聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2019/12/15 マタイ伝5章38~48節「愛こそ完全さ」

2019-12-16 07:31:28 | マタイの福音書講解
2019/12/15 マタイ伝5章38~48節「愛こそ完全さ」
 イエスが、当時の標準的な聖書理解を問い直す言葉が続き、48節が一つの峠となります。
38『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。39しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。…
 「目には目を、歯には歯を」は、復讐を正当化する残酷なモットーだと思われがちです。イエスの言葉も
「悪い者には手向かえ」
という当時の理解を指摘しています。
 この言葉は、旧約聖書の律法にも何度か出て来ます[1]。そしてそれは、復讐の正当化とは逆に、感情的な復讐を戒める原理なのです。「倍返し」とか「気が済むまで」とか「外国人だから」といった勝手な基準で、不当な罰を与えてはならない、ということです。また「あなたが復讐して良い」よりも「あなたが誰かにしようとしたことは自分にそのまま帰ってくる」という戒めです。特に出エジプト記21章では「目には目を、歯には歯を」という戒めの流れで、奴隷の目や歯を損なったら、償いにその奴隷を自由の身にせよ、と言われます。単純な仕返しどころか、奴隷でも外国人でも、キライな人との関係でも、変わらず対等にせよ、人として解放していく。それが
「目には目を、歯には歯を」
でした。しかしそれが全く逆に、
「悪い者に手向かって」
良い、やられたらやり返して良い、という取り方になっていたのが当時の実態でした。そこにイエスは仰る。
39…あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。40あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。41あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。
 これもまた「一切抵抗しない」とか「されるままになっていよ」「お人好しになれ」と、卑屈な生き方を命じているように読まれがちです。しかし、これは復讐以上の態度です。ここからガンジーは「非暴力的抵抗」という生き方を実践しました。無抵抗ではなく「非暴力的抵抗」なのです。
「右の頬を打つ」
のは侮辱・軽蔑・挑発でしょう。しかし私たちは神の子どもです。どんな侮辱でも揺るがない、父なる神からの祝福があります。卑屈な思いのまま、左も差し出してますます卑屈になるのでなく、強さとして左を差し出し、相手の要求以上のこともする。そうして相手の出鼻を挫き、更には勝ち負けさえ超えた関係、問いかけを差し出すのです。
42求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。
 求める者には、であって、求められたモノは何でも与えよ、ではありません。与えるのは、今も見たように、求められてもいないものを、です。7章7節に有名な言葉があります。
求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。…あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。…それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。[2]
 天の父は、求めるあなたがたに良いものを与える。求めるモノがパンや魚でなく石やヘビ、良くないもの、必要でもなく競争心や復讐心からの願いでも、「よしよし」とは与えません。神は、ご自分に求める私たちが願う以上のもの、良いものを与えてくれます。間違った願いや間違った動機から求めたとしても、求めた私たちに背を向けず、わが子として養い、育て、戒め訓練して、戒めて、成長させてくれます。
「求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません」
もそうです。あなたが与えうる何かを与えなさい[3]。背を向けず、「ここで出会ったのも何かの縁」と関わり始める。「やられたらやり返す」とも違うし、「やり返さずに堪える」とも違う、積極的な姿です。それは、次でさらに深く突きつけられます。
43『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。44しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。…[4]
 ここでも「あなたの隣人を愛せよ」という律法に[5]、当時のパリサイ人や律法学者は「あなたの敵を憎め」を付け加えてしまいました[6]。しかし、イエスはその理解を引っ繰り返し、御言葉の神髄に戻ります。敵を愛し、迫害する者のために祈れ、と言われます。
天におられるあなたがたの父の子どもになるため」
 既に、天の神の子どもという立場・身分はあるのです。これが出来なければ神を父と呼べない、ではありません。既に神との親子関係をいただいています。しかし、立場だけでなく、本当に子どもとなっていく。親に似た、その家族の家訓を生きて、名実ともに神の子となることが、敵を愛し、迫害する者のために祈る生き方なのです。
 しかも、それは非現実的な高尚な道徳だとは言えません。これこそが現実だとイエスは言う。
45父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
 今日も太陽が昇っています。悪人にも善人にも、太陽は昇り、雨が降る。当然のようですが、もし神が「良い子」だけを喜び、正しくない者を怒り、憎むなら、太陽や雨をもさえぎる。しかし、すべての人に日や雨の恵みがあるのは、神が神の敵をも愛するお方である証拠なのです。敵を愛するなんて現実的ではない、と人は思いますが、恵みこそ世界に溢れている現実なのだ、とイエスは仰います。そして神が愛するなら、ただ生かす以上に、赦しへの招きや和解の道、将来の完全な回復も視野に入っている。そういう情熱的な和解こそ、天の父の「完全さ」です。
48ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。[7]
 天の父の完全さとは、この愛です。正しい者だけを喜び、不完全さを許さない、冷たい完全無欠でなく、温かい憐れみの完全さです。完全な神は、断絶や敵対関係、愛のないところにこそ愛を作り出さずにはおれません。対立に橋を架けるお方、赦し合いようのない所に和解を創造せずにはおれない[8]。病人だからこそ治療する。罪人だからこそ、救い主が必要だから、わたしが来た[9]。敵だからこそ愛する。迫害する者こそ祈られることを必要としている。ある人が
「私は彼が嫌いだ。だから、彼のことをもっと知らなければならない」
と言った通りです[10]。
 先程イザヤ書35章を交読しました。そこでは、主が来られる救いが「復讐の日」と呼ばれています。
35:4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
 待降節の準備で読んだ説教でハッと気づかされました。神の復讐とは、神への背きを罰することでなく、神から離れた世界の最も低い人に良い知らせを伝えることだった。人が最も貶めている人のところへ来た。神は正義の復讐を棚上げしたのではなく、神にしか出来ない慰めを神ご自身が来ることによって慰める。これが神の復讐でした[11]。心を見ておられる神は、人の憎しみや人と人との破綻や深い孤独や諦めをこそ嘆き、贖われます。そのためにご自身が犠牲になることも厭いません。そういう、人の心を回復させる御業こそ、神の完全さの復讐です。その神の完全さが、本当の、唯一の、完全さです。私たちは自分の冷たい完璧主義、欠けを癒やすことも出来ない理想を手放して、自分の憎しみや断罪を乗り越えた祈りを持つよう招かれています。この憐れみこそ、今日も太陽を昇らせる神が示している現実なのです。
 神が完全な恵みの神だからこそ、今日も私たちに太陽が昇りました。私たちが生かされ、その御言葉に縋(すが)って礼拝をしています[12]。こういう神だから、主イエスが産まれたクリスマスがあり、私たちにもこういう福音を語られ、十字架の福音を信じたい、その復活に与らせて戴きたいと願ったのです。理想ではなく、これこそが私たちを取り囲んでいる現実であり、私たちが憧れている約束です。自分への恵みだけでなく、憎しみが赦しになり、破綻していた関係が和解する将来を待ち望んでいます。主イエスがここにも来て、私たちにその愛を与えてくださいますように。憎しみよりも強い愛の現実で私たちを強めてください、と祈ります。

