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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

牛窪と玉川上水

2018-06-21 05:04:47 | 幡ヶ谷支流

 前回も触れましたが、→ 「東京近傍図」では、牛窪田圃を灌漑する水路の先端が、玉川上水に接しているように見えます。とすると、ここに分水口があったとの推測もできそうですが、「上水記」の記述や明治17年(1888年)の「田用水に関する調査」など、文献上この推測を補強するものは未読です。また、→ 「幡ヶ谷村絵図」にも、おそらく他村(下北沢村)の範囲だからでしょう、残念ながら玉川上水とかかわる部分は描かれていません。これに対し、「堀江家文書」(首都大学東京図書情報センター蔵)で、「杉並近世絵図」に収録された絵図の中に、玉川上水からの分流が描かれているものが一枚あります。

 

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    ・ 「甲州道中・青梅街道図」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された、成立年代不詳の「甲州道中・青梅街道図」のなかの1枚をもとにイラスト化しました。

 左下隅で甲州街道と玉川上水がクロスしていますが、そこに架かるのが代田橋で、その代田橋から青梅街道と分岐する新宿追分までの間に、玉川上水から分かれて甲州街道を北に越える用水が三本描かれています。一つは玉川上水から分かれた後、甲州街道沿いに西に向かっているので、「幡ヶ谷村絵図」にも描かれている幡ヶ谷村分水です。もう一つは青梅街道に架かる淀橋方向に流れていることから、神田上水助水路なのは明らかです。問題なのは両者の中間にあるもので、玉川上水のUターンの先端やや手前から分岐、甲州街道を越えて東に向きを転じており、牛窪の流れと思われます。

 

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    ・ 玉川上水  「東京近傍図」では→ 三田用水が分流した後、次の橋の手前に分水口を描いています。とすると、この無名橋の手前あたりに分水口があったことになります。 

 なお、昭和53年(1978年)に発行された「甲州道中分間延絵図」の解説では、「字牛久保石橋」に関し、玉川上水の分水が往還を横切るところに架かる石橋としています。ただ、実際の「絵図」では、玉川上水とかかわりは範囲外で描かれておらず、甲州街道沿いに左右から流れてきた二流が、合流して石橋下を北に向かうところが描かれているだけなので、同解説が玉川上水の分水としている根拠は不明です。

 


牛窪3

2018-06-20 06:25:14 | 幡ヶ谷支流

 牛窪田圃の水源は「幡ヶ谷郷土誌」(昭和53年 堀切森之助編)にもあるように、「世田谷区の北澤地内から湧出する地下水」でした。玉川上水がUターンする内側は、今でも低地になっていて、「郵便地図」などに描かれた流路と重なる路地が残されています。ただ、不明な点もあるのでいつもの青点線は書き込んでいません。なお、→ 「東京近傍図」の描く水路の先端は、Uターンよりだいぶ上流で、玉川上水に接しているように見えます。あたかもここで分水されていたかのようですが、文献上の裏付けは未見で、その当否はよく分からないところです。(これだけ接していることから、玉川上水の漏水も水源となっていただろうことは想像できます。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 西側の水路と重なる路地です。中野通りの歩道の一部に紛れ込んでいますが、ここからは歩道と分かれます。  

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    2. 細かく蛇行しながら南に向かいます。

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    3. 正面に世田谷区の福祉施設、きたざわ苑が見えてきました。玉川上水のUターンの内側に建てられているものです。  

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    4. こちらは東側の水路と重なります。右写真は中野通りからのショットで、谷筋にあるのが分かります。   

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    5. 道路はここで終了ですが、建物の先はUターンの頂点にある→ 玉川上水です。

牛窪2

2018-06-19 06:07:39 | 幡ヶ谷支流

 現行の住居表示では幡ヶ谷と笹塚の境は、大半が中野通りにありますが、甲州街道以南の一区間は、その東にあって、通りとも重ならないところにずれています。これは、今回の水路のうち東側のものが大字幡ヶ谷当時、字原と字笹塚の境だったためで、原と笹塚は「新編武蔵風土記稿」にも収録されており、江戸時代も両小名の境を画していたものと思われます。なお、明治末の逓信協会発行の「郵便地図」をみると、西側を並行する水路もありました。最近までその水路と重なる道路も残されていましたが、平成16年に中野通りが井ノ頭通りまで伸長されたのにともない、その多くが失われました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 笹塚1東交差点の東側の路地から始めます。この路地が右手幡ヶ谷、左手と笹塚の境になっています。  

