聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

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ルカの福音書21章1~4節「レプタ二枚」

2015-02-22 22:01:29 | ルカ

2015/02/15 ルカの福音書21章1~4節「レプタ二枚」

 

 イエス様が神殿で、群衆と話したり、祭司長や律法学者たちからの論争に答えたりしながら弟子たちに教えておられた時、献金の様子が目に留まった、というのです。神殿の中には「婦人の庭」と呼ばれる場所があり、そこには13個のラッパ型をした献金箱が置かれていました。そのうち六つは「自発のささげもの」(自由献金)を入れ、残りの七つは、半シェケルの神殿税のため、薪のため、山鳩のため、などと用途が決まっていたそうです。今の礼拝のようにプログラムがあって、献金の時間があって、というのとは違い、各地からの何百万人もの礼拝者たちが次々と来ては、係の人に、何の目的で、いくら献げるのかを大声で告げて、どんどん流れていったようです。1節の、金持ちたちの献金というのは、そのような光景でした。そこに見るから貧しい寡婦(やもめ)が来まして、レプタ銅貨を二枚献げました。レプタ銅貨というのは、一日の労賃という一デナリの一二八分の一であり、当時の最小単位の硬貨(コイン)でした。でも一円と考えるのは少なすぎるので、レプタ二枚で百円ぐらい。ただし、レプタより小さいお金というのはない、そう思って戴けたら当たらずといえども遠からずではないかと思います。

 当時の神殿というのは、私たちが慣れ親しんでいる会堂の礼拝とは違います。お金持ちたちがジャンジャカ献金しており、次の5節に「宮が素晴らしい石や奉納物で飾ってある」と言われていますように、物凄い規模の大建築物、大神殿でした。敷地面積は二十二万二千平方メートルぐらいになったらしく、大塚国際美術館の三倍以上です。それだけの建物を維持する会計規模も膨大だったでしょう。巡礼者たちは過越祭だけで二七〇万人来て、次々にささげ物を入れていたのです。神殿には、七億円以上の蓄えがあったとも記録されています。そういう中で、たったの二レプタ(百円)。落とし物でも、それぐらいはざらで気にも留められなかったのではないでしょうか。しかし、イエス様は仰います。

 3…「わたしは真実をあなたがたに告げます。…」

 これは、ただのお世辞ではなく、ルカで三回だけ使われる大変強い言い方です[1]

「…この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。

 4みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

 この二レプタのささげ物を、イエス様は見過ごされるどころか、これが一番多い、と仰ったのですね。この寡婦は、誰よりも、他の全員を合わせたよりも、たくさん献げたのだ。なぜなら、献金は、どれだけ額を多く献げたかで測られるのではないからです。

 イエス様がこのように教えられたのは、当時の社会で(そして今も)、金持ちたちの大口の献金とか高額なささげ物が価値ありと思われていたからです。それは、前回の二〇章47節で言われていた「見えを飾るため」という動機に通じていました。それを考えると、この寡婦の献金の心がよく分かるのではないでしょうか。彼女が二レプタを献げたのは、見えを飾るためであれば出来ないことでした。もしも、この時の金持ちが、人生を転げ落ちて、一文無しになった時、二レプタだけ手に入れたとしたら、どうするでしょうか。その二レプタを献げたでしょうか。少なくともそれは、あり余るほどの財産があった時の献金とは丸きり違う動機になることでしょう。自慢しようとか、自分が神殿を支えているんだとか、たくさん献げることで安心出来るとか、そういう思いからではないはずです。

 そうした「見栄・プライド」はこの二レプタにありません。しかもこの寡婦は「寡婦」です。ご主人に先立たれたのです。どんな亡くなり方だったのかは分かりませんが、男女機会均等などと言われる現代とは違い、未亡人が一人で身を立てていくのは大変な事で、この女性のように極貧を極めることは珍しくありませんでした。ご主人を亡くした悲しみは、本当に彼女の生活、人生から多くのものを奪ったのです。それは大変な悲しみだったと思います。しかし、彼女は多くを失ったことで神様を恨んだり、回復や与えられることを願いに来たりしたのではありません。持っていたなけなしの生活費さえも献げました。これは、本当に驚くべきことです。

