聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/1/19 マタイ伝6章9節「御名が聖とされますように」

2020-01-19 20:51:11 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/1/19 マタイ伝6章9節「御名が聖とされますように」
 「主の祈り」の願いの最初を見ます。文語文では
「御名を崇めさせ給え」
でした。新しい訳文では「崇める」の意味合いが
「聖なるものとされる」
だとハッキリしました。今でも聖書の言葉の翻訳は悩ましい努力が重ねられていますが、日本にキリスト教が入ってきた頃はもっと手探りだったでしょう。現在ではカトリックや聖公会、多くの教会が現代文で「主の祈り」を祈るようになりました。ここも
「御名が聖とされますように」
と祈る。「聖holy」という言葉が以前よりも浸透してきたのかもしれません。「聖」は説明も理解も不十分にしか出来ない言葉ですが、ただ「崇める」よりももっと深い、真実な願いが、ここで口にされているのです。
 また、イエスはこのように願う道を示されました。「御名を崇めさせ給え」と祈り始める時、なんとなく前口上のような意識がないでしょうか。礼儀作法として「神様、私たちに御名(あなたのお名前)を崇めさせてくださいませ」と述べておく。まず謙虚に神を持ち上げておいて、それから自分たちの本題に入っていく。そんな理解を長く私はしていたように思います。そんなおべっかが神との関係にも必要なように誤解していました。「主の祈り」を思い巡らすうち、そうではないと気づきました。イエスは、私たちの祈りの言葉だけでなく、私たちの願いとか心、神との関係そのものを新しくしてくださいました。「主の祈り」が教えるのも、祈りの方法というより、私たちの心の願いそのものの刷新です。「主の祈り」は「軌道修正の祈り」です。私たちの祈り、願いや妄想、心の思いそのものを整えます。まず
「天にいます私たちの父よ」
と呼びかける事自体が、神への信頼を思い出します。自分が孤独ではない、神の子どもであることに立ち返り、ともに神を「父」と呼ぶ大勢の人がいることを思い出します[1]。次に
「御名が聖なるものとされますように」
と祈る時、私たちの第一の願いが、自分の願いや名前でなく、神の御名になるのです。自分の面子(めんつ)とか名誉とか何かに心が掻き乱されやすい私たちが、
「御名が聖なるものとされますように」
と祈る時、心が「自分」から「天の父」に引き上げられます。自分がどうされるかで汲々としてしまうことから、天の父の偉大さ、恵み深さを見上げて、信頼し、自分を手放すことが出来ます。大きく息をつくことが出来るのです。
 御名とは祈る相手の神の御名前ということです。しかし、改めて「主の祈り」を見ますと、ここには「神」という言葉はひと言も出て来ません。神の御名が聖とされることではあるのですが、その神に向かって「神よ」でなく「天にいます私たちの父」と呼びかけ「あなた」と呼びかける祈り。言わば「御名」とは他でもなく「天にいます私たちの父」という名です。イエスが来る前ならそれこそ「御名を冒涜する」と言われるようなそんな親しい呼びかけがイエスを通して私たちに与えられました。その御名が、聖とされますように、とも言えます。
 「聖」について、いくつもの説明があります。罪がないこと、という説明もあります。それも一面です。区別されること、という説明もよくされます。それもとても大事な一面です。しかしそれ以上に聖の本質に迫っているのは、完全なあわれみ、惜しみない愛です[2]。言うなれば、永遠の神であり、罪も闇もないお方が、私たちのために「天にいます私たちの父」となってくださった、この御名こそ「聖なるものとされますように」と願われるに相応しい名です[3]。
 旧約聖書の時代、イスラエル民族がエジプトの奴隷生活から解放されて、神の民として歩み出した時、主はイスラエルの民に聖なる律法を与えました。この「聖なる」というのも、罪を犯さない、とも言えますが、「完全な憐れみに満ちた」というイメージの方がいいでしょう。その時も、神はイスラエルの民に、御名を汚さないように言われていました。
レビ記22:31「あなたがたはわたしの命令を守り、これを行わなければならない。わたしは主である。32わたしの聖なる名を汚してはならない。イスラエルの子らの間で、わたしは聖であることが示されなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。
 しかし、イスラエルの民の歩みは、神の律法から外れて、神の民とは名ばかりの裏表や打算、利得を追い求めてしまいました。それは主の御名を汚すことでした。それに対して、神は忍耐に忍耐を重ねた末に、最後はバビロン捕囚という裁きを通らされます。その理由は、彼らが主の御名を汚したから、でもありました。神の御名を崇めてはいても、その神を小さく考えて、自分の欲望や狭い了見で生きている。その行き着いた所が、バビロン捕囚や各地への離散でした。しかし、その追いやられた先で、預言者エゼキエルはこのような主の言葉を告げます。
エゼキエル36:20彼らはどの国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民なのに、主の国から出されたのだ』と言ったのだ。21わたしは、イスラエルの家がその行った国々の間で汚した、わたしの聖なる名を惜しんだ。
 ここでは、主の民が主の国から追い出された、と笑われて終わっていることが、御名を汚していること、聖なる名が汚されていることだと言われているのですね。エゼキエルは続けて、
22…イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った国々の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。
23わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す。あなたがたが彼らのただ中で汚した名である。わたしが彼らの目の前に、わたしがあなたがたのうちで聖であることを示すとき、国々は、わたしが主であることを知る…。
24わたしはあなたがたを諸国の間から導き出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。
25…わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
26あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
27わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。[4]
 主が、散らされた民を導き出し、連れ帰って、新しい心を与え、主の掟に従って生きるようにする、と仰います。それが
「主の大いなる名が聖であることを示す」
御業なのです。ただ「神の民の罪を容赦しない」とか「御名に泥を塗る者を罰する」聖ではありません。口では神を崇めても心では見くびっていたり、現実を見て「神がいても大したことはない」と思ったりしている人間たちが思いもしないことを神はなさる。神の憐れみは限りなくて、御名を貶める人々の生き方を新しくし、心から神を誉め称えずにはおれないようになさる。「御名が聖とされますように」とは、主ご自身が旧約の歴史を通して約束されていた御業の成就です。[5]