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    2. 消防庁関連の施設の横を抜け、突き当りを右折します。   

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    3. 中野通りに突き当たります。その先は通りの一部となりました。  

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    4. 西側の水路と重なる路地ですが、このワンブロックだけ残り、その先は中野通りの歩道に含まれました。

牛窪

2018-06-18 06:17:40 | 幡ヶ谷支流

 中幡ヶ谷庚申塔前で右岸から合流する水路は、牛窪と呼ばれる谷筋にかかわるものでした。→ 「幡ヶ谷村絵図」で、迂回する玉川上水近くから発し、北上して甲州街道を過ぎ、法界寺前を経て合流するのがそれです。同「村絵図」には、甲州街道との交差地点に橋も描かれていますが、「豊多摩郡誌」はこの橋について、「牛久保橋 甲州街道悪水路に架す、構造石造」と書いています。なお、牛窪の「牛」については、往古、牛を使っての刑場であったとか、牛捨場であったとか言い伝えられていますが、その真偽はよくわかりません。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 幡ヶ谷支流2」(1/18000)  オレンジ線は区境で、左上から時計回りに杉並、中野、渋谷、世田谷の各区です。 

 中野通りとほぼ重なる谷筋が、今回テーマの牛窪にあたります。注目は、ここまで甲州街道と並行していた玉川上水が、南に大きく迂回していることで、環七通りのところの迂回と同様、谷筋を避けるためにそうしたものです。一般に上水のコース取りは、尾根筋から尾根筋へと、縫うように走っており、古い街道筋と重なるのもそのためですが、今回のような大きな迂回は、玉川上水のコース取りの中では最大のものになっています。

 

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    ・ 中野通り  甲州街道との笹塚交差点で、高架は首都高新宿線幡ヶ谷陸橋です。正面のビルとビルの隙間に、正徳元年(1711年)建立の→ 牛窪地蔵が祀られています。 

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    ・ 中野通り  玉川上水の横切る五条橋交差点から甲州街道方向で、やや下りになっているのが分かります。平成16年にこの区間の中野通りは開通し、それに伴い水路跡の大半は失われました。 

庚申橋

2018-06-16 06:39:21 | 幡ヶ谷支流

 本流に架かる庚申橋の名前の由来は、明治5年(1872年)の建立の、俗に中幡ヶ谷の→ 庚申様と呼ばれているものの前にあるからです。→ 「幡ヶ谷村絵図」の左側の、三叉路に架かっているものですが、当時は庚申塔はなかったので、何橋と呼ばれていたかは不明です。ところで、「村絵図」の描く橋の前後の様子ですが、左右の二本の用水が交わり、さらに南側からもう一流が合流しています。これは現在確認できる水路跡とも一致していますが、ただ、昭和10年代に中野通りが甲州街道まで開通したのに伴い、南側からの水路の大半はその用地となって失われました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 庚申橋の架かっていたところで、右写真は前回最後の三俣橋方向です。  

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    2. 本流はすぐ右折して通りを離れますが、そのまま南から合流していた水路をさかのぼります。  

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    3. 水道道路を越えるとすぐ右手は中野通りです。ここに笹塚隧道がありました。  

 <笹塚隧道>  築堤の新水道下には三ヶ所に隧道が設けられました。上流から笹塚隧道、本町隧道(小トンネル)、本村隧道(大トンネル)です。関東大震災によって新水道が決壊し、都市機能がマヒした教訓から、昭和7、8年頃行われた甲州街道の拡張工事に便乗、街道下に鉄管二本を埋設し、そちらに新水道の機能を移しました。完成したのは昭和12年(1937年)です。その際、新水道の築堤は取り崩され、三ヶ所の隧道も不要となるはずでしたが、上流から順次フラットにする工事の途中、第二次大戦と戦後の混乱の中で中断、そのままになってしまいました。結局、中野通りが築堤を越えて開通したのに伴い、不要になった笹塚隧道のみが撤去されました。 

 


