日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

傾向と対策1-12

2007年09月30日 | Weblog
 昔から、地獄・極楽の話をするのは、老人か、坊さんと相場は決まっている。地獄へ行きたいか。それとも、極楽へ行きたいかと、問われると、答えは言うまでもないことだ。

 ところが地獄の方がなんとなく関心があるのは、恐いもの見たさの心理に根ざすと同時に、日頃の行いからして、どうも地獄へ行きそうな気配がしているのが、我々の日常の生活実感ではなかろうか。

「良い行いをする人は極楽へ行き、悪い行いをした人は地獄へ行く」
というのは、日常生活の常識がら生まれたもので、われわれが、生まれてこのかた、染みついてしまい、こういうことになるのかもしれない。

 ところが、それでは何が地獄で、何が極楽が、と大上段に構えて、問われると、確信をもって正確に答えられる人々は、少ないに違いない。それでも普通我々が日常生活の中で使っている、地獄極楽の概念で、なんとなくわかるものがある。

しかるに、過去はいざ知らず、現世この世と、未来・あの世は間違いなく存在する。
しかも、現世における地獄極楽は日常生活の中で、我々は実感できる。何を地獄と呼び、何を極楽と呼ぶかは、人さまざまであるが、苦しみの絶頂を地獄、心地よさの最高の状態を極楽と表現している点では、地獄・極楽の意味は、個人差はあるとはいうものの、おのずから普遍性を思っている。

 テレビでは、送信機から発射される電波は目に見えないだけでなく、五感では感知できないが、受像機に達すると、そのうえでは画像を結び、我々の肉眼で、はっきり見えることができる。
 空中に向って発射された電波は、確実にこの世に存在するが、電波の存在をこの体で実感することはできない。
それゆえに、体で実感できない電波の存在が信じ難いのと同様に、あの世の地獄・極楽は実感できないがゆえに、信じがたいものである。

 しかし、霊魂不滅を信じるならば、この世で肉体が滅んだ後に残る霊魂が、この世に地獄・極楽があったがごとく、やはりあの世(次の世)で、地獄・極楽に巡り会うことはあり得ることだと考えられる。

 しかるにあの世で、自分がそのどちらへ行かはエンマ様の側で決めることで、我々は、その指図に従うほかは無い。すなわち、エンマ様がもっておられるものさしでもって、図られて、その結果によって地獄行き、極楽行きが決定するのである。とすれば、この世に存在する間に、極楽行きを目指して、「傾向と対策」を立てることが必要なのかもしれない。

昔の人は極楽行きの「傾向と対策」について、現世での生き方を説いた。善因善果、悪因悪果だと言うのである。
これに従うと、現世の生き方が、そのまま来世にも通用しそうなことになる。つまり現世は、現世における地獄・極楽と、来世における地獄・極楽の双方を決める場になっているのである。こんなことを考えると空恐ろしくなってきた。

 地獄へ行こうが、極楽へ行こうが、自分の好きなように生きるほかは無い。開き直ると同時に,たとえその結果がどうなろうとも、、今日巷に出回っているハウツーものでも読んで,極楽行きに向けて、「傾向と対策」を立てておかなきゃと思う。

音羽の滝1-11

2007年09月30日 | Weblog
「京都に滝があるのを知ってるか」と友人は私に尋ねた。
京都はどの方向を見渡しても、断崖絶壁から、とうとうと、水が流れ落ちる滝などあろうはずがないので、私は「無い」と答えた。
「いや。ある。」彼は今、その滝で行をしているいるのだという。
突っ込んできくと、「音羽の滝」だという。

 清水寺の裏手の石段を、南に向かって降りると、お不動様が祀ってあって、その前に三筋の水が筧より流れ落ちている。
 彼の言う滝はこのたった三筋の水が流れ落るのを指している。

 滝に打たれて、行すると聞いたときには、何となく、ロマンチックな気分がしたが、それは滝というには、ほど遠い三筋の水の流れおちるものだったのだ。

 昼間は観光客でにぎわう、この清水寺あたりも、夜9時ごろになると、全く人通りは途絶えて、静まりかえる。
東山の峰みねは昼間の喧噪から解放されて、千年の昔をとりもどしているみたいである。
暗闇の谷の下の方から、犬の遠吠えのような鳴き声が聞こえた。
珍しいことに、狸が鳴いているそうな。
暗闇の清水寺からは、木々の間から、ちらちらする街の灯が、えも言えぬ美しい世界を見せてくれる。

