日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

愛染まつり6-36

2014年06月30日 | Weblog
愛染まつり

高野町の入り口の最初のバスの停留所でバスを降り、坂を降って蓮華定院を通り過ぎると、行く手右側に林のようなところがある。

道に沿ってその林の中で咲いている紫陽花は色とりどりではあるが、薄紫の花が雨に濡れている様は特別な風情がある。

紫陽花は梅雨の真っ最中に花が咲く。バラやチューリップとも趣が違って、
雨を受けては水滴を花に乗せている。紫陽花は梅雨の季節の花である。

梅雨といえば愛染さんだ。
大阪の3大夏祭りのトップを切って梅雨季終末の雨が激しく降る6月30日から始まる。
愛染さんには雨はつきものだが、そうだと決め込んだら、雨も気にならない。
湿気むんむん。ゆかた姿の娘さんの色気も悶々。

朱塗りの赤門に負けない位の朱色の仏は愛染明王と言って人々のご利益を守る5大明王の1つである。
そのご利益はお金と色気である。
人間の2つの基本的欲求を満たしてくれる仏様だ。いくつになってもお金と色気はありがたいものだ。
信仰心の発露と言うよりは、あてにしない願掛をして夕闇の露店を見て廻るのは愛染さんならばこそだ。
信仰の有無にかかわらず、愛染祭りの宵のそぞろ歩きはまた格別である。


Message body 愛染まつり

高野町の入り口の最初のバスの停留所でバスを降り、坂を降って蓮華定院を通り過ぎると行く手右側に林のようなところがある。

道に沿ってその林の中で咲いている紫陽花は色とりどりではあるが、薄紫の花が雨に濡れている様は特別な風情がある。

紫陽花は梅雨の真っ最中に花が咲く。バラやチューリップとも趣が違って、
雨を受けては水滴を花に乗せている。紫陽花は梅雨の季節の花である。

梅雨といえば愛染さんだ。
大阪の3大夏祭りのトップを切って梅雨の雨が激しく降る6月30日から始まる。
愛染さんには雨はつきものだが、そうだと決め込んだら、雨も気にならない。
湿気もんもん。ゆかた姿の娘さんの色気も悶々。

朱塗りの赤門に負けない位の朱色の仏は愛染明王と言って人々のご利益を守る5大明王の1つである。
そのご利益はお金と色気である。
人間の2つの基本的欲求を満たしてくれる仏様だ。いくつになってもお金と色気はありがたいものだ。
信仰心の発露と言うよりは、あてにしない願掛をして夕闇の露店を見てあるのは愛染さんならばこそだ。
信仰の有無にかかわらず、愛染祭りの宵のそぞろ歩きはまた格別である。



悪い奴ほどよく眠る

2014年06月29日 | Weblog
悪い奴ほどよく眠る

大震災によって人生が狂ってしまい、病気療養が思うように進まないで、また明日の生活の目途が立たないなど、生活に行き詰まった人が自殺しているとマスコミは報じている。
福島に限れば人災で経済的に弱い立場の人が、命を絶っていく。
福島原子力事故さえなければ、命を長らえる事が出来た人達でも、将来を悲観して、命を短くしているのを考えるとき、安全だと国民を欺いた電力会社や、安全委員会の役人、これを推進した自民党の政治屋。こんな連中の中からこそ、責任を感じて自殺者が出ても良さそうなものなのに、そんな話は漏れ伝わってこない。

「悪い奴ほどよく眠る」とはよく言ったものだ。正直者、まじめな生き方をしている人達が、追い詰められて自ら命を絶て行く。これはまさしく現代の悲劇である。

福島では人々の生活を破壊するだけでなく、人の心の中までも破壊した。
原子力被災者の心の内を思いやる時、やり場のない怒りを覚える。

未だにこんな程度の復興状態ならば、やはり、むしろ旗をたてて暴れまくるデモをやって、よく眠る悪い奴に圧力を加えた方が良かったのかも知れない。
どんな場合でそうだが、おとなしくしていると、結果的にはなめられて損をする。
ごね得を奨励するわけではないが、自分の損得を考えて、ある程度強く自己主張すべきなのだろう。

喝を入れたい

2014年06月28日 | Weblog

喝を入れたい

マグニチュド7,8
風速2,5m以下の場合、大阪市の延焼は0
風速5,3mの時延焼6件死者7人

マグニチュード7,8にもなれば倒壊する家が続出すると想定するのは間違いであろうか。
大阪市の発表を見ると,余りにも現実離れして、一体どういう想定の元に作られた予想計画か、想定そのものがはなはだ滑稽に見える。
詳しい資料は持ち合わせてないが、ちょとイメージしただけでわかる。
無風状態でも火災が起きれば風は発生する。家屋の倒壊で消防活動はかなり制限を受けるはずだ。延焼が0等とは到底考えられない。
それからもう一つ。死者が7人とはこれ如何に?おそらく何百人単位であろう。何を呑気なことをほざいているのかと喝を入れたい。





