物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

病院のはしご

2019-03-20 12:38:25 | 日記

病院のはしごを午前中にしてきた。

やはり年をとると、病院通いが欠かせなくなる。これは仕方がない。それでも1か月に1回か2回の通院ですめば、まあ健康な方だろうか。

寿命は前もってわからないからこそ、人間は生きられるのだといつも思っている。

夫を急に亡くした人の話を最近聞いた。それも突然の死去であったらしい。配偶者がそのことにショックを受けないはずはない。だが、亡くなった本人にしたら、いい人生であったといえるだろう。

夜中に亡くなったことも妻は気づかず、朝起きてこなかったので見に行ったら、冷たくなっていたとか。身近にいるものにはやりきれないものだが、本人にはよかったとでも考えるしかない。

その覚悟が私にもできているかどうかはわからないが、日々を精一杯生きたい。

 

 

 

 


微分形式をどう教えるか

2019-03-19 10:25:20 | 数学

「微分形式をどう教えるか」は議論のあることだろうか。広田良吾さんのように「微分形式」の便利さに懐疑的な人もおられるのだが、それは別に彼が「微分形式」に否定的ということでもないのだろう。

あまり簡単に微分形式では計算ができてしまうので、意味を考えなくなることへの警告をしたいという意図が広田さんにはあったのだろう。

教え方としてあまり厳密でなくてもいいのではないかというのは志村五郎さんの『数学をいかにして使うか』(ちくま学芸文庫)である。これによるとdxとdyとが反交換であることくらいを認めてやれば、微分形式へと導けるという考えである。もっとも彼は最少限の説明をしてはいるのだが。

純粋数学者である、志村さんからこういう提案を受けると心強い。もっともdxとdyとの反交換くらいなら、ヤコビアンの計算から導くことができる。これはフランダース『微分形式の理論』(岩波書店)の微分形式への導入でもあった。

私が最近1月ほど悩んでいたのはこの外積とベクトルのベクトル積とがよく似ているが、同じものなのか、どちがうものなのかがわからなかったことだった。

同じようでもあり、違うもののようでもあり、その辺があやふやであった。結論としては、外積とベクトル積とは、ちがうものだが、この2つの間には、ある種の対応があるということだった。

数日前にそれぞれを書き出して並べてみて、ようやく違うことがわかった。そしてその違いを知った後ではHodgeのスター演算子がようやく理解できると感じた。

その前にベクトル積の性質と外積との公理的な違いの説明を横田一郎『わかりやすいベクトル解析』(現代数学社)で読んだ。もっともその証明はまだ知らない。

わかりやすい「微分形式」の導入エッセイを書いてみたい。


腎臓の算数

2019-03-18 11:52:10 | 数学

「腎臓の算数」なんて変なものがあるわけではない。ここではちょっと数か月前に知ったことからいくつかの推論をしてみたい。

先週の木曜日に病院に検診を受けに行ったということはこのブログで述べた。

その検診の前に「トイレに行くのをちょっと控えねばならない」と妻に言ったら、妻が「1分間に3ccの尿を腎臓がつくっているのだから、検尿検査に必要な50ccくらいはすぐにたまるよ」と言う。これは数か月前の雑談会に話に来た方から得た知識であった。

50を3で割るとだいたい17がたつから、20分くらいで50ccくらいの尿が膀胱にたまるから心配しないでということである。

そのほかに、就眠中に2回ないしは3回、トイレに立つが、これは膀胱に尿がたまるのが大体3時間ぐらいかかると聞いた。それだと膀胱にたまる尿の量は180ccの3倍くらいだろうから、膀胱にためることのできる尿の量は600ccよりは大きくはない。1時間に180㏄の割合でたまるとすれば、より正確には540ccくらいだろうか。

もっともこれは健全な腎臓の持ち主であるだろう。だが、つい先日まで、膀胱にどれくらい尿をためることができるかなどと考えたこともなかった。

お粗末な私の算数である。


『神童から俗人へ』

2019-03-18 10:57:29 | 日記

『神童から俗人へ』(みすず書房)はノーバート・ウィナーの著書Ex-Prodigy(元神童)の翻訳である。これはだいぶん前に購入してあったのだが、あまり読んだことがなかった(注)。

