寂光院
もう10年もなるだろうか。この寺は放火によって全焼した。それから寺の建物の規模は小さくなったらしいが、一応寺の体裁を整える迄になった。
大原の郷で有名な女人寺・寂光院である。
仏教の慈悲がどんなものか知らないが、全焼させた犯人を訴えることなく、犯人を許したと言う報道が頭の片隅に残っていて、過ちを犯した人に対する仏教の慈悲とはこんなものかと、釈然としない気持ちが今でも残っている。
寂光院は何回か訪れた。もちろん消失する前の建築物の外観は知っている。
そこを訪れようと思い立ったのは、吉川英治の新平家物語を読んで興味を持ったからである。
最後に建礼門院と義父の後白河院との出会いの場面がある。建礼門院の父・平清盛と敵対した天皇を義父に持つ建礼門院との対面はどんなものだったんだろうか、とその心中を思いやったこともある。
記憶をたどって少し解説を試みると
建礼門院は平清盛の娘・徳子である。
一の谷の戦いに敗れ、屋島に逃れた平家は源義経の追撃を受けて、壇の浦まで落ち延びる。そしてここで平家の命運は尽きた。徳子は高倉天皇との間に生まれた幼帝・安徳天皇を抱いて、今はこれまでと、瀬戸の海に身を投げる。
いかなる天の配剤か知らないが、徳子だけが助かって生き残る。幼帝も二位の尼も瀬戸の流れに流されて、再びこの世に姿を現すことはなかった。
やがて彼女は大原の郷に来て、実子安徳幼帝や壇ノ浦で瀬戸の藻屑と消えた平家一門の菩提を弔うために、出家する。彼女は以後菩提を弔いながらこの尼寺で生涯を終えることになる。
何しろ悲しい話である。だから寂という字がついたのであろうか。いかにも尼寺を連想するにふさわしい名前の寺である。
何時のことだか忘れたが、私はこの寺に、平家物語の冒頭部分に出てくる名句「祇園精舎の鐘の音、、、、、」の部分を作曲して、それをカセットテープに入れて、寺の境内で小さな音で鳴らしてみたことがある。
その時私の頭の中は平家物語の文章が一杯詰まっていた。先ほど書いた建礼門院と後白河院との出会いの場面が目の前に浮かんだ次の瞬間、声が聞こえた。「今から考えると、人間の生涯なんて一陣の風。はかないものである。」それは女声だった。
目に浮かんだその人の姿は、頭から白い布ですっぽり覆い、身につけている物は黒染めの衣である。明らかに尼さんの姿である。
張り巡らされた柴垣を箒で掃いている。そして誰に言うともなく、先ほどの言葉を独り言のように、つぶやいた。
やっぱり・、、、僕の使った平家物語序章…祇園精舎の鐘の声、、、は誰が書いたのか知らないが、あの名文の中にある仏教の無常観が平家物語の、いや人生の栄枯盛衰の理を表している。
それは人々に向かって、人生のなんたるかを、説いているように思える。生者に対しても、死者に対しても。
もし仮に死者にも語りかけているとすれば、それはお経と言うこともできるだろう。お経の持つパワーに感応されて、魂の世界に帰って行った建礼門院がいま自分が生涯をすごしたこの寺の境内に立ち現れても、不思議ではない。とすれば、先ほど目に浮かんだ女人は建礼門院だったのか。
平家については平家琵琶があるし、平曲がある。しかし西洋音階を使ってアンサンブルで歌唱するのは、おそらく私が初めてだろう。
その歌曲に建礼門院が耳を傾けて、私の心や思いに、共感してイメージの世界に現れ、つぶやいたとすれば、この曲は鎮魂的な要素も備えていると言うことになる。
私の頭は平家物語の世界に、いや平安時代末期の平家の世界のことで頭が一杯になっていた。寂しさが一層増す秋の夕暮れの寂光院にたたずんで、静かに人生のなんたるかを感じる事が出来たような気になった。
晩秋の太陽はつるべ落としである。さあ 帰ろう。私はは腰を上げた 。
