日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

良慶はん

2009年04月30日 | Weblog
良慶はん

京都の人は前清水寺貫主 大西良慶師のことを親しみを込めてこう呼ぶらしい。
生前 暁天講座を開かれていたから、人生の大先輩だが、はん付けで呼ばれるところからすると、地元では、親しみをもって、慕われ愛されていたのだろう。

清水寺が有名な名刹であることは、誰もが知っていることだが、貫主の良慶はんが清水寺の顔になったのは、彼の高齢と7つ子ちゃんのなつけ親になったことではないだろうか。
 107才を1期として遷化されたが、写真で見る限り、普通の人の60才の風貌は師の40才の風貌より遙かに老けて見える。体内から出るパワーあふれる気力とその風貌は男のたくましさを表して余りある。
師の90歳代に詠んだ短歌にも、気力元気がみなぎり、師が尋常な人でないことは裏付けされている。とはいえさすが107歳になると言葉の発音も一般人には聞き取れず、通訳?が必要だったそうな。
遷化

2月15日。これは釈迦入滅の日。なにか因縁めいたものを感じるのは私だけだろうか。
出会い
1周忌を目前にした ある日のこと。偶然寺を訪問。
新聞報道で寺の講堂に仏足石が設置されたと言うことを知ってから。
仏足跡と言えば、僕には仏足石歌に興味があり、薬師寺に現存する仏足石歌に曲をつけて奉納したこともある。
これが記憶にあるので、清水寺の仏足石には興味を持ったのだ。 成就院を訪問した時、師の1周忌を控えて90歳代に読まれた短歌にメロデイをつけて歌いながら、師を偲ぶ計画がされていた。そこへ割って入った形で、僕も短歌を見せて貰えることになった。約1000首ある中から僕は次の詠歌を選んだ
「思えども、言わぬは人の道にして、思わざるこそ仏なりけり」
悲しいかな、普通の凡人は思うことどころか、思わないことまでも口走ってしまう。あれやこれや悪口ばかり並べ立てる。そこの所に良慶はんは気付いてこの句を詠まれたのだろう。つまりそこには体験上も、常識的にも、生活経験と修行の中から自然に生まれた句だろうが、凡人にははっと何かを気づかせる短歌である。
            



9-44旅に出る

2009年04月29日 | Weblog
旅に出る

いづくにもあれ、しばし旅だちたるこそ めさむる心ちすれ。
どこでもよい。しばらく家を離れて旅さきに滞在するのは
新鮮な感じがする物である。

実にその通りで、旅は旅先で新鮮な感じを受け取るだけでなく、帰宅すると住み慣れた
はずの我が家が新鮮に見える。
見慣れているはずの我が家も、その周辺も旅先から帰った時の新鮮な気分で眺めると
日常の惰性を破って、新鮮に光り輝いて見える。そのために気分は一新だ。

旅に出ると普段見落としていた物に気がつくのも旅の御利益だ。

近頃海外旅行に行ってみると、集団ツアー旅行よりも、自分一人で地方をふらついている若者に良く出会う。とても良いことだ。
若いだけに頭は柔らかく、吸収する物が多く、見聞を広め結果 考えを豊かな物にして帰国する。これはその後の人生に大いに役立つことだろう。

今まで見たことも、触れたこともない物を見つけるところから生まれる新鮮な驚き。それは心に刺激を与え、心を豊かにする喜びになり、これもまた旅の御利益である。

初夏の風に触れ、野山をみて、木々草木の命の息吹を感じるとき、旅人はきっと
自分の命をリフレッシュすることだろう。大いに旅をするべし。

2009年04月28日 | Weblog


一度読んだ本でも、捨てたらもったいないと、本箱につんでいたら、本があふれ返った。
整理しても整理しても、量が多すぎて、簡単に収まりは付かない。
そこで、古本を売ることにした。僕の場合、本を読むと必ずコメントを書いたり、赤線を引っ張ったり、して書き込みがある。これは一切売れない。

