日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

中山ミキの話

2010年06月30日 | Weblog
山ミキの話
竹内で、たたかれて、「お役目、ご苦労さんありがとう。」と感謝した。戦前の、宗教弾圧の1コマ

宗教的信念とか信仰とはまさに命かけですね。どこからこんな信念が出てくるのでしょうか。驚きです。島原の乱また長崎で処刑された26聖人。宗教って怖いものですねs

マニフエスト

2010年06月29日 | Weblog
マニフエスト

何時のまにかこの言葉が定着した。政党の公約文書である。
自民党は自壊作用が働いて民主党に政権を取って代わられた。僕はコノマニフエストを信じていたので、民主党はもっとやれるのかと思ったが、ふたを開いてみると中身はほとんど無かった。鳩山氏が言うのだからと、安心して信じていたが、中身は全く空虚だった。
沖縄問題も、無駄使いを洗い直して金をひねり出すと言うことも。結局中身はないに等しかった。これじゃペテンじゃないか。次回はみんなの党にでも入れようか 。

7月17日FM貝塚から放送

2010年06月28日 | Weblog
カラオケばやりの世の中である。時間と金の余裕がある、中高年層の人々が歌うことでストレスを解消し、今まで生きてきた様々の過去の出来事を振り返りながら歌の妙味に浸ることは、精神衛生上も良いことだ。
近頃は素人さんの歌唱技術も上がり、時にはプロメジャー歌手の上を行くような人も時時見かける。プロとアマの垣根は狭まった。

昨日はカラオケ大会に久しぶりに出て、聞いてみた。素人さんが作詞作曲している部分もあるが、演歌について言えば、もう出尽くしている感があるので、誰が作っても似た様な詞に似たようなメロデイが付くのは、ある意味、仕方がないことだ。

僕は今回ジャンルを変更して大衆歌を発表することにした。手始めに「岸和田だんじり祭」
を作り、地元のメジャー歌手に歌って貰う事にした。子供時分からだんじりを引いてなじんでいるから、太鼓の音さえもちゃんと判別が付く。楽器のドラムか、それともだんじり太鼓のなる音かの違いが分かるというのは、やはりだんじりの音や雰囲気が身に染みついていて、これは岸和田の人のみが判別出来る事で、普通は楽器のドラムとの違いなど分かるものじゃ無い。だんじりが丸ごと血肉化されている証拠だろう。

歌手は僕が関西地区カラオケ大会で作曲家三木たかし氏とで代表選手の審査をした時に見つけた人である。もう25年以上も前のことだから、かなりの高齢であるが、歌に対する情熱や体内に持つパワーは常人のそれではなく、驚くばかりである。
声の張りと若さは50(代)で十分通用するが、暦歴は70に一歩手前である。
この年にしてこの歌声というのは、精進のたまものであり、厳しい訓練に耐えてきた精神力にある。普通の人出来ることではない。 僕の経験では声楽家でも65才を過ぎると声は微妙に音が下がり、震えがでるものだ。よほどのことがない限り歌って貰う事はない。

7月17日土曜日1時から3時までの間に「FM貝塚」から放送するから時間のある方は聞いてほしい。サイマルだから、どこからでもパソコンで聞けるのが嬉しい。

唄の出来映えもさることながら、これほどの高齢にもかかわらず、高音がピシッと決まって、言葉明瞭に歌っている彼女の歌声を聞いてほしい。リスナーは彼女の歌声は50(代)の声だろうと思うに違いない。
先日レコーデイングしたが、立ち会った人は皆驚いた。年齢に偽りありだという声も出たが正真正味69才である。ついでに作曲家の僕は74才である。このコンビでこれだけパワーのある作品が作れるというのは、寿命が延びた証拠だろう。 いま過去に作った演歌やポップスのカラオケ作りをしているが、100曲ほどできあがった。一度に100曲の発表は無理である。歌手だけでも2,30人必要だからだ。