 到着すると、音羽の不動明王に行場を使わせてもらう、あいさつをする。つまり、今からこの行場を借りて行う水行についての作法を行うのである。
私は何が何だか、さっぱりわからないから、水につかる前の準備は、一切友人にやってもらった。

 まず、行衣・白衣に着替えて、不動明王とその左手に鎮座まします「役の行者」。それに「清水寺の千手観音」に、行場を借りるあいさつをしてから、行場を塩で清め、九字を切って、いよいよ、親指ぐらいの太さで流れ落ちる水を、頭のてっぺんから受けるのである。

 私は水を頭のてっぺんから、もろに受けると寒くてしょうがないから、こちらで手加減して、首や首筋から背中にかけて、あてるようにする。

それでも、寒いこと、寒いこと。真夏でも身震いする。滝の水を背中に受けると、足元で、石ががたがたと震えて音を立てる。何のことは無い。体の震えが足に伝わり、足の震えが、乗っている石に伝わって音を立てているのだ。

 寒さを忘れようと、必死になって大きな声を出して、不動明王のご真言を唱えた。また般若心経を力いっぱい唱えたりするのであるが、寒さには変わりは無い。真夏の夜だというのに。

 寒いといっても、春から夏にかけては、大部ましである。
辛いのは、一月から三月にかけてである。そこ冷えのする京都は冬の夜になると氷点下十度くらいになるときもある。
衣服を脱いで、行衣に着替えて、行場へ行くまでの、ほんの十メートルを素足で歩くのだが、つま先が寒いというよりは痛い。つるつるに凍っている石の上を裸足で歩くんだから、無理もない。

 滝の水をかぶり出すと、冷たさがさほどではないのは、水が地下水で年中八度前後というせいもあろう。

ところが滝から上がった瞬間、濡れた白衣が体にぴったりくっつくと、それも風が吹いて、くっついたときの寒さったらありゃしない。
思わずひやっと声を出してしまう。
 
 寒いといっても、春から夏にかけては、だいぶましなほうで
自分で決めたことでありながら、何の因果で夜遅く、京都までやってきて、水浴びをしなくては、ならないのかと何度も思った。

 友人は心願が成就したので、そのお礼・感謝の気持ちを表すために、夫婦で年がら年中、月三回は八のつく、お不動さんの日を決めて、必ず水行をするという。

彼のつかりっぷりを見ていたら堂々たるものである。慣れのせいか。腹がすわっているのか。
とにかく頭のてっぺんに、堂々とお滝を受けている。
足の下の石も、カタカタ音をたてたのを、ついぞ聞いたことがない。
彼はここで水行している最中には、不動明王のお出ましを実感することができるそうな。声が聞こえたり、フラッシュのように瞬間の場面が見えるそうな。
無我の境地に入っていくと、不動明王の声が聞こえ、未来や過去の、出来事が画像となって鮮明に目に映るとか。彼はこれを眼通と呼んでいた。

 無我の境地から、十億万度以上離れている私は今まで一度も、
不動明王の声を聞いたことがない。夢のなかですら、聞こえてこない。
たったの一度で良いから声を聞いてみたいものだ。彼のように未来の画像が、目に映るものならば、ほんの一瞬でも、未来のわが道の、
一光景をみてみたいものである。
彼と私とでは、同じことをしても、精神の集中度合いが違うのがはっきりわかる。しかし私は自分も彼のように聞こえたり、見えたりしたらよいのにと願う。これは無理な夢というものだ。

 寒いには違いないが、水行を終えて、不動明王と清水寺の観音さんにお礼を言って、別れを告げる時の、気分の爽快なこと。なんと表現したらよいのか。わからない。まさに筆舌に尽くしがたいとはこのことだ。
ついさっきまで、もうこりごりだと思っていたのに、そんな気持ちはすっ飛んで、さわやかそのものだ。体がほかほかして、心のすがすがしさが身にしみる。