昨日、文庫本15冊を売りに行った。売り物になるのが、5冊で、あとは廃棄処分。売れたお金は150円。

ところが、1冊平均30円で買いとられた本が、書棚に並ぶと、1冊100円である。
儲かるはずである。ひょっとしたら、タダでいいから、本を持っていってほしいと、古本屋に持ち込む人だってたくさんいる。つまり、原価はゼロである。売れば売るだけそれは、利益になる。売れるのか、売れないのかは、本屋にも、この本を出したひともわからない。

だから、場合によって、半年待ちにも売れない場合は、この古本は、廃棄しなくてはならない。ところで廃棄して、見たところで実質的な原価の損は発生しない、

原価は、タダに等しいか、さもなければ、売値の3%5%の仕入り値である。

売る側に立つと歯ぎしりするほど悔しいが、持っていても、大して役にたたないから処分せざるを得ないのだ。ただしそれらの本は読書済みで、すでに一義的には用済みだからこれでも仕様が無い。未練たらたらで今日も五十円を得るために古本屋に足を運ぶ。



本の売れ行きの傾向

2009年04月27日 | Weblog
本の売れ行きの傾向

今年のほんの売れ行きで上位をしめたのは、自己啓発と人生を考える事について書いた本の類である。これが人々の己自身のことや、生きていることの意味や、よりよく生きるにはどうぢたらよいのか、言うところに関心が向けられているのだとすれば、それは喜ばしいことである。
この世に生存を許されるのが、たかだか80年くらいならば、この短い人生を精一杯自分なりに生きて、満足してこの世を去っていくというのは生まれてきた意味を問う点からいっても、真面目な生き方だと僕は考えるからだ。
ところでこういうテーマは自分の身近にありながら、実は深遠な哲学につながっている。
生きると言うことはいのちにつながっており、それは対極には死ともつながっている。
つまり究極的には、生死の問題に関わっている。
そしてこの世でもっとも生死に関係のあるのは、宗教である。宗教は信をとおして、あるときは慰め、あるときは励まし勇気つけ、又あるときには、価値観に入り込んで勇気をバックアップしたり、自制を掛ける働きもする。
上手に活用すれば宗教は生きることにずいぶんと役に立つ。
 ただ現実場面で仏教が生活の足しになっているか、悩める人々に直接良いアドバイスを与え、救済に役立っているかと言えば必ずしも役立っているとは思えない。それは仏教が形骸化していると言うことと同時に仏教の知恵を使って、現代人の心の悩みを救済しようという具体的な取り組みもない。有るのは宗派、教派の宗祖の賛嘆とその教えへの直接的間接的な強制である。あるいは集団への囲い込みである。
 なにがしかの御利益はあるのだろうが、いわゆる根本的な救済にはなっていないから、人心は離れていっている。この点は宗教に心を寄せる者から見ると悔しいことである。現状を深く認識して心の悩みの救済という声に耳を傾けて、旧態依然の姿、有り様から出来るだけ早く脱皮してもらいたいものである。



満たされない心に埋め合わせ8-7

2009年04月26日 | Weblog
         満たされない心に埋め合わせ

現代の経済システムでは、ものと心のバランスが、崩れやすい。
マスプロ、マス消費は生活を豊かにはしたが、物欲の肥大化を伴い、心がやせ細ってしまうような結果を生んだ。

金さえあれば、、、、という考えが、「人間らしく生きる。」ことよりは優先し、ものを追いかけ、高度成長を求めて、「現代」を実現してみた。

ものに関しては、社会も個人も豊かになったが、それに比べて「幸せ感」がなく、心の渇きを感じるのはなぜだろうか。

一体、心の渇きをいやすなどというものは、幼稚園や小学生時代などには問題にならないことである。
それを問題にするのは、人生というものが、ある程度、わかった人が感じることであるから、やはり人生の後半部分を迎えて突き当たる問題ではなかろうか。

もしこれが、人々の通るお決まりの人生行路でどの時点が最もふさわしいかと言うのなら、最も効果的に遍路するのは、タイミングというものがあってしかるべきだ。

私の人生経験からすると、第1線を退いて、己の人生にある程度のメドがつく、定年前後のすなわち60歳くらいから、遍路するのがよい。
この年代ではまだ体力に余力があり、また今までと違った観点から、己を見つめることができるからである。