黒人霊歌

2010年06月27日 | Weblog
黒人霊歌



 抑圧された、あるいはもっと普遍的に生きるために苦しんでいる人の、心の底に横たわる悲しみをもっと素直に表出した部分の歌に黒人霊歌があり、演歌があり、悲しみに満ちたロシア民謡がある。
 音は同根でありながら、住む人々の地域と歴史によって違いが生じている。万教は同根であるとする立場をとる私は、歌もまた同じだと思う。

1億円の高額所得

2010年06月26日 | Weblog
1億円の高額所得

下司の僕は計算した。月々30万円の生活費で何とか暮らせる。1年で360万。10年で3600万円 30年で1億800万円。
日産のゴーンが8億を、1年間でもらったそうな。僕は生涯かかっても稼げない金を1年間の年俸で稼ぎ出す。1億円以上の年俸を貰う人が企業経営者の中に何人もいる。それ相当の業績を上げたのだから、その報酬と言えばそうだが、そんなに貰って一体どのように使うのか気になった。

今の日本は不景気で失業者が沢山いて、たとえ職業についても年収200万円以下と言う人が何百万にもいる現状を考えると、こういう社会のあり方に疑問が起こっていた。

察するに月15万円で生活出来るのだろうか。普通の生活費は子供でもいたら年収300万円が必要では無かろうか。それでやっと並の生活が出来るのだとしたら、一億円プレーヤーは300所帯の収入を独り占めにするわけだ。そして年収300万円の人と1億円の人との人間的な差とは一体何なのだろう。金儲社会だけの差ではないのか。

かって中曽根総理はかかりつけの歯医者で所得税がこれほど多くかかるのなら午後の診療はやめて遊んでいた方がましだと訴えたと語っていたが、本当にそう思うなら午後休診を続ければよい。高額所得で税金を払うのがばからしいと言う考えが、間違っている。稼いで国家社会のために大いに貢献する事に国民として喜びや誇りを感じないのか。
高所得者は火の付くような生活圧迫感を感じないのであろうか。年越し派遣村の人々の生活を思いやる気持ちが湧かないのであろうか。

この世に生まれでたら、生きていく最低限度の生活費は不可欠だ。富は無限にあるわけではないから、国民総生産という富を出来るだけ大きな差を付けずに国民全体に分配することを考えるのが、政治ではないのか。

リーマンショックを見てアメリカの自由主義が如何に不合理なものか、誰でも思っただろう。アメリカが共和党から民主党に代わったから、高所得が非難された訳はない。常識から考えても、余りにも納得できない事だから、世界全体で企業トップの高年俸に非難が起こり制限を加えようという動きになったのだ。
一億円プレーヤー がいてもよい。その8割を税金として再配分する税制さえあれば。
個人の自由意志に任せて等ときれい事を言っていたら、まとぞろ革命の足音が聞こえるようになるんではないか。

自由律

2010年06月25日 | Weblog
自由律
五七調か、七五調か、定型詩は言葉の運びが調子よい。
漢詩は概ね定型詩っでえ子供のころから韻文としてなじんできたがゆえに、詞を作る場合七五調にこだわり勝ちである。だが、感情を五、七の文字の中に上手にもりこんだ場合には別にして、言葉にならなかった感情はどうしても定型をやっぶって自由律で行くしか仕様がない。山頭火を読んで見るとこの辺のことが良くわかる。自由律の句は調子は良くなく、散文を読む調子で読み流すが、時として定型詩句に負けず劣らずぴしっと決まる場合がある。
山田耕筰先生が詩人の定型詩にうんざりして非定型の詞や句を作曲ようとして使われたのも今になればうなずける。


トイレ

2010年06月23日 | Weblog
  
トイレ

水質が違うのか・慣れない食べ物に胃腸が異常反応するのか、疲労が原因か、旅に出るとよく下痢をしてトイレを探すことガある。こんなとき、街の中だとかえって困る。現地語でなんというのか、どこにあるのか、わからないからぎりぎりのところまで辛抱することがよくある。

アコタヤ遺跡の見物に出かけた。列車に乗った時から、少しずつ腹がちくちくした。これは来るなと予感したが、それが的中した。時間の経過とともに腹はごろごろ鳴り出すし、腹はしめこんでくる。何が悪かったのか思い返してみると、マンゴーだと分かった。昨日通りがかりで黄色にうれたマンゴーを2kgかった。かなり大きいもので六個あった。昨夜は食後に三個食べてからねた。今朝は起きるなり、三個食べたら腹いっぱいになり朝食は抜きにした。そのせいだろうか、胃から腸にかけて気持ちが悪い。

