神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

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巣鴨村

2019-06-01 06:37:21 | 谷端川・小石川3

 「巣鴨村は、日本橋より行程一里半、東は巣鴨町巽は小石川五軒町同宮下町、南は小石川大塚町巣鴨辻町、坤は小石川大塚町、西は小石川雑司ヶ谷池袋の三村、北は新田堀之内滝野川の二村、艮は上駒込村にて東西凡二十町南北凡十五町、民戸百十三、・・・・村内艮の方に中山道係る幅五六間、又上板橋村に達する道あり、中間辻町より分て西ヶ原村の方に往く路を王子道と云、天正十九年増上寺領となり今に然り」(「新編武蔵風土記稿」) 中山道沿いには町屋が起立していました。「近傍図」の点線で囲まれているところです。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 下谷区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で大半は豊島区、同細線は巣鴨村、巣鴨町当時の大字境です。なお、中央を縦断しているのが引用文にもある王子道です。

 「按に巣鴨は古き地名にて『中興治乱記』に、応安元年(1368年)正月六日芳賀伊賀守高貞武州板橋原に打出ければ、上杉兵庫頭憲将、同兵部少輔能憲大将として、千葉介直胤等二千騎是も武州巣鴨に陣取る云々」 冒頭で引用した「新編武蔵風土記稿」の中略個所です。また、「小田原衆所領役帳」には恒岡弾正忠の所領として、「一貫五百文 江戸菅面之内中丸」がみられます。表記にはこれ以外にも、須賀茂、洲鴨、洲処面などがあり、その漢字の意味に応じて、池があって鴨が住んでいたとか、洲に面したところだとか、あるいは菅が一面に生い茂っているとか、様々な解釈が可能です。

 

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    ・ 天祖神社  大塚駅の南側段丘にあります。江戸時代は、「風土記稿」に「鬼子母神を合祀す、村内の鎮守とせり」とある十羅刹社が祀られていましたが、明治の神仏分離の際、天祖神社として村社になりました。 

 いずれにしても、低湿地の様子からきた地形由来で、その場所は現大塚駅前と思われます。谷端川と王子道が交差する盆地状の地形で、近くに村の鎮守十羅刹社や古刹東福寺があることから、最初に開拓された本村と思われるところだからです。ただ、中山道の活況につれて、中心がそちらの町屋(巣鴨町)に移り、国鉄の駅名も中山道沿いが巣鴨駅で、こちらは隣町の大塚を名乗ることになったため、巣鴨村本村といってもピンとこなくなりました。