観光旅行と言うのは、体を休め、気分転換をする為の旅行である。美しい景色 ゴージャスな調度品や雰囲気、見た目には、ゼイタクともいえる、美しくおいしい食事を求めての旅である。心も体も休める旅である。

それに比べて遍路旅は、目標は、寺でらをめぐり歩くことであり、遍路する88の寺でらは必ずしも、平地ばかりではなく、山あり谷ありの自然の姿の野山をめぐり歩き、それを通して己の人生に、何かを得る旅である。特に満たされない心や人生のもろもろの疑問や未知の問題に、取り組もうとする旅である。

それは自分の足を使って山野を踏破するもので、四国一周合計で1400kmを歩き通す事である。雨の日も晴れの日も、暑い日も寒い日も、ただ次の札所を目指して黙々と歩き、体の疲労からくるいらいらや、ストレスと戦い、それに打ち勝つ自分を作る修業の場を巡り歩く旅である。

近頃は車遍路が主流にはなっているが、本来は歩き通す事が本筋だろう。約50日程かかるらしいが、その間野宿する人も多いと聞く。だから最低限度の生活道具は背負って歩くことになる。
彼岸花の咲くの道を、菅笠の白装束の姿がちらほら見える。百人百通りの人生を背負いながら。一人二人、また一人が歩いていく。
遍路ばかりは自分との戦いという面がある以上、自分以外はみな他人で直接には何の関係もない。答えは独りひとりが出すものだ。そしてその答えは自分にしか分からないし、他人には通用しないかも知れないものである。それを踏まえて遍路旅に出るか?う~ん。
無駄だとは言わないが、体力となえた気力では自信がない。一生涯出来ない旅かも。



9-45無為の日

2009年04月25日 | Weblog
無為の日

することは山ほどあるのに気力が失せて、何もやる気がしない。しかたがないから、CDを聞くことにした。
クラシック系日本歌曲。一番好きなのは石川啄木の「初恋」これは以前立川澄人さんが歌っていた。男声の初恋も良いが女声の初恋も良い。

今日は日本歌曲を歌わせたら日本一。ソプラノの声楽家 上浪明子氏の歌を聴いた。伴奏の加納さんとの呼吸があっていて、神経質で口うるさいぼくも、歌の世界にひきづられてどっぷり浸かった。

歌の持つ叙情性もさることながら、越谷達之助氏の作曲のうまさ、それに輪を掛けた,
上浪さんの歌唱、伴奏の加納吾郎さんのうまさ。

これらを総合して、かって私は絶品に値すると書いた。これは私独りの思いではない。評論家の名前は忘れたが、芸術新潮には同じような批評が書かれていたのを読んだことがある。

CDの表面には日本の抒情歌 ソプラノ 上浪明子 伴奏加納吾郎。制作はビクターである。PRCD-5164と書いてあるから多分プライベート版だとおもう。

これには初恋を含めて18曲入っているが、いかんせん歌詞が古くさい。1世代前という感じがする。例えば斑猫。まだら毛をしたネコかと思ったら、辞書をひいてみると虫の一種とある。

あまりにも生々しい歌詞が飛び交う近頃のヤンキーソングとは同じ日本人ながら全く異次元の世界である。

話はそれたが次のCDが出るのを裏切って上浪さんは鬼籍の人となってしまった。ある日朝日新聞の訃報欄でこのことを知ってがっかりした。

彼女ほどの技量の持ち主はそうそう現れるものではない。残念の一言だ。


 

金融危機を起こした資本主義

2009年04月24日 | Weblog
金融危機を起こした資本主義

今回の金融危機で判ったことがたくさんあるが、集約すれば利益優先が何にもまして求められた結果、人間が資本主義体制の元で生存しているということを、忘れていることにある。いや無視されたといった方が現実に近い。 今回の危機は
人間の生存が保証されて初めて企業が存続し、その活動を通じて利益を得るという基本が抜け落ちて、何が何でも利益優先が現実に行われた事を、改めて民衆の前に見せつけた。
こういう事が起こると、資本主義体制のもとで、結果的には 人間存在よりも儲けを優先させ、人々の生活を傷つけ、その結果、資本主義の健全な発達を阻害する。