インドへ行った時は、おいしい食べ物が見つからず、マンゴー(タイのものとは違い小ぶりだった)を三キロ買ってきて、ホテルの冷蔵庫で冷やし、食事代わりに食べた。バナラシの同じホテルに三日間いたが、食事はマンゴーのみですこした。それでも下痢はしなかった。だのに今日はマンゴーが原因だと思われた。マンゴー自体に問題があったわけではなく、要は無節制に腹一杯、つまり食べ過ぎて腹を壊したのだ。

初めて海外旅行をした韓国でも、下痢をしてトイレ探しに苦労した。苦労というよりは死ぬような思いをしたといった方が、そのときのぼくの窮状をわかりやすく表す。
どんどん占めこんでくる、渋りバラが辛抱の限界になったときようやくトイレが見つかった。その時僕はこの世に神様がいて助けてくれたのだと思った

今回は油断があった。あの大きなアユタヤの遺跡公園には、きっと公衆便所があると思っていた。事実五バーツ払うときれいなトイレがあった。駅を出て100メーターも歩けば、サップ川がある。一バーツの渡船で向岸にわたり、ウトン通りを横切って公園の方に歩き出した。自転車かトクトクかを利用したかったが、胃膓を揺らすとその分絞めこみが激しくなると思い.足を引きずるようにし、そろりそろり公園の方へ歩き出した。距離にして1kmぐらいのもんだから、十五分もあれば十分だが、途中腸の締め具合によって、立ち止まったり、座ったりしてゆつくリ歩いたりしたおかげで、1時間ほどかかったように思う。

アユタヤのメインストリートはきれいに舗装されてはいるが、一本道路を裏側に入ると、末舖装なままだけではなく、青草の生い茂る場所がいくつもあった。排せつはトイレが原則だが、時と場合によったら、そうも言っておれないこともある。その点は脇道の叢はアオ力ントイレとして安心を与えてくれた。人通りもほとんどないので、誰かにぶざまなころを見られるわけでもない。こういう安心と余祐のおかげで1:時間ももったのだと思う。しかし公園に着くころには渋りバラもいよいよ限界に近づいてきた。公園の入り口にあるチケット売り場の近くに、五バーツの公衆トイレがあった。5バーツが50バーツでも構わない。ただ今は銭カネの問題はどこかとんでいる。僕はすぐさま飛び込んだ。やれやれ。ほっとため息をついた。先ほどまでの苦しみが、嘘みたいである。渋り腹は解消した。

ところで急に思い出したのだが、インドへ行った時にインド人の用の足し方には感心した。早朝列車で走っているとわざわざ線路の土手に向いてしゃがんで用を足し、終われば水の入った小さなミルクの空き缶を右手で持ち、左手で流すという名人芸
みたいなことをして用を足している。タイもカンボジアもインドも、日本のように紙でという感覚はないらしい。便器の横には水がめがあり、水が蓄えられている。それをひしゃくみたいなものを使って右手で水槽からくみ上げて左手できれいに洗う仕掛けになっているが、これにはちょっとした要領がいるみたいで、僕などは何回やっても衣服を水でぬらしてしまう。

今回も同じである。5バーツも払いながらズボンをぬらしてしまっている。5バーツと一口に言うが、バンコク市内の赤バスはー路線ならどこまでのっても3.5バーツである。
3.5バーツでどのくらいの時間のっていられるか計ったたことがあったが、ゆうに1時間は越えた。そのことを考えると、この有料トイレ料金はメチャ高い。日本で言うなら500円位になるのではなかろうか。500円支払ってトイレに?こんな高額な有料トイレは日本にはまだないのではないか。喉元過ぎれば5バーツを問題にするようになった。さきほどはこの渋りはらがどうかトイレまで持ちますようにと神様のご登場まで願ったくせに、のど元過ずたら5バーツを問題にするわれに苦笑した。