師を語る

2014年06月27日 | Weblog
師を語る。

私が作曲の道を志したきっかけは* なんと言っても山田耕筰先生との出会いが一番でしょう。先生は作曲家と言うより人生を教えて頂く師でした。音楽のおもしろさも苦労話もみな先生から聞きました。そして思うことは、先生のフアイトというか、バイタリテイとか言うものは尋常の人のそれではないと言うことです。直接話を伺うまでは想像だにしなかった事です。その迫力は書物から伝わっては来ません。
異様な光を放つまなざしは、大きな目玉と共にすごい迫力がありました。先生はご自身のことを、猛獣的バイタリテイの持ち主だと言われているが、文字通りそうなんです。加えて抜群の行動力。とにかく猪突猛進と言ったら良いのではないでしょうか。普通の人ならとてもそこまではやるまい、やれるまいということを、万難を排して突破して新しい境地や場面を作られるのです。これはとても凡人の及ぶところではありません。
交際範囲が狭いからかもしれないが、こういうお方には、私は今まで生きてきて出逢ったことが有りません。
勿論20世紀を代表する巨人だったから、学ぶことばかりでした。ちなみに先生の言われることを、そのままに実行すれば即座にひっくり返っていたことでしょう。いやそれ以前に尻込みをして、実行しなかったでしょう。天が与えた人となりは千差万別だが、先生が亡くなられた年月近く迄 
生きてみて、今でも尾っぽをまいて白旗を掲げることになります。
やはり20世紀の巨人だと思います。
先生から直接聞いた話は、その場でメモをとるわけにはいかなかったが、
一字一句聞き逃すまいと、しっかり頭にたたみ込み、学寮に帰ってからそれをノートに書きとめました。
先生ご自身の書物よりも、また先生について他人が書いた書物よりも直接聞いた話の方が数段面白かった。夢中になって聞きました。ノートに書き写しながら、あまり面白くて笑いが止まらず、ベッドから転げ落ちた記憶もあります。そんなお方にであえた事は僕の人生の大いなる喜びです。

柳原白蓮の生き方5-53

2014年06月26日 | Weblog
柳原白蓮の生き方

どんなに高位高官の家に生まれても、心の居場所がなければ
表面はともかくも、心の中は複雑だろう。そしてそれが幼いときであれば有るほど
生育歴に禍根を残し、生涯心は穏やかでないだろう、と思われる。

美貌の歌人白蓮25才は、最初の結婚は離縁になり、実家暮らしをした後、25才年上の炭鉱主の主人1911年、飯塚で、 伊藤伝右衛門50歳と結婚した。
年齢の差もさることながら、彼は金こそ持っているが、いわゆる成り上がり者で、おそらく教養の面では、二人はおおきくずれていたことだろう。
負けん気、勝ち気の強い(と言うよりそうしなくては身の置き所がなかっただろうと思われる)彼女は正妻として、妾が同居という事実には何としても耐え難いものを感じていたに違いない。

10年の結婚生活に、活路を見いだせなかった彼女は、大胆にも主人伊藤伝右衛門に絶縁状をたたきつけて、それを朝日新聞紙上に発表した。いくら大正デモクラシーの風が吹いていようとも、おそらく世間はこの前代未聞の絶縁状に驚いたことだろう。
「私は今あなたの妻として、最後の手紙をさしあげます。金の力をもって女性の人格的尊厳を無視する。あなたに永久の決別を告げます。」ハチの一刺しである。
「同棲(結婚生活)10年の主人を、捨てて白蓮女史は情人のもとに走る」
.朝日新聞が紙上に載せた。

白蓮は大正天皇のいとこに当たる華族で、才色兼備で筑紫の女王と呼ばれ
文壇のアイドルになっていた。その彼女が、富豪のー夫人の座を捨てて、1学生のもとに走ればスキャンダルになり、兄は貴族院議員を引責辞職。私は華族から除籍になったと彼女は言う。

時代は大正デモクラシー。
社会改革を目指す宮崎龍介の情熱に、また彼は白蓮の境遇にそれぞれ思いを募らせて、やがて男女の中になる。
文壇に顔を出す、宮崎龍介は東京帝国大学新人会のメンバーで、孫文を援した大陸浪人宮崎とうてんの息子である。

彼女は後に相思相愛の関係を結婚に持ち込んで成就させて子供にも恵まれ、四人で平和に暮らした。推量するに彼女の生涯でこれほど安らいだ時期は無かったのではないか。愛する人と一緒になれるなら、富も名声もいらない。
おそらく彼女はこう叫んだ事であろう。そしてこの思いが結婚という形で結実させたのである。

宮崎龍介27歳で彼女よりは七つ年下。情熱的な東京帝国大学の学生。学生の下に走った白蓮を、伊藤はどう振る舞ったか。
伊藤伝右衛門は天皇に連なる妻を姦通罪にはといいづらく、白蓮を許し、喝采を浴びた。だが柳原家は怒り、彼女を尼寺や他の家に幽閉同然 。龍介とは2年間離ればなれになる。ところが1923年関東大震災が運命の扉を開けた。
白蓮を預かっていた家は、被災したのに、柳原家からは何の頼りもないが、宮崎家からは見舞いが来るのに感心し、彼女を宮崎に渡した。