労働が商品化され、派遣社員が生まれた。本人には責任のないところで雇い止めに会い、振幅の激しい資本主義経済の調整弁になった。これは本末転倒の話である。
企業のために人間がくいものにされている姿である。
労働者は雇用され労働の対価が賃金として支払われ、それによって生活が維持される即ち生存権が保証されるのである。これは資本主義成立の最も基本的な事柄で、逆に言えばこの原則が守られなくては資本主義は成立しない。しかし現実にはこの原則が破られ、多くの人が期限終了という合理的な理由で職を失い路頭に迷う結果を招いた。
続く

            現実的な対応としては、

現在の資本主義に修正を加え、生活の安全網を急いで作る必要がある。まずは何よりも基本的な所得補償が大切だろう。所帯別に最低生活費を割り出して各世帯に国が配布する。財源は消費税はもちろんのこと、現在の国家予算の使い道を大幅に改変して生み出す。そういう他に所得の再配分を厳密に行って、出来る限り格差を少なく平準化させる。
ゆりかごから墓場までの社会保証制度を確立して、国民に最低生活だけは保障する。といっても全生活費の6割くらいの支給にして、あとは各人の労働努力に委ねないと怠け者を沢山生み出す事になりかねない。 そして基本的には契約社員は業種を極く専門性のある物に限り製造業では認めないのが基本だろう。派遣制度を認める限り、労働力は企業の雇用安全面として利用されることは、一目瞭然である。それは今回のようにいつも雇用不安を招き、ひいては社会不安に繋がるだろう。


世界金融危機が起きた原因は、利益至上主義が行き過ぎたところにある。資本主義というよりも、市場の暴走を防ぐための哲学や理念がない。 学者がどれほど力説しても金儲けの魔力には歯が立たないのが人間の本性である。だからこそ人間の叡智でもって暴走を食い止める必要があるのだ。それが政府の仕事である。アメリカの場合それが野放しになって、やりたい放題がまかり通っていたのである。そのあげくはドウか?世界同時不況
が発生して多くの人を苦境に追い込んだではないか。
賀川豊彦の経済思想を持ち出すまでもなく 物質中心でなく、人間を中心とした経済 
人間中心の経済体系に最高の価値をおいて、全てを修正しなくてはならない。


外交と言えば

2009年04月23日 | Weblog
 外交と言えば、

利害が衝突しても、話し合いでもって解決しようという基本姿勢が不可欠である。今までの北の外交は国連決議が何であろうと、自国の方針と異なれば、独特の理
屈をつけて無視する態度に出て、国際協調をする態度は見受けられない。
これは今回に限ったことではなく、永年の北やり方である。ゴネドク・瀬戸際外交と言われているが、要するに戦争一歩手前、あるいは最悪戦争突入もあり得るということを決めて、彼らは外交交渉してきたのである。そしてその効力の味を知っている。言い換えるなら腹がすわっている。
6カ国協議を振り返って見ると、日本にはなんの成果ももたらさないで、時間はどんどんすぎていく。このままで推移すれば、事態の好転が望めるだろうか。展望が開けるだろうか。
北にとっては、本当の敵は日本じゃないのだろうか。この辺の事情を踏まえた上で、北の軍事力をしのぐ備えが必要である。備えはするが、先制攻撃をかけろと言っているのではない。
世論では中川さんは鷹派という見方をするが、選択肢が限られている対北朝鮮政策は、力に対し力を持って対峙して、一歩も引かない強腰が、必要だと思う。つまり彼はタカ派の論理を振り回しているのでは無くて、現実を切実に訴えているのである。
こういう問題に関しては、何時も憲法が持ち出されるが、平和憲法をもってはいるが、国が破壊されたというのでは、話にならない。専守防衛とはいえ、攻撃が開始される事が察知されれば、攻撃を受ける前に相手をたたくのは、日本の権利であろう。



