聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/1/26 レビ記19章1~4節「聖なるものとされる 一書説教レビ記」

2020-01-26 16:09:44 | 一書説教
2020/1/26 レビ記19章1~4節「聖なるものとされる」
 今日の一書説教は「レビ記」です。旧約聖書でも生贄儀式の事細かな方法を延々と述べる書。1~7章が「全焼のささげ物」「穀物のささげ物」や「交わりのささげ物」「罪のきよめのささげ物」「代償のささげ物」の五つのささげ物の捧げ方を記します。次の8~16章は、祭司の任職、食べて良い動物、体や家に現れる「汚れ」や、「贖いの日」の儀式のこと。続く、17~22章は偶像崇拝や姦淫など道徳的な規定。最後23~27章は「安息」の時、という流れです。
 とはいえ、私たちには三千年も前の、遊牧や農耕の社会で書かれたものです。回りくどいし、グロテスクで難解です。私は以前、「今ここに書かれた儀式から解放されていて、感謝します」という読み方で閉じていました。ある意味ではそうです。「レビ」は、イスラエル12部族の一つ「レビ部族」で、その中から大祭司となるアロンの家が選ばれ、レビ部族は祭司をサポートする大事な働きをしました。幕屋の仕事の管理などを請け負ったのです。ですから、そういう細かなことはレビ部族にお任せして、私たちには関係がないと思いたくなります。ところが、レビ記の中心はレビ人ではなく、民全体です[1]。元々の書名は、1章1節の
「主はモーセを呼び」
とある「そして呼んだ」という言葉。神の「呼びかけ」の書です。ある古代訳では本書タイトルは「本the book」。創世記や出エジプト記に匹敵する、特別重要な書なのです[2]。主イエスがおいでになった後、教会が新約聖書を持つには何十年とかかりました。教会が最初に携えたのは、旧約聖書でした。イエスの福音を知らせるために、旧約聖書を開いたのです。レビ記もその一つでした。レビ記は「イエスが来られたので、もう要らなくなった」書ではなく、レビ記を読めば、イエスが分かる、という内容です。そういう読み方をしたいと願います。
 そもそもレビ記は「出エジプト記」の後にあります。神が、エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエルの民を、力強く救い出してくださった救出が先にありました。新しく救われた民として、これからどのように歩んで行くのか。ここには事細かな規定がびっしり書かれています。それは、今まで奴隷であって、生活のリズムも文化も習慣も全くない民に与えられた、新しい生活の形でした。その中心は生贄やささげ物の儀式ですが、それも彼らの信仰を形作る儀式でしたし、それ以外のきよめや汚れ、年中行事も実に配慮に満ちた儀式だったのです[3]。私たちは神によって救われただけでなく、神の民となったのです。それは礼拝だけでなく、食事や夫婦生活、冠婚葬祭や病気、貧困への対処、時間の過ごし方など、全生活におよぶ変化をもたらすと、レビ記は教えているのです。今の私たちには理解しがたいとしても、当時の人々にとっては、この生活や儀式、動物を屠ったり儀式をすることは大事な生活の型だったのです。
 その中でも今日読みました、19章は「神聖法典」と呼ばれている、ハッキリした章です。
2イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。3それぞれ、自分の母と父を恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
 神が聖なるお方だから、あなたがたも聖なる者となれ。これがレビ記の中心メッセージなのです。そしてその「聖」とは世捨て人のようになるのではありません。自分の親を心から大事に思う。また安息日に休む。そういう、今ここでの生き方なのです。また、9節には、
あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。10また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
という貧しい人への配慮も「聖」の一面です。14節には、
あなたは耳の聞こえない人を軽んじてはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れよ。わたしは主である。
という配慮も命じられています。この他沢山の行き届いた配慮が命じられます。そして18節、
18あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。
 イエスは
「最も大切な戒めは何ですか」
と問われた時に、このレビ記19章18節から
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」
を引用したのです[4]。レビ記は、イエスが引用された最も大事な戒めを語っている書です。その他の儀式や戒めも、ここを目指しているのです。
 しかし、このイエスの言葉がルカ10章では
「良きサマリヤ人」
の例えに繋がりました[5]。強盗に襲われて倒れた旅人を、同胞のユダヤ人ではなく、敵対していたサマリヤ人が近寄って助けた、というあの有名なお話しです。あの話で、先に通りかかったのに、反対側を通って知らぬふりをした一人が「レビ人」でした。「レビ記」と聞いて、まずあの「良きサマリヤ人」の話を思い出す方もいるかもしれません。礼拝の儀式に仕えるだけで、心の冷たいいけ好かない人…。レビ人もレビ記もそんな嫌な色で読まれているかもしれません。
 しかしレビ記の本来のメッセージは真逆です。礼拝儀式だけではなく、全生活が神の前に生きる、聖なるもの、憐れみ深いものとなることを求めています。そのためにこそ折々に生贄を捧げました。1章の
「全焼のささげ物」
 動物を丸ごと焼き尽くす生贄は、神の民が自分を完全に神にお献げする「献身」を現しました。私たちは神のもの。神の民。そのことを確認する「全焼のささげ物」が、レビ記の最初です。その後4章に
「罪のきよめのささげ物」
が出て来ます。罪を犯したことに気づいたなら、牛や羊を捧げたのです[6]。動物をささげることで神の怒りを逃れる、のではないのです。神が、人に罪を手放させて、赦しと和解をシッカリと受け取らせるために、「罪のきよめのささげ物」という儀式を与えてくださったのです。人は、この儀式を通して、神の赦しの恵みを全身で受け取り、「あなたの罪は赦された」という祭司の宣言を聞いたのです。
 礼拝の聖餐式を思い出してください。聖餐を通して、私たちはイエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、肉を裂かれ血を流されたことを覚えます。聖餐を通して、神の愛、罪の赦し、キリストの苦しみ、そして私たちが神の民である事を覚えます。聖餐の儀式で罪が赦されるでも、聖餐をしなければ罪が赦されないでもなく、聖餐を通して、神が私たちに神の側からの犠牲によって、私たちが赦され、新しい歩みへと呼ばれたことを思い出す。
 長老教会が採用した新しい式文も、世界の多くの教会の式文も「罪の告白と赦しの宣言」という部分を礼拝の最初に設けています。静まって自分の罪を告白し、赦しの確証の御言葉を聞くのです。これも「まだ神が、私たちの罪を怒っているから、告白をして赦して頂かなければ」ではないのです。神は既にイエス・キリストによる完全な罪の赦しと、新しく永遠の関係を下さっています。なのに、それを忘れて思い上がったり、「まだ赦されていないんじゃないだろうか、自分はダメなんじゃないだろうか」と重荷を自分で負おうとしてしまったりする私たちです。その私たちが自分の罪の重荷や恵みならざる重荷を手放すために、また互いに責める事を止めるために、罪の告白の祈りをともに祈り、赦しの言葉をもう一度ハッキリと聞くのです。
 レビ記でも、神は儀式や律法を通して、新しい生き方を民に身につけさせようとされました。私たちはそこに秘められていた本当の生贄、神の子キリストの献身を知っています。それだけでなく、時代や文化も全く違う今の私たちが、ここにあることをそのまま真似る必要はありません。それでも、今ここで、私たちが神のものとされた民として生きる。いつも主を礼拝し、全生活を神の前に生きている神の民として生きる。神が備えてくださった赦し、恵みを受け取って生きる。そして、隣人を自分自身のように愛するよう呼ばれていることは同じなのです。
ローマ12:1ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。2この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
 ではレビ記の時代と違う今、私たちが、どのように生きることが「聖なる生き方」なのか、具体的には、このローマ書12章3節以下に書かれています。レビ記も、聖書全体も読みながら、神を礼拝する歩みをさせていただきましょう。