白蓮は戦後平和運動に身を投じる。晩年は緑内障で失明し、隆介の介抱で、
1967年に81歳で世を去った。
辞世の句
いつしかに 80とせ生きて つかの間の 露の命の理をしる。

いくにあらず 帰るにあらず もどりにあらず
生けるこの身 死せるかこの身。













京都御苑

2014年06月25日 | Weblog
京都御苑

子供のころは蝉をとったり、トンボをとったり、魚を釣ったりすることに夢中だった。
だが75歳を超えた今は、子供のころ、あれほど夢中になったことに、全く興味がない。命のあるものを、殺さないというようになったのは、良いことではあるが、自分の関心なりエネルギーなりが、それだけ減退したような気がして、寂しい想いだ。
バリバリに生きている限り、あらゆる方面に関心を持ち、エネルギーを発散することの方が人間として魅力を感じる。

文章で自分の思いをつづることは、多くの人にできることである。
だが心の中の思いを曲で表すとなると、だれにでもできるというわけにはいかない。幸いなことにぼくには、こういう才能が天から授けられた。
にもかかわらず、僕は曲作りに夢中になれない。これは非常に寂しいことである。僕自身の体の中に、染み込んだ人生体験や、あこがれの世界を表すとき、そこには必ず抒情があり、ロマンがあり、気品がある。それらは僕のプライドである。翻って、こういう曲を作れる人が、日本に何人いるであろうか。おそらく数は多くないはずだ。ここに僕の存在価値がある。このことは決して忘れてはいけない。
ところが現実には、僕は今作曲の筆を折っている。やってできないことでは決してないが、やる気が起こらないのである。これは神に対する反逆かもしれない。
作曲をやめることによって、ぼくは自分の人生を支えている大きなものをを失うだろう。男として、自分の人生の夢であった作家曲として、世に出て名前を知られることはなかったが、もし仮に自分の人生に、作曲する才能というものを失ったとしたら、どれほどわびしい人生になったことだろうか。

平安時代や鎌倉時代の人々の平均寿命は、多分40歳くらいだろう。それにくらべて、現代は人生80年の時代である。つまり物理的時間は平安・鎌倉の2倍の時間を、この世で過ごすということになる。だから人生の味が分かったかというと必ずしもそうではない。
何故か。それは漫然と生きているからである。凝縮されない時間は何倍に生きても、人生の味はわかるまい。昔の人に比べ、2倍楽しめるような人生を過ごさないと、人生40年の時代に生きた人たちとは、何も変わらないということになる。

京都盆地の夏は暑い。今日は梅雨が過ぎて7月に入っている。夏真っ盛りである。天気予報では37度ということであったが、真夏の空は雲一点なく、青く澄み切っている。大地に注ぐ大陽はがんがん熱を送り込む。芝生の緑もこの暑さのために、少し萎えているようだ。ひと雨欲しいところだろう。まだ午前10時だというのに、少し歩けば玉の汗が出る。僕は大きな木の木陰をわたり歩いた。ところがこの焼けるような大陽を、裸に受けてベンチで寝ている人がいる。この世の中には気の狂いそうなことを、平気でやる人もいるもんだ。
京都御所の回りを塀に沿って歩いてみた。塀の外側は玉砂利の道になっており、塀の横の縁石の上を歩いた。塀の高さは5メートルもあろうか、この内側で凡庸な人間が、時の政治を担っていた。神ならぬ人間のやることであるから、ここで決められたことでも、多くの人々を困らせることだって、たくさんあったことだろう。
時代が下って今は、一人の権力者の為に皆が奉仕するという図式は無くなった。
神が平等にあたえた各人の命が、それなりに尊重されるような時代になってきたのだ。当然の事だが、ここ迄来るのにどのくらいの時間がかかっているか。今の時代から考えると、当たり前のことだが、当たり前になるまでには、時間と犠牲が必要であった。これを時の流れ、時代の流れ、歴史と呼ぶのかもしれない。それにしても、今から考えると歴史はむごい。

ガス抜き6-35

2014年06月23日 | Weblog
ガス抜き

日ごろ人間の分けているところの垣根を一切すべて取り払い,
貴賎,,上下の区別が一切なく、ドンチャン騒ぎをすることである.。ドンチャン騒ぎをして一体何になるのか,
考えないわけではないが、,しいていえば,,このばかばかしい振る舞いは,ガス抜きの一種であり,社会的には大きな役割を果たしているのかもしれない。

昔と違って,いろいろな娯楽が繁盛する現在においても、,祭という名を借りて,そこに止まっている社会的なガス抜きをしているのは、それなりに意味のあることである。ところが騒ぎすぎて事故が起こり死者が出る。そういうことになると、このガス抜きのイベントが果たしてよいのかどうか考えざるを得ない.。

1年に1,2回の贅沢な楽しみではなくて、現代では娯楽はいくらもあるし、しようと思えばガス抜きは個人的にできるはずである。にもかかわらず集団でガス抜きをするというのは、一方ではいかがなものかと思う人もいるだろう。それも一理ある。しかし時代がどのように変わろうとも、この世で不満なく生きている人は、ほとんどいないのである。表面はともかくも、心のうちには、うつうつとした欲求不満があり、それを解消するために、やはりスケールの大きい無礼講と中に己が抱えるストレスをすべてはさらに処理したいというのは、時代の問題ではなくて
基本的には人間の命が続く限りつきまとうものである。

とすれば、花見の宴は人間の命にまとわりついたものであって、それがドンチャン騒ぎという形をとって表面化したものである。と考えられる。

ドンチャン騒ぎによって迷惑を被る人々は、現に何回かのこの種のお祭りにもう少し柔軟な態度を見せるべきだ、という考えが僕の考えだ。

.


