美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

歴史は舞台上に展開する悲劇や喜劇でないのに、猛々しい権威主義の筋書通りに所作すればこそ劇的歓喜が沸き上がるとされることもある(ソロヴィヨフ)

2022年05月08日 | 瓶詰の古本

 実現されない理想に対する一層深刻な態度を、吾吾は悲劇に於て発見する。悲劇に於ては描出される人物自身が、自己の現実と当(まさ)にあるべきものとの間の内面的矛盾の自覚に貫かれてゐる。また他方、喜劇は、第一に如何なる場合にも美しきものと名づけ難い現実の一側面を強調することによつて、第二にその現実によつて生きる人人を、全くそれに満足したるものとして示す(それによつてこれらの人人と理想との矛盾が深くされる)ことによつて、理想の感情を強め且つ深める。悲劇的要素と相違して、喜劇的要素の本質的徴候を形づくるものは、この自己満足であつて、決して、主題の外面的性質ではない。例へば、オイディポス王は父を殺して母を妻としたが、それにも拘らず、若し彼が、一さいは不意に起つたので、彼には何の罪もない、それ故彼の手に入つた王国を落着いて利用してよいのだ、と考へて、その恐しい出来事におとなしい自己満足を以て対したとするならば、彼は高い程度の喜劇的人物であり得たであらう。(註九)
(註九) 勿論ここでコミズムが可能であり得るのは、犯罪が個人的な計画的行動でなかつた故に外ならない。 意識的な犯罪者が自分自身及び自分の仕事に満足してゐたら、それは悲劇的ではなく、厭悪すべきことである。 そして決して喜劇的ではない。

(『藝術の一般的意義』 ヴェ・ソロヴィヨフ著 高村理智夫譯)

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