聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/1/12 マタイ伝6章9節「天にいます私たちの父よ」

2020-01-12 15:54:23 | マタイの福音書講解
2020/1/12 マタイ伝6章9節「天にいます私たちの父よ」

 今日から「主の祈り」を見ていきます。9節の
「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。」
は「このように」という意味です。「主の祈り」を唱えてさえいればこの言葉に従ったことになるのではなく、主の祈りを知り、その言葉を理解し、そこに込められた願いが身についていく時に、私たちの神との関係は整えられます[1]。この祈りを本当に味わうようになることで、私たちの信仰は養われます。今日はその冒頭の呼びかけを味わいましょう。
9『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
 神に向かって、私たちの父よ、と呼びかける。それは決して当たり前のことではありません。まずこの呼びかけ自体が、イエスの説教を聴いている人々にとって、驚嘆すべきことでした[2]。キリスト教会の特徴は「使徒信条」の冒頭、天地の造り主なる神を「父」と呼ぶ告白にあります。キリスト者はイエスを神の御子と信じますが、その神の永遠の御子であるイエスが、私たちの所に来られて、神を
「天にいます私たちの父よ」
と呼ぶように結びつけてくださいました。それも、イエスは永遠の神の子、言わば「本当の子ども」実子で、私たちは言わば「お情け」で神を父と呼ばせていただくゲームに入れてもらっている、というのではありません。
エペソ1:5神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。6それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
 これが、神の永遠からの御心でした。これは、本当に大胆な告白です。罪の赦しという救いだけではなく、イエス・キリストが私たちを神の子どもとしてくださった。もう私たちは孤児ではなく、神が父となってくださったのだ、というのがキリスト教信仰なのです。[3]
ガラテヤ4:4しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。5それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。6そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。7ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。[4]
 この「アバ」はヘブル語で「お父さん」の幼児語で今なら「パパ」に近いでしょう。子どもも大きくなったら、外で人が聞いている時に自分の父親に「アバ」と呼ぶことは恥ずかしいと考えられていたそうです。それほどの親しい呼びかけです。イエスは、十字架にかけられる直前、ゲッセマネの祈りで神に向かって「アバ」と叫んで祈りました[5]。イエスは、神に「アバ」と無垢な信頼を込めて呼びかけました。これ自体、イエスを疑う人々からは冒涜と見なされるような大胆なことでした。けれども、その「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊、を神は私たちの心に遣わされたので、私たちも神を「アバ、父よ」と呼びかけることが出来るのです。それは、私たちの身分不相応な願いではなく、神ご自身の惜しみないゴールなのです。日本語は敬語を大事にしますので、神に敬語を使わないことは難しいのですが、神はここで、敬語ではなく、幼児語で呼ぶ関係を下さって、私たちの関係を根底から引っ繰り返してくださったのです。