中幡ヶ谷左岸2

2018-06-15 06:10:41 | 幡ヶ谷支流

 六号通りから中幡ヶ谷田圃を灌漑していた左岸流をさかのぼっています。中幡小学校のキャンパスの北縁に沿い、中之橋、神橋を過ぎると、幅広通りの一部となって痕跡は失われます。その先の三俣橋までです。三叉路に架かるためそう呼ばれましたが、うち左折する通りには本流との連絡水路が並行していました。なお、この三俣橋(及び本流に架かる庚申橋)が、大字幡ヶ谷当時の二つの字、中幡ヶ谷と笹塚の境となっていたので、流域が中幡田圃とかかわるのはここまでです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 「渋谷の橋」(平成8年 渋谷区教育委員会)によると、中之橋の架かっていたところです。  

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    2. いつもの「自動二輪・・・・とおり抜け禁止」とある路地が続きます。 

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    3. 昭和4年(1929年)の日付のある神橋です。左岸流に架かる橋としては、唯一→ 親柱が現存しています。

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    4. 神橋を過ぎるとすぐ幅広道路の一部となり、その左手を並行していました。  

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    5. 三俣橋の架かっていたところです。右写真は南側方向で、突き当りが本流に架かる庚申橋です。

中幡ヶ谷左岸

2018-06-14 06:14:32 | 幡ヶ谷支流

 新道橋の架かる六号通りまで戻り、本流から7、80m北にある左岸の用水をさかのぼります。本村田圃の左岸流と同様、中幡ヶ谷田圃のそれも、微妙に蛇行する車止め付きの路地が連続し、単調ですが迷うことはありません。前回までの南側の水路が、六号坂通りの一部となったのに比べ、水路跡らしさを色濃く残しているのは、水路単独をそのまま暗渠化したためです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 六号通りを越えた先のこの路地から再開します。  

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    2. 車止めはありませんが、随所に「自動二輪・・・・とおり抜け禁止」の看板が立っています。  

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    3. 右カーブの左手に中幡小学校の校舎が見えてきました。

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    4. 中幡小学校の北側に沿います。中幡田圃の幅7、80mが、そのままキャンパスの幅になりました。  

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    5. 中幡小の先でも左右に蛇行する路地が続きます。

中幡ヶ谷田圃2

2018-06-13 06:35:14 | 幡ヶ谷支流

 中幡小学校前に戻り、六号坂通りを西に向かいます。途中、中幡橋、山下橋が架かっていたところを過ぎ、庚申塔の祀られている手前までです。この区間はこれまでと違い、元々通りの右手を並行していたため、幅広な歩道のようになっています。なお、大字幡ヶ谷当時、水路右手の田圃は字中幡ヶ谷ですが、左手の字は北原でした。前回の支流に架かる橋に北原橋があったのはそのためです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 中幡小学校前に戻り、六号坂通りを西に向かいます。水路は通りの右手(北側)を並行していました。 

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    2. 中幡小学校の開校は昭和6年(1931年)、中幡田圃の造成、宅地化と同時期です。  

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    3. 中幡橋の架かっていたところを過ぎ、左右に蛇行し始めました。  

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    4. 水路は引き続き通りの右手にあります。右側歩道のみガードレールがあるのはそのためでしょう。   

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    5. 山下橋の架かっていたところを過ぎ、次の庚申橋へと向かいます。  

中幡ヶ谷の支流2

2018-06-12 06:57:57 | 幡ヶ谷支流

 中幡小学校前で合流していた水路は、甲州街道と玉川上水の間から発していました。→ 「幡ヶ谷村絵図」で、甲州街道に並ぶ橋のうち中央に単独で描かれたのが、今回の水路にかかわるものでものです。他のとは違って「豊多摩郡誌」に記載はありませんが、「甲州道中分間延絵図」には、「字原石橋」と書き込まれています。なお、「村絵図」では、橋の南側に代々木村との境がありますが、鎌倉街道とも目される古道が村境になっていました。しばらく玉川上水と並行したのち、北沢橋を経て駒場方面に向かうため、駒場道と呼ばれていたものです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 水道道路を越えた先で再開します。ここも「下水道台帳」の「水路敷」です。 

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    2. (字名が由来の)北原橋が架かっていたところです。右写真は右岸からのショットで、谷筋は明らかです。  

