聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/9/19 マタイ伝24章42~51節「賢いしもべのしあわせ」

2021-09-18 12:38:04 | マタイの福音書講解
2021/9/19 マタイ伝24章42~51節「賢いしもべのしあわせ」

42ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。…五13ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。
 このよく似た注意を、イエスは繰り返されました。その間に夾んで、
43~44節で短い「泥棒の譬え」、
45~51節でもう少し長い譬え(賢いしもべ)を、そして、
25章1~12節で更にもう少し長い譬え(十人のおとめ)
を語ります。
 その後も
14~30節(タラントのたとえ)
31~46節(羊と山羊のたとえ)の二つの長い譬え。
 段々、長い譬えを重ねながら、弟子たち(私たち)に、
 「目を覚ました生き方」
を教えてくださっています。

43次のことは知っておきなさい。泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう。44ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。

 この24章の最初から、弟子たちが問うていたのは、この世の終わり、メシアが栄光を帯びてくる「終わりの日」はいつか、ということでした。これに対してのイエスの答は一貫しています。ここでもそれが言われます。「それは泥棒が何時に来るか、知っておこうとするようなものだ。そんなことは無理な要求だ。神の時は、私たちには思いがけない時。いつかはあなたがたには分からない。だから、いつかを知ろうとするより、いつでも良いように生きなさい」。これが、弟子たちや私たちが将来を予想しておきたい願いを終わらせる、イエスの終止符です。
 更に、二つ目の譬えで、弟子たちの心構えをイエスは思い描かせてくださいます。
45ですから、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。46主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。
 主人から任された、ケアの働きをしている、仕えているしもべは、主人がいつ帰ってきても大丈夫ですし、普段から忠実に仕事をしているからこそ、その忠実ぶりを見てもらえるのです。
48しかし彼が悪いしもべで、『主人の帰りは遅くなる』と心の中で思い、49仲間のしもべたちをたたき始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているなら、50そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、51彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
 このしもべの悪さは、主人の帰りが遅いなら、任せられた務め、他のしもべを大事にする働きなんかやりたくない、好き勝手に遊んでおこう、という「悪さ」です。主人の帰りが遅いだろうと高をくくっただけなら「運が悪かった」だけになりますが、そもそも主人に対する敬意とか同僚に対する思いやりを欠いて、自分の気の合う仲間と楽しくやる事が「幸せ」だと思っているのです。
 「偽善者」は23章で繰り返されていた非難で、そこでもお話ししたように、元の意味は「仮面」を被って誰かを演じる役者を表した言葉です。悪意がある、善人ぶるというより別の人を演じている生き方です。主人が帰って来たときには、忠実なしもべの仮面を被っていよう。でも普段は、そんな窮屈な仮面を外して、違う顔で生きているのです。
 主人が求めているのは、そんな主人向けの「良いしもべ」の演技ではありません。「忠実で賢いしもべ」も、主人にいい所を見せようとしていつも忠実なら、偽善です。自分が与えられた役割を、心を込めて丁寧にすることが、本当の忠実さです。もし、主人がいつ帰って来るか知れないから、という事が動機なら愚かですし、主人に対する敬意もありません。
 以前は「神さまがいつも見ているから、悪いことは止めましょう」と教えたり、そんなこども讃美歌もありましたが、そういう言い方は神様を歪んでとらえさせて、偽善を産むと反省されました[1]。主人を心から敬い、その主人に託された自分の使命は、それ自体、大変でも面倒くさくても、尊く意味のあること、やり甲斐ある事として果たすのが賢いしもべです。しもべの忠実さ賢さも、悪い偽善も、必ず相応しい報いを得るのです。そして、私たちにとって、主の帰りは、抜き打ち検査のようなものではなく、希望であり、待ちわびる喜びなのです。
 主は、私たち一人一人に大切な務めを任せてくださっています。皆さんのいのちを、神を礼拝し、主イエスの救いを戴き、主が再び来られる事を告白するだけでなく、互いに愛し合い、仕え合う尊いいのちとして与えてくださっています。主が見ているのは、日曜日に礼拝をして、神に対しての義務を果たしている、という神さま向けの仮面ではないのです。私たちの全生活が主のものであり、礼拝であり祝福なのです。
 私たちの素顔、本心を主は知り、その私たちに私たちの人生を任せてくださり、愛し仕える関係を与えて、神の業の一環を担わせてくださいます。決して完璧には出来なくて、汚れたり片付かないままだったり、逃げた方がいいこともあるでしょう。神の裁きが必要な、不正や偽善もあって、悔しく、苦しい思いもします。それも主はご存じでいてくださいます。そして、いつか私たちには思いがけない時に、この世界の歴史を終わらせるか、その前に私たちの人生を終わらせに来られ、労ってくださいます。

 明日は「敬老の日」です。高齢者の方は、主がおいでになる時を間近に思ったり、その日を思うと緊張したりされるでしょう。その日に、主にどんな顔をするか、より、今、主が下さった人生として受け止めることです。自分の歩みが人の目には不完全でも、主が私にお任せくださった人生である以上、祝福としてくださる。そう信じて生きる事が、最善の忠実な生き方です。いつ終わりが来るか、将来の予想に囚われず、今を主から託された時、主から託された自分の務めを忠実に果たす。そんな「目を覚ました」生き方を、イエスは与えてくださいます。

「私たちの主よ、あなたのしもべたちにそれぞれの人生を与え、あなたの家の一端を担わせてくださる光栄を覚えます。人の人生とは何と尊く、かけがえないものでしょう。どうぞ、これを蔑ろにしたり、踏みにじる罪を退けて、あなたの祝福を回復させてください。あなたが派遣して下さる今週の、すべての歩みを、悪い思いから守り、忠実に、賢く、果たさせてください。特に今日、敬老感謝の祈りで覚えましたお一人お一人の上に、重ねて祝福をお注ぎください」

脚注:

[1] 報酬が、その作業自体へのやる気を損なう事については、「外発的動機付け」と言われる心理学の理論があります。パズルというそれ自体面白いものを、「この時間、パズルをしていたらご褒美がある」と言われたら、「休憩時間」にはパズルをほとんどしなくなる、という実験があります。「神が見ておられる」という動機付けは、間違ってしまうと、神から与えられた人生そのものを祝福として受け取れないことに繋がることにもなるのです。詳しくは、「終わったらゲームして良いよ」という一言が導く恐ろしい未来 を参照。

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