 水行をしなくなって一年が過ぎた。最後の行の時に、私は流れ落ちる滝の水を全身にうけながら、不動明王にある御願いをした。

そのお願いは見事に実現した。心願は成就したのである。しかし
まだお礼参りをしていない。
 願のかけっぱなしになっているので、神願成就のお礼のために
今年の暮れにでも、水行をさせていただこうと思っている。

ここからは実際に我が身に起った不思議体験である。
真っ暗闇の中で、彼は急に「先祖さんがでてはる」といった。おそらく彼にはその姿が心眼に映ったのだろうが、私には分るはずもない。
行が終わってから彼は説明してくれた。
「髪の毛がふさふさとした、背の高い恰幅の良い男性が、直ぐ横で
一心不乱に神仏に向かい、手を合わせお経を唱えている姿がはっきり見えた。今後よい事が起るのか、悪いことが起るのか、それは分らないが、きっと何かが起るだろう。」と解説してくれた。
生まれて初めてのこの種の予言を、場所が場所だけに、軽く受け流すことは出来なかった。この予言があってから約一月、心の中には重苦しいものを感じていた。
果たして予言は的中した。母が脳梗塞で体の不自由を失って、これ以後この世を去るまで、一七年間、寝たきりの生活になってしまったのだ。
やっと六人の子供も一人前に仕上げて巣立ち、人生これから余生を楽しめる段階になって、体の自由を奪われてしまったのだ。
これからあきらめの境地になるまでの間、五年ほどは母は毎日悔し涙にくれて、身の不運を嘆いた。また不幸をかこった。しかし誰も何も出来なかった。母の生涯で最大のピンチが襲ってきたのだ。それにたいして何も出来ないもどかしさ。子供である私も手出しの出来ない歯がゆさに唇をかんだ。

 心筋梗塞も併発しているので、医師はいつ亡くなってもおかしくないと診断を下した。「たとえれば、ひびだらけの茶碗だから、いつ何時ぽろっと壊れても不思議ではない」と説明された。私はこのことを水行をした彼に電話した。
「予言通り不幸がおこった。もし先祖が行をしていたというのなら、どうして助かることが出来なかったんだろうか。どうも納得がいかない」
と愚痴をこぼした。
彼が言うには、「それは逆の受け止め方をしている。あのときの先祖さん。多分それは母が一歳になるかならないかの若さで、この世を去った母の父(私のおじいさん)の行があったからこそ、今日まで生きながらえることができたのだ。多分先祖の功徳だ」。と彼なりの解説をしてくれたが、持って行きようのない、くしゃくしゃした気持ちはほぐれようもなかった。

母も10年前になくなって、こういう事も昔話になってきたが、今思い返してみると、やはり暗闇の水行の中に、先祖さん(おじいさん)が出てきて、我が娘のために一心不乱に行場を借りて行をしているという事が事実ならば、親の子供に対する思いほど、強い思いはないと思う。
死してなお、我が子を守らんとする姿は神々しいものがある。子を思う親の気持ちほど純粋で尊いものはない。
私はコノできごとを通して、わが子を思う想念は、死してなお生きているものであると理解した。
肉体的な死が果たして人間のすべての死を意味するものであろうか。世間の常識では死はすべての終わりを意味している。年忌や法要はあるが、生きているもの達の思いがどれほど死者の魂に届いているのだろうか。真実は何も分らないが、事実から類推すると、人間の存在というものは霊身ともに有り、死によってその行き場所が違うに過ぎないのではないかと、思うこの頃である。

死刑執行は自動的に

2007年09月25日 | Weblog
鳩山邦夫法相は25日、内閣総辞職後の記者会見で、死刑制度について「判決確定から半年以内に執行するという法の規定が事実上、守られていない。法相が絡まなくても、半年以内に執行することが自動的、客観的に進む方法がないだろうか」などと述べた。法相の信条や宗教的理由で左右される現状に疑問を呈した形だ。