「聖なる主よ。あなたは恵みによる人生を人に備え、キリストの命による罪の赦しと新しい歩みを下さいました。どうぞ全生活の中に主の招きを聞かせてください。理解の難しいレビ記を通しても、生々しいほどのあなたの恵みに気づかせてください。そうして、私たちがあなたのものとして、悔い改めと赦し、礼拝と交わりを心からともにする、聖なる集いとしてください」



[1] レビ人に言及するのは、25章32、33節だけなのです。「レビ人の町々、すなわち彼らが所有している町々の家については、レビ人にいつでも買い戻す権利がある。33レビ人が買い戻すものに関しては、彼の所有地の町で売られた家はヨベルの年には手放される。レビ人の町々の家は、イスラエルの子らの間にあって彼らが所有するものだからである。」むしろ、「民数記」の方が「レビ人」の働きを規定していて、名前が入れ替わった方がよいぐらいです。
[2] Nobuyoshi Kiuchi, Leviticus, (Apollo’s Old Testament Commentary, IVP, 2007). p.15. 木内伸嘉氏の本書は『レビ記』注解として最も参考にしている書です。オススメです。
[3] そしてそれは、やがて来られる本当の大祭司であり生贄である、イエス・キリストを証しするものでした。
[4] マタイ22章35~40節「そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。36「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」37イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』38これが、重要な第一の戒めです。39『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。40この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」、マルコ12章28~34節も。
[5] ルカ10章25~37節「さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」26イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」27すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」28イエスは言われた。「あなたの答は正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」29しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」30イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。32同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。33ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。34そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。35次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに支払います。』36この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」37彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」
[6] それは、神がやがてイエスを私たちの罪をきよめるため、十字架に命をささげてくださることを表していました。

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