五つの太陽8-17

2014年06月22日 | Weblog
  五つの太陽

中国通信、新華社電によると、
「中国西安市で、十九日の午前、太陽が五つに見える現象が出現した。
この、幻覚現象は幻日と呼ばれるもので大気中に、氷の結晶による。雲の層が形成されたとき、日光が、氷の結晶に、反射されて起こるとされている。」 と、朝日新聞は報じている。

私たち日本人は、見ることができないから、五つの太陽なんて信じ難いが、実際に、西安では、この現象を視認てきたわけだから、五つの太陽を信じる人も多いことだろう。真実は、この宇宙に、ひとつしか存在しない太陽が、肉眼で、五つ見えたので、これを見た人は、太陽は、。五つがあると信じたことでもあろう。だが、太陽の存在は、後にも先にも、この宇宙にたったひとつだけである。ところがわれわれは、自分の目で見た五つの太陽の存在を真実と思うから、太陽はひとつという真実とは矛盾が生じる。
つまり、われわれの、主観的事実と、客観的事実とは、ときには、食い違うことがある。そしてわれわれは、日常生活において、主観的判断で行動する場合が、多いから、幻に、基づいて行動していることもたくさんあるわけだ。にわかには信じ難くキツネにつままれたような話だが、科学が未発達で時として起こる五つの太陽の幻覚が、解明されていなかった時代人々はこの五つの太陽を視認したときいったいどういう反応示したのだろうか。
客観的事実は、主観的事実を超越する。

子孫に付けを回したメンテナンス

2014年06月21日 | Weblog
子孫に付けを回したメンテナンス

考えてみると、瀬戸内海にかけた3本の大橋である。
1兆円あまりの建設費を費やして建設したが、果たして後々に関わるメンテナンス費用のことまで考えて作ったのであろうか。
便利さを求めても、便利さのために子孫に膨大なメンテ費用を負担させてよいものかどうか。
必要なものは作ったり、変えたりするのは、避けられないが、不要不急のものを国家プロジェクトにするのはどうかと思う。
庶民からすると、この辺が無能政治家や官僚と罵りたくなるのだ。

これから人口が減少する。よほど近い時期に機械化が進歩して人手に置き換える技術や、機器や、ロボットなどが開発されない限り、将来の見通しは先細りである。
こういう悲観的な見方が現実的でないことを望むが、果たしてどうなることだろう。3つの大橋のうち1つを残して2つを破棄せざるを得ない時が来るのではないだろうか。
そういう場面では存廃論がまた起こり、利便性とメンテ費用、天秤にかけて結論が出る。その時維持できなくなった子孫達は自分たちの不甲斐なさを嘆くだろうか。それとも、これから3つの橋を作った先祖の先読みの無能ぶりを嘆くだろうか。




キリングフイールド

2014年06月19日 | Weblog
キリングフイールド 5-65          
  


喩えは悪いが、 「 百万言より1発の銃弾」、という言葉がある。
平和、平和と、スローガンを唱える前に、まずプノンペン郊外にある、キリングフイールドを訪ねて、万余のドクロのパワーを浴びる方が、どれだけ平和を求める気持ちがわいてくるか。平和希求の願いが、切実になるか。そしてまた、説得力があるか。
世界の平和主義リーダーたちよ。ここを見て、平和への決意を新たにし、さらにこの残虐さが、地上から永遠に追放され、消え失せるように、英知を絞り、行動をすることを通して、人類を平和へと導き給え。
 
 カンボジャの首都、プノンペン市内にある、国立競技場のそばを、
バイクタクシーで通り抜け、しばらく走ると、人通りはまばらになり、田舎道にでた。田舎道は舗装がされてなく、昨日降った雨のために、どろんこにぬかっていた。バイクの後ろ座席に跨り、でこぼこ道を十分ばかり走ると、道の両側に家が有り、家の前には店が出ていた。店といっても小屋に商品が並べてある程度で、都会の店の感覚では、これが店かと思ってしまう。市街を抜けて、村につくのには15分くらいかかった。その間、対向する車もなく走ったから、危険は感じなかった。 
T字を左に回り、ものの五分も走らないうちに、門の前についた。それは門というよりは、鉄柵といったほうがふさわしい。鉄の棒を組み合わせてつくった柵の前には、門番兼入場者記録係がいて、僕は窓口に置かれているノートに、自分のことを記帳して2ドル払った。 