現行の死刑執行について、確定犯が100名を超えているらしい。内容の伴わない死刑制度で、空文化が叫ばれて久しい。

「判決確定から半年以内に執行するという法の規定が事実上、守られていない。
法相が絡まなくても、半年以内に執行することが自動的、客観的に進む方法がないだろうか」と彼は提案する。彼の言うとおりである。そうでもしなくては、死刑制度の実質的な空文化はすすむ。

法律がある限り法に忠実でなくてはならないことは言うまでもないことだ。だが現実には、その任にあたる法務大臣が執行にゴーサインを出さないから、死刑囚がたまって、100人も超える状態が続いているのである。

極悪非道な罪を償うには、己の命をもってしか償えないような凶悪犯であっても、死刑執行を己の手によって行うと言う場面に直面すると、そりゃ誰だって、法遵守のことの他に、諸々の感情が湧いてきて、出来ればサインするのを避けたいと言うのが人情だろう。

しかし指摘されているように、法相の思想信条の上に宗教的な理由などで、執行しないというのは、職務怠慢ではないか。
死刑執行が、己の主義主張に反するのであれば、法務大臣の職に就かなければいい。しかし現実には大臣という肩書きがほしいばかりに職に就くが、執行はしたくない大臣がわんさといる。

 だから法律に反して未執行者が100人も超える状態が起こっている現状を見る時、大臣のサインを必要としないように改めないと、法律違反の現状が続くことになる。

死刑執行が確定すれば自動的に執行されるようなシステムを作っておけば、大臣の介在が不要になって、6ヶ月以内の執行は実施できる。こういう観点から、鳩山前法務大臣の主張と提案は評価できるし、賛成したい。なおこの提案に対して80%以上の人達が賛成をしているが、これこそまじめな国民の良識というものであろう。

考えてみるがいい。如何に時間が過ぎさろうとも、過去に殺人を犯してその結果、死刑判決になった囚人である。それ相応の償いをするのは当然のことである。

無惨にも命を奪われた被害者の悲しみ、苦しみ、のみならず家族、親類、に与えた言いようのない苦痛。加えて逮捕されるまでの警察官の努力、検察官 弁護士、裁判官、社会に与えた苦痛など計り知れないほどの迷惑をかけたのが死刑囚だ。

社会防衛のためにも、社会正義実現のためにも、当てにはならぬが、凶悪犯罪の抑止力としても、死刑は当然のこととして、粛々として執行されなければならない。

懲戒請求3900件。世間は怒った1-10。

2007年09月06日 | Weblog
光市母子殺害事件の最高裁差し戻し控訴審で、荒唐無稽なストーリーを作り、死刑回避を狙った弁護団の、あまりにも世間常識とかけ離れた主張に、同じ弁護士の橋下氏が懲戒請求をかけようと、出演番組で呼びかけたら、3900件の懲戒請求が寄せられた。

これに対し、被告・弁護団4人が業務妨害を理由に一人当たり300万円の損害賠償請求を出した。

いくら少年といえども、その罪状の重さから見て、常識的には死刑が当然だというのが、多くの人の国民の、健全な常識だと思う。

最高裁も特に酌むべき事情がない限り、死刑を選択するほかはないと判断している。当然だろう。

二人の命を奪った野獣は、己の命を持って償うほかに、どんな方法でもって、この重大な殺人という罪に責任を取るというのか。

このまま死刑が確定したら、被告犯罪者を真人間に戻すことなく、時の闇の中に葬るとでも言うのか。どこに弁護活動の意義があるのだ。原告被告双方を納得させることのない無意味な弁護活動だ。

犯人の元少年の内面的な未成熟を理由に、弁護団は死刑回避の弁護ストーリーを書いて、その主張を法廷で犯人に演じさせた。

未成熟を際出させようとしたそのセリフを聞いてあきれたのは決して僕一人ではあるまい。

懲戒処分請求をした人だけでも、3900人を超えたというから、この非常識なストーリーをつくあげた、精神科医や弁護団に対しての国民の怒りは相当なものである。
どちらの言い分が適切か。