昨日、書架から取り出してきて眺めていると、クロポトキンの話が出ていた。クロポトキンは無政府主義者であるということぐらいしか知らなかったが、この本によるとロシア皇帝の正当な王子であったが、無政府主義者となり、従兄のロシア皇帝を暗殺しようとして失敗したので亡命したということであり、そのクロポトキンにロンドンで出会ったと書かれていた。クロポトキンは大地理学者であると書かれていた。

私のクロポトキンの知識は H 大学の学長を長年務められた森戸辰男氏が戦前か戦中に、クロポトキンの本だか、論文を訳したか、またはクロポトキンの思想についての論文を書いたので、治安維持法にひっかかり、つかまっていたということくらいである。

そういう知識を知ろうという気持ちもなかったのに、今回『神童から俗人へ』でクロポトキンについて知ることになったのは、本というものの面白さであろう。無政府主義とはほんとうはどういうものかしらないが、作家の「なだいなだ」さんの書いた岩波新書を昔読んだところでは、別に「無政府主義が危険な思想の持主だ」とは思えなかった。

それとは話がまた別だが、アメリカに留学していた、鶴見俊輔さんがFBIにつかまったのも、彼が自分のことを無政府主義者と言っていたからだと書いていた。もっとも彼は捕まった後に、そういうことをFBIに言ったとかである。これはFBIが彼に日本がアメリカに開戦した後に、日本とアメリカのどちらを支持するかと尋ねられたときに、「自分は無政府主義者であるから、どちらも支持しない」といったという。

鶴見さんはその獄中でトイレの蓋を机にして、卒業論文を書き、それを姉の鶴見和子さんがタイプして、ハーバード大学に提出し、ハーバード大学は政府の立場とは無関係であるからという理由で彼の卒業を認定したという。こういうことは日本の大学だったら、難しかったことであろう。その後、日米交換船で鶴見さんは戦中の日本に帰国する。

詳しいことは彼の著書『日米交換船』(晶文社)を読んでください。その後の人生においては、鶴見さんの言動は別に無政府主義者ではない。

(注)Exがつく語はいくつかある。元妻なら、Ex-wifeだろうし、元首相ならば、Ex-primierであろう。ほかにどういう語があるのか。辞書でも引かないとわからない。元夫なら、ex-husbandであろう。


ベクトル積から外積代数まで

2019-03-16 12:33:36 | 数学

志村五郎『数学をいかに使うか』(ちくま学芸文庫)の第3章「ベクトル積から外積代数まで」を昨夜読み返した。

微分形式のことを復習するためである。志村さんは大学の基礎数学のコースの中にこの外積代数を入れたいという意向があったようだ(注1)。

一形式、二形式、三形式を学べば、ベクトル解析の主要な目標である、ガウスの定理やストークスの定理をカバーできると思ったためらしい。これらの定理が「微分積分学の基本定理の一般化である」ことがすぐにわかると具体的に説明をしている(注2)。

ストークスの定理の偏微分のどこにマイナスの符号がついていたか、わからなくなるが、微分形式で覚えておけば、その混乱はしなくてすむという風に書いてある。

こういう混乱をするのは私だけが頭がわるいからで、頭のいい人には無縁かと思っていたが、志村さんにこういってもらうとちょっと気が楽になる。

横田一郎『よくわかるベクトル解析』(現代数学社)で外積では結合則が成り立つとあったが、ベクトルのベクトル積では結合則が成り立たないので、この横田さんの書の記述はまちがいではないかと他の書を参照しようとさがしていたが、このことに言及した本をまだ見つけていなかった。

横田さんの書をさらに読み進めると、ベクトルのベクトル積と外積の間には対応はあるが、ちがうために一方で、結合則が成り立たないのに、もう一方で成り立つのはそのためであるとの説明をみつけた。*演算と関係があるらしいが、この*演算がどういうものだったか覚えていない。

数学書は読んでいると、ところどころ疑問に思うところが出てくるところがあるが、後で疑問が解ける場合もある。昨夜も『数学をいかに使うか』を読んでいて、そんなところに出会って、ちょっと戸惑ったがその具体例がその後に出ていた。

(注1)ただし、あまり数学的に厳密なことにはこだわらないという考えだったらしい。数学的に厳密なことを言い出すと大学の基礎数学の枠内には収まらないだろう。

(注2)今回読み直してみて、この言及があることにようやく気がついた。以前にはそういう関心がなかったからしかたがない。「微分積分学の基本定理の一般化である」という主張は微分形式の普及とともにあったということがわかる。

