美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

時々は気弱に歌を聞きながら

2016年05月22日 | 瓶詰の古本

   ちあきなおみの歌を聞きながら、ぼんやり思うこと。ひたすら歌のなかに身を沈めて、魂の池にゆらゆらと映る逝ってしまった人達の面影をながめていること。
   再発とか転移とか、いつ検査の結果として目の前へ立ち現われるか、そんな予知、予測のつくはずもない。うまくいって三ヶ月単位の執行猶予が申し渡されるようなもので、いつ何時収監されても恨むことはない。人の生死はただ受け容れるしかないことだから。
   にしても、命がもうじき閉じかねないというときになってようやく、ああ、あの人からもっと話を聞いておけば良かった、この人ともっと言葉を交わしておけば良かったと、間に合わぬ願いを空しく思うのである。こんな病を患う前は、実は何も本当のことを知らず、何もまともに考えておらず、それなのに、人より少しは物事を弁えよう、人より若干はものを考えようとしていると盛大に勘違いして生きて来てしまった。取り返しのつかないのが人生だと思えば(思ってみれば)あきらめが救いとなるのだが(あきらめしか救いにならないのだが)、それにしても、じんわりと湧き上がる悔恨の情は、ぬぐってもぬぐっても止まることなく滲み出して来るのである。
   支那・ビルマの戦場の話、歌の話、残心の話……、みな聞くことなく消えて行ってしまった。

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