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    3. 狭い路地のまま幡ヶ谷駅前の飲食店街に入ります。  

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    4. 甲州街道に突き当たります。ここを起点としている地図もあります。 

 <「幡ヶ谷郷土誌」>  「幡ヶ谷郷土誌」(昭和53年 堀切森之助編)に書かれた甲州街道前後の流路をそのまま引用します。「幡ヶ谷一丁目三一、三二番地界の駒場道側から湧水する地下水が、沿道の地下水を合せて同町三番地先から甲州街道に添って僅に東流し、其所で同街道下を北に流れて交番の床下から二丁目一二番地一三番地界、續いて一二、八番地界を流れて一〇、一一番地界で北原橋下を潜り、四五、四六番地界から水道々路下を越えて三丁目に入り、・・・・」 → 写真は玉川上水山下橋からのショットで、駒場道の先の車止めの路地が31、32の境になっており、このあたりが谷頭ということになります。 

 


中幡ヶ谷の支流

2018-06-11 06:40:45 | 幡ヶ谷支流

 中幡小学校前で右岸から合流している水路があります。→ 「段彩陰影図」で、幡ヶ谷駅の南西から発し、甲州街道、水道道路を越えて北上する谷筋がありますが、その湧水、雨水のはけ水路です。これまで扱った小支流と違って、田用水として利用されることはなかったようで、前回UPの→ 「大正10年第二回修正」に水田はありません。→ 「幡ヶ谷村絵図」を見ると、甲州街道の石橋のみが描かれ、水路も田圃もないのもそのためでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。 

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    1. 中幡小学校前から微妙に蛇行する路地をさかのぼります。

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    2. 右折、左折のクランクです。この区画だけ一般の道路と紛れます。

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    3. すぐ左折して水路単独となります。「下水道台帳」に「水路敷」とあるところです。 

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    4. 正面の台上は水道道路です。右写真はその水道道路から振り返っています。 

中幡ヶ谷田圃

2018-06-09 06:47:24 | 幡ヶ谷支流

 新道橋の架かる六号通りは、代々幡村(のち代々幡町)大字幡ヶ谷当時、本村(西本村)、中幡ヶ谷という二つの字を分けていました。現行の住居表示では、本町5丁目と幡ヶ谷3丁目の境となっています。なお、中幡ヶ谷の名前は西の笹塚、東の本村に挟まれた、幡ヶ谷村の真ん中という、そのままの意味で、昭和7年(1932年)発足の渋谷区幡ヶ谷中町に引き継がれますが、現行の住居表示には採用されませんでした。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第三回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 新道橋で六号通りを越えた先です。幡ヶ谷新道公園の脇を抜けます。

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    2. しばらくは水路単独の路地が蛇行しながら続きますが、ここは右カーブ、次いで左カーブするところです。 

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    3. 中幡小学校東南角前です。六号坂通りに合流するところに、水路跡の路地が顔をのぞかせています。 

 <中幡ヶ谷水車>  上掲「地形図」の谷筋の合流地点に、水車マークが描かれています。明治30年代から大正中頃にかけて稼働していた中幡ヶ谷水車です。「渋谷の水車業史」(昭和61年 渋谷区教育委員会)によると、明治31年(1898年)完成の新水道から助水を得ていました。住民が工事に協力した代償として、特に許可されたようです。それ以前には、現中幡小学校北側にあって、幡ヶ谷支流に設けられていましたが、落差の大きな新水道の落水を利用するようになり、効率はだいぶ向上しました。ただ、大正に入ると電力に取って代わられ、同10年(1921年)には利用者は皆無となりました。

 


新道橋

2018-06-08 06:34:06 | 幡ヶ谷支流

 本流に戻ります。氷川橋の次の次が六号通りに架かる新道橋です。→ 「幡ヶ谷村絵図」→ 「東京近傍図」にも、同じ場所に橋が描かれていますが、昭和の初めに六号通りが拡幅、整備された際、新たに架橋され、新道に架かる橋の意でそう名付けられました。「今はこの道も幅員二間半の幡ヶ谷目抜きの商店街となってゐるが、昭和六年の擴張以前にあっては六尺幅の寂しい村道であった」(「幡ヶ谷郷土誌」 昭和53年 堀切森之助編) 幡ヶ谷駅前で甲州街道から分かれ、中野新橋を経て青梅街道へと至る地域の幹線道路として整備されたものです。なお、六号通りの六号は、新水道(水道道路)に架かっていた六号橋のことで、その道筋にあたっていることからのネーミングです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。→ 「昭和12年第四回修正」では六号通りは整備され、水路も直線的に改修されています。