              中川氏は続ける。


最も脅威を受けている日本として、どうやって国民の平和と安全を守っていくかを、外交努力と並行して安全保障面でも議論していくべきだ。
 
核シェルターの整備も1つ。自民党の北朝鮮ミサイル問題に関する合同部会では、敵地攻撃能力の検討を求める意見が出されたようだが、自衛権の範囲内でできることもあるだろう。
 「自分の国は自分で守る」という大前提の中で、米国やソ連、中国などが50年前に真剣に議論していたことを、わが国もやるべきだ。

その通りだ。自国を北朝鮮の攻撃から自力で守らずして、いくら国力の繁栄を唱えてみたところで全く意味がない。

7日の衆院本会議で、北のミサイル発射に抗議する国会決議に、共産党が反対、社民党が棄権したことは理解できない。本当に、国民の平和と安全を考えているのか。
 中国による毒ギョーザ事件でも分かるように、日本人は冷めやすい。

北は1970年代から、日本人を拉致して工作員養成に利用し、同時にミサイルや核開発を進めてきた。この執念のような北の意志を侮ってはならない。
 弾道ミサイルをどうやって防ぎ、核をどうやって防ぎ、拉致をどうやって解決するのか。早急かつ真剣に議論しておく必要がある。日本人は自らの安全保障に目覚めなければならない。
日本人の平和ぼけ病が治り、自力で備えをもつ国民世論が喚起されることを望むものである。彼の現実感をタカ派の論理などと、かたずけてはならない。



日本人は自らの安全保障に目覚めよ

2009年04月22日 | Weblog

日本人は自らの安全保障に目覚めよ

夕刊フジ連載コラム「中川昭一の言わせてもらおう」(4月10日掲載)
「日本を守るため 早急に議論を」
「北の脅威は確実に上昇」
「日本人は自らの安全保障に目覚めよ」
北はすでに日本のほぼ全土を射程に収める中距離弾道ミサイル「ノドン」を200基以上も実戦配備しているうえ、発射直前には「核爆弾の小型化に成功した」との報道もあった。
 脅威のレベルは確実に上がっている。
日本人はこの事実を冷静に認識しなければならない。
 
この表現は決して現実無視の話ではない。多分に北にはそう言う雰囲気がある。
外交努力で、という言葉がさかんに言われるが、これは現実無視もはなはだしい。
この国に話し合いで解決しようとしたところで、解決策は見つからない。それは九十年代の米朝交渉の経過や、6か国協議の進展具合を見ても推定できるだろう。そりゃ北の国内に革命が起こり、現政権が転覆するか、何かの動機で国の自壊作用でも起こらない限り、
日本としては、どんな策も取りようがないと思う。金をちらつかせてなど甘いことを掲げる学者もいるが、北がやせ我慢さえすれば、それは相手を説き伏せる材料とは成らない。
どんなに経済的に苦しくとも北は日本からの賠償金なしにやっていくだろう。
ということは日本独自では完全にお手上げの状態にある。
期待の米朝交渉がうまくいっても、だから矛先を日本に向けないとは言い切れまい。仮に成功すれば、アメリカをてこにして日本に多額の賠償をはじめ難題を要求してくることだろう。それをはねつければ、残された路は軍事的圧力以外にはないだろう。それを見越して北は200発のノドンを配備すみだと考えるとき、日本国を守るためになんとしても、北に1発でも日本に向けて発射すれば北朝鮮という国そのものが地球上から消滅する位の報復能力を持ってこそ、対等外交の路も開けようというもの。
日米安保の存在を十分認めてはいるが、攻撃に立ち向かうのは日本自らの話で、アメリカさんに、それをやってくれとお願いするというのは 子供じみている。世界大戦規模クラスになると日米同盟は有効だろうが、いずれにせよアメリカは自国の利益優先するだろう。当然の話だ。


