「兄さんて人は、優しくて両手に抱き取つたらいゝんだわ。そしたら、もうおしまひよ!」
「抱き取つておくれ、リーザ。今日はお前の顔を見てると、何とも云へないいゝ気持だ。一体お前は何とも云へないほどいゝ娘だつて事を、自分で知つてるかしらん?僕は今まで一度もお前の眼を見た事がなかつたが‥‥今日はじめて見つけたよ。一体お前は今日どこでその眼を手に入れたんだい、リーザ?どこで買つて来たんだい?そして、何をその代価に払つたの?リーザ、僕には友達といふものがなかつたから、今まではあの『理想』だつて下らんもののやうに眺めてゐたのだ。しかしお前と一緒にゐると、それは下らんものぢやない‥‥お望みなら友達にならうか?だが、お前は僕が何を云はうとしてるか、分かるだらうね?‥‥」
「ようく分かるわ。」
「ぢや、いゝかい、契約もコントラクトもなく、たゞ友達になるんだよ。」
「えゝ、たゞたゞ友達にね。だけど、たつた一つ契約があるの。もしあたし達がいつか互いに責め合つたり、互いに何か不満があつたり、あたし達が悪い厭な人間になつたり、また今いつたことを忘れてしまふやうな事があつても、たゞ今日のこの日、この時間だけは、決して忘れますまいね!それを誓はうぢやありませんか。あたし達がかうして、手と手を繋ぎ合つて笑ひながら、愉快で堪らなかつたこの日の事を、いつも思ひ出すといふ誓ひをしようぢやありませんか‥‥よくつて?え、よくつて?」
「いゝとも、リーザ、いゝとも、僕ちかふよ。しかし、リーザ、僕は何だかはじめてお前の言葉を聞くやうな気がするよ‥‥リーザ、お前たくさん本を読んだの?」
「今まで一度も訊かなかつたわねえ!つい昨日あたしが一言云ひ間違ひをした時、はじめて御注意をお払い下すつた訳ねえ、あなた、変人さん?」
「ぢや、どうしてお前の方から云ひ出さなかつたんだね、もし僕がそんな馬鹿なら!」
「あたしはあなたが利口になるのを、じつと待つてたのよ。あたしは抑々の始めから、あなたを見抜いてゐたのですよ、アルカーヂイ様。そして見抜いてしまふと、かう考へたの。『なに、あの人は傍へ寄つて来る、きつと近づいて来るに相違ない、それがおちなのだ。』――で、あなたの方から先に近づいて戴かうと、その名誉をあなたにお譲り申すことに決めましたの。『いゝえ、もうかうなつたら、あたしの後からついてらつしやい』とかう思つたの!」
(「未成年」 ドストエーフスキイ 米川正夫訳)