、予言者 と言葉の中身をどこまで正確に理解しているだろうか

占いというのはある種の統計を根拠に、過去現在未来のことについて語るが
霊感師霊能者はある種の強烈な勘、あるいは未だ科学が全く手をつけていない宇宙の霊的交信などによる判断が中心になるので単なる占い師とは質的に違う。

四柱推命などの占いは中国4000年のの歴史を持つと聞かされる。四千年間に沢山の人々におきたきわめて多数の事象 現象の中に一定の法則性が有ることを突き止めてそれを体系化して物事の判断をつけるのだろう。

一方霊感師はこれとは全く違う。神や仏と霊でもって交信しその結果を霊感師の口から言葉として語られる

すなわち霊感師の背後には常に神仏がついている。そして神仏がついているか、それらと霊的な交信が出来るのか、それは本人以外には一切わからない。

そもそも神仏と交信できるというのが、普通の常識では考えられない事で、霊能者の判断も信じるか信じないかという決断を迫られることになる。
僕の経験で言えば出会った霊能者はパーフエクトな霊能者であった。その背後にいる神は歴史上ポピュラーな名前をもつ神である。

殺伐とした暗い時代だからこそ

2008年12月22日 | Weblog
殺伐とした暗い時代だからこそ、心静かに、自分と対話する時間が欲しくなる。その1つの方法として神仏に手を合わせ心を向ける事がある。と言うことは考えられるが そうかといって、繁盛している寺の話など聞いたことがない。近頃は人心は宗教から離れている。宗教離れ、寺離れは急速に進んでいる。寺や神社に行って静かに手を合わせ神仏と真剣な会話を交わしているようでもない。しかしながらそういう働きかけが無くても、神社仏閣のもつあの雰囲気はそこに浸るだけでも心安らかに成る思いがする。
人間は存在自体が神仏の世界に内包されて、いるのだろうか。もしそうなら、人は神仏を含めた世界観を持つ必要がある。今我々は神仏を含めた世界観や価値観の中に生きていると言う自覚があるだろうか。そういうことは無自覚の自覚の範疇にあるのかも知れないが、現実に神社仏閣の前にたたずむと厳粛な気持ちに成るというのは、心の底では無意識的に神仏への畏敬の念を持っていると言うことなのだろうか。

年賀状の季節である

2008年12月21日 | Weblog

年賀状の季節である

年賀状が抜けた。意図的に出さなかったものもある
1. 去年出したが返事がこなかった。
2. 気分的にいやで出してたくないためにかかなかった
3. 書くのが面倒
ところがそんな相手から今年は年賀状が届いた。あわてて返礼をした。が、心を見透かされているようでバツが悪い。
来年からは面倒がらずに出すことにする