日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

不倫7-3

2012年05月24日 | Weblog
不倫

確か中曽根総理の時代だったと思うが、不倫を、ふーりん,ふーりんといってかしましい。
と面白おかしく、茶化して、不倫に封印したことを覚えている。
不倫というと倫理にあらずということから、結婚している男女双方か一方かは別にして
お互いに夫婦関係とは、別な男女を求めることを意味するのだろう。

結婚すると日常の惰性が出てきて、あんなにすばらしい女はこの世にいないとまで思い詰めたことが、なんて世間知らずの、のぼせあげりだったんだろうと実感する。永続する毎日の生活の中では、天女と思えた妻も、そこらそんじょの主婦になる。
つまり天女がただの女になるのである。男(女も)はそれでは幻滅するのは当然だが、この世に天女がおるはずはなく、単に錯覚していただけのことである。目が覚めただけの話である。
夫は仕事疲れや、毎日みている女房の現実の姿に、飽きも来るだろうし、女房だって同じである。つきあいと称して酒の席や麻雀やゴルフで非日常へ逃げ込む。
女房は,女を忘れて子供の世話や毎日の炊事、洗濯にかかりっきりにならないと、生活が回っていかない。おめかしをしてと言う独身気分になるまでには20年の月日が待っている。もうその頃にはたぶん色気はずいぶんと減退していることだろう。

こういう生活事情の中にあっても、人間という生物はやっかいなもので、どこかに自分をときめかせてくれる異性はいないものか、心の底にはいつもそんな感情が残っている。
それにこの頃は通信手段が発達して、手軽に不倫相手を探すことが出来る。メール、携帯電話。通信手段は不倫の相手探しにはもってこいである。このような便利な機器を使わない手はない。あちらこちらで不倫や不倫のまねごとが起こる。近頃は肉食系の女性が増えてきているので、なおさらのことで、どんどん不倫がしやすくなる。

一夫一婦制がはっきりした形で我が国導入されたのは明治時代だろうが、富や権力を持っている男は(女は)いつの時代でも別宅さん関係があった。それは今も昔も変わりはない平安時代の貴族なんて、いくつもの不倫を重ねながら、宮中で色事遊びをしていた。源氏物語や、その前に生まれた万葉恋歌を見れば、おおよその見当は付く。
ところで不倫は本当に悪だろうか。僕は本質的な部分では悪だとは思わない。別宅さんを持つことの出来る力や能力のない人間が、羨望やねたみ、そねみなどのマイナス感情を使ってそれを悪と決めている節がないでもない。現実的には社会道徳的な見地から見ると不都合なだけである。不倫によって女性が女を取り戻すことは生き様として決して悪いとは思わない。というのはそれは人情の自然に沿っているからだ。

「 ふぐは食いたし、命は惜しし」。のたとえ通り不倫と自分の関係はいつもこの一句がついて回る。要するに金も力もない色男に過ぎないのだ。そういうことで、不倫。それはあこがれの箱にしまっておこう。