NHKの大河ドラマ「龍馬伝」で有名になった上士と下士という言葉であるが、これはいつかドラマの中で山内容堂公にその由来を語らせていた。それによると山内一豊が徳川家に関が原の戦で味方して、家康から土佐の国をもらったが、それ以前の領主であった、長宗我部氏の武士を下士として召抱えたという。もちろん、上士は山内家のもともとの家臣たちであろう。
ところが、この上士と下士の差別を嫌って(または滅ぼされかけて)土佐から逃れて来た一族もいたらしい。ほんの数ヶ月前に愛媛県のI市N町に住んで居られるKさんと知り合いになった。この方は山の中腹に住んで居られ、現在ではいい舗装道路が彼の家の前を通っており、車でももちろん行くことができる。そしてこの方からたけのこや山菜等をたくさんその訪問のときに頂いたのだが、それにしても山の中腹の昔は不便であったと思われるところに今も住んで居られるので、何か理由があるのではないかと思い、伺ってみた。
Kさんの家は16代も続いた旧家だということがわかった。それでさらにどうしてこんなところに住んで居られるのですかとぶしつけな質問をさせてもらったら、そのKさん答えて曰く。私の家は土佐から来たと聞いていますとのこと。多分長宗我部の一族らしいですとのことであった。
私たちは長宗我部と聞いてもそれが現代につながっているとはほとんど考えないのだが、このKさんにとってはその歴史は生きていて今もつながった話だということである。もちろん、いまでは、長宗我部家も山内家も特に差別とかあるいは地位の優位とかはまったく関係がなくなって普通の市民として暮らしている。
龍馬伝の上士と下士の語が単に知識としてだけではなく、その差別も単に支配のためであったことを身近に感じられている今日この頃である。
ところが、この上士と下士の差別を嫌って(または滅ぼされかけて)土佐から逃れて来た一族もいたらしい。ほんの数ヶ月前に愛媛県のI市N町に住んで居られるKさんと知り合いになった。この方は山の中腹に住んで居られ、現在ではいい舗装道路が彼の家の前を通っており、車でももちろん行くことができる。そしてこの方からたけのこや山菜等をたくさんその訪問のときに頂いたのだが、それにしても山の中腹の昔は不便であったと思われるところに今も住んで居られるので、何か理由があるのではないかと思い、伺ってみた。
Kさんの家は16代も続いた旧家だということがわかった。それでさらにどうしてこんなところに住んで居られるのですかとぶしつけな質問をさせてもらったら、そのKさん答えて曰く。私の家は土佐から来たと聞いていますとのこと。多分長宗我部の一族らしいですとのことであった。
私たちは長宗我部と聞いてもそれが現代につながっているとはほとんど考えないのだが、このKさんにとってはその歴史は生きていて今もつながった話だということである。もちろん、いまでは、長宗我部家も山内家も特に差別とかあるいは地位の優位とかはまったく関係がなくなって普通の市民として暮らしている。
龍馬伝の上士と下士の語が単に知識としてだけではなく、その差別も単に支配のためであったことを身近に感じられている今日この頃である。