(2021.1.27付記) ほぼ2年経ってまた志村さんの『数学をいかに使うか』(ちくま学芸文庫)の第3章「ベクトル積から外積代数まで」を読み返した。以前と比べてよくわかるようになっているということはなかった。これではやはりフランダースの『微分形式の理論』を読み返すしかない。

 

投稿日時

春の水 石をめぐりて流れけり (子規)

2019-03-15 14:00:03 | 日記

E大学の校友会がカレンダーを送ってくるようになって数年が経つ。このカレンダーの今年3月の写真の横の子規の句である。

写真がなかなか素敵なのでどこかなとタイトルを見たら、E大学の図書館前の前庭であった。人工的につくられた流れがあり、そこを水が流れている。

この写真とは関係がないが、もう子規の俳句を紹介しておく。

  杉谷や 山三方にほととぎす

これも春の句であろう。


ベクトル三重積の記憶術

2019-03-15 12:34:45 | 数学

ベクトル三重積の公式の覚え方としては「back-cabルール」というのは知っていた。

すなわち、*をベクトル積の記号としてここで使えば、A*(B*C)=B(A・C)ーC(A・B)というのである。

ところがベクトル三重積としてでてくるのは、上にのべた場合以外に(A*B)*Cという場合もある。もちろん、これを(A*B)*C=ーC*(A*B)としてback-cabルールを使うこともできる。

ところが、「中央項ルール」というのもあるらしい。これはスウ『ベクトル解析』(森北出版)22に書かれてあるのだが、つぎの訳でみなさんは理解できるだろうか。

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(以下、訳を引用する)

ベクトル積は、「中央項ルール」に注目しておけば、覚えることは楽である。

 ベクトル積は、中央のベクトルに注目すること。中央のベクトルの係数は、残りのベクトルのスカラー積であり、これから中央ベクトルをかっこの中に入れ、係数を残りのベクトルとのスカラー積とした他のベクトルを引く。

(以上、引用終わり)

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(A*B)*C=(A・C)Bー(B・C)A

なのであるが、上の文章から後ろの部分ー(B・C)Aが出てくることが、私には読み取れなかった。これは訳者の訳がよくないのではなかろうか。意味するところはどうであろうか。

本来の原文の意味するところをどうであったろうか。私の推量はつぎのようである。

ベクトル三重積の場合にはかっこで囲まれた二つのベクトル(A*B)*Cの場合では(A*B)*C=aA+bB, a,bはスカラーとする。

要するに(A*B)*CはベクトルAとBとの1次結合で表される。それで係数のa, bを決めればよいのだが、ベクトルBの前の係数は、Bが中央項であるから、そのBを除いたAとCとのスカラー積(A・C)である。つぎに、もう一つの項はベクトルAのスカラー倍のベクトルである。その係数はベクトルAを除いた残りの2つのベクトルのスカラー積(B・C)をつくり、その係数をベクトルAにかけて引けばよい。

こういうような意味だろうと推量したが、それにしても上の訳文で今のような内容が読み取れるであろうか。なかなか読み取りが、難しいと思う。世の中の頭がいい、皆さんのお考えはどうであろうか。

いまのような考えだとback-cabルールも同じように考えればよい。ちょっと考えてみると

A*(B*C)=B(A・C)ーC(A・B)

が得られることがわかる。このときにも、やはりA*(B*C)=aB+bCであることは当然であるとしている。

中央項のベクトルBの係数はB以外の残り二つのベクトルのスカラー積であり、こちらはマイナスの符号を含まないが、中央項ではないベクトルCのほうを独立なベクトルとして使うときには、係数は残りのベクトルAとBとのスカラー積ではあるが、引き算してマイナスの符号が入る。

要するに、中央項のベクトルの方には係数にマイナスをつけず、中央項ベクトルではない方には係数にマイナスの符号がつく。

以上は単なるベクトル積の結果を覚える記憶術であるので、あまり本質的なことではない。

(2021.2.22 付記) 最近、インターネットのサイトでだったと思うが、この中央項ルールを説明してあるのを見た。世の中には結構頭のいい人がいるものだ。説明はここでした説明と同じである。

(2021. 4. 23 付記) この中央項ルールはベクトル積のベクトル積にも一般化できることに気がついた。これはもともとのベクトル三重積の記憶術の中央項ルールが成り立つから、当然のことであろう。

