神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

東大久保村

2018-11-21 05:57:58 | 蟹川

 「東大久保村は日本橋より二里余、古老の説に、古は当村及び西大久保、諏訪の三村皆戸塚に通して一村なり、当時文字も富塚と記せしと云、然とも正保の改には、大久保の一村のみ取て余の地名は収めず、元禄の図に大久保村の傍に同村枝郷東大久保村及枝郷諏訪村と記し、又戸塚村をも載す、推考するに、元来は富塚のみなりしを、一旦大久保と改め、元禄の前又各村に分れしならん、又大久保を東西に分ちしは天正十九年の繩よりなりと西大久保に伝へたり、・・・・家数八十七、北は尾張殿別業戸山屋敷に接し、其余は武家屋敷及大縄組屋敷にて、唯西のみ西大久保及諏訪村の飛地に隣れり、東西十町余、南北六町余」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 内藤新宿」(参謀本部測量局 明治13年測量)」の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ細線は大久保村当時の牛込区、内藤新宿町などとの境です。 

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    ・ 西向天神  「天神社 村の鎮守なり、棗(なつめ)の天神とも西向天神とも号す」(「新編武蔵風土記稿」) 社殿が大宰府のある西に面していることから、西向天神と呼ばれています。 

 大久保の地名由来については、「豊多摩郡誌」に以下の四説が併記されていますが、蟹川の谷筋にちなむ地形由来が有力です。「太田新六郎寄子衆に大久保の姓氏を唱ふる者あり。当所の辺を領してより村名となりしものならんか、一説に大久保の地形凹字型なるを以て、大窪村と唱へ後今の字に改むと。或は説を為す者あり、是永福寺の旧山号を大窪山と号せしに基けるものなるべしと。徳川幕府の初め諸組の同心に市ヶ谷大久保等の地を給与し、且つ此に居住せしめ、総取締として大久保某を選任し、邸を大久保に給ふ、是れより大久保村の称あり云々と」

 

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    ・ 大久保山永福寺  職安通りに面し、その旧道にあたる左手の坂(久左衛門坂)を下ると蟹川です。その立地からも、地形にちなんだ山号と思われます。