美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

為政者をはじめ強権に驕る人々は他者への圧迫(いじめ)を優越の証と履き違え、自己生来の愛憎偏倚に気づくことがない(夏目漱石)

2021年07月09日 | 瓶詰の古本

 「……それで妻が態々あの男の所迄出掛けて行つて容子を聞いたんだがね……」と金田君は例の如く横風な言葉使である。横風ではあるが毫も峻嶮な所がない。言語も彼の顔面の如く平板尨大である。
 「成程あの男が水島さんを教へた事が御座いますので――成程、よい御思ひ付きで――成程」と成程づくめの御客さんである。
 「所が何だか要領を得んので」
 「えゝ苦沙弥ぢや要領を得ない訳で――あの男は私が一所に下宿をして居る時分から実に煮え切らない――そりや御困りで御座いましたらう」と御客さんは鼻子夫人の方を向く。
 「困るの、困らないのつてあなた、私しや此年になる迄人のうちへ行つて、あんな不取扱を受けた事はありやしません」と鼻子は例によつて鼻嵐を吹く。
 「何か無礼な事でも申しましたか、昔しから頑固な性分で――何しろ十年一日の如くリードル専門の教師をして居るのでも大体御分りになりませう」と御客さんは体よく調子を合せて居る。
 「いや御話しにもならん位で、妻が何か聞くと丸で剱もほろゝの挨拶ださうで……」
 「それは怪しからん訳で――一体少し学問をして居ると兎角慢心が萌すもので、其上貧乏をすると負け惜しみが出ますから――いえ世の中には随分無法な奴が居りますよ。自分の働きのないのにや気が付かないで、無暗に財産のあるものに喰つて掛るなんてえのが――丸で彼等の財産でも捲き上げた様な気分ですから驚きますよ、あはゝゝ」と御客さんは大恐悦の体である。
 「いや、まことに言語同断で、あゝ云ふのは必竟世間見ずの我儘から起るのだから、些と懲らしめの為にいぢめて遣るのが好からうと思つて、少し当つてやつたよ」
 「成程夫では大分答へましたらう、全く本人の為にもなる事ですから」と御客さんは如何なる当り方か承らぬ先から既に金田君に同意して居る。
 「所が鈴木さん、まあなんて頑固な男なんでせう。学校へ出ても、福地さんや、津木さんには口も利かないんださうです。恐れ入つて黙つて居るのかと思つたら此間は罪もない、宅の書生をステツキを持つて追つ懸けたつてんです――三十面さげて、よく、まあ、そんな馬鹿な真似が出来たもんぢやありませんか、全くやけで少し気が変になつてるんですよ」
 「へえどうして又そんな乱暴な事をやつたんで……」と是には、さすがの御客さんも少し不審を起したと見える。
 「なあに、只あの男の前を何とか云つて通つたんださうです、すると、いきなり、ステツキを持つて跣足で飛び出して来たんださうです。よしんば、些つとやそつと、何か云つたつて小供ぢやありませんか、髯面の大僧の癖にしかも教師ぢやありませんか」
 「左様教師ですからな」と御客さんが云ふと、金田君も「教師だからな」と云ふ。教師たる以上は如何なる侮辱を受けても木像の様に大人しくして居らねばならぬとは此三人の期せずして一致した論点と見える。

(「吾輩は猫である」 夏目漱石)

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