聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/1/12 ヤコブ書2章8~13節「境界線ある生き方」ニュー・シティ・カテキズム12

2020-01-12 15:59:19 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/1/12 ヤコブ書2章8~13節「境界線ある生き方」ニュー・シティ・カテキズム12

 今日は十戒の最後の2つ、
第九戒「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」
第十戒「あなたの隣人のものを欲しがってはならない」
の2つを覚えます。
 最初の「わたしの他に神があってはならない」から、「殺してはならない」と来て、姦淫、盗み、そして嘘、最後は「ほしがる」という心の中の思い。大きな事、ハッキリした悪から、段々と小さな事、見えないことになっていきます。神は、ご自身の他に神があることを禁じるだけではなく、人間が大きな罪からも小さな心の妬みからも自由になることを求められます。今日のヤコブ書の言葉でもこう言われていました。
ヤコブ2:10律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。11「姦淫してはならない」と言われた方は、「殺してはならない」とも言われました。ですから、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になっているのです。
 十戒は、私たちが人殺しや姦淫はしていないとしても、嘘や心の中で思いにおいて罪があるならば、自分は正しいなどと誇れないことを教えてくれます。確かに、他にいいことをしているから、と悪いことをしても良いわけではありません。むしろ、表面的には何の問題もないようでも、心の中に我が儘や醜い思いを隠している方が、厄介でしょう。警察につかまる事は何もしていないとしても、人の噂話ばかりをしたり、貧しい人を馬鹿にしたりしているほうが醜いことは多いのです。だから、第九戒と第十戒は、私たちが自分の言葉や心の在り方を見つめて、ハッとさせてくれる大切な戒めです。
第十二問 神は第九戒、十戒に何を求めていますか? 
答 第九戒は、私たちが嘘をつかず、だますことなく、愛をもって真理を語ること。第十戒は、私たちが満ち足りて、誰をもをねたまず、神が私たちや人々に与えたものを拒まないことです。
 第九戒の「隣人について偽証をしてはならない」は平たく言えば、嘘をつかないことです。嘘は人を騙すことになります。だから、正直に本当のことを言いましょう。クリスチャンになるとは、いい人になることではありません。自分に正直になれることです。ごまかしたり、事実を隠したりせず、正直になれるのです。でも、ここには
「愛をもって真理を語ること」
とあります。時には、本当のことをベラベラしゃべらないことが愛である場合もあります。「お家のどこにお金がある? クレジットカードの暗証番号は何番? 電話番号教えてよ」と聞かれても、正直に言う必要はありません。「言う必要がないから、違うことを話しましょう」とでも言えばいい。それに対して「冷たいなぁ。教えないなんて、もう遊んであげない」と言われても、気にすることはないのです。教えないことが冷たいとかケチだとか、誰かを仲間はずれにしていい、という考えの方が、大きな嘘なのです。聖書は、一番大事なのは愛だと言います。でも、私たちの周りには愛よりひどい言葉や思いがたくさんあります。すべての人が大切なのに、イジメや戦争やものを取り上げられることがあります。神がすべての人を愛しているのに、「あなたなんか愛されていない」「本当の私には価値がない」という言葉や考えが、深く染みついています。それこそ、大うそです。それは、世界の最初にヘビの形をしてサタンが人間に吹き込んだ、神を疑わせる嘘です。神は私たちを愛しています。私たちの本当の事、すべてを知り尽くした上で、私たちを愛しています。だから、私たちも神様からの愛をいただいて、真実を語り合うように勧められているのです。
 第十戒は「隣人のものをほしがってはならない」です。
「私たちが満ち足りて、誰をもをねたまず、神が私たちや人々に与えたものを拒まないことです」。
 聖書では「隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のもの」とあります。今は、奴隷や牛を持っている隣人のほうが少ないでしょう。また、周りの人のものをきっかけに、自分の生活をよくすることもあるでしょう。ここで言われているのはとても強く欲しがる思いです。心の中に、自分のものではないものを強く強く欲しがる。自分の家や暮らしに満足しないで、「あの人のようだったらいいのに」「あの家の方にはあれがあるのに僕にはそれがないから不公平だ」というような思いを強く持つ。それは、自分の生活と他の人の暮らしを混同した、とても不幸な考えです。
 「不幸になる一番簡単な方法は人と比べることだ」
という言葉があります。人は人、私は私です。比べることは止めて、自分が自分として生きる。それが妬みや不機嫌や惨めな思いから私たちを守ります。この「私は私、人は人」という健全な関係を
「境界線」
と呼びます。神は私たちを、一人一人、特別なものとして作り、出会わせてくださいました。私たちは、一人で生きていくことは出来ませんが、一緒に生きる事で自分を殺すのではなく、ますますみんながその人らしく生きていくのです。比べるために顔を合わせるのではなく、比べなくなる時に本当の意味で一緒に生きることが楽しくなるのです。それが、この
「隣人の家を欲しがってはならない」
と仰ることで神が示している、幸せへの道なのです。私たちは、この十戒によって、自分の中にある馬鹿馬鹿しい妬みから自由になります。私たちはすぐにそうは出来なくても、イエスが下さるのは、本当に自由で、正直な心です。そこで人に対しても、嫌々ではなく心から、あわれみを示すことが出来るのです。自分の境界線が守られている時に、安心して人も尊重できるのです。
 十戒は、神が私たちに望んでいる生き方を示しています。それは、そもそも私たちがこう生きるように造られている、このように生きる時に、私たちは最も伸び伸びと、幸せに、喜んで生きられる生き方です。ですが、私たちの心には今、罪があります。神に背いた、疑いや恐れが満ちています。しかし、そのような私たちのために、神は御子イエス・キリストを贈って下さいました。イエスは私たちに、神の恵みの言葉、真実を語ってくださいました。また、私たちを誰かと比べたりせず、私たちを愛して、すべてを惜しまず捨てて下さいました。イエスを見る時、私たちの心も言葉も自由にされます。安心して真実を語り、妬みよりも感謝の心を持つようになります。



「すべての真理の上に立たれる主よ、どうか私たちの言葉と行いが、あなたの素晴らしさを現すものでありますように。あなたはすべてを知っておられます。あなたに隠されているものは何もありません。あなたは、神の子とされた私たちに、良いものを惜しまず与えてくださいます。どうか、私たちの唇にいつも神の真理が宿り、私たちに与えられている恵みに満足できますように。アーメン」
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