旅はいい。だが道中のトイレには困る。日本では渋滞用のために、特殊な携帯トイレが販売されて、ぼくそれを買って持ち歩いて海外旅行をしているか、いまだ使ったことはない。

岸和田だんじり祭

2010年06月23日 | Weblog
      岸和田だんじり祭

20年も昔は安全というよりは、泉州人の心意気 特に男衆の心意気が優先され事故による死者も出るほど激しい祭りだった。
部外者の僕から見ると、エネルギーの大きさよりはむしろ蛮勇男 荒くれ男の年一回のストレス発散天下御免の祭礼だと、解釈をしていた。

ところがひょんなことから、関心を持つようになり、この結集されたエネルギーを作品にしてみたらと思うようになった。

もう20年以上も僕の演歌を歌ってくれている歌手が、彼の地の出身で死ぬまでには一回はオリジナルのだんじり祭りの歌を歌ってみたいと独り言をいったのを、耳にした。
特別依頼されたわけでもないのに、心の底ではいつかやるぞと決めていた。
泉州のだんじり祭りは全国的に有名で、演歌の題材には事欠かないだけあって多くの作曲家が作品化している。特にヒットした曲があったようには思えないが、ヒットするしないにかかわらず、思いの丈を自分の心にぶっつけて、はね返ってくる思いを詞と曲にした人が多いのではないか。。
神社の祭礼に枯れ木の賑わいのようなつもりで作品を書いてみたが、今回は少々根性が違っていた。
秋になると、9月、10月は秋祭りが執り行われる。が、岸和田のだんじり祭りは別格のエネルギーがあるように思えた。男が男になる瞬間であり、男のエネルギーを発散させる日であり、非常に頼もしく思えた。そうでなくても、草食動物だなどと男らしさやガッツを失ってめめしい今の時代のことである。


貝塚や岸和田方面は和歌山に釣りに行くときに車でよく通ったので何となく親しみがあり、特に岸和田城のお堀端を通るのが目に焼き付いて、岸和田と言えばお城とダンジリが頭から離れなかった。

祭りのエネルギー、男のエネルギー、元気のない日本の不景気などを吹っ飛ばす契機になればいいやとはりきった。どんな作詞家が書いても似たような詞になるのはある意味避けられない。そこで作曲で特徴を出そうと胸をどんどんと手でたたいて、内在する エネルギーに揺さぶりをかけた。
出だしの音を最高音にして、ここに力を入れないと、どんな人でも 歌い出せない仕組みを考えた。果たしてこの試みが成功するのやら、どうなのか判らない。メロデイやリズムをこのページに載せられないのは残念だが、歌詞だけ載せることにする。

岸和田 だんじり祭 作詞作曲武田圭史

一,だんじり太鼓か 引き手の声か
空に響けば 血が騒ぐ
岸和田名代の  だんじり祭
たたく太鼓は あばれうち
これが岸和田 これが岸和田
あばれだんじり みだれうち

 二,浪花節だと あの娘は言うが
男にゃ男の夢がある
一度決めたら 後へは引かぬ
   意地がとりえの てこまわし
これが男の これが男の
あばれだんじり みだれうち

三、人生舞台で 夢をも見るさ
乗らなきゃ 男の名がすたる
男命をだんじりにかけ
空に舞う華  大工方
これが命の これが命の
   あばれだんじり  みだれうち

楽しみ

2010年06月21日 | Weblog


楽しみ

どんな世界に住んでいても、そこにはそこの楽しみがある。楽しみを作り出すというのが人間の世界だとある人がいった。苦しい世界でのたうち回るだけでなく、その苦しい世界に一筋の光明を見いだして、それを楽しみに転換していく能力があるとは、人間はやはりすばらしい。人間には輝かしい未来がある。夢がある。私はそれを信じる。

事実、現象、現実をそのまま模写するのではなくそれをいかに昇華して芸術作品にまで高めるか、それが芸術家の仕事である。従って、芸術家にはある種の強烈な価値観が必要である。それはヒューマニズムでもよい。真でも、美でも、善の追求でもよい。芸術の追究も詰まるところ人間が見いだした楽しみに一種である。

