物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

炭鉱(やま)は終わらない

2008-02-09 12:24:50 | 映画

昨夜、標題の映画の試写会に行った。これは本来なら妻が出かけるところだが、他に用があったので私が代わりに行ったのだ。

三池炭鉱の歴史というかそういうものだが、1959年に三池闘争があり、労働側の敗北に終わった。また、その4年後の1963年には三池の炭鉱大事故が起こった。そして1997年に炭鉱は閉鎖されて炭鉱の歴史は閉じられた。

この映画で主に取り上げられた1950年代の終わりから1960年代の初めの時期は私の青春時代と重なっている。

私の関心事で言えば、武谷三男が三池炭鉱の事故調査団の団長になって大牟田市に行ったということもある。武谷三男は彼の父が炭鉱の技術者であったことから、1911年にこの大牟田で生まれた。もっともその後の彼と大牟田の縁はそれほど深くはないが、それでも一つの縁があったわけだ。

それでこの映画にも関心があったのだが、見てみるまではどんな映画かは知らなかった。三池炭鉱の組合側の立場から描いた映画ではないかと思っていた。もちろん炭鉱労働者の証言は欠かせないが、それだけではなく会社側の人や三池炭鉱の第二組合に入った労働者にも取材をしていてその点が興味深かった。

会社の方針をはっきりとは描いていないが、労働者1400人の一斉解雇とは過酷な方針だった。しかし、それだけではなく組合側というか総評側の団結の指令もかなりきついものがあった。会社側は220億円の金を使い、組合側も22億円を費やしたという。「総資本対総労働」という懐かしい言葉も出てきた。

闘争の経過で第二組合がつくられた。私などの当時の印象では第二組合を組織するなど会社の回し者というか労働運動に対する裏切りという印象が強かったが、それにしてもそういう第二組合へと走った個々の労働者にはそれぞれやはり事情があった。

もっともこの闘争を指導した向坂逸郎氏が間違っていたのではないかとの関係者の証言もあった。墓の下で向坂さんくしゃみをしているかもしれない。

映画監督の熊谷博子によれば、三池炭鉱の歴史を映像としてとして残すことを言い出したのは大牟田の炭鉱の記念博物館(正式名称は失念)に勤める職員だったという。

市の予算を獲得するのに3年かかったという。映画では批判的または批評的な視点はあまり感じなかったが、歴史として残しておきたいという気持ちは伝わった。

三池炭鉱の歴史を大牟田の人たちは誇りに思ってこれからも生きていく。それにしても三池炭鉱は大牟田に何を残したのだろうか。松山でのこの映画の上映は約1ヵ月後である。


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