美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

本との親昵の如何は、ただに本を手許におくことにかかっている(アラン)

2018年06月03日 | 瓶詰の古本

 読書と夢想とでは、なんといふ違ひであらう。夢想に耽るのが愉しい時もある。そんな時には絶えて本なぞは読まない。それと反対になにかの訳合から静思するのが毒々しくて堪らぬこともある、そのやうな時は、読書がなによりの薬だ。私の父には借債や気苦労が絶えなかつたが、心をそれに煩はせまいとしてか、父は無性の読書好きに、しかも手当り次第の濫読家になつてしまつた。私もこの機能をいくらか受け継いだものらしい。結局のところ、私は物を学ぶことしか知らぬ人達に比して、すこぶる便益を得た。といふのは私といふ人間は、なにか物を学ばうとしだすと、却つてなにも学べなくなる性分だからである。だからよしんば数学の推論であらうと、それを我不関焉に、さながら小説のやうに目をさらせばいいといふ風に、読まなくてはならないのである。かうした不精な勉強法は、莫大な時間を食ふ上に、しかも本をしよつちゆう手許においておかねばならぬのである。手許にといふ意味は、二米でも離れた先きにある本は、つひ繙いたり再読したりするのを、忘れてしまふからである。ましてや人の書庫からの本は、私にはなんの利用どころか、得るところもない。借りて来た本を究めつくさうとして、あれこれとノートなど取つてみたが、それがつひぞ役立つたためしがなかつた。
 私にとつてはホオマアとの親昵の如何は、ただにホオマアを手許におくことにかかつてゐるのである。スピノザも手許に長くおいた著者である。さういへば親友の一人から、メーヌ・ド・ビランの全集を贈られて、それを手許におけるやうになるまで、私はつひぞこの哲人を識らなかつた。

(「バルザック」 アラン 小西茂也訳)

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