物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

1945年空襲

2008-07-03 11:48:07 | 日記・エッセイ・コラム

先日、ちょっと I 市で幼児のときに空襲にあったと述べたが、その月が6月か7月と書いた。昨夜妻が短歌を朗読の会のために筆で書いているのをみたら、松山市の空襲は7月26日だったらしい。松山が空襲をうけて東の空が真っ赤に染まっているのを我が家の廊下から眺めたのを子ども心に覚えている。その数日後には私の故郷の I 市が空襲にあった。

その空襲の後で危ないからという理由で母の郷里の今治市沖の津島に次兄と私の二人は1週間ほど預けられた。そのうちに広島に爆弾が落ちて、四里四方が焼け野が原になったとのうわさをそこで聞いた。原爆という名前などない頃で、だから「四里四方爆弾」と言われていた。

8月6日に広島に原爆が投下されたのだが、松山空襲と広島原爆の間に I 市の空襲があったのだ。父はすぐ下の妹を背負ってどこかに逃げてしまい、私は祖母の指示で家の近くの田んぼに入って伏せていた。母は一番下の生まれてまだ数ヶ月の妹を背負って廊下で焼夷弾の落ちてくるのを見ていたという。

幸い私の一家は誰も焼夷弾で死亡する者はなかった。二人の兄は母の出身の島か祖父の親戚だったかに疎開をしていて、いなかったと思う。近所の家が焼夷弾で焼け落ちたり、田んぼに落ちた焼夷弾でばちばちと音を立てていたりしたのをこわごわと見聞したわけである。

空から単に焼夷弾が落ちてきたり、爆弾が落ちてきたりする、まるで受身の戦争経験ではあるが、戦争経験者であることには違いがない。

いまの世の序列が決まってしまったり、貧富の格差が固定化してしまったりするので戦争でも起これば、その固定化が崩れるという若い人の意見があるようだが、固定化はもっと別の方法でとりのぞくべきで戦争しか解決策がないという見解にはどうしても体感的に賛成することはできない。これは理屈ではないのだ。