長生き

2009年04月21日 | Weblog
長生き 09421

化野のつゆ消ゆるときなく、鳥部山の煙たちさらでのみ住みつるならいならばいかに
者のあわれもなからん。
世はさだめなきこそいみじけれ。

人間は永久に生きることが出来ればどんなにかものの情趣がないことだろう。
生まれてきて、死ぬからこそ、良いのである。さてその生き方だけど、この一生を足りないと思えば千年生きても、十分生きたという感覚はないだろう。
生き方にも限度というものがある。そこをわきまえて上手に生きてこそ、人生の意味がある。
長生きすれば恥をさらすこともおおいし、むさぼる心も湧いてくる。40才くらいで〔十四世紀〕頃の時代)世を去るのが、最も望ましい生き方ではあるまいか。


時代背景が如何に変わろうとも、長生きは人間の基本的な願望であろう。私個人の希望としては 二十一世紀の現代は85才くらいで自分自身の見繕いが出来る程度に長生きするのが良かろうと思う。
恥をさらしても、むさぼる心が生じてもそれは人間の自然な姿だから仕方がないではないか。85才くらいまで生きると、孫の行方もある程度、見極められるし、自分の体を支える力だって限界に達するだろうから、納得して世を去ることが出来るのではないだろうか。
己を己の自力で支えることが最低で、他人の力を借りないと、生きていけないというのでは生きている意味がない。 格好をつけて生きる必要は無いだろう。自然に任せて自力で自分を支えることが出来なくなったら、この世に未練無くおさらばするのが、自然体でよろしいと思うが。皆さんののご意見は。

法師(僧)について

2009年04月20日 | Weblog
             法師(僧)について

法師ばかりうらやましからぬものは、あらじ 人には木の端のように思われるよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞなし。

僧侶も、世間から尊敬されているが、しかし、僧侶ほど、うらやましくないものは、あるまい
「世の人からは木の端くれのように、つまらないものに思われるよ。」と清少納言が、書いているのも、本当にもっともなことである。権勢が盛んで、名声が高いにつけても、別に偉いとは、見えない。
名利を捨てよ。という釈迦の教えにそむく事ではないかと思われる。
増賀上人(天台宗の高僧名利を避けて遁世)の生き方が望ましいのではないか。

クマの意見
仏教では、篤く三宝を敬えと教えている。三宝すなわち仏法僧で、問題にするのはこの僧である。仏の弟子としての僧は、釈迦の教えを説くものとして、本来的には尊敬されるべきものである。
時代によっては多少の変化はあるが、基本的に僧は表面は尊敬されていると同時に、腹の底では、低く見られている。表面は尊敬していいるような、そぶりを見せているが、はらのそこでは軽蔑している。と言う現実がある。
確かに尊敬を受ける眞の仏教者もいる事にいるが、多数は単に生活をするために僧職についている人が多い。四国遍路をしたときも、このことをつくづく感じた。
本来仏教僧というのは生きている人間に、仏教の智慧を駆使して、生きていく上での悩みに何らかのサジェッションを与えるのが本務ではないか。
死者に向かって葬式儀礼をしたり、年忌法会をしたりするのは、あくまで従の仕事の筈である。というのは、この種の仕事によって、生きている人の悩みに、何ら答えないからである。
釈迦の教えの公宣流布と、庶民壇信徒の魂の救済こそが眞の職務だと思うからである
ハチ公
そんなこといったって坊さんも空気や霞を食って生きているわけじゃないよ。僧であろうと我々であろうと生きていくためには、金になることをしなくてはならならいから、お布施が沢山貰える葬式や法事に力を入れるのは当然じゃないか。
クマ
新興宗教は大勢の人を集めて、金を集めているぜ。彼らの元に人が集まるのは何故だろうか。検討して見る必要があるね 。特に檀家を持つ旧仏教には大きな課題ではないかね


天皇につて

2009年04月19日 | Weblog
             天皇につて
いでやこの世に生まれては願わし刈るべきことこそおおかめれ。
御門の御位はいともかしこし。、、、、

