先日、ちょっと I 市で幼児のときに空襲にあったと述べたが、その月が6月か7月と書いた。昨夜妻が短歌を朗読の会のために筆で書いているのをみたら、松山市の空襲は7月26日だったらしい。松山が空襲をうけて東の空が真っ赤に染まっているのを我が家の廊下から眺めたのを子ども心に覚えている。その数日後には私の故郷の I 市が空襲にあった。
その空襲の後で危ないからという理由で母の郷里の今治市沖の津島に次兄と私の二人は1週間ほど預けられた。そのうちに広島に爆弾が落ちて、四里四方が焼け野が原になったとのうわさをそこで聞いた。原爆という名前などない頃で、だから「四里四方爆弾」と言われていた。
8月6日に広島に原爆が投下されたのだが、松山空襲と広島原爆の間に I 市の空襲があったのだ。父はすぐ下の妹を背負ってどこかに逃げてしまい、私は祖母の指示で家の近くの田んぼに入って伏せていた。母は一番下の生まれてまだ数ヶ月の妹を背負って廊下で焼夷弾の落ちてくるのを見ていたという。
幸い私の一家は誰も焼夷弾で死亡する者はなかった。二人の兄は母の出身の島か祖父の親戚だったかに疎開をしていて、いなかったと思う。近所の家が焼夷弾で焼け落ちたり、田んぼに落ちた焼夷弾でばちばちと音を立てていたりしたのをこわごわと見聞したわけである。
空から単に焼夷弾が落ちてきたり、爆弾が落ちてきたりする、まるで受身の戦争経験ではあるが、戦争経験者であることには違いがない。
いまの世の序列が決まってしまったり、貧富の格差が固定化してしまったりするので戦争でも起これば、その固定化が崩れるという若い人の意見があるようだが、固定化はもっと別の方法でとりのぞくべきで戦争しか解決策がないという見解にはどうしても体感的に賛成することはできない。これは理屈ではないのだ。
『知的堕落』の「コメント」に於いて、及第する為の後追い的な学習や勉強をせざるを得ない内容でした。
『志』有っての業が、”「学力」無くば『志』を断たれる”日本の教育システムには、問題を有するところです。勿論、有志内での優劣に於いての立場差は別ですが。
近年のドイツは見習わなければならないものが多々有り、
その一つが、『Meister制』でしょう。
例えば、「医学」での技術は学術同等重要です。(江戸時代には知的障害者でも教育次第では、医術職人に仕立て上げた例が有ります)
(自分のblogに書くべきですが、弱輩者の訴えを広めるため利用させて頂きました)
及第するための後追い学習が何を意味するかはよくはわかりませんが、普通授業を聞いてすぐにわかる人などいないと思います。もちろん、前もってよく知っていることを授業で聞くのならば、それは当然わかるでしょうが、そういう特別な秀才とか天才を除けば、初めての概念を聞いてその場で理解できるというのはごく少数だと思います。
アメリカ人の人とか外国の人がいうのは日本での敗者復活のチャンスがあまり与えられないのが日本社会の欠点だといいますね。学力云々は志よりは大したことではないように思います。だから志を大切にする社会にしたいと思います。やりようによっては学力は何とかなるものだと思うからです。
もう一つのドイツMeister制度は学暦重視の社会に対して評価の基準はひとつではないことを示しているものですから、その制度についての批判がドイツでもあるかもしれませんが、大切にして欲しいものの一つですね。
それと弱者切捨ての社会は結局人間を大切にしない社会で、これは最近のグローバルスタンダードのせいでなければいいのですが、グローバルスタンダードとは資本の論理のような気がしています。
利益追求が極限に至るとやはり弱者切捨ての論理が優先されるようです。
知的障害者即切り捨ての対象ではなく、その分に応じて社会貢献ができるのは当然でそういう社会ができることは私たちの希求することであります。
私自身は社会活動に熱心とはいえませんが、妻はそういうことに関心をもってボランティア的に活動をしています。
また、いつでもPRに来てください。誰かの個人攻撃でなければ、いつでも歓迎です。