 目の前に有る建物は四方が、ガラス張りになっていて、そのガラスを通して、頭蓋骨がこちらを向いている。
縦横同じくらいの長さ、たぶん7、8m、高さが10mくらいの建物は中が幾層もの棚で分かれていて、各層ごとに髑髏が、四方八方に目をむいている。僕は生まれて初めての経験で、じっと見つめることも、面と向かい合うこともできなかった。それは数が多いからではなく、このようにして、死んでいった同胞(僕の心の中では世界のあらゆる所に住む、いま生きている人を、国が違うということで、線引きはしない)の無念の悲しみの大きさに、身のすくむ想いがしたのである。僕はいまにも落ちそうになる涙を堪えながら、声もなく、後ろ手にして、その御堂をぐるりと回った。
 しばらくたたずんでいると、韓国人らしい一団がどやどやと入ってきた。威勢良く入ってきた彼らも、急に言葉を失い、黙って御堂の回りを歩いていたが、そのうちの一人が、机の前においてあった花火のような線香に火をつけて供えた。それを見た僕は、我に返り、同じく線香を供え賽銭箱とおぼしき箱に、500リエル札一枚をこそっといれた。
僕はその場に立ったままで、お経を唱えた。仏教国カンボジャの同胞のために。いや、為に祈ったのではない。祈らないではいられない衝動に駆られて、お経を唱えたのだ。
 
 内戦だから仕方がない、というのは大雑把すぎる。確かに戦争だから、殺しあう事があっても、不思議ではない。しかしそれは戦闘員においての話である。無差別に(ポルポトの場合は知識人と、そうでない人をより分けて、インテリ層を中心に虐殺したという)殺して、どんな正当性を主張できるのか。正確な数字は分からないが、全人口が八百万人とか、九百万人とか言われる中で、百万人単位という数字は、大きすぎる。
しかもそれが知識層中心に殺されたとなると、戦後復興の力は、大きく削がれる事になる。
戦争によって、荒廃した国土を立て直すとき、頭脳が最も必要であるのに、その部分が消えてなくなっているとすると、カンボジャは何を頼りに、元の国力の回復を図るのか、他人事ながら気になった。
 
 世界の歴史をひもといてみるとき、歴史とは戦争の歴史でもある。
戦争の為に、どれほど多くの人が命を失ったことか。
 二十一世紀も近くなり、人類はやっとそのことに気づき始めているが、それでも、地域紛争は絶えない。ボスニヤでも、民族対立から、多くの人が犠牲になり死んでいった。アフリカでも事情は同じことで、今なお死と直面した大量の難民が、大きな問題となっている。
 そして人々が武器を手にして戦う場合は、必ず犠牲者が出る。人類がこうした蛮行を続けている限り、悲劇は後を絶たない。それぞれに言い分があり、対立する現実は分からないではないが、それを乗り越えないと、弱者はいつも犠牲になる。そんなことを漠然と考えていた。
 
 ところがちょっと待て。今そんな悠長な事を、考えている場合ではない。
僕の足下には、虐殺の犠牲となった人が、着ていたと思われる衣服が、半ば腐りかけて、土からのぞいている。恐らくこの服の下には、遺骨が埋まっているはずだ。つまり僕は墓の上に立っている。犠牲者を上から踏みつけているのだ。踏まないように、どちらかに避けなければならないのだ。こう思ったとき急に抑えがたい憤りに、全身が包まれてしまった。
 殺せ。罪のない人を、死に追いやった奴は殺せ。それが人が生きて行く上での、世の中のルールである。罪のない人を殺したものが、責任を問われる事なく、のうのうと生きている社会は、無法社会である。無法社会には、正義もなければ、人権もない。それは人類が、営々と積み重ねて来た血の滴る努力、人類が目指して来た方向に逆行する。
歴史の針を、逆に進める事、それは人類の進歩に対する挑戦である。
殺せ。この地上から抹殺する以外には、放置できない。そしてそれが、恨みを呑んで死んで行った人の恨みを晴らす方法の1つでもある。異民族ならまだしも、よくもまあ同国人を、何百万人も殺したものだ。
後で知ったことだが、アメリカのある調査では、170万人前後だろうと言われている。
僕は全身がかたくなり、心臓がドキドキ早打ちしているのに気づいた。
そして覗いている犠牲者の衣服を避けながら、そこへ、へたりこんでお経を唱えた。
 今の僕は何が出来る訳でもない。あなた達の無念を晴らす事も出来なければ、身に覚えのないことで、命を失った不条理にたいして、何をしてあげられる事も出来ないが、ただ一つ祈ることだけは出来る。罪もないのに、地獄の苦しみを味わった、あなた達の魂の苦しみを、解き放つ事を、神や仏に祈り、そのお力で魂を極楽へ誘ってもらうことによって、どうか安らかに眠り給え、僕は心のなかでそう叫んだ。
 
