聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/1/19 ローマ書3章10~21節「律法の光の先に」ニュー・シティ・カテキズム13

2020-01-19 20:58:47 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/1/19 ローマ書3章10~21節「律法の光の先に」ニュー・シティ・カテキズム13

 聖書のマルコの福音書10:17以下に、こんなお話しがあります。イエスの所に一人の青年がやってきました。そしてイエスに言いました。「先生、永遠のいのちを持つためには何をしたらよいですか?」するとイエスは言いました。「戒めはあなたも知っているはずです。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え」。すると青年はイエスに言いました。「先生、私は少年のころから、それらすべてを守ってきました!」。人を殺したこともないし、姦淫や盗み、偽りの証言も、騙し取ることもしかし、イエスはそういう青年をじっと見つめて、慈しんで言われました。
「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。その上で、わたしに従って来なさい」。
 すると、青年はどうしたでしょう。彼は、この言葉に顔を曇らせ、悲しみながら、立ち去ったのです。なぜなら、彼は多くの財産を持っていました。それをすべて売り払って貧しい人たちに与えるなんてことは、とても出来なかったからです。イエスは、悲しんで立ち去る青年の背中を、見送りながら、「富を持つ人が神の国に入るのは、なんと難しいことだろうか」と仰ったのです。
 この青年は、自分は神の戒めを守っていると思っていました。お金持ちで安全な生活が出来て、戒めを破らなくて過ごせていたかもしれません。イエスはそれを聞いて、「あなたは頑張っているね。立派だなぁ。あなたのような正しい人は、そのままで神の国に行けるよ」とは仰いませんでした。むしろ、彼をじっと見つめて、自分の愛のなさに気づかせるのです。「戒めを守ってきました」という答は、違いました。誰も「私は戒めを守ってきました」と言うことの出来る人はいません。私たちには、神の戒めを完全に守ることは出来ません。この事を今日は覚えましょう。
第十三問 誰か、この神の律法を完全に守ることができる人はいますか?
答 堕落の後、神の律法を完全に守ることは誰にも出来ず、思いによって、言葉によって、行いによって絶えず破っています。
 神の戒め、十戒を、4回に分けて見てきました。私たちが、神以外のものを神としないこと、人を大切にすることを、神は人に命じられました。けれども、それを完全に守れる人は一人もいません。それどころか、私たちは戒めを絶えず破っているのです。「守っています」などとは言えないのです。
 「思いによって」とは、私たちの考えで、人を憎んだり人の物を自分の物にしてしまったりするということです。神様が教えて下さったように、人のことも自分と同じように大切に思うよりも、「いい気味だ」「畜生」「ざまあみろ」「あいつは頭が悪い」。そんな考えを持っているのです。
 「言葉によって」もです。人の事を罵る、傷つける、悲しませる言葉を私たちは言ってしまいます。自分が言われたらとても悲しくて、耐えられない言葉を、人に話してしまうことがあります。冗談を言ってから、「しまった、あんな事をいうんじゃなかった」と思っても、もう遅かった、という経験をします。大人になってもです。
 そして、「行いによって」実際に、私たちは、人を傷つけたり、イジワルをしてしまったり、人のイジメを見て見ぬふりをして止めなかったり、良かれと思って人の心を踏みつけてしまっています。思いによって、言葉によって、行いによって、私たちは律法を破ってしまうのです。
 この後、来週以降
第14問 神は私たちを神の律法が守れないように創造されたのですか? 第15問 誰も神の律法を守れないのであれば、律法の目的は何ですか? 第16問 罪とは何ですか? 第17問 偶像礼拝とは何ですか? 第18問 神は私たちの不服従と偶像礼拝を罰せずにおられますか? 第19問 罰から逃れ、神の好意を頂く方法はありますか?
をお話ししていきます。ですから今は「なぜ律法が与えられたのか」という話ではなく、私たちは律法を守れないのだ、ということ一つのことを心に深く覚えたいと思います。神が下さった尊い律法を学んできましたが、それを知っても、私たちは律法を守ることは出来ません。イエスに「私は戒めを守っている」と胸を張った青年と同様、私たちは自分が律法を守っているなどとは、恥ずかしくて言えません。勿論、大きな罪を堂々と重ねている人と、精一杯正しく生きようとして、それでも罪を犯さずにはおれない人とが同じなわけではありません。正しく生きようとすることは無駄ではなく、価値あることです。「何をやっても同じ」なはずがありません。しかし、私たちが、神の律法を守ることで、救われる、とは聖書の教えではありません。むしろそれは誰も出来ない、ということを教えるのです。ローマ3章は、こう並べています。
10…「義人はいない。一人もいない。11悟る者はいない。神を求める者はいない。…15「彼らの足は血を流すのに速く、16彼らの道には破壊と悲惨がある。17彼らは平和の道を知らない。」18「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
 律法を守れる人はいません。律法という光は、自分が神の戒めを、思いにおいても言葉においても行いにおいても守れない、原罪があることを知らせてくれるのです。
 小説『氷点』は、クリスチャン作家の三浦綾子さんのデビュー作。今まで何度もドラマになっている有名な作品です。医者とその家族が主人公ですが、その娘が誘拐されて殺されてしまう。そこに迎えられた養女が、明るい心の持ち主なのですが、その子を巡って、誰もが正しく生きることが出来ない。人は真っ直ぐに生きたいけれど、心の奥深くに罪がある。愛をもって、正しく生きたいけれども、その心が氷ってしまう「氷点」がある、というタイトルです。

 このお話しが、日本に「キリスト教の原罪」というテーマに市民権をもたせたとも言えます。それでもただ暗い小説ではありません。人が罪を持っていることを認めて、誰も他の人を裁けないし、自分でも自分を裁いたり、良く見せようとすることを止めて、赦されている生き方を始めていく話です。律法は人が律法を守れないことを照らす光です。しかし、その光の先にこそ、神の恵みが見えるのです。

「聖なる神よ、私たちが自分の思うままに生きるとしたら、すべての行動が主の律法に背いているでしょう。私たちはあなたの裁きの御座の前で、自分の罪深さを認めるほかありません。あなたの律法は私たちを有罪とし、義しい者のように振る舞うことを許しません。私たちは心から救い主を必要としているのです。アーメン」
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