神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

戸山公園

2018-11-16 06:04:02 | 蟹川

 戸山公園(箱根山地区)まで来ました。一帯が和田戸山(外山)と呼ばれたのが名前の由来ですが、その詳細は不明で、源頼朝配下の有力武将、和田義盛の領地で、和田、外山両村にまたがっていたとか、あるいは、和田戸何某という武士の館だったところだとかいわれています。江戸時代に入り、寛文8年(1668年)以降、尾張徳川家の下屋敷が置かれ「戸山荘」と呼ばれました。約45ヘクタールの敷地は江戸の大名屋敷では最大規模です。明治から第二次世界大戦までは、陸軍戸山学校など陸軍関係の施設があり、戦後の国有化をへて、都営戸山ハイツや公園となっ て現在に至っています。

 

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    ・ 「寛政年間戸山尾州邸園池全図」(「新撰東京名所図会」より)  箱根山のふもとに、東京都の設置した解説プレートがあり、そこに掲示されている絵図の水部を着色、また北が上になるように回転しています。 

 「和田戸山の風景誠に善盡し美盡せり。江都より京都にいたる駅路五十三次の宿々、名産名物に残物なく、渡舟、山道茶屋、渡りやはさらに、本陣、旅籠、つぎ馬問屋、川渡し舟、東海道の産物、一としてあらずと云事なしとぞ。近来は度々御成りあらせられ、愈々増々美麗を盡し給へりと云」 「若葉の梢」(寛政4年 金子直徳)の一節です。元禄年間(1688~1703年)に完成した庭園ですが、その後放置されて荒廃が進み、寛政年間(1789~1800年)の初め、将軍家斉の御成りを契機に修復されました。家斉は大いに気に入り、「すべて天下の園池は、まさにこの荘を以て第一とすべし」と讃えたといいます。

 

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    ・  箱根山  戸山公園のシンボル箱根山の山頂部分です。蟹川はこの山の麓をめぐり、北から東寄りへと向きを転じていました。大泉水も蟹川も失われた今、当時の唯一の遺構です。 

 箱根山は戸山荘時代麻呂ヶ嶽、あるいは玉円峰と呼ばれました。麻呂は丸ですから、どちらも円形の山の意です。標高44.6m、旧東京市内で一番高い山といわれていますが、蟹川の形成する右岸段丘上に、その名の通り、お椀をふせた形の盛り土をしたもので、自然の山というわけではありません。ちなみに、都心にある自然の山としては、愛宕山を思い浮かべますが、その標高は25.7メートルです。(上掲写真のこんもりしたところが、その盛土の部分で、大泉水を掘った際の残土を利用したようです。)