囲いこみとは一般には言わないのかもしれないが、グループ企業とかその連携した企業等が系列以外に利益というか顧客が逃げないようにするという工夫がいろいろ行われている。企業のグループ化といった方がいいのかもしれない。
たとえば、卑近な例ではいつも入れるガソリンスタンドとどこかのカード会社とがグループ化しているとか。航空会社の全日空とホテルとの連携とかである。
これがいけないと言ってみてもはじまらない。社会がそんな風に動いているのだから。企業はどこでも少しでも以前よりも利益をあげたいと思っている。それがこのようなグループ化を指向させているのであろう。
ただ、その囲い込みがすさまじくなってくるとちょっと滑稽でもある。そんなにしてまでも顧客を自分たちのグループから放したくないのかと。
だが、資本主義社会での競走は激烈である。だから、なりふりかまわずグループ化でもなんでも走ってしまう。
民主党政権の目玉の一つである、子ども手当てがそろそろ支給されるとなれば、なりふりかまわずスーパーはその手当ての額に見あった商品を売り出すと昨日のテレビ報道で見た。逞しい商魂というかすこしお寂しいというのが偽らざる気持ちである。
そういった「囲い込み」ではないが、かつて「囲い込み」という語を使ったドイツ語学者がいた。この「囲い込み」は普通にはドイツ語文の枠構造といわれるものである。ドイツ語で過去のことを言うときに使う現在完了形では
Ich (habe) ihn in der Stadt (gesehen). (私は彼を町で見かけた)
といったようにhabeという助動詞と本動詞のgesehenとが離れて枠をつくっている(注)。また、話法の助動詞を使った文でも
Er (kann) Auto (fahren). (彼は車の運転ができる)
といったように、kann できるという話法の助動詞と運転するという本動詞fahrenとは離れており、本動詞は文末に来る。
これは普通の単文の平叙文の場合だが、もちろん複文の場合でも従属の接続詞と本動詞とで枠をつくっているとかドイツ語にはこういった例がたくさんある。というか、そういう風にドイツ語の構造を理解するように文法をつくってきたのであろう。
囲い込みのできる言葉がいくつかあって他の文成分はこの間にはいっているという構造はなんだか企業の行っている囲い込み(グループ化)と思想的には同じもののような気がする。もっともドイツ語での「囲い込み」は何の利潤ももたらさないけれども。
(注)Ich (habe) ihn in der Stadt (gesehen). のhabeとgesehenとを囲んだかっこはこの二つのかっこで文の「囲い込み」が成り立つことをはっきりさせるためである。それ以外の意味はない。