較差是正

2010年06月20日 | Weblog
較差是正

規制緩和して自由競争を始めると、勝ち組と負け組が出来て、その差が格差社会を産んだ
勝ち組負け組格差是正が叫ばれて 所得税や相続税の徴収率によって格差の是正を図ろうとしている。

僕は規制緩和の時に自由競争をすると、1番から100番迄の序列が出来る事は必定であり、勝者は良いとしても、敗者に対してはセーフテイネットを幾重にも張り巡らせておかないと、競争に負けて弱者が排出して、それが結局社会的負担となることを危惧して、竹中大臣に危惧の念を持ち、その手当は十分出来ているかと言う思いが強かった。新聞紙上の彼の解答は十分手当が出来ていると言うことであったが、結果は派遣村を産むに至った。つまり彼が考えた以上に格差がひろがる結果になったのだ。
そして、今は格差是正が合い言葉になっている。

折しもリーマンショックという経済的な不安定要素も生じ不況のため、多くの人が職を失って生活困窮者がでた。
今回の格差発生はやはり経済政策の基本的な誤りとされても仕方がない。即ち小泉改革は失敗した部分が多い。今度これを是正しないと、振り落とされた人々は生活にも困窮することになる。対策を急がなければならない。

較差是正の一方策として税制改革が考えられているが、どこまで是正できるのだろうか。
現在の税制は高収入や資産の多い人に有利な仕組みになっている。これを是正するするにしても 最高税率対象者や相続税は数百~数千億程度にとどまる。これでは話にならない。もっと根本的に構造を変える必要があるし、労働者派遣法などという経済的悪法を即刻改めで貰いたい。この世に生きる人はいかなる弱者であっても、生存権を実質的に保証されなければならない。

低所得者に必要な手当やサーービスに対して、再配分機能回復をすることはもちろんだが、結局は消費税アップに成ることは間違いない。一説には10%と言う案も提示されているが、弱者をどの様な形で消費税の圧力から守るかが大きな問題だ。
食品生活必需品は抑える等して、弱者に最低生活を保証する事に最大の注意が払われないと、弱者切り捨ての謗りは免れまい。それは社会的弱者は死ねと言うことになる。
共生きが大原則の人類のあり方に完全に反する。

年収1億円ある人が公表されているのを見ると、年収200万円以下で生活している人々の気の毒さが身に伝わってくる。どんな理由であれ、これほどの開きがあって良い物か。
1億円組からは80%の税金をかけたらよい。
いくら自由競争が原則だと言っても、底辺にいる人々の生存権まで脅かすまでに至っては、すなわち人間の社会までが、弱肉強食社会に成り下がっては社会の安定は保てまい。
それは無能政治を意味するだけでなく、人類の叡智までもが問われることになる。

国の借金は800兆円 税収37兆円  歳出額92兆円 の現状を見ると庶民はため息しか出ない。30年以上も経済成長を続け世界第二位の経済大国とは一体何だったのだろうか。



気がついたことがある。

2010年06月19日 | Weblog
気がついたことがある。


50,60,70代と年を重ねるごとに
目の前に広がる風景がまったく変わってしまった。特に人間関係が変わった。

今は行き交う人は異邦人に見える。また自分が何者かによって疎外され、大衆から切り離された存在である。

こういう感覚は今までになかった。というより徐々に進行して今みたいなものになった。

これは老化、退化現象か、それとも現在の自分がそう見ようとしているのか、いずれにせよ、過去とは違い行き交う人々に今まで感じなかった違和感がある。 

消費税について思う

2010年06月18日 | Weblog
消費税について思う

地方行政機関の借金と国家の財政のそれをあわせると1000兆円だと新聞は報じている。
この借金をなくすには、増税しか有るまい。無駄を廃してと言うが、どんなに無駄を廃しても赤字解消の目途は立たない。それは今回民主党が無駄を省けば何兆円も金が浮いてくると言うことで、実際にその作業をして見たが、捻出された無駄金は数千億単位で、当初予定した兆円単位とはほど遠かった。確かに事業仕分けは道半ばであるにしても、とても何兆円もの話にはならない。

