「歴史のあと知恵」という分別めかした一歩の抑制が恰好にあてはまる出来事は、実のところほとんどないのではないか。その場その場で奔騰する自愛や算盤づくがあり、冷静怜悧を踏み破る火事場泥棒的興奮がありしているので、繊弱・非力な小善の道が選ばれるわけもなく、明々白々然とした悪逆・無道の道を突き進む自己保全・他者破滅の精神が累々と重なり連なっているのは当たり前のことではないだろうか。
生まれついての選良者、優越者なればこそ、善悪にとらわれず、己の役どころにとって最大の利得、極大の褒賞をもたらす解を選択し続けるに決っている。だから、より賢明な選択があったとしても当該時の情勢下においては万致し方ない選択でしかなかったなどとしたり顔で語る後世の評者の言説は、時勢の条理を確信的に拒絶して最悪の道(己にとってのみ最良の道)を選び取った破滅精神というものの歴史に及ぼす真髄を露わにすることができないのである。
歴史のあと知恵という観念が煙のようにあてもない迷妄であると知っていながら、巧みな弁疏を使い回しできる博覧強記を誇る評者は、これと必然的に一体化しているガラクタな根性とともに歴史絵図の上を道中双六のように往来しなぞり回して徘徊しているのだ。