2019/12/8 申命記6章13~14節「神だけを神に」 ニュー・シティ・カテキズム9
教会には、信条(信仰告白)と祈り(私たちの礼拝・信仰の行為)と律法(特に中心になる十戒)の三つの文書があります。この三つを「三要文」と呼んで、教会は大切にしていることを先週お話ししました。今日から「十戒」について、簡単に見ていきます。その中で、神が私たちにどのような生き方を具体的に求めているかが分かりますし、他の人に「クリスチャンってどんな生き方をするの?」と聞かれた時の答も分かります。
第九問 神は、第一、第二、第三戒に何を求めていますか?
答 第一戒は、私たちが、唯一の生けるまことの神を知り、信頼すること。第二戒は、私たちがすべての偶像礼拝を避け、ふさわしく神を礼拝すること。第三戒は、神の御名を畏れと尊厳をもって扱い、また神の御言葉と御業をたたえることです。
十の戒めの最初の三つをまとめて見ていきます。それは、三つとも、神に対することを教えています。
1.あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
2.自分のために、偶像を造ってはならない。
3.主の御名を、みだりに唱えてはならない。
最初の方は、神に対する事を特に教えていますが、今日はこの三つをまとめて触れています。ここが、私たちが立ち戻ってくる、大切な最初の在り方なのです。
第一戒の
「あなたには、わたしのほかに、他の神々があってはならない」
は
「私たちが唯一の生けるまことの神を知り、信頼すること」
を求めています。神は、唯一の生ける神です。世界をお造りになったのは、ただひとりの神です。この神以外に、世界を造った神はいません。
それなのに、人間は色々なものを「神」と呼んで、崇めたり、宗教を造ったり、自分が神のように振る舞っています。造られたものに造り主の役目を期待するのです。あるいは、死んだ人が神にされたり、生きている間でも「神」と呼ばれたりしています。でも、本当の神は世界の造り主で、世界よりも偉大で、すべてのものを支えている神です。他のものは、神に支えられた被造物で、何にも命は与えませんし、少し学べば、神ではないと分かります。神だけを神として知り、ますますこの神だけに信頼する。他のものは神ではないし、神としてはならないし、私たちの信頼に応えることも出来ません。神ではないものに神になれという期待は重すぎるのです。
しかし、唯一の神、聖書において啓示されている神を神としているクリスチャンでも、その神に、自分勝手な期待をしていることがあります。神を礼拝しているようで、実は、自分が造り上げた神様のイメージを礼拝しているのです。それは、第二戒で触れられている
「自分のために、偶像を作ってはならない」
という問題です。神は大いなるお方で、この世界より、宇宙よりも大きなお方ですが、私たちはどうしても、自分の理解できるイメージに神を押し込めて、小さく考えてしまいがちです。それでは、神を礼拝していても、自分が造り上げた偶像を拝んでいるのと変わりありません。
実は、この十戒を与えられた時、イスラエルの民は、金の子牛を造っていました。彼らは主なるまことの神様によって、エジプトの奴隷生活から連れ出され、神の力強い御業を十分すぎるほど体験していました。それなのに、しばらくモーセが見えず、ちょっと心細くなると、途端に「見える形がほしい」と言い出したのです。そして、自分たちの持っている金や宝石を寄せ集めて、金の子牛を作り、「これが私たちをイスラエルから救い出してくれた主だ」と拝んだのです。なんという愚かなことでしょうね。いくら立派でも、この金の子牛は、話すことも救うことも何かを作り出すことも出来ません。そして、実際直ぐ後で、粉々にされて水に播かれてしまうのです。そんなことをされても金の子牛は何も感じなかったでしょう。だって、それは神でも生きてもいませんから。
第三の戒めは「主の名をみだりに唱えてはならない」でした。これは「神の御名を畏れと尊厳をもって扱い、また神の御言葉と御業を讃えること」と言われています。神の名前、それは「主」というお名前です。それは「わたしがある/わたしはいる」という意味です。神様はいつでもどこにでもおられます。偶像や私たちが頼りにするものはいつかなくなります。私たち自身、これから先どうなるのか、生きていられるか、生きていても私自身でいられるか、分かりません。けれども、神は「わたしはある」と言うことが出来ます。私たちにとって、神はいつでも「わたしがいる」と仰るお方です。私たちが、神に背を向け、偶像に縋っていても、この唯一の、生けるまことの神がおられるのです。神の名は「わたしはいる/わたしはある」というお名前です。この名前を軽々しく考えてはなりません。神の名前はみだりに唱えられるような名前ではありません。

ですから、第三戒は「主の名をみだり(軽々しく)に唱えてはならない」と言います。この言葉から、もういっそ、主の名を唱えることはしない、という受け取り方もされました。でも、皆さんの名前も、軽々しく呼ばれたり、茶化されたりするのも腹が立つでしょうが、名前を呼ばれないのも淋しいものでしょう。私たちは、神の名前も自分の名前も、軽々しく呼ばれたりしない、本当に価値がある名前だと思い出しましょう。そして、この唯一の生けるまことの神を、この方だけを礼拝しましょう。この神だけを、自分の都合の良い偶像を造ったりもせず、心で軽々しく考えていることも止めて礼拝しましょう。そして、私たちが、この生けるまことの神以外のどんなものも、誰かや何か、夢や仕事、趣味や楽しみ、どんなものも、決して私たちの神にはなれないことを覚えましょう。この神が、私たちを今日も生かしてくださり、ともにいてくださいます。
最後にもう一つ、神が唯一だからという理由で、戦争や虐殺がされてきたことは、律法の本意ではないのです。この第一戒から第三戒の後には、他の戒め、人を殺したり、盗んだり嘘をつかない戒めが続きます。決して、唯一の神を信じることを巡って、他の宗教を持つ人を殺したり奪い取ったりしていい、ということではありません。特に最後の「欲しがる」ことは偶像崇拝だと言われてもいます。
神は唯一ですが、だから自分たちが一番正しい、という考えは捨てましょう。むしろ、その大いなる神が、ご自分を信じない人たちをも生かし、愛されている。その神の子イエス・キリストが、人のために最も小さい人となり、私たちのために十字架という最低最悪の道を通ってくださった。その事への驚き、畏れと信頼、そして人に対する愛こそ、十戒が与える姿勢なのです。

「唯一の神よ。あなたの御名は全ての名より高く、私たちは御前に恐れ敬う心で近づきます。私たちがあなたの戒めを誤魔化さないようお守りください。毎日の生活にある偽りの神々を悉く暴いてください。御霊と真理により、あなただけを礼拝させてください」
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