カンボジャ。それは日本からは、遥かかなたの遠い国である。距離もさることながら、日本人にとっては、関心のない国である。歴史的にも、たいしたつながりも無ければ、現在経済交流が盛んな訳でもない。
 なじみの薄いのも当たり前だ。日本人に知名度が有るのは、アンコールワットの遺跡くらいのものである。
しかしだ。いまキリングフイールドの現場に立ってみて、僕が思うには、
1996年7月に、この地上に生きているかどうか、それが問題なのであって、国の別は問題では無い。
カンボジャ人であろうと、日本人であろうと、皆同胞なのである。そう思うから余計に、心に引っ掛かってくる。僕はこの地上に存在する命は共生、とも生きで無くてはならぬという哲学を持っている。そしてこの哲学は、神が人間に与えた最大の崇高な哲学だ、と確信しているので、神の御意に反した事をした人間は、この地上では、生存は許されないと思う。そういう観点から、この虐殺は許すことが出来ないのである。

 先程から振り出した雨は、小雨から本降りに変わった。御堂で雨宿りしながら、僕はカンボジャの国土復興よりは、犠牲になった人々に心奪われていた。というよりは、ここにある、しゃれこうべから放たれるパワーに圧倒されていた。二度と有ってはならないことだ。僕は何回も何回も呪文のようにそう唱えた。
アジアを方々回ってみて、それなりに得たものは多かったが、このような場面に、遭遇する事は無かった。のどかな風景の田舎、活気あふれる都市を見て歩くのもよい。しかしこの場所のように、人類の悲惨な現場を直視する旅は、歴史や人間を考えるという点では、自分を肥やすためには、よいのでは無かろうか。僕は心底そう思った。
 こうして旅は終わったが、僕の心にはいつも、キリングフイールドが横たわっている。それを引きずって、カンボジャの旅は晴れることのない旅だった。














わかったような

2014年06月18日 | Weblog
わかったような、わからないような。

「最後は金目でしょ。」大臣 その通り。!
金以外でどんな解決策があるの?
それにしても県民の気持ちを顧みない言葉だと知事はかみついた。
言葉が足りなかったか足りたか、では最終の結論は導き出せまい。
言葉のあやは別に置いておくとして、とどのつまりは金以外にない事は皆わかっている。
本筋から言えば、言葉のあやなんて大した事では無い。いくら言葉で誠を尽くしたとしても、それだけで被災者が我慢できるのか。
できるはずがない。落ち着くところは金目である。


捕まった大阪国税局職員は仕事でむしゃくしゃしていたから電車の中で痴漢をしたと言う。
当局は事実であれば、あるまじき行為だとして、厳正に対処すると言う。厳正に対処するとは中味は何なの?
厳正に対処すると言われると関係のない人は何かしらわかったような気になる。
しかし実のところはさっぱりわからない。

意思の伝達をする言葉が伝達ができなくて、空虚な言葉が飛び交っている。

だからわかったようなわからないような気になる。
わかったような、わからないような。 うう~ん!!!。

(深い川より) チャムンダー

2014年06月17日 | Weblog

(深い川より) チャムンダー


インドから帰国して、僕はインドに関する本を何冊か読んだ。
本の中に描写されているインドの風景だの、インド人の人情や物の考え方なりを、自分がインドで経験したものと、比較検証したかたったのである。
中でも狐狸庵先生の、『深い川』にはホテル・ド・パリの描写が、僕が見たとおり、実に正確に描かれており、これには驚いたというより、懐かしかった。
ふんふん、そうだそうだ、僕は本の中に引き込まれて行った。なかでもこの中に描かれているチャームンダという名の女神には深く心奪われた。
日本では女神と言うものは、どんな神でも、美人で柔和に描かれいて、その表情には苦悩の跡がない。すくなくとも僕が知っている女神はそうである。
ところがチャームンダは違う。全身創痍の苦しみを背負い、その苦しみに耐えてはいるが、表情には苦悩がまざまざと表れている。胸近くにはさそりが噛み付き、両足は腐りかけて、赤く腫れ上がっていると描写されている。
自らをそこまで痛めつけながら、その苦しみの中にあってなお、現世で苦しみもがく人達を、すくわんとする貴い姿こそ、この像の真の姿であることを知ったとき、僕は深い感動を覚え、思わず写真の中の像に手を合わせた。
これこそ本当の神である。我々とともに生き、苦しみ、ともにもがき、ともに悲しむ姿こそ百万言よりも説得力がある。これでこそ我々とともにある神である。
現世、この娑婆の世界で、もがき苦しむ人々と同じ次元の世界に住み、同じ次元に立ち、同じ苦しみを味わい、苦しみに顔を引きつらせ、それどころか民衆の何倍もの苦しみを背負い、しかもそのうえに、苦しむ人々を救おうとする強力な意志をもち、敢然と苦しみに立ち向かう貴さを、何故僕は見落としたのか、何故その表情から苦悩を読み取らなかったのか。
僕は非常に残念に思った。
単に像を目で見るだけなら小学生だって出来ることだし、することである。その像に託された作者の意図、願い、希望など、要するに作者の目的を何故探ろうとはしなかったのか、作者はこの像を作り、何を言いたかったのか。こういうことに思いをいたして初めてこの像と対面した値打ちがあるというものだ。
実物はデリーの博物館にあるそうだが、見ないままに帰国してしまった。次回インド訪問の時は必ず見たいものである。