もう10年もなるだろうか。この寺は放火によって全焼した。それから寺の建物の規模は小さくなったらしいが、一応寺の体裁を整える迄になった。
大原の郷で有名な女人寺・寂光院である。
仏教の慈悲がどんなものか知らないが、全焼させた犯人を訴えることなく、犯人を許したと言う報道が頭の片隅に残っていて、過ちを犯した人に対する仏教の慈悲とはこんなものかと、釈然としない気持ちが今でも残っている。
寂光院は何回か訪れた。もちろん消失する前の建築物の外観は知っている。
そこを訪れようと思い立ったのは、吉川英治の新平家物語を読んで興味を持ったからである。
最後に建礼門院と義父の後白河院との出会いの場面がある。建礼門院の父・平清盛と敵対した天皇を義父に持つ建礼門院との対面はどんなものだったんだろうか、とその心中を思いやったこともある。
記憶をたどって少し解説を試みると
建礼門院は平清盛の娘・徳子である。
一の谷の戦いに敗れ、屋島に逃れた平家は源義経の追撃を受けて、壇の浦まで落ち延びる。そしてここで平家の命運は尽きた。徳子は高倉天皇との間に生まれた幼帝・安徳天皇を抱いて、今はこれまでと、瀬戸の海に身を投げる。
いかなる天の配剤か知らないが、徳子だけが助かって生き残る。幼帝も二位の尼も瀬戸の流れに流されて、再びこの世に姿を現すことはなかった。
やがて彼女は大原の郷に来て、実子安徳幼帝や壇ノ浦で瀬戸の藻屑と消えた平家一門の菩提を弔うために、出家する。彼女は以後菩提を弔いながらこの尼寺で生涯を終えることになる。
何しろ悲しい話である。だから寂という字がついたのであろうか。いかにも尼寺を連想するにふさわしい名前の寺である。
何時のことだか忘れたが、私はこの寺に、平家物語の冒頭部分に出てくる名句「祇園精舎の鐘の音、、、、、」の部分を作曲して、それをカセットテープに入れて、寺の境内で小さな音で鳴らしてみたことがある。
その時私の頭の中は平家物語の文章が一杯詰まっていた。先ほど書いた建礼門院と後白河院との出会いの場面が目の前に浮かんだ次の瞬間、声が聞こえた。「今から考えると、人間の生涯なんて一陣の風。はかないものである。」それは女声だった。
目に浮かんだその人の姿は、頭から白い布ですっぽり覆い、身につけている物は黒染めの衣である。明らかに尼さんの姿である。
張り巡らされた柴垣を箒で掃いている。そして誰に言うともなく、先ほどの言葉を独り言のように、つぶやいた。
やっぱり・、、、僕の使った平家物語序章…祇園精舎の鐘の声、、、は誰が書いたのか知らないが、あの名文の中にある仏教の無常観が平家物語の、いや人生の栄枯盛衰の理を表している。
それは人々に向かって、人生のなんたるかを、説いているように思える。生者に対しても、死者に対しても。
もし仮に死者にも語りかけているとすれば、それはお経と言うこともできるだろう。お経の持つパワーに感応されて、魂の世界に帰って行った建礼門院がいま自分が生涯をすごしたこの寺の境内に立ち現れても、不思議ではない。とすれば、先ほど目に浮かんだ女人は建礼門院だったのか。
平家については平家琵琶があるし、平曲がある。しかし西洋音階を使ってアンサンブルで歌唱するのは、おそらく私が初めてだろう。
その歌曲に建礼門院が耳を傾けて、私の心や思いに、共感してイメージの世界に現れ、つぶやいたとすれば、この曲は鎮魂的な要素も備えていると言うことになる。
私の頭は平家物語の世界に、いや平安時代末期の平家の世界のことで頭が一杯になっていた。寂しさが一層増す秋の夕暮れの寂光院にたたずんで、静かに人生のなんたるかを感じる事が出来たような気になった。
晩秋の太陽はつるべ落としである。さあ 帰ろう。私はは腰を上げた 。