国民的議論が巻き起これば非常によい事例である。

そしてその怒りこそが、社会正義であり、国民の健全な常識的判断だと思う。

法律の専門家でない一般庶民は、懲戒請求をかけることすら知らなくて、怒りの矛先を21人の弁護団に向けて、黙るほかはなかったのだ。黙っていらいらしていたのだ。

僕も今回初めて懲戒請求なるものを知った。僕が3901番目の請求者である。

この事件では被害者のご主人が、毅然たる態度と主張を展開し、その冷静さが異彩を放っていた。

もし僕が当事者であれば、このような目にあわされて、幼稚すぎて、話にならないストーリー(ドラエモンが出てくるという話)を書いて、未成熟、幼稚性を表現しようとしたところは、許すことが出来ない。

無理があって、常識的に受け入れ難いものであるばかりでなく、失笑やお笑い以外のなにものでもない。

ことは決して軽く取り扱われることが出来ない、重大な殺人事件である。

法律以前の問題として、何の落ち度もない母子(子供はまだ生まれて1年にも満たない幼児である)の命を奪った、この鬼畜を生かしておくことは、社会正義の放棄にもつながるとさえ思う。
良識のある、まじめな国民はみな怒っているのだ。

 橋下弁護士に対し、今枝弁護士は 「世間の偏見や誤解を助長している。弁護士がそのような活動をするのは問題で、刑事弁護する弁護人が風潮や世間の目を気にして、萎縮することにつながる」と批判しているらしいが。

その言い分、ちょっと待った。

「世間の偏見や誤解を助長している」とは何を意味するのか。具体的に言ったらどうだ。
世間の偏見とは、どういうことだ。中身はなにか。説明すべきである  

もし世間の偏見というフレーズの中に、一般社会の常識を否定する意味があるとすれば、許すことの出来ない暴言である。

個人的には、このような非常識な弁護士は即座に社会的な制裁を受けて、国民に謝罪するか、非を認めてリタイアーすべきであると思う。

次に誤解という言葉を追求したい。何をどのように誤解しているのか、説明されたい。
 何かをそれと違ったように誤って受け止めることを誤解という。

 誤解という言葉を使っている以上中身は何か、わかっているはずである。中身もなく単に言葉として誤解という言葉を用いたのなら、その程度しかない低レベルで、信頼できない弁護士だといわざるを得ない。

いずれにせよ、正義を実現させる場で、このような世間一般では通用しない非常識な人間が、法と言うことをたてに取り、刑事弁護という名の下で、非常識発言をするのは許してはならい。弁護のためには何を言ってもよいということは許されることではない。
次に
刑事弁護する弁護人が風潮や世間の目を気にして、萎縮することにつながる」
ということに関して、

萎縮しているのは君たちだけではないのか。
筋の通らない、わけのわからない主張や活動に対して、民衆の心が離れ、怒っているのである。筋をとうして国民が納得する弁護活動を堂々とやればいいだけの話だ。

橋下氏を批判する前に、厳しく自己批判、反省をすべきである。そこの部分が欠落している。だから民衆の共感を得ることなく、反発を受けているのである。

君たちの弁護活動が国民に受け入れられてないところから、今回の問題が発生しているのではないか。

世間常識を納得させることが出来ない弁護活動なんて、本来あってはならないことである。それがベースにあるということも知らないで、弁護活動をしているのか

とにかくお粗末の1語に尽きる。





ホンダさんにもの申す1-9

2007年09月02日 | Weblog
ホンダさん。従軍慰安婦の問題は確かに重要だと思います。
だが、平和な時代に、戦争さなかの、人類の悲劇を掘り起こし
て、それも60年以上もたった今、日本にどうしろといいたい
のですか。