 この女性が「純粋で人並み外れた敬虔さを備えていた、素晴らしい人だったのだなぁ」とは思わないでください。この女性を誉めたり特別視したりして終わらないでください。イエス様は言われています。私たちと神様との関係は、これほどの温かい、強い、揺るがない関係なのだ。いくら献げたか、人から見て恥ずかしくないか、そういうことで献げるのは止めなさい。神殿建設や教会の活動に役立つとか、用いて欲しいとか、そういうことも一番大切なことではない。勿論、献金をちゃんとしていないと神様が怖いから、というような動機であっても間違いだ。もっと神様の愛は深く、大きく、限りないのです。額を見て満足され、祝福されるお方ではありません。私たちを愛され、喜ばれるお方です。その神の御愛への溢れる思いから、献金に託して、神様に自分自身の生活(いのち)を喜んで明け渡してしまう。そういう信仰へとこの寡婦を導かれた神は、私たちにもそのような信仰へと招き入れてくださるのです。

 彼女が二レプタを献げたことは、神様がその二レプタを受け入れてくださると信じていたから出来たことでしょう。主が「たった二レプタだけか」と喜ばれないんじゃないかと思っていたとしたら、当時の常識に反するこんな献金はしなかったのです。何の足しにもならないとしても、自分の精一杯のささげ物を神様にお献げしたい。そういう私を神様は決して蔑まれない、と信じていました。夫を亡くした悲しみや貧しい生活の苦しさはありました。でも、聖書はそういう理不尽な禍が、人生において突如として起こるのだ、と言い切っています。そして、神様は、そうした社会の貧しい者、弱い者、小さな者を顧みておられるのだから、神の民もまた、その人々を支え、受け入れ、助けるようにと励まされています。この寡婦が、貧しい中から自分が出来る唯一の礼拝を献げたのは、勝手に考えたとか神様が不思議にそういう思いへ導かれたという以上に、御言葉に、主が寡婦や孤児を憐れまれるお方である、という宣言が繰り返されていると知ってのことでしょう[2]。人は貧しい彼女を気にも留めないとしても、主はこの私を顧みて、愛しておられる。そう思い至っていた彼女の礼拝が、ここでの献金だったのです。

 勿論、教会の必要や礼拝の使い途が先にあって、それに合わせて呼びかけられるささげ物という実例も聖書にはあります[3]。「お役に立ちたい」という願いも大切です。しかし、そうした必要に応え、用いられる、という実用的な関係の根底にあるのは、主が私たちを愛されて、私たちの存在を喜び、私たちとの生きた交わりを結んでくださる、という恵みです[4]

 イエス様も、私たちをそのような関係に入れるためにこの世においでくださいました。神ご自身が、私たちのために、愛する大切なひとり子を献げてくださいました。その愛によって、私たちは神様との本当に深い関係へと至らせていただくのです。生涯かけて、御言葉や様々な訓練を通して、見栄や罪から自由にしてくださるのです。役に立つとか禍があるかどうかに関係なく、私たちは主のものとして生きる。そういう思いを込めて、献金をしたいと思います。

 

「主よ。私たちの全ては十字架において贖われて、もうすでにあなた様のものです。何も誇ったり惜しんだりせず、ただあなた様の恵みに喜び、あなた様のものとして歩ませてください。深い悲しみをも慰め、心からの礼拝と感謝へと至らせてくださる御業に、与らせてください」



[1] 「真実をあなたがたに告げます」は、ルカでは九27「しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます」、十二44(主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人であることを見られる者は)「わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります」とここで用いられています。

[2] 出エジプト記二二21~24、申命記十17~18、詩篇六八5、一四六9、イザヤ一17、エレミヤ七6、マラキ三5、ヤコブ一27、など。

[3] 例えば、出エジプト記二五章1節以下、Ⅰ歴代誌二九章1~9節、使徒十一章27~30節、ローマ十二13(聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。)、Ⅱコリント八~九章、など。

[4] ルカが、その福音書の最初から描き出しているのは、このような、自分自身を捧げる信仰です。「おことばどおりこの身になりますように」をはじめとして。そのような関係こそ、神との当然の関係・信仰である、ということです。

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