しかし、2年ほどこのことには気がつかなかった。昨日だったかにベクトル代数の公式を見るともなしに見ていて気がついた。こんなことを書いてすぐに了解する人は少数でもおられるのだろうが、私みたいにわからない人もおられるだろうから、また、「数学・物理通信」に書き留めておくつもりである。

 (2021.10.5付記) 

このベクトル三重積の公式の覚え方は「数学・物理通信」9巻3号(2019.6.20)に述べた。インターネットで検索してみてください。

(2024.2.29付記) 
数学ではないかもしれないが、ベクトル三重積を計算する立場に立つとこの上に述べた記憶法を知っているかどうかで計算が大いに楽になる。この中央項ルールの記憶術をバカにはできないと考えている。

こういう知識は単なる記憶法ではあるが、こういう記憶法があると知っていれば、計算に苦労せずに済んだのにと思う。Back-Cabルールは知っていても他のベクトル三重積が出てくると処理は結構面倒であると思うからだ。

数学者にはどうでもいいことだろうが、実務家にはこの記憶法は便利である。

つくし摘み

2019-03-14 13:50:43 | 日記

春になってそれも今年は暖かいらしく、つくしが全盛である。

今日も妻は午後は友人たちとつくし摘みに行くと言っていた。それも友人を誘って。もっともつくし摘みはおもしろいが、そのはかまをとるのが大変だという。それで近所の奥さんに「つくしは摘んできたらあげるけど、はかまはとらないからね」と言ったら「それでもいいからつくしが欲しい」ということだったとか。

春で東京でもつくしが摘める季節となった。松山近郊でつくしの穴場を知っている妻はこの季節にはかなり多くの人に「つくし摘みにいかないか」と声をかけるらしい。私の覚えているだけでも今日が3回目だと思う。

今日のように晴れていると気温も上がってきて、暖かいので絶好のつくし日和である。


健康診断

2019-03-14 13:11:27 | 日記

松山市の行っている無料健康診断(2018年度分)を生協病院で午前中受けてきた。

診断の結果は2週間後にわかるであろう。それで今日はブログを書くのが遅くなった。大学が春休みになったせいかこのブログのアクセスも減ってきている。100近くアクセス件数が減っているのではあるまいか。

それとフランス語やドイツ語のブログが続くとこれが分からなくてブログが嫌になる人もいるかもしれない。横文字があるとそれを飛び越して読む人もいるのかもしれない。

私だって岐阜のSさんのブログでハングルが出てくると敬遠してしまうので、あまり他人のことをとやかく言える筋ではない。英語のならわかる人は多いのだろうが、どうもあまり英語は現在のところは得意ではない。

高校の同期生の女性の方で、英語に熱中しているという人ともう何年も前の高校の同期会で話したことがあったが、私などはそれがどうしたという感じがしたから、その方に申し訳のない感じがしないでもなかった。

そのくせ私は英語は話せない。こうなると開き直っているのだから始末がわるい。

フライブルクのゲーテ・インスティユートでドイツ語を2か月学んだときに、宿舎が一緒だったイタリア人の化学者のR氏とか同じく化学者のエジプト人のS氏とかとはやはり英語で話したが、英語よりもむしろドイツ語を話したい私と英語の達者な彼らとなると、どうしても彼らに押されぱなしであった。

S氏もR氏も英語は上手に話せたが、ドイツ語はあまり上手ではなかった。特に、S氏はドイツ語を話さなくても英語であまり困らないせいか、ドイツ語の語順がおかしくてはじめはいちいち語順をなおしていたゲーテの先生も最後ころにはもう直すのをあきらめていた。

初級のクラスにいた、R氏はそれでも話すのはすぐに上手になった。彼は英語を話すのを学んだことはないと言っていたが、外国からやってきて講演をする人の英語を聞いて英語を学んだというからすごい。彼のお父さんも化学者であったから、親子2代の化学者一家であった。


『数学解析』を借りてきた

2019-03-13 12:18:46 | 日記

溝畑茂『数学解析』下(朝倉書店)を図書館から借りてきた。この本には直接的にはベクトル解析の章はない。

だが、「第7章 曲面積分」 にガウスの定理やストークスの定理が出ている。それについて溝畑先生がどう書かれているかに関心がある。

まだ全く読んではいない。ただ、ちょっと見たところベクトルを文字の上に矢印をつけた、ちょっと古い表示であり、これは出版社がベクトルを太字にしたらと、著者にアドバイスをすべきではなかっただろうか。