大分長い間、大阪市内の映画館では、『深い川』が上映されていた。それは新聞の広告で知っていたが、そのうちに、そのうちにが重なって、ついつい見逃してしまった。
僕はどうしても見たかったので、ある日、わざわざ電車にのって遠い貝塚まで見に行った。興業はよい『映画を勧める会』みたいなところが主催して観客の層は五十歳代以上の年齢層の人達に限定されていた。
彼らは映画が終わると、考えられさせられた、と一様に口々に言いながら帰って行った。 人々から漏れ聞くまでもなく、感動もので、いい映画であった。
僕はと言えば、実際に訪れて、感激を受けたバラナシの沐浴風景や、町の様子や、ホテル・ド・パリを知っているだけに、その場面が映るにつけて懐かしさが込み上げて来て、遠くでおぼろ気にかすみかけていた記憶は鮮明に蘇って来た。
特に印象深かったのは、やはりチャムンダーという女神である。
映画で映ったあの場所に安置されていたのかどうかはしらないが、満身創痍の苦しみを体全体で表しながら、なお現世に苦しむ人々を救おうとふんばる姿は、映画であるとはいうものの、思わず合掌したくなった。
インドは現在の日本に比べて、確かに貧しい。カルカッタでも、バラナシでもよい、町を歩けばその貧しさは一目瞭然だ。貧しさのなかで苦しむ人は多いが、特に女性はいまなお根強くのこる、カースト制度という社会構造からくる重圧に抑圧されながら、この女神の苦しみのように、現実生活の貧困の中で苦しんでいる人が、多いことだろうと、思わずにはいられなかった。
ところで我々日本人は女神というと、端正で美しい女人像を思い起こす。すくなくともチャムンダーのように苦しみもがく女神など、お目にかかったことはない。どの女神も美人で、いかにも福ふくしく柔和である。弁天さんにしても、観音さんにしても、吉祥天女にしても、みな見とれるほど美しい女神像ばかりである。拷問を受けている真っ最中のような苦しみの表情をしている女神など、お目にかかった事はない。そういう意味からすると、日本の女神さんは神の世界の住人であり、娑婆の住人とは違っている。
 ところがインドでは、この女神は娑婆の住人もいいところで、人間世界、特にインド社会の日常生活のなかで、のたうちまわっているインド女性の苦しみを一身にうけて、現実そのものを表しているようだ。
インド女性が天上世界の女神よりも、ともに苦しみもだえる地上に、このチャムンダー という女神の出現を願望して、この女神を迎え、作り出し、親しみを覚え、礼拝供養して、救いを求めるのは人情の自然にかなっていると僕は思った。
僕はこのチャムンダーこそが、真の意味で救済の女神だと思う。神が姿形をとって、人間を救済している瞬間を目撃したことなどないが、チャムンダーこそは神が人間を救済する姿かもしれない。
『深い川』はクリスチャン、狐狸庵先生の作品だ。先生はさすがに目の付け所がちがう。 僕はかぶとを脱いだ。








喜多川歌麿6-12

2014年06月16日 | Weblog
           喜多川歌麿  

 
 歌麿というと、大抵の男はにやりとする。男に限らず女でも、
中身は知らなくても枕絵の作者だということくらいは知っている。
喜多川歌麿、正式には北川歌麿だということだが、詳しいことはよくわからないらしい。
江戸時代・寛政期に出た美人画の大家で「婦女人相十品」や
「ポッピンを吹く女」などが代表作とされている。
1791年頃に大首絵を発表して、女の持つ美しさ、特に顔を画面一杯に描く手法で注目を浴びたが、後に描く対象も、町娘から水茶屋の女に移り、洗練退廃といった特色が強くなっていったと、ものの本には書いてある。
同時代には東洲斎写楽などがいて、役者絵や相撲絵などを発表したが、好事家はべつにして、やはり歌麿の方が庶民に人気があったようだ。200年以上の時を経て鈴木春信や葛飾北斎・安藤広重よりもポユラーなのはなぜだろう。

