神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

東大久保村用水

2018-11-22 06:03:36 | 蟹川

 以下は「新編武蔵風土記稿」の東大久保村の水利に関する記述です。「内藤新宿より流来る細流あり、又此地にも所々に清水ありて用水に沃く」「内藤新宿より流来る細流」は蟹川の二つある谷頭のうち、太宗寺方面からのものを指しており、当時はこちらの方を本流扱いしていたふしがあります。「地図で見る新宿区の移り変わり-淀橋・大久保編-」(昭和59年 新宿区教育委員会)に収録された「東大久保村絵図」もそのような描き方です。これに対し、「豊多摩郡誌」(大正5年)の大久保町の水利の項では、「本町内に水流の記すべきものなし、唯内藤新宿町及淀橋町地内より流下する細流あり」と、二つの谷頭を併記しています。

 

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    ・ 「東大久保村絵図」  「東大久保村絵図」(堀江家文書 首都大学東京図書情報センター蔵)をもとに、イラスト化したもので、例によって田用水を強調しています。

 

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    ・ 久左衛門坂下  前回UPの→ 永福寺前から下る坂の下には、「村絵図」で大きく描かれた橋が架かっていました。万年橋と書いた地図もあります。

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    ・ 西向天神下  右手から合流している道が、天神下に向かう参道なので、このあたりが「村絵図」で天神下に描かれた橋の架かっていたところです。 

 ところで、「新編武蔵風土記稿」のいう「所々の清水」の一つに、「鏡の井」がありました。「乾の方奥州古街道の傍田間の小流を云、旱魃にも水涸るゝことなし」 この「奥州古街道」については、別のところで「村北に奥州の古街道あり、田畑の間を戸山の方に達す」と書いており、戸山屋敷と接する村の北部、砂利場と呼ばれるあたりと思われます。いずれにしても、こうした細流や湧水など天水頼みの水利のため「水損旱魃ノ患アリ」(「東京府志料」)、「古来水田多く開けず」(「豊多摩郡誌」)という状態でした。「東京府志料」の数字では、東大久保村の水田面積は5町7反4畝23歩となっています。