ガウスの定理やストークスの定理についていえば、あとがきのところの各章の解題で「これらの定理が微積分学の基本定理の自然な拡張だ」と明言されている。この書は初版が1973年なので、日本でのベクトル解析の書での「ガウスの定理やストークスの定理は微積分学の基本的定理の自然的拡張だ」という主張が出たはじめではないかと私は思っている(直下の文をきちんと読んでほしい。この主張はもっと前に遡れることがわかった)。

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念のために、あまり読んだことのない、岩堀長慶『ベクトル解析』(裳華房)p.200のストークスの定理のところを見たら、ちゃんとこれに「ストークスの定理は微積分学の基本定理の拡張だ」と書かれてあった。この書は1960年初版なので、日本語で書かれたテキストとしての歴史は、すくなくともここまで遡れることがわかった(注)。

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私自身は元高知大学の数学者で、「数学・物理通信」の共同編集者の新関さんから、このことを聞いていた。いま、いつかのベクトル解析のテクストを見てみると、この説明があるテクストは結構多くなっている。

北野正雄さんの『マクスウエル方程式』(サイエンス社)とか、志賀浩二さんの『ベクトル解析30講』(朝倉書店)とかである。太田浩二さんの『ナブラのための協奏曲』(共立出版)などもそういう説明を採用している。

横田一郎『わかりやすいベクトル解析』(現代数学社)にも上に書いたことは言明されているので、私のテスト基準に合格である。志賀浩二先生の『ベクトル解析30講』の説明が特によかったという印象をもっている。

以前に、「そういう説明のないベクトル解析のテクストはもうベクトルの入門のテクストとしては時代遅れだと思う」と書いたが、その言は撤回するつもりはない。

一緒に借りて来た『微分積分学講義』下(京都大学学術出版会)は図が多くて、説明は詳しいし、印刷が鮮明なのでいいが、この点はちょっとミスっている。これは翻訳なので、しかたがない。この本は高価なだけあって説明は詳しいし、特色のある本ではある。

一般的に言って朝倉書店の発行する数学書はあまり印刷がよくない。内容はいいテクストがあるのに、印刷がわるいと損をすると思う。

(注)印刷発行されたテクストにはなっていないが、「物理のかぎしっぽ」グループのJohさんが書かれた「ベクトル解析」の解説ではやはりちゃんとこの点が踏まえられている。

 (2023.11.24付記)『江沢洋選集』VI(日本評論社)には必読文献として江沢洋さんが、この溝畑茂『数学解析』(朝倉書店)を挙げていることを知った。ただ、ベクトルの記号は太字にすべきだと個人的には思っている。


C'est une expression.

2019-03-13 11:15:26 | 日記

先日、ドイツ語で「言い回し」をRedewendugenというと書いたが、いまNHKのラジオのフランス語の講座を聞いていたら、表題の表現が「決まりきった言い回しです」という意味で言われていた。

これはIl tombe des cordes. という表現が決まりきった表現だというのである。フランス語に何年も接しているが、初めて聞いた表現である。直訳すると「縄が落ちてくる」である。

これでは普通には、フランス語を母語とはしない我々にはわからない。tombeといえば、「雪が降る」というシャンソンはTombe la neigeというふうに歌っている。あのシャンソンの出だしはTombe la neige, Tombe la neige, tu ne viendra pas ce soirだったか。

もとにもどって、普通に雪が降るなら, Il neige. である。ilは人称代名詞の彼を意味するが、天気とか時間をいうときにはilという代名詞を使う。こういうilは非人称代名詞という。ドイツ語ならば、これは中性の代名詞esである。雨が降るならば、ドイツ語ではes regnet.であり、雪が降るならば、es schneit. である。

これがフランス語ならば、il pluet.が雨が降るだし、雪が降るならば、il neigeである。おかしいのはどういう天気ですかという問いは

   Quel temps fait-il ?