 今礼拝で用いている文語文も、新改訳や日本語訳のどれでも、「主の祈り」の最初は「天にいます私たちの父よ」という順番ですが、元々の言葉では「父よ」から始まっています。まず「お父さん」それも「アッバ!」と、叫ぶほどの親しい関係なのです。「天にまします」ではなく、「父よ。アッバ」といきなり呼べる。ですから、「天にまします」で堅苦しい礼儀や、あまり馴れ馴れしくしないよう釘を刺された思いにならないでください。ここには「アッバ」と呼ぶほどの関係、永遠の、揺るぐことのない、すっかり信頼して、叫ぶことが許されている程の親しい絆が、神によって与えられている恵みがギュッと詰まっているのです。
 では、「天にまします」を付け加えるのは何故でしょう。それは、この父が地上にいるどんな父親とも違うからです。神は、地上にいる最も完璧な父親よりも遥かに優る父であり、多くの不完全な父親がモデルとして思いつきもしなかった、最善の父でいてくださいます。場所だけ天にいて永遠で力があって、後は自分の父親と変わらない、という意味ではないのです。神は「お父さんのような方」ではなく、人が思い描く父とは比べものにならないほど真実で、安心でき、良いものを惜しまず与え、成長させてくださり、神に似た者としてくださる「父」であり、この父こそが、私たちの本当の父、私たちを永遠にわが子としてくださった父です。
 聖書は私たちに、神を「父」と呼ぶ関係へと招き入れます。しかし、聖書は神が男性だとは言いません。むしろ、神はご自身のかたちとして男と女を作られたのです。それなのに人間は、男尊女卑や階級社会を作っていきます。父・夫が威張る社会が出来て、神の権威を悪用するようになります。聖書の周辺社会では、容易に神が「父」と呼ばれて、自分たちはその子孫だと思い上がる構造があったようです。だからこそ、旧約の時代には神を「父」と呼ぶことには極めて慎重でした[6]。イエスが神を父と呼んだ時、それは大変インパクトがあったぐらい、イエスが来るまでは、神を父と呼ぶことは慎まれていたのです。一方、神がご自分を母として表すこともありました。特に、イザヤ書には主が女たち、母を引き合いに出して語ります。
イザヤ49:15「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。[7]
 主が女性たちと並べてご自分を表しています。この「あわれむ」という言葉は女性の子宮を表すラハミームから来ています。母が胎の中で育てたわが子を思う痛みです。神はご自分に子宮があるかのように、女性であるかのように私たちへの憐れみを語るのです。それは、神が私たちを子としてくださるのに、母として産むに等しい痛み、憐れみ、準備や覚悟があったことでもあるでしょう。私たちは法的に神の子どもとされただけではなく、神の胎を痛めて産み出された実子でもあるのです。神は、私たちの「天の父」です。人間の男性には、その代わりを不完全に果たすことしか出来ませんし、無理だから最初から父と母の共同作業で、分担しているのです。神は「遠い天にいます、よく分からない父」ではなく、私たちの必要を知り、私たちの心の奥の呻きまでも聞いておられ、隠れた所での行いや思いまでもすべてご存じの、「天にいます父」です。この神に祈る事は、私たちが神の子どもだ、という所に立ち戻ることです。
 そしてもう一つ、イエスは「私の父」ではなく「私たちの父」と祈るように仰って、私たちが自分と神だけの関係を考えるのではなく、他にも「私たち」に入る隣人がいることに目を向けさせました。私が神を「父」と呼ばせて頂けるように、他にも多くの人が神に「私たちの父」と呼びかける特権を与えられた。その事によって、私たちの横の人間関係も新しい光の中で見るようになります。イエスは私たち一人一人を神の親子関係の中に入れたことによって、お互いも神の家族という新しい関係に入れてくださいました。勿論それも、「教会は家族のように理想的な関係だ」という、内に閉じ籠もった関係ではなく、人間のどの家族とも違う、ユニークで、新しい、自由な関係です。私たちが「私たち」と言えること自体が、既に神の子どもとされた始まりです。まだその子どもとして教えられ、鍛えられ、訓練されて成長していく途上にあります。憎しみや差別や力関係や暴言を乗り越えていく途上です。しかし、必ず主が神の家族として、一つ食卓を囲ませてくださると信じる。私たちは家柄や肩書き、血筋、経歴で、良かれ悪しかれ自分を名乗りますが、今や何よりも「神の子ども」です。主の祈りはそこに引き戻してくれます。ここから、家庭や教会や職場の人間関係にも向かって行けるのです。