このように生まれた以上願わしい、ことは多い。天皇の位はおそれ多い。
普通の人間と血統が違うのは、尊いことである。、、、、略

兼好法師よ。おたづねしたい。何をもって天皇や貴族を尊いとするのか。漠然とではあるが今日でも天皇あるいはその一門は尊いと尊敬を受けているが、その尊敬の念は真実のものであるかどうか。
僕のような雑魚はそこらへんで、タチ小便ができるが、天皇さまには、おそらくその自由がないのではないか。
天皇に限らないで、一般的にも上に立つ人は、公の人として私人が持っている自由はある程度制限される。
不自由な飼いイヌが良いか。それとも、自由のある野犬がよいか。それは人それぞれであろう。
時あたかもご結婚50年の否を迎えた。天皇と言う立場を離れて人間に立ち戻って夫婦関係を語られるご夫妻には、生きてきた苦労が言葉の端々によって読み取れる。現実の世界ではさもあろうと納得すると同時に、天皇という立場上のご苦労も大変だったろうと同情した。
しかしどこに生まれつくか、は自分の意志の他で決められる約束事で自分の望むようにはならない。天皇家に生まれつくのも、そこらそんじょの雑魚に生まれつくも宿命としか言いようがない。それを拒絶することは赦されず、天命は逆らうことなく受けなければならない。
人間は皆不自由な存在なのである。



イチローには神がついている

2009年04月17日 | Weblog
イチロー

3085本安打達成。しかも満塁ホームラン付きで。

WBC最終ラウンド韓国戦でセンター前ヒットで2点入れ、そのおかげで優勝し世界一が決定したとき、彼は神が降りてきたと言った。彼の言葉はそうとしか思われない奇跡のようなことが起こったのだから、神という言葉にも説得力があった。

名電工時代の監督さんは今回の彼の快挙について「満塁ホームランとは驚いたね。神様があの子に入っているみたいだ」と語ったそうだ。

彼のこの2つのバッテイングは僕には神技に思われて仕方がない。神様はやはりいるのだなと何の抵抗もなく受け入れた。

彼はまだ35歳。4000本安打はキット達成できるだろう。彼の活躍を祈ってやまない



ルールやマナーのない社会

2009年04月16日 | Weblog
          
ルールやマナーのない社会

それは社会として機能し存在し、えるのか。集団を形成し、それにのっとって行動する時にはマナーとかルールは不可欠である。

ルールを作るだけではだめで、積極的に守るところに、はじめて機能し効果を表す。これが人間社会で人間らしく生きて行く上で基本になる。

ルールを守ることによって効果が発揮できるのだから、ルールをしっかり教え、幼少時から大人になるまで教え込まなくてはいけない。

それでは誰が教えるのか、第一義的には、これは親の責任である。そのつぎが、社会と学校教育である。もし教育がなされていなくては責任追及をされる。
何でも学校学校という風潮に先生は反発して心の底ではこう考えている。思い切って口に出せばいいものを、内に秘めているのは先生が小心者であることの証明だ。
ただしがちがちのルール遵守者を目指せと言うつもりはない。何でもほどほどが一番大切。

徒然草1

2009年04月15日 | Weblog
徒然草1,
吉田兼好は吉田神社の社務職を父に持ち、1283年に生まれ、1350年、68歳で、死んだ。徒然草を書いたのは40歳から50歳の間であろうと言われている。
酸いも甘いも噛み分ける、大人の書いた名随筆であると同時に、教訓の書と思って
僕はよく、この本を読む。
時代背景が、違うから、考え方や立場は違うけれども、教えられることが沢山ある。700年の時の風雨の洗礼を受けて、今日なお、この本が、読み続けられるというのは、そしてそこから、人生の教訓めいたことを教えられるのは、彼がいかに深く、人生万般について考え、そこで見つけた人生の諸相が 時代を超えて、どれほど人々に共感を与えるか。そのことで、この本の値打ちが分かってくる。
同じく人として、この世に生きたぼくは彼のように、広く深く、人生を味わったかどうか。
答えはものの比ではない生き方を、僕がしてきたということである。

だからこの歳になって改めて、このこの本を読み返し、自分の人生を味わ方便としているのである。この書はいまぼくが読むべき書なのかも知れない。