 先日風俗街をぶらぶらしていたら、ウタマロ 歌麿、のネオンサインがまぶしかった。歌麿は可愛そうに風俗店の看板に成っている。歴史に名を残しながら風俗店の看板だとは、情けないというより可愛いそうだ。彼の作品だったと思うが、いまオリジナルはボストン美術館にあるという。
僕は絵画には詳しくないが、彼の芸術魂だけは理解しているつもりである。
彼は女性の美しさに着目した。いや魅せられたのだろう。どこかの御殿にいる深窓の令嬢から、町屋の娘に、町屋の娘から遊女へと描く対象を移して行ったようである。学者や研究者はそのような移り変わるのを退廃ととらえるが、僕は退廃ととらえる前に人間の実相に着目したい。
確かにこの世は社会的にランクがあって、女は生まれるところによって深窓の令嬢から、水転芸者・遊女までの身分的な色分けをされる。特に江戸時代なんていうのは、封建制が完成されて、より強固に身分の固定化が図られて、社会の安定をはかった時代である。
令嬢に生まれつくも、遊女になるべく生まれつくも、全くの運で本人には責任がない。遊女に成った女はたまたま運が悪く、そういうまずしい家に生まれついただけのことである。だのに世間から差別されて、さげすまれ、まるで人間の屑のように忌み嫌われる。
特に女性からは激しい差別を受けていた。
時代の閉塞性のために、どうもがいてもどうしようもなかっただけのことである。もし彼女らを責めるとすれば、それは的はずれで、時代というものを責めるべきであると僕は思う。
そういう状況の中で彼、喜多川歌麿は薄幸の女性に目を向けた。元来芸術家は表面を描くにしても、その奥に隠れている本質に迫る必要があると僕は考えている。
遊郭の女性、薄幸の女性は確かに社会的にはさげすまれる処に追いやられていたが、年頃の女性に出てくる美しさは遊女にも、町屋の娘にも、大奥にいる令嬢にも共通である。女の美しさは社会階級とは無縁である。
薄幸の女性には陰性の美がただよい、そこには哀愁がある。寂寥感と同時になまめかしさがある。
薄幸な運命の女の命の輝きは、陰性の美を伴っていたことだろう。きっと彼はここに注目したのだと思う。彼女たちの美を最大限に表現しようとしたのではないか。
彼女たちの命に対する暖かい眼差しこそが名作を生む原動力になったのでは無かったか。
 そうだとすれば、彼は芸術家である前にヒューマニストだといってもいい。その暖かさこそが、大衆の心にひびくのだろう。風俗街の歌麿看板はいただけないが、大衆は自分たちも共感を覚えながら時代を超えて歌麿を愛し続けている。
僕は分野は違うけど、芸術性と大衆性を兼ね備えた彼の作風の根本に学ばなくては成らないと思った。僕からみれば、彼はあらまほしき芸術家である。そして僕もそういう志を持った創作家になりたい。 ところで彼は生涯を絵描きとして通したのではなくて、活躍した期間はほんの短かったらしい。すーっと現れて、すーっと消えて、いまだにその詳細は不明であると言う。


許せない

2014年06月14日 | Weblog
許せない

九州熊本県、人吉女子高校生殺人事件。性犯罪者の47歳の無職の男が女高生を殺して山中に捨てた。
47歳にもなってまっとうらしい人間の行き方できないのか。全く情けないクズ人間だ。こいつは女高生を殺した段階で既に人権を失っているとぼくは思う。
これは決して極論だとは思わない。
カラスがなかない日があっても、殺人事件がない日は無い。治安が良いはずの日本とはいうものの、こう殺人事件が連発すると何とかしなくてはと焦る。
殺人事件を起こす輩は大抵無職である。職がないことが彼らを悪の世界に追い込んでと言う一面は確かにあるだろう。

厳罰に処すれば良いと言うけれど、刑期長くしてもこう言う輩には応えない。
こんなろくでなしの人間を刑務所に収容しても、彼の生活費用や裁判費用は一体誰が負担していると思うのか。考えたらばかばかしい話である。税金がこんな輩のために使われるかと思うと納税することさえも嫌になる

現行では2人以上の殺人は原則として死刑になる。僕はこれを不合理とみる。犯人は1つの命しか持っていないのであるから、彼が殺した2つの命を蘇らす事は絶対不可能だし、それは勘定合わない話である。犯人の命の重さと被害者の命の重さはお互いに1つであるからその一つを消したから犯人の命は消えるべきものである。

人格を失って人間の姿をした野獣と言うのが現実的に正解になるだろう
こんな輩を何が何でも生け捕りにして調査する。一見合理的なこーゆー流れが広い観点から見ると何の意味があってやっているんだろう。処刑こそが急がれる。一刻も早く処分をすればいいのだ。情け無用とは今こいつらに対する社会通念となるだろう。



ビートルズ

2014年06月14日 | Weblog
ビートルズ


せっかく来日したのにポールマッカートニが体調を崩して公演を全部休むことになったのは残念だった。
70代にもなれば飛行機に10時間以上も持ってくることが無理なのだろう。

現代40代50代の人々が夢中になったのがビートルズであった。青春とこの美しい、そして懐かしさのあるビートルズメロディーは生涯消えることがないだろう。
ビートルズの歌を標準にして、他に歌を見つけようとすると、少なくとも日本ではこれを凌駕する歌は見当たらない。

確かにメロディーは美しいものが多いが、それに比べて歌詞はいまいちの感じのものが多い。作者自ら言う「歌は曲の美しさが体質で歌詞は曲の後に付いてくれば良い」

僕は歌詞の作曲が基本だから歌詞こそ良いメロディーを作るための必須事項だと思う。歌詞先行であろうと曲先行であろうと、大衆に歌ってもらえればそれがいちばん良いのである。

ビートルズのメロディーは美しい。イエスタデイもレットイットビーもヘイジュードも無意識に歌っていることが多い。

団塊世代はビートルズの世代である。長い間歴史に刻まれる名曲ぞろいであるし、彼の名前も記憶され続けるだろう。


ビートルズ