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    1. 桜橋を越えます。昭和に入り、流路の改修と共に創架されました。 

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    2. この左カーブから氷川橋手前にかけて、改修以前は右手に弧を描いていたことになります。 

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    3. カーブを抜けると再び直線コースで、このあたりは元の流路と重なります。 

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    4. 新道橋です。右写真は左岸方向のショットで、7、80mほど先を左岸流が横切っています。

本村の支流7

2018-06-07 06:31:47 | 幡ヶ谷支流

 地蔵窪からの水路をさかのぼって、水道道路に設けられた本町隧道(小トンネル)まできました。元は水道道路に直交していましたが、現在は斜めにショートカットされ、古いトンネル跡を西隣に見ることができます。→ 「段彩陰影図」に見るように、谷頭は甲州街道を越えますが、確定的な水路跡は甲州街道までで、そこに地蔵橋が架けられていました。「地蔵橋 甲州街道悪水路に架す、構造石造、延長六尺、幅員一五尺六」(「豊多摩郡誌」) → 「幡ヶ谷村絵図」の右から二番目の橋です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1. 突き当たった右手が本町隧道です。昭和50年(1975年)に右隣りから移動したものです。

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    2. 本町隧道を越えた先で、左手の一段低い所から路地が再開します。 

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    3. 段差のある路地が続きます。ここも「下水道台帳」で「水路敷」となっています。 

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    4. 右カーブでほぼ真南に向かっています。高架の首都高新宿線が見えてきました。

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    5. 甲州街道を越えます。子育地蔵は昭和40年代の甲州街道拡幅の際、残された境内跡地に再建されました 

本村の支流6

2018-06-06 06:25:19 | 幡ヶ谷支流

 本流に戻り氷川橋上流で合流している小支流をさかのぼります。→ 「幡ヶ谷村絵図」で、田圃の西縁に沿っているもので、谷頭は甲州街道と玉川上水の間にあり、付近に地蔵尊が祀られていることから、地蔵窪と通称されるものです。小笠原窪からの水路と連絡しながら間の田圃を灌漑していましたが、現在たどることのできる流路は、二本が並行したまま本流に合流しています。なお、→ 「東京近傍図」で描かれているのは、主に小笠原窪からの水路ですが、後半部分は地蔵窪からの水路が本流に合流するところと重なります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1. 合流地点からさかのぼります。道路と並行していた東側のものに比べ、水路単独だった分やや狭くなっています。

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    2. 突き当たって終了のようですが、不動通りの先で再開します。 

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    3. 水路単独の狭い路地が続きます。車止めこそありませんが、「下水道台帳」に「水路敷」とあります。

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    4. 右カーブで西寄りに向きを転じ、東側の水路と離れ始めます。 

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    5. 小笠原窪の水路と連絡していたのでしょう、左手の路地(右写真)も「水路敷」となっています。

本村の支流5

2018-06-05 06:10:16 | 幡ヶ谷支流

 氷川橋で合流していた水路のもう一つの水源として、出羽様の池と呼ばれる池があります。出雲松江藩18万6千石、松平出羽守の抱屋敷にあったことからの通称です。下掲「地形図」の細長い池がそれですが、次の「大正10年第三回修正」では地図上から消えています。それとともに、下流の水田も失われていることから、おそらく、灌漑用水の溜め池の機能を果たしていたのでしょう。なお、本村隧道近くにあった弁天社の替地となったのは、この池の北畔にあたる本村242、3番地でした。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年第一回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 小笠原窪の合流地点に戻り、改めて東に向かいます。

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    2. 車止めはありませんが、「下水道台帳」で『水路敷」になっています。 

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    3. 本村隧道を越えて以降、一貫して右手が崖面です。水路は左岸段丘の際を流れ、水田はその北側にあったのだと分かります。 

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    4. 階段に突き当たります。出羽様の池のあったのはその先、現在テニスコートになっています。