帝国主義時代の植民地支配の非人間性を持ち出して、日本人の
残虐性をクローズアップしたところで、それが歴史を塗り替え
ることが出来るとでも、考えているのですか。

それじゃ日本人の一人として言わせてもらいます。

あなたは日系のアメリカ人ですよね。

原爆投下の残虐極まりない悲劇を、どのように総括されますか


広島長崎で非戦闘員の即死状態の日本人が20万人以上。加え
て戦後60年間の間に、原爆症でなくなった人がそれ以上。

戦後60年たっている今日でも、原爆症で長い間苦しみながら、
この世を去っていく人が後をたちません。

原爆投下は日本人のみならず、人類を敵にまわした戦争犯罪で
す。8月15日には降伏することになっている、その1週間か
10日ほど前に、原爆投下が行われたのですよ。

声高に従軍慰安婦の人権侵害を主張されるのは、わからないで
はないが、それならば、日本人は原爆投下の残虐性を問題にし
たくなります。

しかし日米関係を振り返るとき、かって日本人がその残虐な犯
罪を声高に、アメリカを名指しで非難した議決が、国会でなさ
れたでしょうか。

本音を言えば、原爆投下には、怨念の塊が日本人の心に、へば
りついています。

だがそれを表に出してアメリカを国会決議をもって、非難した
でしょうか。

原爆をはじめとして核廃絶を世界に訴えてるのが日本です。

あなたは従軍慰安婦問題を単体として捕らえて、国会決議まで
したじゃないですか。こういう思想がお互いの傷を深めると僕
は思います。

従軍慰安婦だけが戦争犠牲者だとは思いませんよ。国家の意思
で殺し合いをするのだから、もっともっと悪逆非道、凄惨なこ
とがあったに違いありません。

そういうところへ思いをいたすとき、過ぎ去った戦争の教訓と
して、未来にはこういう悲劇を繰り返さないことを、暗黙のう
ちに誓い合うことが両国民、いや世界人類に課せられた課題だ
と思うのです。

あなたが得意げに、従軍慰安婦問題を取り上げたので、それで
は僕は原爆投下はどうなるのだと反論するのです。

これは負の連鎖を巻き起こします。お互いに言い分はあるので
す。

あなたは日本の国会でアメリカを名指しして原爆投下の罪と責
任を追及し議決したら、アメリカ人はすんなりと、その非を認
めますか。

これは両国の国民感情にひびを入れることにしかならないマイ
ナス思考だと思います。

お互いにこういう類のことは腹にしまってそれを歴史の教訓と
して人類共存の礎にする方向で、考えたほうが、生産的だと思
います。

お互いに言い分はあることを決して忘れることなく、大人とし
ての対応をされるように望みます。

最後に言わせてもらうと、アメリカは原爆を持っています。い
ざとなったら、それを使い、多くの人を殺傷する可能性がある


それに比べて日本には核爆弾はありません。
日本の核攻撃によって、アメリカが日本人に与えたような苦し
みを他国に与える可能性はゼロです。

この辺の実情もよく考えて、もの申されるがよいでしょう。
従軍慰安婦を問題にされる前に、圧倒的な数の人類を不幸にす
る、自国の核の問題を問題にして、議論を巻き起こされたらい
かがですか。

安倍総理の言い方がどうあろうとも、どちらが人類を苦しめた
かと言う大局を見失うことなく、戦争の意味をお互いに問い直
す事の方が、日米関係を考えるにも 有効なことだと思いませ
んか。

戦争の悲劇は従軍慰安婦の問題に限定するのは間違っています
。現実にはもっと残虐非道な事が行われていたという現実を直
視するとき、戦争という非人間的行動を反省する必要があるの
は、日本だけではありません。

アメリカだって状況は同じです。そのような現実があったこと
を直視して、未来志向で物事を考えていかないと、日米のより
堅固な協調は望めないのではないですか。

 日本人の一人として、今の今まで胸で押さえて我慢していた
が原爆問題が、あなたの従軍慰安婦の問題提起と国会議決によ
って、悪夢のように私の心の中でよみがえったのです。

重ねて言うが、従軍慰安婦問題よりは原爆投下のほうが、人類
に対する罪が大きいのは自明の理です。

アメリカは人類最初の原爆投下による、大量虐殺犯罪を犯している事実をふまえた上で、バランスのとれた発言をされるとよい。

少なくとも、自国の犯した大罪を認識して、発言しないと、日本人
の対米感情を逆撫でするという現実をしっかりふまえた上で発
言されるがよい。

 日本人の心の底に眠る反米感情をあえて掘り起こして、あなたは何を主張したいのか。と疑問に思わざるを得ません。僕からみれば、まさにオトナとしてのたしなみにかけるし、勘ぐるとこれは売名行為としてしか受け取れません。