 そこには、聖なる主が、私たちの心をも憐れみに満ちた心に変える御業が必要です。神が私たちをも聖なる心へと変えてくださらなければ無理です。そして、主は変えてくださいます。新約では、御名が聖なるものとされる、という言い方は「主の祈り」だけで、その他はすべて、神が聖なるものとするのは、人や教会です[6]。神のように聖なる憐れみは神だけのものですが、私たちがその神に触れるとき、私たちもその聖さに感染して変えられる。主の憐れみを心から信頼するように少しずつ少しずつされていく。神が「天にいます私たちの父」となってくださった憐れみを味わい感謝する。そして、痛みや涙の多く、神の憐れみなど信じられない出来事がある中で、神が天の父として私にもすべての人にも、恵みを惜しみなく現されることを期待する。そして、私たちの受け止め方や心も主が変えてくださって、自分の名誉や願いよりも主を誉め称える心を下さるように願い、自分を献げるようになる。それが聖なる主の御業です。
 その第一歩が、自分の願いに先立って、御名のために祈る「主の祈り」です。どうぞ主の祈りを祈ってください。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように」とだけでもよい。毎日、この短い祈りを、ゆっくり祈る習慣を第一歩としてみましょう。
「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。様々な願いや求めがすべて包み込まれて賛美に至るような、聖なる憐れみで私たちを癒やしてください。またそれを喜び、御業を賛美する私たちとして聖めてください。御子イエスが、私たちをあなたの子としてくださった測り知れず力強い恵みの御業に全ての人を慰め、世界を聖なる賛美で満たしてください」

[1] これは、前回お話ししたことです。2020/1/12 マタイ伝6章9節「天にいます私たちの父よ」
[2] 参照、ホセア書11章7 ~9節「わたしの民は頑なにわたしに背いている。いと高き方に呼ばれても、ともにあがめようとはしない。8エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。9わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ(原語:だからだ)。わたしは町に入ることはしない。」
[3] この原稿を書いた後、読んだ二つの記事から、「聖」に通じる文章がありました。「神様のみ心は、私たちの心の奥底にある損得勘定のない純粋な願いである」(『ミニストリー』、2019年12月号、61頁。)「何ができるかといった思いからも解放されることが、神さまへの最後の奉仕なのかもしれません」(『信徒の友』、2020年1月号、17頁)。
[4] この段落の全文は次の通り。エゼキエル書36章21~27節「わたしは、イスラエルの家がその行った国々の間で汚した、わたしの聖なる名を惜しんだ。22それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう言われる。イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った国々の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。23わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す。あなたがたが彼らのただ中で汚した名である。わたしが彼らの目の前に、わたしがあなたがたのうちで聖であることを示すとき、国々は、わたしが主であることを知る──神である主のことば──。24わたしはあなたがたを諸国の間から導き出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。25わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、26あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。27わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。」
[5] 他にもイザヤ書20章39節「さあ、イスラエルの家よ、神である主はこう言われる。それぞれ自分の偶像のところに行って仕えるがよい。後には必ず、あなたがたはわたしに聞くようになる。あなたがたは二度と、自分たちのささげ物や偶像で、わたしの聖なる名を汚さなくなる。」、同29章22節「それゆえ、アブラハムを贖い出された主は、ヤコブの家についてこう言われる。「今からヤコブは恥を見ることがなく、今から顔が青ざめることはない。23彼が自分の子らを見て、自分たちの中にわたしの手のわざを見るとき、彼らはわたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる者を聖として、イスラエルの神を恐れるからだ。」
[6] ヨハネの福音書17章17節「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。」19節「わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。」、使徒の働き20章32節「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」、26章18節「それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。」、ローマ書15章16節「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。」、Ⅰコリント1章2節「コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。」、7章14節「なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。」、エペソ書5章26節「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、」、Ⅰテサロニケ5章23節「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。」、Ⅰテモテ4章5節「神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。」、ヘブル書2章11節「聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。」、9章13-14節「雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」、10章10節「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」、14節「なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。」、「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものと見なし、恵みの御霊を侮る者は、いかに重い処罰に値するかが分かるでしょう。」、13章12節「それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」、Ⅰペテロ3章15節「むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」、ヨハネの黙示録22章11節「不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2020/1/12 ヤコブ書2章8~13... | トップ | 2020/1/19 ローマ書3章10~2... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ニュー・シティ・カテキズム」カテゴリの最新記事