というのである。直訳すると「どんな天気をつくっているか」とでも訳せようか。faireという語は「つくる」とか「する」というときに使うとても用途の多い語であるが、天気のときにも使うのである。

そういえば、暑いとか寒いとかもIl fait chaudとかIl fait froidとかいう。ここでもfaireを使っている。または風があるとかでもil fait du vent という。天気がよければ、il fait beauだし、わるければ、il fait mauvaisである。 faireのオンパレードであった。

(注)tempsには天気のほかに、時間という意味もあるが、時間を聞く場合にはtempsはつかえない。「今何時ですか」このごろはIl est quelle heure ?(イレ ケル―ル)という。むかしはこれを倒置した、Quelle heure est-il ? と教わったものだが、だんだんくだけた口語的表現が教えられるようになった。

これはもう私たちの若いころのことだが、大学の宿舎に住んでいたころ、妻がこのケル ウウル エティールという文句だけを知っていて、花についた害虫のアブラムシを方言でケラレというが、誰かよその奥さんがそんなフランス語がありますねといったときに、即座にそれはフランス語で「何時ですか」という意味で、「ケル ウウール エティール」というと言って、近所の奥さんから学があると感心されたことがある。彼女はこのフランス語だけしか知らなかったのに。

 

 


1024

2019-03-13 10:50:26 | デジタル・インターネット

車で仕事場まで妻に送ってもらっているときに、横に止まった車の番号が1024だった。あれ、これは2の10乗ではなかったかなと思ったが、よくは覚えていなかった。

そこで、すぐに暗算しようとしたが、私は暗算が下手ときている。2の6乗が64(=8*8であるから)であることぐらいはすぐにわかったが、それ以上だともう暗算ができない(注)。仕事場について、2の倍数はなんかの数表の載っていたのではないかとまずは吉田武『オイラーの贈物』(海鳴社)を見たが、この巻末には2の倍数の表は載っていなかった。

しかたなく、林桂一(森口繁一増補)『高等関数表』(岩波書店)の巻末のほうを探したら、2の倍数が出ていた。これによると確かに1024は2の10乗である。

車の中で「にごろ」256を思いだしていたが、それが2の何乗だったかもその表でわかった。2^{8}=256であった。

パソコンをいじることが好きだった子どもから「にごろ」という文句を教えてもらったのも、もう何十年も前である。

(注)「物理学をやっていたのに暗算が下手ですね」とよく言われる。近代の優れた数学者と言われたポアンカレが暗算が下手だったとか、どこかで読んだ記憶があるが、定かではない。


図の入力

2019-03-12 10:24:19 | 物理学

図の入力に仕事の重点がようやく移ってきた。いや、長い間にわたって編集を続けている、「量子力学講義ノート」の第2部のことである。

それでも数式や文章の入力が終わってしまったわけではない。昨日も散乱問題での光学定理といわれるものの証明の文章をつくっていた。この定理の証明など今まで考えたことがなかった。

ヒントは書かれているのだが、詳しい文章があるわけではないから、その隙間をうめなくてはならない。その中のLegendreの多項式の\cos \theta =1のときにP_{n}(1)=1であることの証明をどのようにするのか知らなかった。

昨夜、寺沢寛一『自然科学者のための数学概論』(岩波書店)を調べて、これの証明には母関数を使っていることを知った。証明自身は難しいものではないが、初めて知った。もっとも学生のころでも、すでにP_{n}(1)=1であることは知っていたように思うが、その証明は知っていなかったのではなかろうか。

このことはある意味で物理数学での常識のように思っていた節がある。人の知識とか認識とかいっても、いかにもあいまいなようである。

図の入力にもどると、昨夜はばねの図を描くのに苦労した。というのは、そういう例があるのだが、それを使うのに試行錯誤を繰り返したから。ばねの大きさがちがっているので、大きくするのに苦労した。あと10個ぐらい図を描かなければならないが、一番面倒な図を描くことができた。


Alles ist verg"anglich, was auf der Erde ist.

2019-03-11 11:47:46 | 日記

Alles ist verg"anglich, was auf der Erde ist.(この地上にあるものはすべてはかない)とは3月のNHKの「まいにちドイツ語」のテクストに出ている文句である。この文はこの順序で言われるのが普通であろうが、Alles,  was auf der Erde ist, ist verg"anglich. といってもよいだろう。もっともそれだと主語がでっかすぎるので、冒頭の言い方が好まれると思う。

このテクストを書かれた講師の藤井明彦先生は日本人だから、ちょっと仏教的なフレーズを入れられたのであろう。それにこれはドイツ語の文法的にいえば、副文の定動詞後置を示すのにいい例であろう(注)。

