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「司馬遼太郎の歴史観」 中塚明

2021-12-17 | 読書

著者は日本近代史、特に近代日朝関係史が専門の歴史学者。京都大学を卒業し、現在は奈良女子大名誉教授で、現在92歳。

これもアマゾンのおすすめ本にあったので買って読んでみた。

2009年の発行当時、ちょうどNHKがドラマ「坂の上の雲」を延々3年間にわたり放送していたころ。

放送は知っている。以前、広島市の向かい側にある海上自衛隊術科学校を、県人会の催しで見学し、講堂も見たことがある。

戦前は海軍兵学校の建物で、海軍天皇隣席の卒業式をした講堂も残っていた。菊の紋章のある玉座みたいなのがあり、ここで「坂の上の雲」のロケをしたとの説明だった。

生前、司馬遼太郎は「坂の上の雲」の映像化を許可しなかったと言う。(戦争を肯定し)好戦的な気分を生み出すのが理由だとか。しかし、没後、遺族を説得して映像化にこぎつけたと言う。

主人公は秋山兄弟に正岡子規、日露戦争の時の話らしい。私は全然読んでないし、ドラマも見てないけど、先月、愛媛県の道後温泉に行ったら「坂の上の雲ミュージアム」みたいなのがあったので、当時は大変な人気だったのだと思う。

日本は太平洋戦争で完膚なきまでに敗北し、無条件降伏して、明治維新以来の近代化の遺産を一度ご破算にして出発した国ではあるけれど、戦後十数年がたち、世の中も落ち着いて豊かになるにつれ、明治時代の日本は素晴らしかったという風潮が生まれたと、長く生きてきたばあちゃんは思うのです。

よく憶えているのは「明治天皇と日清大戦争」「天皇皇后と日露大戦争」という二つの映画(題名はちょっと違っているかもしれない)。天皇役は嵐寛十郎、鞍馬天狗をよくやっていた人。映画館は混んでいたのでヒットしたんだと思う。

司馬遼太郎の歴史観も、この映画の延長上にあると思う。

私は、子供のころは歴史を長い物語と考えていましたが、歴史もまた科学、きちんとした資料を分析して当時の時代の姿をあきらかにする。資料が実験結果の場合や、文字に書かれた昔の生の史料の違いがあっても、誰が見ても矛盾のない結果を導き出す科学だと思っています。

しかし、歴史において、何を見て、あるいは何を見ないで、どんな結論を導き出すかに大きなブレがあるのはなぜでしょう。

それは多分、自国の歴史が自分の誇りとしばしば結びつき、見たいものしか見ない、あるいは見たくないものは拒否するという感情に支配されがちだからでしようか。

物理や化学の場合はこんなことないように思うのですが。

初めに思いありき。違う意見は聞きたくない。これではいつまでたっても平行線ですが、私は何よりも史料の意味するものを読み取り、事実の前に謙虚であれば、歴史観というのは後からついてくると思います。

この本では歴史学者の、史料を示す手法で、司馬遼太郎の歴史の見方が、日本人に心地よい一方的であることを一つ一つ明らかにしていきます。

日清戦争同時の朝鮮は決して遅れた国ではなく、民族の誇りを持った独立国であった。日本は明治維新のまだ前から、周辺の諸国へ進出するのが近代化という論調があり、(吉田松陰も)、その道をまっすぐに突き進んだのが1945年のまでの歴史だと私は思っています。

大昔に読んだ岩波講座の日本歴史シリーズ(1960年代発刊)で、日清戦争のまだ前に、日本は朝鮮から大量の金を手に入れたとありました。誰の何という論考か、本を捨ててしまったので確かめようがないのですが、それだけはものすごく印象に残っている。

資本主義勃興以前の、マルクス言うところの資本の原始的蓄積、それも全部ではないとしても一部朝鮮に依っていることに日本の後進性、近代化の危うさを感じたものでした。

多分、幕末の日本から、金と銀の兌換率が諸外国と違っていたので(日本は金が安かった)、交易が始まると瞬く間に、日本の金が海外に流失してしまったのと似た事情だったのでしょうか。

司馬遼太郎は、韓国の農村を歩くと本当に素朴な農民がいて、昔から全然変わらないのではないかと言っているそうですが、それは朝鮮民族は子供みたいなもので、日本に文句言うのは子供が駄々をこねているようなもの、という日本会議の見方と地続きではないでしょうか。


この本の中で特に興味深かったのは、著者が福島県立図書館の日清戦争の原史料に当たって、公刊されている戦史との違いを明らかにしたこと。郡山市の実業家が日清、日露の戦争資料をコレクションしていて、その中に「日清公刊戦史」の草案が残されていたのでした。その中には詳細な王宮占領の記録もあるとのこと。

例の閔妃暗殺事件ですね。他国の軍隊がそよの国のお城に攻め込んで王妃を暗殺する事案は、私は不勉強でよく知らないのですが、世界史的に見てもそう多くはないと思う。

この草案が流失したのは、おそらく敗戦時のどさくさで、焼却処分されるはずが残ったからではないかと著者は類推しています。

公文書は書き替えてはいけませんね。最近では財務省の公文書を書き換えさせられた人が、業務命令と自分の良心との板挟みにあい、自死しました。

公文書の書き換え、それは歴史を捏造すること。そんなことしている国は、やがて、力の持つ者に都合がいいような間違った方向へ行き、歴史によってしっぺ返しを受けるのではないでしょうか。

司馬遼太郎のためにわざわざ一冊の本を書くまでもないと思いましたが、(すみません、愛読者の皆さん)学者がきっちりと相手にして論考しているのがなかなかよかったです。

人は内輪褒めの耳当たりのいい話にとかくなびきがちですが、批判の中にこそ、自らを省みて次の一歩が踏み出せるきっかけがあるのではないでしょうか。


夫からの批判は別だよう~

うるさいわね、いちいち!

私がおやつ食べたいから食べてるの!!

指図しないで!!!

というように。


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