ドストエフスキーもラヴクラフトも、翻訳本の解説などから推して流麗な名文章家とは言えないようだ。むしろ、饒舌な描写であったり、佶屈な文体であったりして、それでいて、衝迫力に満ち満ちた小説(神話)がのこされて読む者を圧倒し続けている。それ故にこそ、そもそもそんなものはあり得ないのかも知れないが、ドストエフスキー座右の辞書、ラヴクラフト重宝の字引なんぞという代物が仮にあったとしたならば、ぜひとも現物を拝ませてもらいたいと思わずにはいられない。無類の創造力の根源は作家の魂にありとしても、その使い込んだ道具(特に書物)には作家の超絶力のよすがが掌の脂、汗の一滴なりの痕跡とともに生きているのではないかとつい妄想に駆られてしまうのである。
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