「父よ。あなたの完全な恵みを感謝します。あなたは全ての人に光を照らし、憐れみの雨を注がれています。世界はあなたの恵みで満ちています。あなたが来られる時、憎しみは溶け去り、私たち罪人も共に主の食卓を囲んでいます。主よ、私たちの冷たい心と祈りを、温かい命をもたらすものに変えてください。喜びの将来を待ち望み、今ここで出来る事をさせてください」

[1] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[2] 7章7~12節「7求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。8だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。9あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。10魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。11このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。12ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」

[3] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[4] これもまた、キリスト教の有名な聖句、しかし現実離れの綺麗事、少なくとも、自分には無理だし、敵を赦せなど到底言えないような悲惨な暴力はこの世界に多くあるではないか。そう思われている、キリスト教の不可解な言葉だと言います。

[5] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[6] あの「良きサマリヤ人の例え」も、イエスに対して律法の専門家が「私の隣人とは誰か」と隣人の定義をすることで自分を守ろうとしたのです。ルカ伝10章25~37節。

[7] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[8] 神ではない私たち人間は、隣人は愛して、敵は憎む、という反応しか出来ません。けれども神は、違うのです。

[9] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:9.0pt;text-align:justify;text-indent:-9.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[10] アブラハム・リンカーンの言葉として紹介されていました。Own Your Behaviours, Master Your Communication, Determine Your Success | Louise Evans | TEDxGenova

[11] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[12] キリスト教の愛を語るのに「人間の愛は「だからの愛」条件を満たせばの愛だが、神の愛は「にもかかわらず」の愛だ」と言われることがあります。私たちも、自分は罪や欠けだらけだけど神は私たちを愛して下さる、と言います。しかし、それさえも人間的な言い方かもしれません。聖書の言い方の一つでは「私たちが罪人だからこそ神は惜しみない愛を注がれた」なのです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2019/12/8 申命記6章13~14... | トップ | 2019/12/22 ルカ伝2章25~38... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

マタイの福音書講解」カテゴリの最新記事