「天にいます私たちの父よ。御子イエスが私たちにそう呼ばせて下さったことを感謝します。主が来られ、その命によってあなたを父と呼べる祈りは特権です[8]。悩みや苦しみに心が塞ぎ、どう祈れば良いのか分からない時も、「天にいます私たちの父よ」と祈ることで、大きく息をつくことが出来ます。父よ、この関係の恵みを日々味わわせて、御名を聖とさせてください」

脚注

[1] 事実、聖書ではルカの11章にある以外なし。そして、ルカ版も、違いが多い。宗教改革者のマルチン・ルターは「主の祈りは歴史上、最大の殉教者だ」、礼拝や毎日大勢の人に数えきれない程唱えられながら、イエスが教えられた大切さも弁えられず、ただ形式的に唱えられて殺されている、と言いました。ルターは「主の祈り」は福音のエッセンスだとも言いますから、主の祈りのすばらしさを知らせたかったのであって、祈る人の無知を責めたかったのではないはずです。そして、冒頭の「天にいます私たちの父よ」を、ルターは「福音のエッセンスのエッセンス」と言います。
[2] 特にマタイの読者は、ユダヤ人キリスト者だと想定されますが、マタイはこの「天にいます父」の呼びかけを最もくり返しています。マタイ5:16、45、6:1、26、7:11、21、10:32、33、11:25、12:50、16:17、18:10、14、19。それ以外では、マルコ11:25のみです。
[3] ウェストミンスター信仰告白12章「義とされる者たちすべてを、神はその独り子イエス・キリストにおいて、またイエス・キリストのゆえに、子とする恵みにあずかる者としてくださる。その恵みによって彼らは神の子たちの数に入れられて、そのもろもろの自由と特権を享受し、神の御名をその上に記され、子とする霊を受け、大胆に恵みの御座に近づいて、「アッバ、父よ」と叫ぶことができるようにされ、父親からのように、神によって憐れまれ、守られ、養われ、そして懲らしめられる。しかしそれでも決して見捨てられることはなく、贖いの日に対して保証されており、そして永遠の救いの相続者として、もろもろの約束を受け継ぐのである。」(村川訳)。「義とされた者たちすべてを、神は、その独り子イエス・キリストにおいて、また彼のゆえに、子とする恵みにあずかる者としてくださる。これによって彼らは、[第一に]神の子たちの数に入れられて、神の子たちの自由と特権を享受し、[第二に]神の御名をその上に記され、[第三に]子とする霊を受け、[第四に]恵みの御座に大胆に近づき、[第五に]「アッバ、父よ」と呼ぶことができるようにされ、[第六に]父によってされるように、神によって、憐れまれ、守られ、必要を満たされ、懲らしめられる。しかし、決して捨て去られてしまうことはなく、かえって贖いの日のために証印され、永遠の救いの相続人として、もろもろの約束を受け継ぐ。」(松谷訳)
[4] また、ローマ書8章14~17節「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。16御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。17子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。」
[5] マルコ14章36節「そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」。平行記事のマタイ26章39節では「それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」となっています。「アバ」と「わが父よ」が平行しています。
[6] 「旧約聖書では神をあまり父とは呼びません。これにはそれなりの理由があることが、近年分かってきました。古代中東の異教の多くは、自分たちの神を「父」と呼び、人間はその子孫であるとしていました。これは旧約聖書信仰と明らかに異なります。ごくまれに旧約聖書で神が父と呼ばれる場合、神がイスラエルの父であるのは、ただその民を神が息子として選ばれたといういきさつによることが明らかでした。預言者たちもイスラエルを神の息子と呼ばれる値打ちのない、反抗的な民と見ました。ホセアは、神がイスラエルに「お前はわたしの息子ではない」、「わたしの民ではない」と宣言される、とまで言っています。/ 新約聖書は神の父性をより積極的にとらえています。イエスは常に父なる神について語り、その教えは新約の他の書でも一貫して強調されています。神は特別な意味でイエスの父であるにとどまらず、子とされる特権は神の国に属するすべての人に及びます。ですから神の父性についての教えを除去するために新約聖書を書き直せという声は、聞き流せきない(ママ)ほど深刻な脅威をはらんでいるのです。」ジェームズ・フーストン『神との友情 あなたを変える祈り』179頁。
[7] イザヤ書66章13節「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰める。エルサレムであなたがたは慰められる。」
[8] 「初代教会はこの祈りを特別真剣に受け止めていました。この祈りは受洗志願者にだけ教えられ、外部には秘密とされました。それでこの祈りは、これから招き入れられるキリスト教信仰と信仰者の生命共同体に対する献身のしるしとなったのです。この伝統は今日の状況とは全く逆です。今日多くの場合、「主の祈り」は単なる形式となり、意味も十分理解されないまま機械的にくり返されています。「主の祈り」とは本来、神の愛、主イエスの恵み、聖霊の絶えざる臨在において、信者たちをより深くより広く一つにする力を持っているものなのです。」フーストン、前掲書、192頁
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