結局無能政治のツケが国民に回された格好になった。税制の抜本改革なんて意味不明に近い言葉を用いて、また国民を惑わすことになるのだが、これまでの結果を招いた政治家は誰一人として責任をとろうとはしない 。

今となっては増税はやむを得ないが、その増税分が何に使われる物なのか厳重に監視してチエックする必要がある。しかしこれを実施するに当たっては、可能な限り出費を削ることが前提になる。公務員削減はもちろんのこと、国会議員の定数も大幅に削減し、歳費も半減させることを実施して、範を示してから、肉を削り骨を削る実績を作ってから、消費税アップを論ずるべきだ。

自民党が言う10%はその前提部分がしめされて実現されない限り、考え方が甘すぎる。
10%をいう前に、骨身を削る公約とその実現が先決だ。
増税と言えばカンタンに消費税率のアップが叫ばれるが、現実的にはこれしか仕方がないとは思うが。


















中国の低賃金

2010年06月17日 | Weblog
中国の低賃金 

新興国の安価な労働力は先進国の賃金を下げる方向に動いた。
いままで豊富な労働力と安価な労働賃金で輸出加工型発展モデルで中国は高度成長を遂げた。しかしながら当今世界の工場として発展する中国労働者がふさわしい賃金を求める様になったのは当然だ。

安く抑えられた賃金を頼みに、利益を上げるやりかたを中国の労働者達が是正しようと動き出した。これは当然の流れである。今後止めることは出来ないだろう。中国政府も国内の格差是正を解決しなくては、政治の舵取りも難しくなろう。だからこれは当然のこととして国内に進出している外国企業に、賃上げを求めることの無言の後押しになる。

ここ10年余りの間に格差是正即ち賃金アップの圧力は高まるばかりである。外国企業が逃げ出したところで中国は国内市場を相手に、企業の生産活動は続けられるだろう。
こういう展望に立てば、果たして日本国内の賃金が高いからという理由で、生産拠点を中国のみならず、海外に移すことは問題であろう。

ストに驚き海外にに移す動きもあるが、これは時間差の問題で、どこの国においても必ずおきる問題だと思う。ただそれが来年起こるか、10年先に起こるかが問題で、必ず生じる時がやってくる。

以上のような見方に立つと、企業は安い労働力依存からの脱皮を図り、産業の高度化や新ビジネスを探るようになる。
将来の日本は内需経済と、特殊製品の製造販売に開発の力を入れて、従来のような大量生産大量消費型の産業構造ではこの国が持たなくなるのではないか。そんなことを危惧するが、50年先は一体どのような日本になっているのだろうか。
日本歴史はじまって以来の経済発展を遂げた最中に生きた我々定年組はどんな夢を見ることが出来るのだろうか。





心は流れる

2010年06月16日 | Weblog
 心は流れる


 心は気分の流れによって揺れ動く。流れるといった方が適切かもしれない。人の心は常に流れていて片時も一カ所にとどまることを知らず、関知できる全てのものと関系を結んでいる。
 ところが心をどこか一カ所にとどめておくことは大切なことである。何が心をつなぎとめるのか。揺れ動くことなく、肝心な事柄からは一歩も離れない。つまり心の固定ということも大切だ。しからば何に固定するのか、宗教に心を固定しておくのか、それとも人間関係にか。       

中味はさまざま

2010年06月15日 | Weblog

     中味はさまざま


 魚を例にとると分かりやすい。イワシは魚である。アジは魚である。タイも魚である。魚といえばイワシもアジも鯛も魚である。
同じ字でも、その表す中味はさまざまである。
 イワシはアジとは違うし、アジはタイとは違う。それは人間が価値づけをして区別したり、差別したりするので違いが出てくるというのではない。人間の価値付けとは無関係に、固有の種として差は存在する。
それでは魚とは何を意味するのか。種の最大公約数的なものを意味し、その概念以上のなにものでもない。           
よくよく注意してみると、我々は魚という言葉で中身を吟味せず、ごちゃ混ぜにして中身不明のままに、
「魚論争」をしてはいないか。これが僕の反省点である