そういえば、先日の朝日新聞に「持ち家だが、私は地球の一時の住民」だという意味の俳句があった。これは漢籍の古典にある「月日は百代の過客にして、行きかう人もまた旅人なり」とかもそうであろう。そして、この句は芭蕉の『奥の細道』の冒頭の文句としても引かれている。

「はかない」と書いて、なんだかこれに対応したフランス語を知っていたはずだと思いついたが、それがなんだったか思い出せなくなっていた。しかたなく、和仏辞典で「はかない」を引いてみて、それがephemereであったことを思い出した(アクサンをつけることは失礼している)。いつかのブログでも書いたが、これはまず英語で知った語であり、物理学者のF. J. Dysonの論文選集ではじめて読んで知った語であった。

もっともDysonは、数学の論文は未来永劫に真であるが、物理の論文は短命ephemeralであるという意味に使っていた。というのは彼は数学者でもあり、物理学者でもあるから、当然のことながら数学の論文と物理の論文を書いている。

(注)ドイツ語では主文(Hauptsatz)と副文(Nebensatz)という用語が使われる。英語ならば、副文は条件節とか関係節のことである。副文は単独では文を完結させない。主文のなかで使われてこそ意味がある。副文の特徴は定動詞が文章の一番最後に来ることである。これは実は英語にも残っている。

定動詞とは、主語に応じて人称変化する動詞のことである。主語の人称に応じて変化する前の動詞の形を不定形とか不定詞という。英語なら、動詞の原形というところである。

ちなみに節(clause)とは主語と動詞を含む英文のことである。しかし、もちろん節だけでは文は完結しない。あくまでも節は文の一要素にしかすぎない。また文の一要素としては句(phrase)があるが、これはもちろん文章の一部の構成要素だが、主語と動詞を含まない。そこが節とは違うところである。

ついでに付言すると、数学教育協議会の数学教育では等式変形において、フレーズ型式変形とかクーロズ型式変形と言われる用語がある。今これがなんであったかは、よく思い出せないが、方程式の式変形と恒等式の式の式変形の違いを意識させる話と関係していたと思う。もっとも恒等式でもその中のある量について式を解くという、「主格変換」の場合にはクローズ型の式変形が使われる。

もっともこれらはjargon(専門用語)であろう。


3月も半ばに

2019-03-11 10:53:54 | 日記

3月も半ばになった。時の流れは早い。先日新しい年が来たと思ったのに早くも3月も半ばである。

3月は学期休みなので、木曜日の夜のドイツ語のクラスもなく、先生のR氏も奥さんとドイツへお里帰りしている。とはいっても彼にとってはもうお母さんも亡くなっているし、弟さんは健在だが、以前ほどの望郷の念は深くはなかろう。

それに彼の場合は言語学の関係の会議で話をするために帰るのであり(それも4か所で話をすると聞いた)、ただの物見遊山ではない。ただ、私などはR氏にはわるいが、ドイツ語のクラスがないときは自分の仕事ができるときだと思っている。

それでも4月になれば、新しいドイツ語のクラスが始まるのもそう遠い先のことではない。2月7日に冬学期のドイツ語のクラスの後で、市内のカフェー「アマンダ」でR氏とか、世話役のO氏とかと少し話をした。普段はだいたいその学期の打ち上げ会がおわると二次会には付き合わないですぐに帰宅するのだが、このときはR氏が気を使ってくれたので、つき合うことにした。これはこの打ち上げ会のときに、私がほとんどしゃべらなかったのを彼が気にしたのであろう。

打ち上げ会の後は日本語は使わず、カタコトのドイツ語を駆使しての会話がほとんどである。

ところで、そのカフェーには大学の試験期間中とのことで、多くの学生が試験勉強で来ていた。帰りに隣に座って勉強していた学生の本のタイトルをよく見せてもらったら、解剖学なんとかとあった。眼の悪い私がちらっと見たら、解という字が見えたので数学の解析学の本かと思ったので、失礼ではあったが、きちんと見せてもらったのである。

普通は若い人に対してでも、そういう失礼なことはするものではあるまい。しかし、解という字が見えると「解析学」かと思うのはある程度、自分の専門から言ってしかたがない。それにしてもお粗末な次第であった。

私などは試験勉強は家で一人でするものと思っていたので、最近の学生のトレンドにはびっくりした。